しんしん、しんしん……。
 雪は、あいかわらず降り続いている。波の音が、少しずつ積もりゆく雪に吸収され、
先ほど迄より、遠ざかっている様に思える。

 テーブルに置かれたスープが、ほんわりと白い湯気をあげる。どことなく、ほっとさ
せる様な香りとともに。

「ありがとう。」
 少年が差し出したスープを受け取って、娘が少しほほえむ。一口飲むと、スープが冷
えた体を、内からほんのりと暖めてくれる。

 二人でスープを飲みながら、少年は、娘がこの島の砂浜で倒れていたことを話し、娘
に、何があったのかをたずねた。だが、娘は覚えていなかった。それどころか、娘は自
分が誰で、どこで何をしていたのかすら、覚えていなかった。

「何も、思い出せないの……?」
 少年が、心配そうに尋ねた。しかし、目を閉じて思い出そうとしても、娘の脳裏に浮
かぶのは、どこかから落ちるような感覚と、聞き取れない様な遠くから娘に呼び掛けて
くる声と、そして、時たま疼く背中の痛みだけだった。

 娘の背中には、何か爪のようなもので引き裂かれた様な傷があった。それは、塞がっ
てはきていたが、まだ新しい傷の様で、娘の透き通るような白い肌に痛々しく残ってい
た。

 目を閉じると、必ず娘に呼び掛ける声が聞こえた。何と言っているのか、聞き取れは
しないが、確かに耳に届く遠い遠い声が。どことなく抗いがたく、それでいて、どこと
なく懐かしい響きの声が。

「ご、ごめんね、こんなこときいて……。」
 目を閉じてうつむいたままの娘に、少年がまごついて言った。娘は首を振って、弱々
しくほほえんだ。



 手伝おうとした娘を、断って寝床に戻し、少年は台所で後片付けを始めた。娘は上体
を起こしてそんな少年を見て、ふと気付いて尋ねた。
「お家のかたは、どこかに出かけていらっしゃるの?」
「僕独りだよ。去年の冬、じっちゃんが死んでからは。」 少年は、皿をしまいながら
振り向かずに答えた。

「……ごめんなさい。」
「別に。独りには慣れてるんだ、生れつきだから。じっちゃんがこの島に来て、この小
屋を建てて、僕を引き取って住み始めたのも三年前のことだし。」

 片付けを終えた少年は、暖炉の側の椅子に座って、話し続けた。
「実際、不思議な人だったよ、じっちゃんは。この島で、僕と暮らし始めるまでは、ず
っとあちこち旅をしてたんだって。『白い翼を追ってのう。』とか言って。」
「翼………?」
「うん。よくわからないけど。それで、『ここが一番鳥達が見える。』とかで、ここに
住むことにしたんだって。」 静かな雪の夜に響く少年の話を、燃え落ちた薪が、パチ
パチッ、とさえぎった。

「……結局、最期はこんな島で、僕だけが見取る中で死んでいった。それも、満足そう
な顔でさ。」
 しばしの沈黙の後、少年は、半ば独り言の様に、話を続けた。
「……じっちゃんは、僕に何も話してくれなかったんだ。島の外のことを尋ねても、
『そんなものは、人から聴いても意味がない。』とかいって。教えてくれたのは、歌と
楽器の弾き方ぐらいだった。」
「楽器が弾けるの?」
 娘が尋ねた。その声に、我に帰ったかの様に、少年が答えた。
「うん、こんな冬の夜には、じっちゃんがいろいろ弾いてくれたから……。」
 少年は、立ち上がって、もう一つの寝床の脇に立て掛けてあった、古いリュートを手
にした。

 そのリュートには、珍しい異国の複雑な装飾が施されていて、職人の手によって作ら
れ店頭に並んでいた時には、きっと華やかな色彩を彩っていただろうと思われた。しか
し、使い込まれた今では、色も褪せ、むしろ年月の重みを感じさせる楽器になっていた。
 そして、何より目を引くのは、リュートの調弦部分に飾られた、一枚の羽だった。そ
れは、色褪せた楽器とは対照的に、時を経ても変わらない、真白い輝きを放っていた。

 娘は、そのリュートを目にして一瞬はっとした。何かが、頭の奥底から浮かんでくる
気がする。どこかで、確かに、このリュートを見たことがある気がする……。

「じっちゃんの形見なんだ。」
 娘の変化を、驚きととって、少年は少し誇らしげに言った。そして、弦を直し、弾く
構えをとった。
「これは、じっちゃんが作った歌で、じっちゃん自身一番好きな歌だったんだ。」


   初めて飛んだ あの空へと
  誘う季節が また巡って
  海の上駆ける 休まぬ翼
  ちりばめられた星座 導べに


 娘は、胸を衝かれた。明るく、朗々とした調べ。娘は確かに、この歌を知っていた。
そして、それは懐かしく、悲しい追憶のような何かとともに、胸に湧きあがってきた。


  かりたてる 見知らぬ国から
  届いた風を 羽に受け


 知らず知らず、娘の口から、詞がこぼれでる。驚いた少年が、弾く手を止めると、押
さえられない涙が、娘の瞳から、数滴こぼれ出た。

「ど、どうしたの?何かあったの?わ、悪いことしたならあやまるから!ねえ!」
 少年が、どうしていいか分からずに、しどろもどろに言う。
「ごめんなさい、何でもないのに……。」
 自分でも、何故悲しいのか、何故涙が出るのか分からなかった。それでいて、湧きあ
がる何かのために、少年にこう答えるのが精一杯だった。

「と、とにかく、もう寝たほうがいいよ。ねっ!」
 少年のあわてぶりに、少しだけ心が和み、娘は言われたままに寝床につき直した。



 真夜中に、また呼び掛ける声を聴いたような気がして、娘は目を覚ました。
 立ち上がって、窓の外を覗くと、雪はもうやんでいた。さっきまでと向きの違う風が
時折窓を揺らす。

『……南へ。』

 今度は、確かに聞き取れた。遠くから届く、娘を呼ぶ、抗いがたい声が。

『かえろう。いこう。南へ。』

 娘は、寝床に戻り、毛布にくるまり、耳を塞いだ。やがて、眠りの波が、娘を再び包
んでいった。




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