ようやくその雪が止んだのは、夜半も過ぎてからだった。微かに風が
戸を揺らし、先程までとはまた異質の静寂が夜を支配していた。

「さて、随分長い事世話になった。そろそろ行かねばな。」 老いた男は、不意に火の傍らから立ち上がり、すっかり乾いた蓑傘を 身に着けはじめる。 「ちょっとまってよ。こんな夜中に何処へ行くっていうのさ。」 少年は、男の急な言葉に驚いて尋ねた。 「ちょっと里の奥へな。」 その答えを聞いて、少年は慌てて男の前に立ちふさがって、早口でこ う言った。 「夜中に奥へ行っちゃだめだ。あそこには、妖が出るんだ。朝になって からにしたほうがいい。」 「ほう、妖とな?」 「人の顔をした炎が出るんだって。鬼火、って里の人は言ってた。夜中 に里の奥に行った人が、今まで何人も帰ってこなかったり、病気になっ たりしてるんだ。朝まで待ったほうがいいってば。」

必死になって考え直させようとする少年。老いた男は、そんな少年の 頭を撫で、あの不釣り合いな優しい笑みを浮かべて言った。 「大丈夫じゃ。これでもわしは武士の端くれ。鬼火ごときにやられはせ んよ。おお、そうじゃ。」 男は背にした荷から何かを取り出し、少年に渡した。それは、朱塗り の小さな笛だった。綺麗な朱色の表面に、質素な桜の模様。

「世話になったお礼じゃ。またこれで、あの椎葉の春の歌を吹いてくれ な。」 「えっ……?」 少年が何かを言おうとした時には、既に男は小屋から去っていた。山 深い椎葉の里の奥へと。さくさくと雪を踏む音が遠ざかる。男が手にし た松明の灯だけが、ぼんやりと光って見える。

(かあさんのあの歌を知っていた……。) 微かに吹く、冷たい冬の夜風。 一瞬置いて、笛をその手に握ったまま、少年は小さくなってゆく灯の 後を追い駆けた。

地上に舞い降りたばかりの雪を踏みしめる柔らかい感触が、草鞋の底 から伝わってくる。冷たい夜の、研ぎ澄まされたような空気とあいまっ て、何処か聖なる領域を侵している様な、畏怖にも似た感情を少年の内 に呼び起こす。時折、戒める様に微風が音を立てて少年の頬を寒さで震 わせる。

老いた男は、ゆっくりと里の奥へと山道に歩を進める。いや、正確に は少年の目に写るのは、ぼんやりとした松明の灯のみであったが。先程 から、どうも霧が出ているらしく、視界がはっきりしない。見えるのは、 歩みに合わせて揺れる、小さな火の塊。確かに男の後を付けているはず なのに、自分がまさに鬼火に連れられて行っているのでは、という不安 さえ頭をもたげてくる。

さくり、さくりと、雪を踏む音。時折木々を揺らす夜風。周りの木々 さえもよく見えない、おぼろげな山道。 (こんな夜に、里の奥なんかに一体何の用があるのだろう……。) 奇妙な老いた男への好奇心と疑念。それだけにしがみついて、少年も 歩を進める。

だんだんと、体が暖かくなってくるのを感じる。初めは、必死に山道 を歩いているせいかと、少年は考えた。だが、それは違った。里の奥へ と入ってゆくにつれ、次第に空気の冷たさが抜けてきている。何より、 冬の夜霧の、凍てつく様な寒さが全く感じられない。それどころか、時 折ふんわりと、まどろみを誘うような空気の流れが、少年の周りを漂っ てゆく。まるで、あの笛の歌が歌う様な、春の空気の流れが。

今まで追っていた松明の灯が、不意に増え始めたのは、少年がこの異 変に気付いた時だった。 夜霧、いや、むしろそれは霞と言ったほうが正しかったが、その霞む 視界に、浮かぶ様に増えゆく、小さな炎。一つ、また一つ。一つ炎が増 える度に、視界がぼんやりと明るくなってゆく。その中心に、老いた男 の人影が浮かぶ。 (鬼火だ!) 少年は、無意識の内に男の方へ駆け寄って行った。さらさらさらと、 生暖かい空気がその頬をかすめてゆく。

ようやく、男の姿がはっきりと見えた。そして、男を取り巻くたくさ んの妖かしの炎の姿が。小さな炎の一つ一つに浮かぶ、猛々しい武士の 面。その一人一人の面に刻まれた、憤り、嘆き、恐怖、そして一様な悲 壮さ。それを糧に、燃え続ける炎。

その中心に立って、老いた男は涙を流していた。 「五十年経た、今となっても、姫を守っておったのか……。」

その瞬間、傍らで見ていた少年の脳裏にまで、思念の波が押し寄せて きた。頭が押し流れそうな思念の激流。 渦巻き猛り狂うかのごとく激しい落人達の想い、それを尽きる事のな い火種として、その激しさとはうらはらに、ただ永久の時に燃えつづけ る。 はぜる音もたてず、ただ静かに。 姫だけは守りたいという悲愴の想い。それゆえに自ら命を絶った、落 人達の無念さ。その思念が点した、妖かしの炎達は椎葉の山里に燃え続 ける。半世紀という長い昼と夜を経た今となっても。

頬を流れる哀れみの涙を抑えられないまま、男は言った。 「私だ。宗久だ。」 今にも老いた男を包みこまんとしていた、鬼火達の動きと思念が不意 に止まる。 「鎌倉には、『平家の余類、残らず追伐し終る』と伝えた。もう、追っ 手が来る事はない。そう、申したではないか……。」

膝をついて、憐憫の涙にむせぶ、老いた男。その背中を、さらさらと、 暖かい春の空気がさすってゆく。あの時と変わらない、春の空気。 少年は、そんな老いた男、いや自分の祖父である男を、言葉もなく、 ただ見つめることしかできなかった。

春風が柔らかく木々を揺らす音だけが、暫くの間、夜を支配していた。 やがて、それを破って、宗久は呟いた。 「鶴富に、会わせてくれ……。」



続きへ

ノートブックに戻る