東京の空の下 / page19

  ***  青色の電車と別れるポイントを抜けて、速度に気をつけながら、弧を描く坂道へと電 車を走らせる。  もうすぐ、たったひとつの踏切を通過して、『夕暮堂』の最寄駅。  だけど、今日はまだあと三周分電車を走らせなくては、いけない。  ファン、と軽く汽笛を鳴らしながら、軽くため息をつく。  子供の頃は、あの踏切で弟と別れてまで、この電車を運転したかった、けど。  何だか、今日は昔のことばかり思ってる、と軽く苦笑いをした、その時だった。 「ゆう、踏切で緊急停止信号! 停車して!」 「え、うそっ!」  物思いを破る少年の叫びに、慌てて私は緊急ブレーキをかける。  あの踏切でだけは、事故なんて絶対に起こしたくなんか、ない。  激しく車輪が軋む金属音を響かせて、急激な抵抗を十一の車両に与えながら電車は停 止した。踏切の手前数メートルの所で。 「何よ、なにも異常なんか……。」  私が少年に文句を言いかけた、その時だった。  高く鳴りつづける、遮断機のシグナルの音に混じって、ほんの微かに。  誰かが、懐かしい歌をうたっているのが、聴こえた。   もう帰ろう 振りかえったら   大人になったあの子が 駅の人混みに隠れてた   緑色の電車 街を駆け抜ける   耳の奥で ずっとずっと 歌が続いてる 「くうちゃん……。」  私は、運転席の大きな窓の隅に映った人影に気づいて、ぽつりと呟いた。  別れた踏切の傍らにたたずんで、歌をうたっている、ずっと手を繋いでいたはずの私 の弟。  あの幼い日から、ずっと、ずっと違う空の下を歩いてきた。  だけど、まるであの青い電車と緑色の電車が、別れても何時かまた逢えるように。  永い時間が流れていったその果てに、同じ踏切で、くうちゃんと一緒にいる。  もう、子供の頃のように手は繋げないけど。  まるでさらさらしたお湯で洗い流したように、胸のうちがすうっと、暖かくなる。  ちょっとだけ瞳を手袋でぬぐって、軽く敬礼をしてから、私は再びゆっくりと電車を 走らせた。 「ここってさあ、貨物線が隣に走っているじゃない?」  プラットホームに止まった時に、ふと緑色の服の少年が言った。 「あの貨物線のおやじさんがさあ、よく遠くまで郵便貨車を引いて遠くまで走っていく ことがあってさ、結構こっそり手紙とか頼んじゃったり、するんだ。」 「それがどうしたのよ? 停止信号なんて、人をだましておきながら。」  何やら悪戯っぽく笑いながら、楽しげに言う少年を横目で睨んでやる。 「運転してるゆうちゃんだって、例外じゃないよ。僕は、この街の人みんなの時間を、 洗ってる。」 「ふんだ。さあ、遅れた分取り戻して、頑張ってあと三周しよう。」  ふわりと笑う少年に文句を言うのを諦めて、私は微笑んで応えた。 「……きっと、くうちゃんが『夕暮堂』で待ってるから。」  そして、私は人々の時間を洗い流す緑色の電車を、くるくると走らせる。  東京という名前の、この街の空の下で。  未だに胸の奥に聴こえている、あの歌の続きをそっと口ずさみながら。   街は大きな手拡げて 人の限りない夢を抱くよ   みんな眠らせて今夜も 深い悲しみも忘れさせて   もう帰ろう いつもの道   もう帰ろう 日暮れてゆく                               Fin. (挿入詩:『東京の空の下』/アルバム『桃と耳』遊佐未森 より  作詩:工藤順子 作曲:外間隆史)




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