椎葉の春節

                その日の雪は夕刻過ぎから降り続いていた。暖かい日向の国と言えど、 ここ椎葉の様な山里ともなれば真冬になると、白い雪の毛布に包まれる 事もまれではない。とりわけその夜の冷気は鋭く、雪は溶けることなく 降り積もり、椎葉の里をゆっくりと覆ってゆく。その度に、山の微かな 物音も眠りに就くかの様に、雪の毛布の中にもぐりこみ、辺りは静寂に 包まれてゆく。

薄い壁の隙間から吹き込む冷気に身をすくませ、少年は少しでも暖を 取ろうと火に薪を抛りこんだ。薪のはぜる音が一瞬だけ静寂を破り、狭 い小屋に高く響く。そしてまた何事も無かったかの様に雪の降る、音の ない音が絶間なく時を刻む。

もとよりここ椎葉の里は源氏との戦いに敗れ、その追っ手から逃れた 僅かな平氏の人々がこもった隠れ里であった。当然耕地などなく、それ どころか麓へ通じる道すらもおぼろな里での暮らしは困窮を極めたもの であり、それは源平の合戦から半世紀が過ぎた今でも変わる事はない。 この狭い小屋で、寒さに身をすくめる少年もその例外ではなく、山中 で取れる僅かな木の実や根で冬の飢えをしのぐ生活を、何年もたった独 りで続けていた。

雪はしんしんと、音のない音を纏って椎葉の里に舞い降りる。その静 寂は、あたかも時の流れが止まったかの様な錯覚を呼び起こす。そんな 錯覚を振り払おうと、少年は傍らにしまってあった竹笛を取り出し、適 当に音を見繕って吹きはじめた。

もう何年も、独りの冬の夜を紛らわしてきた、少年の唯一の娯楽。最 初は適当だった竹笛の素朴な調べは、やがて無意識の内に一つの旋律へ と移っていった。それは、源氏の追っ手に怯えながらの、貧しい冬の暮 らしの中で歌われた、椎葉の里人の春の歌の旋律。その高い旋律は、あ たかもけだるくも優しく流れる春の空気の様に、小屋から雪夜の闇へと 漂いゆき、そしてはかなくも冷気の中へと響きの余韻を残して溶けてゆ く。

旋律に添って、幼い頃の少年の記憶が辿られ、一つの詞へと帰着する。 同じ雪の夜に、母が歌ってくれた春の歌の詞へと。

春は花咲く 木かやも芽立つ 立たぬ名も立つ 立てらりょか ふいに異質な音が混じり、少年は我に還ったように笛を止めた。暫く して、再び戸を叩く音。 「どなたかいらっしゃるかな?」 里の者ではない、聴きなれない年老いた男の声。 もう一度戸を叩く音。少年は身をすくませた。余所者に対する恐怖は、 かつての源氏の追っ手に対する落人としてのそれを受け継いだ、この里 の者に共通する性質であった。 少年は寝床の傍らの小刀を取り出し、後ろ手に隠しつつ、小さく戸を 開けた。

僅かな開けた戸の隙間から、雪と冷気が小屋に吹き込んでくる。 怯えながら目線を挙げると、蓑笠を被った老いた男が雪を払いつつそ こに立っていた。年齢の割に腰は曲がっておらず、雪を払う動作も、老 いの弱々しさを感じさせない。腰に蓑に隠れて立派な刀が差してあるの が目に入った。

「おお、そなたが笛の主であったか。そうか、そうか。」 男は、戸を開けたのが子供であったことに一瞬驚きを見せた後、その 壮健な顔を、まるで喜んででもいるかの様にほころばせた。 「旅の者なんだが、済まぬがこの雪が止むまで、暫く休ませてはくれぬ か?」

雪は未だに降り続いており、椎葉の里を白一色に染めてゆく。いつも ならば、夜に降った雪は翌日の昼にもなればあらかた幻のごとく溶け去 ってしまうが、この分だと今夜の雪は、当分の間山裾に白く名残を残す 事になりそうだった。

結局、断る事ができずに、少年は男を小屋の中に招き入れていた。男 はお礼にと、昼に釣ったという川魚を二匹、串に差して火にくべた。や がて、火の暖かさとともに、香ばしい匂いが小屋の中に満ちてくる。時 折魚の焼ける、弾ける様な音が静寂を破って響く。

「父上か母上はおらぬのか?」 老いた男は、串を回し魚の向きを変えながら少年に尋ねた。 「……どっちもずっと昔に死んじまったよ。」 少年は無意識に、先程戸を開けた時に掴んでいた刀を手で弄びつつ、 答えた。刀の装飾は年月を経て色あせ、角はよくこうやって撫ででいた せいもあって、すっかり丸くなっている。 「そうであったか……。」

再び、暫くの間小屋を、雪の無音の連なりが奏でる静寂が支配する。 川魚のはぜる音がそれを破る。老いた男は魚の串を少年に手渡す。ふと、 少年の弄ぶ小刀が目に止まった。 「ほう……良い小刀だのう。」 「かあさんがくれたんだ。おばあさんから渡されたんだと。」 少年は、湯気を立てる川魚を夢中になってほおばりながら言った。 「ちょっとわしに見せてくれんか。なに別に取り上げやしない。」 少年は一瞬躊躇した。が、川魚の事もあったので、しぶしぶ老いた男 に小刀を手渡した。

老いた男は目を細めて、少年の小刀に見入っていた。 色あせたとはいえ、その豪華で精巧な装飾や、火を受けて紅い輝きを 返す刀身。それはこの刀が単なる平民にではなく、名のある武士か貴族 に使われていた事を如実に物語る。そして、刀身に刻まれた一つの名。

「那須大八郎宗久、か……。」 老いた男は、さらに目を細め、その銘を口にした。 「それがおじいさんの名前だって、かあさんが言ってた。」 「ほう。どんな人だったのじゃ。」 刀を丁寧に少年に返しつつ、男は少年に尋ねた。 「良くは知らないけど……。僕のおばあさんは、都の立派な家のお姫様 だったってかあさんはよく言ってた。で、おばあさん達が戦で負けて、 ここに逃げ隠れてきたんだと。」 「ほほう。それで?」 老いた男は、興味深げに先を促す。 「で、東の武士達が、おばあさん達を殺そうと追ってきた時に、命を助 けてくれたのが、おじいさんだって言ってた。」 「そうか、そうか……。」 その壮健な面に似合わない、優しげな老人の微笑みがふっとこぼれで る。 降り続ける雪が、一定のリズムで時をゆっくりと刻んでゆく。音もな く、静かに、そしてゆっくりと。



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