桜 / page10


 終着駅の三つ前の駅で、由布子は少年を促してディーゼルカーを降りる。  街燈の灯りひとつに照らされた、小さなプラットホームに降り立ったのは、桜護の少 年と娘の、ふたりだけだった。  冬の冷気を纏い始めた夜風に背を押されながら、ふたりは暫くの間、無言のまま緩や かな登り坂を歩いた。    やがて、丘を登りゆくその坂道の傍らに、くすんだ紅い色を帯びた鳥居が現れた。  立ち止まって鳥居を見上げて、胸に手を当てて、すぅと微かに息をつく、由布子。  そうして、飾り紐に結わいた髪を揺らして、行きましょう、と少年に振りかえる。  穏やかな微笑みの中に、僅かに淋しさと覚悟を、秘めて。  鳥居の向こうには、白い石で造られた階段が続いていた。  境内へと続くその長い階段を登りながら、無意識に少年は考え事を巡らせていた。  すぐ横を黙って歩く、桜色のカーディガンを纏った娘の抱く、想いのことを。    どうして、由布子は、届くはずもない想いをずっと抱き続けるのだろうか。  そして、どうして、あなたも桜護なのに、と諭すように言ったのか。  考えてはみても、ずっと人の想いに興味のなかった少年には、判らなかった。  だけど、判らないのに繰り返し、繰り返し、頭の中は娘の想いを考えようと、する。  これまでだったら考えようとすらしなかったのに、と少年は微かに戸惑いを感じた。  そうして、何故だか、ふと嫁いでいった桜護の姉のことを、思い出した。 「……ここの樹は、随分旧いんだな。」  そんな戸惑いを紛らわすように、少年はふっと呟いた。  白く細い石段の両脇には、回廊の円柱のように常緑樹の幹が幾重にもそびえている。  ふたりの上にかかる、深緑色の葉のアーチを抜けて、ほの白い灯りが差し込んでくる。 「かあさまや私なんかよりも、ずっと永いことこの社を、護っているから。」  応えるように、さらさらとさざめく、護りの梢。  さざめきに合わせて、ふたりの足元に落ちた葉の影の模様が幻燈のように揺らめく。  純度を増してきた初冬の夜気を纏って、石段は何処か結界めいた厳かさに包まれている。  その石段を、ほとんど言葉も交わさぬままに、娘と少年はひとつひとつ、上る。  風呂敷包みを抱えての上りに息が切れてきた頃、ようやく本殿の鳥居が見えてきた。  ふわりと振り向いて、ついたわ、というように小さく微笑んで、娘が鳥居を抜ける。  後に続いて、境内に足を踏み入れた少年の額に、異質な、柔らかな風が当った。  まるで、結界を抜けてきた桜護の少年を、迎え入れるように。  常緑樹に包まれた参道とはうって変わった、ひらけた社の庭。  遮るものもなく月灯りにさらされた境内の中心に、妖の様に巨きな影を落として。  由布子が護ってきた、旧い墨染の桜の樹が、静かに佇んでいた。  ただいま、帰ってきたよ、と瞳を細めて娘が幹に触れようと、歩む。  その後について近づきながら、桜護の少年は樹を見上げた。  寒空にさらされた枯れ枝、永い歳月が刻まれた淡い緑を含んだ幹、そして樹のかたち。  老いてはいても、未だなお、桜は儚さと優雅さをたたえて、そこに在る。  人の想いを惹きつけうるそんな旧い桜は、到底消え行く樹とは思えなかった。  それどころか、月影の魔力と此処に流れる温かな気を従えて、今にも墨染の花を咲か せそうな夢想さえ、覚える。  こんな力のある桜でも、消えてゆく時が来るなんて、と少年は心に呟く。  そうして、珍しくも、人の想いのことが、気になった。  この護るべき桜を失ったら、由布子は何を想い、この先どうするのだろうか、と。

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