第二章 ビルフランの野心

 ビルフランが家に帰ると、すでに母親が姉のパトリシアと共に夕食の準備をしていた。
「おかえり、ビルフラン。今日はフレデリックから手紙が届いていたよ」
「へえ、兄さんは元気ですか」
 長男のフレデリックは、パリのヴィルヌーブ商会で働いている。社長のクリストフ・ヴィルヌーブは祖父と顔なじみであり、彼らの苦境を知って、フレデリックを雇ってくれたのである。
 しかしクリストフはフレデリックを甘やかしはしなかった。彼の目的は、あくまでもフレデリックを一人前の商人とすることであった。それこそが、恩人に報いる最善の方法であると、彼は考えたのである。
 当然、社内で一番若いフレデリックは、雑用しかさせてもらえなかったし、賃金も安いものであった。ただ住む家だけは、クリストフが自分の家の一室を貸してくれていたので、時々、このように手紙と共に家に仕送りをすることができた。
「元気そうよ。あーあ、私もこんな田舎じゃなくて、都会で暮らしたいなあ」
 パトリシアがそう言うと、母は彼女をたしなめた。
「フレデリックは遊びに行っているのではないんですよ」
「分かっているわよ。だけどこうも毎日、織物をするだけじゃあ、飽きてしまうわ」
「姉さん、そんな言い方はないだろう」
 ビルフランは少しむっとしながら、姉に答えた。
「ちょっと言ってみただけよ。そういえばビルフラン、カレーではブルトヌーさんに会ったんでしょう」
「ええ、会いましたよ。あの人も相変わらず、忙しく働いていますよ。母さんや姉さんにもよろしくといっていました」
「それだけ?」
 パトリシアはできるだけ平静を装うように尋ねたため、ビルフランはわざと姉を焦らすような返事をした。
「あまり時間がなくて、長話はできませんでしたからね。仕事上の話と、あと世間話を二三しただけだったかな」
「本当にそれしかしなかったの?」
 不安そうにパトリシアが聞き返すと、思い出したようにビルフランは手紙を出した。
「ああ、そうそう。この手紙を姉さんに渡すよう、頼まれていたんです」
「もう!そういうのは早く出しなさいよ」
 怒りながら、パトリシアは手紙を奪い取った。


 ビルフランがアラン・ブルトヌーという幾分、山師的なところのある貿易商人と取引をするようになったのは、彼が比較的安くて質の良い原料を卸してくれるからであった。
 彼は事実、投機的な事業を幾つも行い、着実に身銭を増やしていた。
 そして一度、人手が足りなくて、ビルフランが姉をカレーまで連れて行ったとき、アランは彼女に一目惚れをし、パトリシアもアランに惹かれたのである。
 それ以来、二人の間では手紙のやり取りがあり、その配達人がビルフランだった。


「ビルフラン、あまり意地悪しないの。パトリシアも、もう少し落ち着きなさい」
 母親が二人をたしなめた。
「私は、兄弟三人仲良く暮らしてほしいの。だから喧嘩をしたり、仲違いをしてほしくないのよ。さあ、もうすぐ夕食ができるわ。準備を手伝って頂戴」
 二人はおとなしく、母親の言葉に従った。


 夕食後、ビルフランは自分の部屋に戻ると、机に向かって勉強を始めた。
 ビルフランはいつも、母親に楽をさせたいと、そのことを願っていた。だからこそ、自分で仕事を始めたのであった。しかし今の仕事の稼ぎでは、生活するのが精一杯である。
 今以上に稼ぐにはどうすべきか? 少なくとも、今のように一人で麻を仕入れ、それを村人たちに織ってもらう方法では、たかが知れている。
 もっと大量に麻を仕入れ、大量の織物を織ること、そのための工場を手に入れること―それが、ビルフランの目標であり、野心であった。
 そして勉強もそのためのものであり、それ以外の理由はなかった。
「いつかきっと、自分の工場を持ち、母さんに楽をさせてやるんだ」
 その思いが、彼を仕事と勉強に駆り立てる原動力であった。


 翌朝、いつものようにカレーへと出かけようとするビルフランを、母親が呼び止めた。
「ビルフラン、昨日伝えるのを忘れましたけど、ルノーの息子のセバスチャンが、もし人手が足りなければ仕事を手伝わせてほしいと言っていましたよ」
 ルノーとは、祖父の下で働いていた人物で、ビルフランもよく知っていた。しかしセバスチャンについては、自分よりも二つ年上ということ以外は、あまり知らなかった。
「今のところ、人を雇わなくてもやっていけるので、母さんのほうから断っていただけますか」
 実を言えば、今の仕事量を一人でやっていくのには、かなり無理があった。しかし人を雇えばそれだけお金がかかり、自分の工場を持つという目標が遠ざかることになる。彼としては多少の無理があろうとも、支出を切り詰めようと思ったのである。
 母親はそんなビルフランの心境を察したのか、しばらく彼を見つめてから、再び放し始めた。
「ビルフラン、おまえが優しい子なのは、私が一番良く知っています。だからこそ、私はおまえが無理を重ねて、病気にでもなったらどうしようかと、心配でならないのです」
「私はそんなに無理はしていませんよ」
「それならいいのですが。だけど、すべてを一人で行なうより、相談できる相手がいたほうがいいでしょう」
「今までも一人で行ってきました。別に困りません」
「今まではそうかもしれません。だけどこの先、何が起こるかわかりませんからね。それに、他の人と働くことも、いろいろと勉強になるんですよ」
 母親がしつこく勧めるので、ビルフランはセバスチャンを雇うという話が、向こうから来たものではなく、母親が持ちかけたものなのだろうと察した。
 同時に、将来に事業を拡大したとき、自分の考えを良く知ってくれる人がいたほうが、都合がよい、という事実にも気が付いた。一時的に収入が減るとしても、二人で仕事をしたほうが、精神的にも体力的にも余裕ができることは間違いないであろう。
 思い直したビルフランは、とりあえず、カレーへ行く前にルノーの家へ行くと母親に答えた。


 ビルフランがルノーの家を訪ねると、彼は懐かしそうにビルフランに話し掛けた。
「これはビルフラン様、お久しぶりでございます」
 ルノーは昔、妻が病気になったとき、ビルフランの祖父から医者や薬を手配してもらったことがあった。それ以来、その恩を忘れず、パンダボアヌ家が没落した後も、彼らに主人に対するような敬意を払いつづけていた。
 ただしビルフランにとっては、すでに実体の伴わないそうした扱われ方は、かえって煩わしく思われ、そのことも、今回の申し入れを断ろうと思った一因であった。
「こんにちはルノーさん。母から聞いたのですが…」
 そこまで行った時点で、ルノーはすぐに話を引き継いだ。
「ええ、うちの息子があなたのところで仕事をしたいと申しておるんですよ。迷惑でなければ、使ってやってください」
「迷惑だなんて、とんでもありません。ただ、あまり高い賃金はお支払いできませんが」
 そういったとき、ふとビルフランの頭を疑問がよぎった。
「そういえば、セバスチャンは今まで何の仕事をしていたのですか」
 自分より年上の彼が、何の仕事もせずに、ぶらぶらしていたはずがない。
「いえね、先日まで出稼ぎに行っていたんですが、ちょいと病気になりまして、戻ってきていたんですよ。それで今時分ですから、長く休めば仕事なんてなくなってしまうんでさ」
 それを聞いて、やっとビルフランは、母親が自分にセバスチャンを雇うよう、しつこく勧めた理由に納得がいった。
 それは単に息子の負担を軽くするということだけではなく、本当にセバスチャンが仕事を探しており、いまだにいろいろと気を使ってくれるルノーに対する恩返しとして、彼を雇うよう、持ちかけたのである。
「そうですか。私の仕事もあまり楽とはいえませんが、体力はもう大丈夫なのですか」
「そりゃあもう。今、息子を呼びますから、直接話を聞いてやってください」
 そう言うと、ルノーは後ろを振り返り、息子の名前を呼んだ。
 おそらく、すぐ横で聞いていたのであろう。セバスチャンは間髪いれずに姿をあらわした。
「おはようございます。ビルフラン様」
 出てきた男は、少し痩せており、優しい顔立ちであったが、芯は強そうであった。
「セバスチャン、きみは私より年上だし、今はパンダボアヌ家とは何の関係も無い。それでも、年下で経験も少ない私の下で働いてくれるのかい」
 あえてビルフランは、そういう言い方をした。今の彼は、必ずしも人を増やしたいわけではない。あえて人を増やすのなら、彼の立場を理解し、尊重し、心から助けてくれる人であって欲しかったのである。
「雇ってくれる以上、年齢の上下は関係ございません。それに、パンダボアヌ老は私の母の恩人です。その孫であるあなたのお手伝いをするのに、なにを躊躇することがあるでしょう」
 セバスチャンはお世辞ではなく、心から言っている様子だった。しかしビルフランには多少の不満があった。
「きみは私の祖父の恩を私に返すと言うのだね。そのような忠実さが、きみの良いところだと思う。しかしその恩を抜きにした、ビルフランという一個人に対する、きみの考えはどうだろうか。本当に仕えるに値する人物だと思っているかい」
 ビルフランの質問に、セバスチャンは少し考えてから答えた。
「正直に申しますと、私自身はあなたの仕事振りや性格を存じません。しかしそれを知る一番良い方法は、あなたと共に働くことだと思います」
「なるほど」
「それに、あなたは私の意見を聞いてくださいました。聞くことは話すことに勝るとも申します。私としては、ビルフラン様、あなたはお仕えするにふさわしい方だと思います」
 ビルフランは、セバスチャンの正直な意見に満足した。
「セバスチャン、私がきみを雇えるのは幸運だったと思う。さっそくだが、これから私はカレーまで行かなければならない。一緒に来てくれるだろうか」
 セバスチャンは、自分がビルフランに気に入られたと知って、顔を綻ばせた。
「喜んでお供します」


 こうして、ビルフランは最初の従業員を雇うこととなった。それは自らの野心を実現させるための、小さな一歩でもあった。

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