桜 / page11


「……うちの桜達、随分あんたのことが好きになったみたいだな。」  泡のように浮かんだそんな想いは口に出さずに、代わりに少年は呟いた。  え、と少年の言葉に、不思議そうに由布子が振りかえる。 「あいつらから、こんなに春の気を分けてもらうなんて、そうそうできない。」  苦笑い混じりの少年の言葉に、由布子は微かに顔を赤らめて俯いた。  でもたとえ僕の桜達が望んでも、と、少年はそんな桜護の娘へ静かに言葉を継げる。 「桜自身の意思がなければ、僕は桜をうたわせない。それは、構わないな?」 「……構わないわ。それは、桜に直接聞いてみて。」  娘の返答を受けて、少年はそっと年老いた桜の大樹の前に進み出る。  寒空に樹の周囲を巡る、妖しくも温かな空気に比べて、桜の気配は穏やかで凪いでいる。  そんな永い歳を経た樹に話しかけるように、少年は枝を見上げながら、そっと幹に触れた。  緊張した小さな手のひらを通じて、老いた桜の言葉にならない言葉が伝わってくる。  桜の返答には、うたによって自らが消え行くことへの想いや抵抗は、なかった。  届いたのはただ、何処か好々爺めいた、悪戯っぽくさえある微笑み。  そして何より、孫娘を見るような、若い桜護の娘への、思いやり。 「……まいったな、このじいさん、やる気まんまんかよ。」  そっとごつごつした幹から手を離して、諦めたように少年は呟いた。 「あんたは樹の反対側にまわって、できるならヴァイオリンで手伝ってくれ。」 「やって、くれるの……?」  じんと高鳴る胸に手をあてて、少年へと、そして桜へと、思わず由布子は聞き返した。 「前奏は僕がやる。それから、いいと言うまでは、絶対に僕の方を見るなよ。」  ここまで連れてきておいて今更、とうそぶきつつ、少年は娘に指示を出す。 「どうして……?」 「それは、桜護の企業秘密だ。」     *

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