桜 / page13


 素朴なトイ・ピアノの音色に、緩やかな弦の調べが加わった。  月灯りを受けて、ヴァイオリンの弦に銀色の光がきらめく。  届いた想いと、桜の思いやりが燈した心の中の暖かさを、弓から生まれる音楽に込めて。  桜護の娘が奏でる弦の調べを受けて、桜のうたが華やかに転調した。  それまでは、一瞬しか花のかたちを留めることのできなかった弱い歌声が、満ち潮の ように高まって、春を纏った夜気の中を響き渡った。  その優雅なうたに合わせて、五線譜に幾重にも音符を連ねるように、ぽん、ぽんと、 乾いた枯れ枝に花が燈る。  やがて月灯りに包まれた老いた墨染桜の大樹に、満開の桜の花が燈った。  先程まで、花を結ぶことなく散らせていた、届かない想いのように淡い白の花びら。  その花びらを、今はその名の示す通り薄墨を撒いたように、濃い桜色に染めて。  残されたほんの数刻を、優雅にうたい、娘の想いを風に散らす、桜の樹。  その華やかな調べに彩りを添えるように、ふたりの桜護が並んで楽器を奏でる。  初冬の月影の下に生まれた、幻燈のような満開の桜に心を奪われながら。  その幻燈は、娘が集めた春の気が尽きるとともに、幻にふさわしい儚さで、消えた。  樹を取り巻いていた温かな空気に、宴の終わりを告げるように冷たい夜気が混じる。  ふたりの視界を、ほんの数瞬、無数に舞い散る桜色の花びらが包んだ。  その音符に、最後の壮大な調べをうたに奏でて、そして桜のうたは、消え去った。  余韻を引き取って、少年のトイ・ピアノの音がこぼれる様な澄んだ音で終章を告げる。  後にはもう、春の気も、桜のうたも、舞い落ちた花びらさえ、残ってはいなかった。 「桜……。」  何処か魂が抜けたような心地で、由布子はうたを終えた桜の幹に触れた。  乾いて微かに暖かいその感触からは、まるで眠りに落ちたかのように、もう何の言葉 も返ってはこなかった。 「すこしの間だけ、私にも桜護の力を貸して……。」  諦めたように幹から手を離して、由布子はそっと少年の肩へと、自らの額を預ける。  ずっと、ずっと逢いたいと想っていた、音の紡ぎ手に、溢れてくる想いをゆだねて。  微かな暖かさが、自分はひとりじゃないということを、教えてくれた。  その体温と桜の想いの暖かさに、まるで桜の花びらのように、静かな涙が、零れた。 「……あなた、だったんだ。」  桜護の少年は、戸惑ったような表情をしながらも、そのまま受け止めていて、くれた。   ***

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