しむ


2004. 7. 1
わが町の新撰組隊士

一諾斎が住職であった
金住院に隣接する
熊野神社<八王子・東中野>
新選組がテレビで大河ドラマとして放映されている。電鉄会社主催のウオーキングも新撰にゆかりの地を歩くようにセットされている。
調布市は局長・近藤勇、日野市は土方歳三、井上源三郎、佐藤彦五郎、町田市は小島鹿之助など。

やはり新撰組隊士ゆかりの地を訪ねるウオーキングで斎藤一諾斎横倉甚五郎の墓所を訪れたことがある。ふたりの墓所がなんとわが町にあった。
ふたりともあまりポピュラーではないので私も知らなかったが、わが町ということで、後日いくたびか訪れた。
またウオーキングにはセットされていなかったが、顕彰碑をみつけたり入手した情報をまとめてみた。
新撰組というと近藤、土方、など幹部のことが話題になりがちだが一般の隊士のことを知るのも一興かと思う。

斎藤一諾斎
斎藤一諾斎・墓所<保井寺>
一諾斎は、文化10年(1813年)江戸で三州額田藩主十一代の孫、鈴木半次郎の次男として生まれた。名は秀全(ひでたけ)という。
6歳で出家し浅草今戸潮江院斎藤住職の養子となる。18歳より駒込吉祥寺をはじめ諸国をめぐり修行に励み、29歳より四ヶ寺の住職を歴任した。

慶応4年(1868年)3月4日、甲州全福寺の住職のとき、近藤、土方らが率いる甲陽鎮部隊に一諾で物資を提供し、さらに還俗して新撰組隊士となり協力した。
その後一諾斎は彰義隊に参戦し、再び新撰組に戻り会津戦争に参加したがそのまま仙台に残留し降伏した。

その後、土方の親戚佐藤家に寄宿したが、明治3年(1870年)武州由木中野村・金住院にむかえられ、大塚観音堂に寺子屋を開き地域
斎藤一諾斎の顕彰碑<清鏡寺>
の教育にあたった。同年10月病気のため甲州(正覚寺住職)に戻り、余生をすごしていたが、かって一諾斎が開いた寺子屋が明治6年に八中学区代二十三生蘭学舎(現在の八王子市立由木東小学校)となったのを機に、再びこの地に迎えられ教育にあたったが、翌7年12月18日62歳で人生を終えた。

明治3年、一諾斎が迎えられた金住院は写真の八王子市・東中野の熊野神社に隣接していたそうだ。当時この地は神奈川県多摩郡中野村と呼ばれていたが明治12年、郡区町村編成法により多摩郡内に同一の村名があったため、東中野と改称され現在に至っている。
八王子市の東端、大塚の清鏡寺は古くから大塚観音と呼ばれ境内に顕彰碑がある。 この碑には、一諾斎のひととなりが記されているが、碑の裏面には有志者、門生の名前が刻まれている。このなかには新撰組の隊士や近藤勇、土方歳三の縁者の名前もあるという。

横倉甚五郎
横倉甚五郎墓所<大法寺>
斎藤一諾斎は、晩年をこの「わが町」ですごしたが、横倉甚五郎は現在の八王子市・堀之内の生まれだそうだ。
生年が天保5年(1834年)だから斎藤一諾斎より二十歳も若い。 安政6年(1859年) 天然理心流に入門し、元治元年(1864年)10月の近藤勇の江戸での隊士募集に応じた。京ではいろいろな事件で活躍。 油小路の変、慶應3年の近藤狙撃事件での警護。慶應4年の鳥羽伏見の戦いを経て江戸へ戻り、甲陽鎮撫隊に参加、会津戦争に参加後、その後蝦夷へ渡る。 明治2年5月15日、弁天台場で降伏した。その後、青森の蓮華寺、油川の明誓寺、弘前の薬王院などに収容され、11月には坂本龍馬殺害の容疑者として東京に送られ、明治3年2月の刑部省の取り調べに、新撰組の不関与を申し立てる。 明治3年8月15日、37歳の若さで獄死した。
箱館から東京に送られる際、句集などを隊士・中島登にあずけた。

甚五郎の出身地、八王子・堀之内には横倉姓が十数軒存在する。甚五郎の縁者の方かもしれない。 八王子市・鑓水の大法寺に墓所がある。大法寺は国道16号に柚木街道が交わるところにある。ここ鑓水も昭和39年まで旧・由木村であった。私は当時この地には住んでいなかったが、ここの霊園には我が家の墓もありわがふるさとの感がある。

新撰組隊士立川主税は一諾斎の勧めで一時期この地に居住し、曹洞宗の僧侶になりその後山梨県の院主となり69歳で他界した。
生年は天保6年(1835年)、没年は明治37年(1904年)。
立川主税は土方に付属し箱館戦争で土方の最後をみ、戦死の状況を日野の佐藤家に伝えたそうだ。
立川の出身地は筑前国・宗像郡・鐘崎浦。現在の福岡県で私と同郷ということになる。