第三章 古工場

 ビルフランはセバスチャンを雇うことで、今まで以上に精力的に仕事に励むことができた。決して楽ではなかったが、少しずつ貯えを増やすこともできている。
 そして彼が25歳になったとき、彼の野心を成就させる願ってもない機会が訪れた。
 マロクールの実力者であるロベール・レスコーという人物が、自分の持っていた古い工場を売りに出したのである。
 古いとはいえ、しっかりとした建物だった。ビルフラン自身、以前から使われていなかったその工場を、なんとか譲り受けることはできないかと考えていた物件である。
 ただ、ビルフランにとってロベールは、あまり会いたくない相手であった。彼はビルフランの父親が借金をした相手だったからである。
 ロベールはビルフランの父親が失踪したことを知ると、すぐに残された家族の元へと駆けつけ、貸した金を直ちに返すよう、催促してきた。
 結局、借金を返済するために、パンダボアヌ家はほとんどの資産を売り払うことになり、そのときの心労で、母親が倒れたほどであった。
 もちろん、借金を返すのは当然だとビルフランも思う。しかし、少なくとも、兄や自分が大きくなるまで待ってくれたなら、あれほど母親が無理をしなくても済んだのではないかとも思うのである。
 それ以来、あまりレスコー家とは付き合いがなく、工場が売りに出されているという話も、フランソワーズから偶然、聞いたのであった。
 会いたくない相手とはいえ、工場を手に入れる、絶好の機会を逃すわけにはいかない。ビルフランはすぐに、ロベールの元へと交渉へ向かった。


「ずいぶん、派手に仕事をしているようだね、ビルフラン」
 ビルフランが訪ねてきたと聞いて、玄関先に出てきたロベールは、そう切り出した。
「いえ、とんでもありません。なんとか村の皆さんのおかげで、やっていけている状態です」
「そんなことはないだろう。今日も、私の工場について聞きに来たんだろう」
 ロベールのほうから先に本題を持ち出してくれたおかげで、ビルフランは気が楽になった。
「はい。実はロベールさんが工場を売りに出しているという話を聞きましたので、譲っていただくとしたら、どの程度のお金が必要なのか伺おうと思ったのです」
「そうかい、じゃあ、立ち話もなんだ。中に入りなさい」
 ロベールの後をついて彼の仕事部屋に入ったビルフランは、改めてその金額を尋ねた。
「そうだねえ、一括でなら、このくらい、分割なら、頭金としてこれくらいかな」
 彼がさらさらと紙に書いた金額を見て、ビルフランは顔を曇らせた。相場を考えるなら決して高いとは思わないが、それでもやはり、ビルフランの今の貯えでは、荷が重かった。
「もう少し安くはならないでしょうか」
「わたしもボランティアではないからね。確かに古い建物だが、頑丈だし、土地と合わせて、その程度の価値はあると思っているよ」
 ロベールの様子だと、これ以上は絶対に下げてくれそうにはなかった。
「他に、あの工場を買いたいと言っている人はいるのですか」
「今のところはっきりはしないが、二、三の問い合わせは来ているな。まあ、はっきり買いたいと言う意思を持ってきたのは、君が最初だよ」
 それを聞いて、ビルフランは少し安心した。
「あと二週間待っていただけますか。なんとかして、頭金の分を用意しますから」
 ビルフランの言葉に、ロベールは首を振った。
「なあ、ビルフラン。これは商売なんだよ。君が頭金を用意する前に、もしも他の人が一括で買いたいと言ってきたなら、私はその人に売る。それが商売と言うものだ」
「しかし…」
「君は二週間と言った。なぜ、明日といわないんだい。それは、君には頭金分のお金もないからだろう」
 ロベールの言葉は事実であった。彼はさらに続けた。
「その君が、二週間後までに、頭金をきちんとそろえられると言う保証があるだろうか。少なくとも、私にはないね」
「それは、私が信用できないと言うことですか」
 ビルフランはロベールの言い方に少し腹を立てながらも、つとめて冷静に聞き返した。ロベールも、自分の返事が少し説明不足だったと思い、言葉を付け加えた。
「まあそういうことだな。といって、別に君の人格を疑うというわけじゃない。君の社会的信用、または経済的な基盤といってもいいが、工場を購入できるほどのものとは思えないという意味で、信用できないということだよ。それに、分割支払いにするなら、保証人がいなければいけないよ。君が後の支払いを滞りなく行える保証もないわけだからね」


 ロベールは結局、ビルフランに工場を売ると言う確約はしなかった。
 ビルフランが工場を買いたいなら、他の買い手がつく前に、頭金と保証人を用意すること、これが彼の言い分である。
「それは仕方がございません」
 ビルフランの説明を聞くと、セバスチャンはそう答えた。
「それで、どうなさるおつもりで」
 セバスチャンが尋ねると、ビルフランは先ほどから考えていた計画を話し始めた。
「とにかく、お金と保証人がいれば、問題はないんだ。それで、兄に相談しようと思っている」
「お兄様にですか」
「兄なら、パリで誰か、お金を融資してくれる人を知っているかもしれないからな。それに保証人の件も、兄に頼むつもりだ」
 しかし、ビルフランがパリに行くということは、その間、彼は仕事ができないことを意味する。
「それでは仕事のほうはどうなさいますか」
「大変だと思うが、しばらく君一人でやってくれ。できるだけ速く帰ってくるようにするから」
「承知いたしました。お気をつけて」
「いい返事を持って帰ってくる」


 ビルフランは、乗合馬車でパリへと向かい、フレデリックの勤めている事務所を訪れた。これまでも数回、仕事の話で訪ねたことはあったが、そのときはたいてい、前もって訪問の理由と日付を告げていた。突然訪れるのは、今回が始めてである。
 ビルフランの姿を見ると、フレデリックは驚いた顔をした。
「なんだ、おまえがわざわざパリまでくるなんて珍しいな。元気だったか」
「ええ、元気にやっています。兄さんのほうはどうですか」
「ああ、なかなか忙しいよ。しかしおまえが来るなら、スタニスラスを迎えに行かせたのに」
 フレデリックは三年前、パリでスタニスラスという女性と結婚していた。しかし、ビルフランはこの女性がなんとなく苦手であった。
「いいえ、義姉さんに迷惑をかけるわけにはいきませんよ。それに、すぐに帰らなくてはいけませんし」
「何か、急な用事なのか」
 フレデリックが尋ねると、ビルフランは改まって説明を始めた。
「先日、レスコーさんのところの工場が売りに出されたのです。それで、私はそれを買い取って、自分の仕事を拡大したいのですが、今の自分では資金が足りません」
 ビルフランは、話を聞いているフレデリックの顔が曇ってくるのが判った。しかし、ここまで来た以上、本題を話さないわけにはいかない。ビルフランはさらに続けた。
「レスコーさんは、分割でも良いと言っているのですが、そのためには、保証人をたてなくてはならないというのです。それで、兄さんに相談したいと思って、今日は訪ねたのです」
 そこで話をきると、ビルフランは兄の様子を伺った。フレデリックはしばらく難しい顔をしていたが、やがておもむろに答えた。
「確かに、おまえの言う話には、俺も興味がある。しかし、俺はおまえのためにお金を用意したり、保証人になったりはできないな」
 最初からいきなり断られたため、ビルフランはショックを受けた。しかし怯まずにさらに迫った。
「兄さんに余裕がないのでしたら、どなたか私にお金を貸してくれる人を紹介することはできませんか」
「難しいな」
「それなら、せめて保証人になってくれる人を…」
 なおも食い下がろうとするビルフランを押しとどめ、フレデリックは諭すように話し始めた。
「なあビルフラン。おまえが努力家で、真面目な奴だと言うことは俺が一番良く知っている。だが金を出すには、それだけではだめなんだよ」
「では、何が足りないんですか」
「社会的信用だ。おまえに金を貸す。それはいい。だが、工場の経営に成功して、貸した金を返せることを保証してくれる人物はいるだろうか」
 兄がロベールと同じことを理由に、融資を断るのを聞いて、ビルフランはさらにショックを受けた。
「俺はおまえのことを知っている。その知っている俺でさえ、この時代におまえが工場を成功させられるか不安に感じているんだ。その俺が、他の人におまえのことを紹介できるだろうか」
「そこをお願いしたいんですが…」
「なるほど、おまえに紹介してやれそうな人物は、確かに二、三人は知ってはいる。そしてそのうちの一人をおまえに紹介したとしよう。それでおまえが失敗した場合、おまえを紹介したということで、俺にも責任は出てくるんだよ」 「成功が義務付けられると言うのですか」
「まあ、そこまではいわないがね。おまえには成功する自信があるのかい。具体的に、どうやって工場を経営するつもりなのか、それをその人物に納得するように説明できるかい」
 確かにそのように迫られると、ビルフランも工場経営の具体的な計画を、説明する自信はなかった。
「せめて、その程度のことができなければ、金を貸してくれる人はいないな。もう少し落ち着いて、じっくりと考えてみることだ」
 ビルフランは自分の見通しの甘さを改めて思い知らされ、ハンマーで殴られたような感覚だけが残っていた。
「それで、今日はどうするんだ。うちに泊まっていくのか」
「…いいえ、仕事があるので、すぐに帰ります」
「そうか、力になれなくて悪かったが、元気でな。母さんにもよろしく伝えてくれ」
 ビルフランは、その言葉に力なくうなずいて、部屋を出て行った。

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