第一章 マロクールへ続く道

 カレーからマロクールへと続く街道。
 一人の若者が、あまり上等とはいえない荷馬車を、のんびりと走らせていた。
 実際にはのんびり走っているわけではない。荷物が重いため、馬車を引いている痩せ馬ではスピードが出ないのである。
 御者台の若者は、馬を労わるように、優しく話し掛けた。
「さあもう少しだ。仕事が終わったら、たっぷり水と餌をやるからな」
 その声に励まされたのか、馬はほんの少しだけ、足を速めた。


 まだ少年の面影が残るその若者の名は、ビルフラン・パンダボアヌという。
 パンダボアヌ家といえば、ピカルディ地方では少しは名の知られた家柄であった。
 彼の祖父は生前、マロクールで織物卸の元締めをしており、裕福ながら寛大な男でもあったため、多くの者が、彼の世話になっていた。
 しかし彼の息子、つまりビルフランの父親は、道楽者を絵に描いたような男であった。
 自分の父親が死んで遺産を引き継ぐと、瞬く間に酒と賭博でそれを食い潰し、挙句の果てに、妻と子供と借金を残して、酒場にいた外国人の女性と行方をくらませてしまったのである。
 後に残された妻と子供たちは、やむなく売れるものを売り払って借金を清算し、また当面の生活費とした。最終的にそれまで住んでいた家も売り払い、現在のマロクールにある家に、移り住んだのである。
 しかも母親は心労が重なったために寝込み、三人の子供たちは、若いうちから働くことを余儀なくされた。
 一番上の兄であるフレデリックは、祖父と取引のあったパリの商人の元へと働きに出た。
 二番目の姉は、家で母親の面倒を見ながら、織物の仕事をした。
 そして一番下のビルフランは、ひとつの野心を持って、祖父の行っていた織物卸の仕事をはじめたのである。
 しかし、祖父の時代と違い、各地に工場が作られて大量生産され始めている今の時代、その苦労は一方ならぬものがあった。
 第一、彼自身の年齢がまだ若い。今年やっと19歳になった彼を、マロクール村の人々が相手にするのは、ひとえに彼の祖父から受けた恩を返そうという気持ちからであった。
 それでも最初のうちは、質の悪い麻を掴まされたり、出来上がった麻袋を不当に安く買い叩かれたりと、失敗続きであった。
 しかし根気強い彼は、失敗から教訓を学び、少なくとも今では、村人も彼を信頼して取引していた。


 昼過ぎにマロクールに到着したビルフランは、ひとまず馬を休ませるために、なじみの宿屋に寄った。
「あら、ビルフランさん。今日は遅かったのね」
 宿屋の娘が、気さくに話し掛けてきた。
「ああ、暑さで馬がばててね。すまないが飼い葉と水をやってくれないか」
「わかったわ。それで、あなたは何にするの」
「僕にはワインを一杯だけ頂ければ、十分だよ。まだ仕事があるからね」
 そんな話をしていると、宿屋の主人も顔を出した。
「やあビルフラン。カレーでは何か新しいニュースを聞けたかい」
 宿屋の主人のジャックは、ビルフランがくると、いつもそう質問した。カレーは港町で、それだけ情報も早い。ビルフランがそこに行けば、当然、目新しいニュースを仕入れてくるだろう、というわけである。
「ロシアがポーランドを奪ったという話で持ちきりでしたよ」
「ははあ、そいつは大変な話だな」
 そういいながら、実際には何が大変なのかはジャック自身も良くわからない。ただ、そういう話のネタがあれば、宿泊客との会話に困らないという程度のことである。
「ほらフランソワーズ、ぼうっとしていないで、はやく馬に水をやって来い。俺はビルフランから、もう少し話を聞くから」
「はーい」
 ジャックはワインを一瓶とコップ二つを持ってくると、ビルフランと自分用に注いだ。


 結局、ジャックの宿屋で小一時間もつかまっていたビルフランは、ようやく次の作業に取り掛かることができた。
 今度は、運んできた麻を、織物をする家に配達し、出来上がっている麻袋を回収しなければならない。
 再び荷馬車を駆り、さっそく最初の家へと向かった。
 馬車を家の前につけると、ビルフランは御者台から降りて扉を叩いた。中から返事がしたが、ビルフランは馬車に戻りながら自分の名前を告げ、荷台から梱りを一つ降ろすと、それを入り口まで運んだ。
 ちょうどそのとき、家の扉が開いて、中から中年の女性が顔を出した。
「こんにちはビルフラン。いつもご苦労だね。梱りはいつものところに置いてくれるかい」
「こんにちはナタリーさん。今日は質のいい麻が手に入りましたよ」
 そういいながら、ビルフランは梱りを抱えて、家の中へと入っていった。
「仕上がった分も、そこに置いてあるからね」
 ビルフランは梱りをいつもの場所に置くと、今度は仕上がっている麻袋のチェックを始めた。
「これとこれで、代金はこれだけになります」
 そう言ってナタリーに代金を支払った。その額を見ると、彼女はがっかりしたような顔をした。
「やっぱり、今はこんなものにしかならないのかい」
「工場では、職人の賃金を削ってでも安くしようとしていますからね」
 ビルフランはわざと、当然のことのように答えた。いちいち同情していたなら、この仕事はできないからである。


 実際には彼自身も、自分の支払っている代金は少ないと思った。しかし今はイギリスをはじめとする各国が、紡績工場での大量生産を始めている。本来であれば、自分のしているような、古いやり方では、太刀打ちできたものではない。
 それでも、大量に作ったものが安く売られるのは、需要の大きい都市や町に限られる。
 地方の町や村の場合、そこまで運ぶ手間賃の割に、儲けは少ない。結局、安いものは都市部に集中するため、地方の人が安く手に入れようとすると、そこまで買いに出かけなければならない。
 ビルフランはそこに目をつけた。地方にいるものが、みな安く仕入れることのできる場所まで行ける訳ではない。そうした場所に、ビルフラン自身が出向いていって売り歩けば、多少高くても買い手はつくのである。
 しかし、高く売るにも限度がある。工場で作られる品物は、労働者の賃金を最低限あるいはそれ以下に抑えて作られるため(事実そのために、リヨンでは昨年、紡績工場の労働者が暴動を起こしていた)、昔なら考えられないような安い値段で取引されていた。
 当然、ビルフランも、その値段に見合った価格をつけなければならなかったのである。
 村人の中には、それを理解してくれる者もいたが、まったく理解しようとしないものもいた。しかし、ビルフランは理解できないものに、あえて説明しようとはしなかった。
 幸い、ナタリーはビルフランの立場を、多少理解してくれていた。
「いやな時代になったもんだ。あんたも大変だろう」
「村のみなさんのおかげで、なんとか生活できていますよ」
 そう言うと、ビルフランは麻袋を肩にかけて、ナタリーの家を出た。


 最後の一軒に向かったとき、ビルフランは少し緊張した。
 それまでは手際よく仕事をするために、荷物を降ろす前に扉を叩いていたが、そこの家では、彼は先に荷物を降ろし、入り口まで運ぶと、手櫛で髪を整えてから、改めて扉を叩いた。
「ビルフランです。今週の分の苧を持ってきました」
 するとすぐに中から、一人の少女が出てきた。
「こんにちは、オーレリー」
「こんにちは、ビルフラン。今日は遅かったのね」
 オーレリーと呼ばれた少女は、金髪で色白の美しい娘で、ビルフランの一つ下であった。彼女の母親は、村で一番の織物の名人と言われており、ビルフランの祖父が織物卸の仕事をしていたころからの付き合いであった。
「仕事だからね。なかなか時間どおりにはいかないさ」
 実際にはジャックにつかまっていた時間だけ遅くなったのだが、ビルフランは少し気取って答えた。
「そうそう、きみが先日作った麻袋だけど、なかなか評判が良かったよ。さすがは名人直伝の腕前だね」
「そんなことをいって、オーレリーを甘やかさないでおくれよ」
 奥から、オーレリーの母親のソニアがそう言いながら顔を出した。
「嘘じゃありませんよ。実際に、評判が良かったのです」
「そうかい、だけどわたしから見たら、まだまだだね」
「ソニアさんと比べては、オーレリーがかわいそうですよ」
 ビルフランがオーレリーをかばうのを見て、ソニアは笑った。
「なにも、わたしも自分の娘がへたくそだとは思っちゃいないさ。だけど、おまえさんは誰にでもそんな話をするのかい」
 彼は自分がからかわれていると感じて、顔を赤らめた。
「そ、それじゃあ、苧はここに置いておきます」
 ビルフランは出来上がった麻袋を慌しく検品すると、代金をオーレリーに渡して、そそくさと家を出た。
「ふう。ソニアさんにはかなわないや」
 ため息をつくと、ビルフランは荷馬車を自分の家へと向けた。

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