桜 / page12


 月灯りに照らされて、頭上に淡く浮かぶ桜の枝を、由布子は見つめる。  昨年の春までは、あんなにも見事な花を無数に燈していた、細い枝を。  その姿を想うと、もううたうこともできずに消えてゆくなんて、未だに信じられない。  自分はこの樹の桜護のはずなのに、どんな音を紡いでよいか、判らない。  自分が込めた想いのために、最期のうたをうたってくれる桜に、胸が一杯になって。  だから、由布子はただ年老いた桜の枝を見上げながら、待った。  樹の向こう側に居る少年が、この墨染桜のために奏でる音楽を。  とん ととん ととん ととん  その調べは、呟きを空気に溶かすような、少年のちいさな歌声から始まった。  八分の十一拍子の独特の旋律で、桜の樹の鼓動を確かめて、探るように。  それ自体がひとつの楽器のようなソプラノの声に、微かな強弱と高低を織り交ぜて。  とん ととん ととん ととん  やがて、桜が少年の旋律に応えて、静かに音の断片を呟き始めた。  木琴の音色にも似た、樹は目の前に居るのに、何処かから届いた電波のように遠い音。  暫く、少年の声と桜の音が輪唱のように夜を包む。  その旋律の静かな高まりに、娘が集めてきた、旧い桜に未だ残った春の気が呼応する。  さら、さら、さらと、不意に風鳴りが巻き起こり、ふたりの輪唱に加わった。  それはまさしく、花びらを散らし桜のうたを夜気へと溶かす、春の夜風だった。  その妖しい気の流れに前髪を揺らされながら、娘は老いた桜の気配を感じていた。  いつもの春と変わらない、桜のうたいはじめる、確かな気配。  その懐かしい息遣いに胸が熱くなるのを覚えながら、由布子はただ桜の枝を見つめる。  手にしたヴァイオリンを、未だ奏でることもできないままで。  その気配を感じて、先に桜護の少年が、動いた。  ぽん ぽろ ぽんぽんぽん ぽんぽんぽん ぽんぽん  自らと桜の輪唱を従えて、少年は音楽を奏でた。  この夜天に燈る月からこぼれてきたような、素朴で高い音色を響かせて。  ぽん ぽろ ぽんぽんぽん ぽんぽんぽん ぽんぽん  テンポの早い旋律に導かれて、老いた桜がか細くうたを紡ぎ出す。  そのうたは、枝に花を結ぶことはなく、瞬く間に音符を夜気へと散らせてゆく。  はらり、はらり、娘の視界を、幾つもの桜の花びらが舞い散ってゆく。  娘の届くことのない想いを込めて、はじめて舞った雪のひとひらのように、儚く。  その桜がうたって散らす、淡い白の雪に包まれた娘の身体に、静かな衝撃が走った。  遠い電波塔から発信された音楽を受けとった、小さなラジオのアンテナのように。  そして、大地を通じて繋がった樹から、音楽を受け取った桜の枝のように。    ぽん ぽろ ぽんぽんぽん ぽんぽんぽん ぽんぽん  娘の想いと願いを受けて微かにうたう、墨染桜の樹の向こうから聴こえてくる、音。  旋律は違っても、その月の滴のような、幼くも澄んだ音は、間違えようもない。  その音こそ、由布子がずっと逢いたいと想っていた、あの桜の音楽だった。  思わず、由布子は少年の禁を破って、樹の向かいへと駆けた。  生まれては散る、桜の花びらが舞うその下で。  桜護の少年は、地面にしゃがんで無心に音を紡いでいた。  黒くてちいさな、おもちゃのピアノに向かって、少し窮屈そうに鍵盤を指で叩いて。  見られたことに気付いた少年は、一瞬恥ずかしさからか、微かに頬を紅潮させた。  そのまま、怒りの表情もあらわにぷいと横を向く。  それでも、もはや演奏を止めることはできずに、その指で鍵盤から音を紡ぎ続ける。  淋しかった娘の心をなぐさめた、あの、桜の樹が届けた調べを。  そんな少年にくすっと微笑んでから、傍に立って白い音符を散らす桜の樹を見上げる。  老いた桜の想いに、細めた瞳から、温かな涙が零れてくるのを、抑えられないままで。 「そっか、桜、あなたずっと知ってて、教えてくれようと、してたんだ。」

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