素朴なトイ・ピアノの音色に、緩やかな弦の調べが加わった。
月灯りを受けて、ヴァイオリンの弦に銀色の光がきらめく。
届いた想いと、桜の思いやりが燈した心の中の暖かさを、弓から生まれる音楽に込めて。
桜護の娘が奏でる弦の調べを受けて、桜のうたが華やかに転調した。
それまでは、一瞬しか花のかたちを留めることのできなかった弱い歌声が、満ち潮の
ように高まって、春を纏った夜気の中を響き渡った。
その優雅なうたに合わせて、五線譜に幾重にも音符を連ねるように、ぽん、ぽんと、
乾いた枯れ枝に花が燈る。
やがて月灯りに包まれた老いた墨染桜の大樹に、満開の桜の花が燈った。
先程まで、花を結ぶことなく散らせていた、届かない想いのように淡い白の花びら。
その花びらを、今はその名の示す通り薄墨を撒いたように、濃い桜色に染めて。
残されたほんの数刻を、優雅にうたい、娘の想いを風に散らす、桜の樹。
その華やかな調べに彩りを添えるように、ふたりの桜護が並んで楽器を奏でる。
初冬の月影の下に生まれた、幻燈のような満開の桜に心を奪われながら。
その幻燈は、娘が集めた春の気が尽きるとともに、幻にふさわしい儚さで、消えた。
樹を取り巻いていた温かな空気に、宴の終わりを告げるように冷たい夜気が混じる。
ふたりの視界を、ほんの数瞬、無数に舞い散る桜色の花びらが包んだ。
その音符に、最後の壮大な調べをうたに奏でて、そして桜のうたは、消え去った。
余韻を引き取って、少年のトイ・ピアノの音がこぼれる様な澄んだ音で終章を告げる。
後にはもう、春の気も、桜のうたも、舞い落ちた花びらさえ、残ってはいなかった。
「桜……。」
何処か魂が抜けたような心地で、由布子はうたを終えた桜の幹に触れた。
乾いて微かに暖かいその感触からは、まるで眠りに落ちたかのように、もう何の言葉
も返ってはこなかった。
「すこしの間だけ、私にも桜護の力を貸して……。」
諦めたように幹から手を離して、由布子はそっと少年の肩へと、自らの額を預ける。
ずっと、ずっと逢いたいと想っていた、音の紡ぎ手に、溢れてくる想いをゆだねて。
微かな暖かさが、自分はひとりじゃないということを、教えてくれた。
その体温と桜の想いの暖かさに、まるで桜の花びらのように、静かな涙が、零れた。
「……あなた、だったんだ。」
桜護の少年は、戸惑ったような表情をしながらも、そのまま受け止めていて、くれた。
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