桜 / page14


 さら、さら、さら。  のどかにゆらめく春の空気を、径を通り抜ける風が攪拌する。  その風に、淡い白の音符を散らして、桜達は今年もうたをうたう。  届いた想い、届かぬ想い、行き交う人々の様々なささやかな想いを込めて。 「今年は、他の樹に春を分け与えようなんて気は、さらさらないみたいだな。」  径に満ちた春の気を一杯に吸い込んで、華やかにうたう桜達の梢を見上げて、少年が 独り言を呟いた。  あの桜護の娘と、初めてこの桜の庭園で逢った春から、ひとまわりの季節が巡った。  うたうことのできない墨染桜を護るあの娘は、この春の訪れに何を想っているのだろ うと、ふと考える。  以前は、自分自身も含めて、人間のことには全く興味がなかった。  でも、何故か近頃は、ふと人の想いのことを考えることが多くなった、気がする。  この径を通りすぎてゆく人のこと、姉のこと、そして、あの桜護の娘のこと。  そんなことを考えていた少年の心を見透かしたかのように、桜達がさざめきを返す。  ほんの数刻だけの、幻のような桜の夜の後も、何度か由布子は少年のもとに遊びに来た。  時には桜達にせがまれて、ふたりで音楽を奏でることもあったが、大抵は取りたてて 多くを話すでも、なく。  だから、あの老いた桜の具合も、特に娘から聞いてはいない。  でも、会話がなくとも同じ桜護だからか、傍にいても不思議と気詰まりはしなかった。  さらさら、さらさら、桜色に染まった枝々が、無邪気な娘達のようにさざめき続ける。  桜護の娘が訪れた時は、桜がまるで呼び鈴のようにさざめいて、少年に伝える。  だが、この日の桜達のざわめきは、たゆたう春の気のせいか、とりわけ大きく感じた。  何処か、悪戯を隠して微笑みをこらえている、娘達のように。 「……おまえら、何か言いたいことでも、あるのかよ。」  かるく梢を見上げて睨みつつも、少年は、径へと桜護の娘を迎えに出る。  さざめきが伝えた通りに、桜色のアーチに覆われた径の向こうに、由布子の姿が見えた。  娘も桜護の少年の姿を見付けたのか、珍しくこちらへと駆け寄ってくる。  桜の音符が雨のように散る中を、結わいた後髪を揺らして。  去年の春と同じ、桜色のカーディガンを羽織っていた。 「あなたには、伝えなきゃと思って。」  少し息を切らし気味に、桜護の少年の前に立った由布子が言葉を継ぐ。  その様子に、いよいよかと、少年は後に来る報せを覚悟した。  だが、娘が発した言葉は、少年の予想だにしない、それでいて懐かしい言葉だった。 「あの……、ごめんなさいっ。」   *

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