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明治14年とはどんな年であろうか。年表により前後を調べてみる。この年に国会開設の詔があった。
Webサーフをやっていると、ときに興味のあるものに行き当たる。私の住まい近辺の古地図(明治14年11月製)を見つけた。
(復刻版?を末尾に添付)
文字は右から記されている。地図の標題は「神奈川県武蔵國北多摩郡谷保村・南多摩郡百草村」となっている。
地図の範囲は(現在の地名で記す)北が甲州街道、南が野猿街道、東は、府中市・四谷、西は日野市・南平。
<<参考>>
野猿街道は一ノ宮から野猿峠を通っている道であるが、あるホームページで野猿峠の由来が記されていた。「野猿」の文字が使われたのは
昭和3年以降だそうである。したがってこの地図が製作された頃はそういう呼び名ではなっかたことになる。
そのホームページによれば、戦国時代の武将がいまの野猿峠(その頃は名前がなかったらしい)に「甲(かぶと)」を埋めて武甲山にちなみ「甲山峠」と名づけたそうだ。「甲」が書き誤り「申山峠」になり「猿山峠」となったらしい。「野猿峠」が使われたのは昭和になってから。
名づけた武将も驚いていることであろう。
現在東京都で、「郡名」が使われているのは「西多摩郡」のみである。私が都民となった昭和30年代後半には地図にある「北多摩郡」、「南多摩郡」が記載されていた。
古地図から地名を読み取ると
多摩川を境に北側は北多摩郡、南側は南多摩郡。村の名前は表に記すように現在の市内の町名である。
ただし荒井村が新井、中野村が東中野と変わっている。これ以外は現在も使われている。名前を変えたのは中野村の場合、明治12年(1879年)であるが多摩郡に同じ地名があったことから東中野村と改称されたそうだ。
地図上黒い点は人家であろう。甲州街道沿いには民家が並んでいる。日野は村ではなく駅となっている。一般的には日野宿といわれるようだが、古地図の表示は駅、駅と宿は同義であろう。宿場が設けられていたところで賑わいが想像できる。宿場には荷物を中継するため人馬を用意しなければならず、ある宿場では二十五人、二十五疋と定められていたそうである。
一ノ宮村から東への道に「至二子道」記されている。現在の川崎街道の前身であろうか。
この地図が製作されたの頃の東京・横浜の大まかな様子は後述する。一方この地方はおそらくのどかな、あるいは厳しい農村だっただろうと想像出来る。
地図を見ていると、五街道のひとつである甲州街道沿いには人家が密集しているが、その他は数軒の人家が点在し村をなし、村々をつないでいる細い路がある。
庶民の交通手段は徒歩であろう。東京から離れたこの地方は未だ文明開化は遠かったのではないだろうかなどと当時の生活を想像する。
多摩地方は大部分が地図の表題にあるように明治4年の廃藩置県により品川縣から神奈川県に移管され、「神奈川県多摩郡」と称された。
明治11年(1878年)南多摩、北多摩、西多摩の三郡に分割され、明治26年には政争も絡み再び東京都に移管されたという。
古地図上の地名 現在の地名
南多摩郡・日野駅 日野市・日野
南多摩郡・上田村 日野市・上田
南多摩郡・宮村 日野市・宮
南多摩郡・万願寺村 日野市・万願寺
南多摩郡・下田村 日野市・下田
南多摩郡・荒井村 日野市・新井
南多摩郡・石田村 日野市・石田
南多摩郡・南平村 日野市・南平
南多摩郡・高幡村 日野市・高幡
南多摩郡・三沢村 日野市・三沢
南多摩郡・落川村 日野市・落川
南多摩郡・程久保村 日野市・程久保
南多摩郡・百草村 日野市・百草
古地図上の地名 現在の地名
北多摩郡・青柳村 国立市・青柳
北多摩郡・谷保村 国立市・谷保
北多摩郡・四谷村 府中市・四谷
南多摩郡・一ノ宮村 多摩市・一ノ宮
南多摩郡・中野村 八王子市・東中野
南多摩郡・大塚村 八王子市・大塚
南多摩郡・和田村 多摩市・和田
南多摩郡・東寺方村 多摩市・東寺方
4年前には西南戦争。
翌年に日本銀行が創立され、翌々年に鹿鳴館が落成している。
文豪森鴎外は19歳、東京大学医学部を卒業している。
明治5年に開業した新橋・横浜間の鉄道はこの年に複線化された。そして8年後に東海道本線が開通し、横浜市で日本初の近代下水道が建設された。着々とインフラが整備され始めたようだ。
電気、電話はどうであったろう。
明治18年(1885年)白熱電灯が東京銀行の集会所に使われたそうだ。その翌年、東京電灯(東京電力の前身)が開業した。電気の本家アメリカでは6年前の明治12年(1879年)エジソンが白熱電灯を実用化し、2年後の明治14年(1881年:この地図が出来た頃)電灯事業をニューヨークで始めている。その翌年、ニューヨークで水力発電が始まった。
日本では東京電灯に続き数年間、各地に電灯会社が設立されている。ローカルな話だが八王子電灯が明治28年(1895年)設立。私が住んでいる地域に電気が供給されたのは昭和2年、この年の電灯普及率は87%だそうだ。
一方通信は明治2年(1869年)東京・横浜間で電報が取り扱われ、明治11年国産1号の電話機が作られた。東京横浜間の電話交換が開通したのは12年後の明治23年(1890年)である。私が住んでいる地域に電話が敷設されたのは昭和9年という。昭和13年には電話加入者数が100万を突破。
ついでながらこの頃の物価は、日本酒・特級が11銭、ビール大瓶は16銭、牛乳1本は4銭、食パン1斤が5銭だったそうである。
ビールがもうあったのかと驚いたが、本格的に醸造・販売されたのは明治3年(1870年)横浜の外人居留地内での販売らしい。しかし明治5年(1872年)になると日本人がはじめて醸造・販売したそうである。
牛乳は文久3年(1863年)オランダ人から乳牛の飼育、搾乳を習い横浜に牧場を開き牛乳の販売を始めたそうだ。
一方パンは横浜開港の二年後の文久元年(1861年)に売り出され、次々にベーカリが開業し明治元年(1868年)には横浜に4軒の異人ベーカリがあったそうだ。
一枚の古地図が雑多な知識を得るきっかけを与えてくれた。先人たちのバイタリティも垣間見ることが出来た。