青年は、誰かに優しく揺り動かされて、呼び掛けられた気がして、そっ
と目を覚ました。

 まだ眠い目をこすってベットから起き上がると、昨晩老人からもらった、
桜色の卵が目に入った。


 卵は、二つに割れており、殻とほのかな香りだけを残して中身はどこか
に消えてしまったらしかった。          



 小屋の中の空気が、昨日までとまったく変わっていた。凍てつくような
鋭さはすっかり消え、代わりにほわほわとした、再び人を眠りに誘うよう
な穏やかさに取って代っている。

 窓からはやわらかな光がそっと小屋に忍び込み、南風を受けてガラスが
かたかたとゆれている。      


 
  青年は、錆付いた窓を力をこめて大きく開け広げた。とたんに、光と色
彩の嵐に翻弄された。

 小屋の建つ丘は、目覚めたばかりの草花の彩りに満ちていた。暖かい風
に吹かれて、草花や木々の若葉がさらさらとゆれる。鳥達は、突然の春の
到来に驚きながらも、お互いにあいさつし、喜びを歌う。

 そして、全てが新しい光に包まれる。     


 一晩の内に、モノトーンの世界が、パステルカラーに変貌を遂げる。そ
れは、光に祝福された季節の到来のなせる技。かつて青年が、歌に表そう
としてできなかった、春という季節の魔法だった。                


 しばらく春の光景に見入った後、青年はのんびりと朝食の準備を始めた。
簡単な食事を作り、お茶と共にお盆に乗せ、テーブルについた時、一通の
手紙が置かれているのに気付いた。

 それは、昨晩老人が届けてくれて、見もせずに放り出した手紙だった。
封を切って、中を開けてみると、それは故郷からの手紙だった。拙い文字
と、簡素な表現でこう書かれていた。               


                          
    兄さんが、家を出てからもうずいぶん経ちますが、 
   お元気でしょうか。こちらは、私も、母さんも、弟た 
   ちも元気でやっています。             

    今年の冬は、とても長くて寒いですが、つらいとき 
   には、兄さんの作ってくれた春の曲を弾いて、暖かい 
   春を思い出しています。兄さんも、風邪などひかない 
   でがんばってくださいね。             

    春になったら、たまには、帰ってきてください。み 
   んな、兄さんが来るのを楽しみに待っています。   


                          
 そういえば、故郷にももう二年ほど帰っていない。優しかった母親、音
楽を教えてとせがんだ陽気な妹、野原を走り回った小さな弟達、そして故
郷の懐かしい風景。そんなものが青年の脳裏に浮かんでくる。       
 
  
 なにげなく、封筒をとって見てみた。驚いたことに、宛先が、この冬の
初めにここに引っ越す以前に住んでいた町になっている。そういえば、故
郷に、引っ越したことを伝えるのさえ忘れていた、と苦笑いをしてから、
ふと気付いた。                   


(なぜ、この手紙はここに届いたのだろう?)     

 再び、あの老人のことが頭をよぎる。何故、手紙をここに届けたのか、
何故、あの曲を知っていたのか、そして、あの桜色の卵は……?                


 開け放した窓から、ふわっと優しい風が入ってくる。穏やかな春の空気
に包まれているうちに、だんだんそんなことは、どうでもよくなってきた。 
          
(……帰ってみようかな。)             




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