桜 / page9


 音楽、と尋ねるような口調で呟く桜護の少年。  その呟きに、うん、と、娘はちいさくうなずいて応える。 「滴がこぼれるような高く澄んだ、素朴な音。はじめて聴いて、桜も気に入ったみたい。」  そっと瞳を細めて、記憶の糸に描かれた音符をたどるように、娘は調べを口ずさむ。  音を探しながら、車内に差し込む淡い月明かりのように流れる、か細く透明な歌声。  僅かな時間だけたゆたったその歌声は、やがて諦めたように、空気に溶け去った。 「それから、その音楽は時々思い出したように聴こえてきたの。届く度に旋律は違って て、でもその音はいつも変わらないままで。」  ディーゼル・エンジンのうなり声を床下から響かせて、二両編成の列車は少し加速した。  かたん、かたん、とレールの継ぎ目を通る音が、胸の鼓動のように早まる。  そんな機械の調べが繰り返す淡い月に照らされた車内で、同じ桜への務めを持つ少年 と、並んで座って、話をして。  それは、娘にとっては、日常から切り離された、何処か本の中にでも居るような、不 思議な空間に思えた。 「私、その音楽を聴くまでは、淋しいなんて、思ったことなかった。」  そんな空気に背を押されるように、何処か独り言のように、ぽつりと由布子は呟いた。 「……どういうことだ?」 「その音楽が届くと、不思議と嬉しくてほっとするの。でも、その代わりに桜の音楽が ずっと途切れると、胸にふうっと風が通り抜けるみたいに、感じたわ。」  そう言いながら、娘はそっと胸元に手を当てる。線路の音より少し鼓動が、早い。 「それが、私は淋しいと感じてるんだ、と気付くのに暫くかかった。そうして気付いた ら、無性にその音を奏でる人に逢いたいって、想うようになった。」 「誰だかはわからないけど、淋しくて、淋しくて、その人に逢いたい、って。」 「……そんな、誰だかもわからない、届くはずもない想いに、意味があるのか?」  少年はぶっきらぼうに問いかけた。揶揄するのではなく、純粋に、不思議そうに。 「あなただって、桜護でしょう? どうして、そんなこと言うの?」  そんな少年の素朴な問いかけに、怒ってではなく、静かに諭すように問い返す。 「届かなくて、どうして良いかわからないから、人は想いを桜に託すのだと、思う。」  暫く黙ったまま考えて、わからない、と呟いてから、少年は応える。 「……僕は、人の想いとかに、あまり興味がなかったから。」 「……こんな想いを、桜護の私がずっと抱えてちゃいけないのは、わかってる。」  そのうちわかるわ、と淡い月の光のような弱い微笑を浮かべてから、娘は呟いた。 「だから、大好きな墨染桜の最期のうたに託して、この想いを散らせたいの。」  そんな娘の呟きを最後に、ディーゼルカーの車内には、すうっと沈黙が訪れた。  時間と胸のなかの想いを刻むように繰り返し続く、線路の旋律と自分の鼓動だけを、 残して。     *

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