第四章 試練と前進

 ビルフランにとって、兄の言葉は確かにショックだった。しかし、いつまでも落ち込んではいなかった。
 彼はパリから帰ってくると、兄との交渉の経緯を、セバスチャンに詳しく話して聞かせた。
「兄の言葉は厳しかったが、目がさめる思いだったよ。確かに今の私では工場を持っても、成功させることは難しかったと思う」
「さようでございますか」
 融資は断られたが、意外にさばさばした表情で話すビルフランを見て、セバスチャンは安心した。だが、次のビルフランの言葉には、彼も驚いた。
「だから、改めて計画を立て直すことにした。そして工場を持つ前に、もっと今の仕事を拡大して、多くの人を雇おうと思う。そのときには君にも、何人かを受け持ってもらうことになるから、そのつもりでいてくれ」
「私が、でございますか」
「もちろんだよ。君は私と長いこと一緒に仕事をしてきた。だから、君は私が作る会社の重役の一人になってもらうつもりだ」
 セバスチャンはそれを聞くと、曖昧な表情でうなずいた。


 その後ビルフランは、今は工場を買い取ることができないことを伝えるため、ロベールの屋敷へと再び赴いた。


 ビルフランが訪れると、ロベールは中に通さず、玄関先で用件を尋ねた。
「今、ちょうど客人が来ているものでね。時間がかかるなら、後にしてもらいたいのだが」
「いいえ、実は先日の工場の件ですが、今回は見合わせることにしたことを伝えにきたのです」
 それを聞いても、ロベールは別に表情を変えはしなかった。
「なるほど、そのほうがいいだろうな。あの工場はまだしばらくは売れんだろうから、じっくり考えなおしなさい」
 なにか、当然のことのように話すロベールの態度が少し気に触ったが、ビルフランは礼を言い、立ち去ろうと後ろを向いた。
 しかしそのとき、家の中から別の声がした。
「なんだ、誰かと思えばパンダボアヌの末っ子じゃないか」
 その声を聞いて、ビルフランは一瞬、顔をしかめたが、すぐに落ち着いた顔で振り向いた。
 そこにいたのは、祖父と仲の悪かったジョゼフ・マイヤーという男だった。もし工場を売りに出した人物が、この男であったなら、ビルフランも決して買いにはこなかったであろう。
「マイヤーさん、お久しぶりです。お元気でしたか」
「別におまえに気を使ってもらうほど、耄碌はしておらんよ。それよりビルフラン、おまえは工場を買おうとしているようだな」
「そうしたいと思っていましたが、今回は止めることにしました」
「ほうそうか。パンダボアヌ家の者にしては、いい考えだ。また借金こさえた挙句に逃げ出したとなれば、おまえの母さんもこの辺じゃあ暮らせなくなる」
 明らかな嫌味に、ビルフランも腹が立ったが、他人の家の前でけんかをするのも失礼であると考え、怒りをこらえた。ジョゼフはビルフランが何も言わないので、拍子抜けしたのか、こんどはロベールに話し始めた。
「ロベール、あの工場を売りに出すのを止めはしないが、くれぐれも売る相手には気をつけるんだぞ。損をするのはおまえだからな」
 ジョゼフは露骨にビルフランの方を横目で見ながら、ロベールに忠告した。
「そんなことは、判っているさ。さあビルフラン、用件が済んだのなら、悪いが今日はもう帰ってくれないか。ジョゼフもこんなところでいつまでも話をしないで、部屋に戻ろうじゃないか」
 ロベールに促されるまでもなく、ビルフランはすぐに立ち去った。これ以上ジョゼフ・マイヤーに嫌味を言われるのは真っ平である。


 ビルフランはカレーに向かう道中も、ずっとジョゼフ・マイヤーに馬鹿にされたことに腹を立てていた。
「あんな男と交流があるなんて、やはりロベールから工場を買おうと思ったのが間違いだったよ」
「あんな男と申しましても、マイヤー家はこのあたりでは名家ですから、レスコー家としても無下にするわけにもいかないのではないでしょうか」
 セバスチャンがそのようにロベールを弁護するのを聞き、ビルフランは黙り込んだ。
 もちろん、ビルフランもそのくらいの事は判っているつもりだった。しかし、判るからと言って、それですべて納得できるわけではない。
 結局、カレーまでの道中、二人はあまり会話をしなかった。


 カレーの港につくと、二人はいつものようにアラン・ブルトヌーの事務所へと向かった。
 ビルフランがドアをノックして中に入ると、アランはいつもの快活さで出迎えた。
「ビルフラン、そろそろ来る頃だと思っていたよ。工場を買うとか聞いたが、うまくいきそうかい」
 相変わらず、耳が早い男だと思った。おそらく、姉の口から伝わったのであろう。
 姉のパトリシアは去年、アランと結婚して家を出たのである。それ以降も、ときどき母と手紙のやり取りをしていたので、その中に書かれていたのかもしれない。
 実際、このブルトヌーと言う人物は器用な男で、貿易だけでなく、海運業や保険業など、金になりそうだと思えばどんな仕事にでも手を出していた。
 「いつかはブルトヌー商会をフランス一の会社にする」というのが口癖であり、パトリシアもそうして口説かれたのである。
 しかし初めのうちは、やり手に見えた彼も、長く付き合っているうちに、口で言うほど儲けているわけではないことに気付いていた。
「なかなかいい物件だったんですが、お金が用意できなくて、今回は見送ることにしましたよ」
 ビルフランが答えると、アランはいかにも残念そうな顔をした。
「そうならそうと、早く言ってくれればよかったのに。俺が何とかしてやったものを」
 アランの意外な申し出に、ビルフランは目を丸くした。
「義兄さんがお金を貸してくれるんですか」
 彼が聞くと、アランは頭を振った。
「いや、俺は貸せないがね、おまえのためにうまく立ち回ってやれたということだよ」
「うまく立ち回る?」
「そうさ。世の中には、楽をして金儲けしたいと考えている連中がいるんだ。そうした小金持ちどもに儲け話だといって声をかければ、すぐに古工場の一つや二つ買えるくらいの金は手に入るのさ」
 もしビルフランが、最初にこの話を聞いていたなら、あるいは心を動かされたかもしれない。しかし彼は今や、ロベールや兄に指摘されたとおり、自分には社会的信用がまだなく、そして自分自身に工場を経営するための計画が固まっていないことを、知っていた。
 その自分が、アランを介してお金を手に入れるなら、相手を騙すことになるのではないだろうか。事実、アランの申し出を受け入れて、お金を手に入れたとしても、今の状態で、工場を成功させる自信はなかった。
「義兄さんの話はありがたいですが、私自身、もう少し勉強しなおしたいとも思ったんです。工場を持つのは、それからにするつもりです」
 ビルフランは慎重に断ったが、アランは気にする風でもなかった。
「そうか、なら仕方がないな。ところで話は変わるが、実は麻糸の相場が最近、上昇気味なんだよ。悪いが二割ほど卸価格を上げさせてもらうよ」
 アランがあまりにもあっさりと言ってのけたので、ビルフランも最初は何のことかわからなかった。
「どういうことですか?」
「聞こえなかったのかい。麻糸の卸値を二割増にするといったんだよ」
 突然の話で、ビルフランは頭が混乱してきた。
「そんないきなり…。せめて次からにはできませんか」
 ビルフランがそう懇願すると、アランは相変わらず平然とした様子で説明を始めた。
「なあビルフラン。俺はおまえのことが気に入っているから、他の連中より安く卸してやってきたんだよ。だがもう限界なんだ。他の客になら、おまえへの卸値の、四割から六割増はとっているところだ。そこを二割増に抑えてやるというのに、それもおまえは断ろうというのかい」
 そう言われては、ビルフランもそれ以上、反論はできなかった。
「…判りました。今日の分から二割増で結構です」
「おまえが物分りが良くて、俺も助かるよ。ブーローニュの屋敷に寄っていくかい。パトリシアもおまえが来たら喜ぶだろう」
 本当は、寄るつもりであった。母親から、姉宛ての手紙も預かっていたからである。しかし、今は寄る気にはなれなかった。
「いいえ、すぐに戻らなくてはなりませんから。姉には母からの手紙を預かってきたので、渡しておいてください」
 ビルフランは代金を支払い、麻糸を受け取ると、すぐにマロクールへと出発した。
 帰り道でも、ビルフランはしばらく黙り込んでいた。セバスチャンも、来る途中でビルフランの機嫌を損ねる発言をしてしまったため、同じように黙ったままであった。
 やがて、おもむろにビルフランが口を開いた。
「考え込んでいてもしょうがない、か。相場の上下は当然だからな」
 独り言なのか、それとも自分に話しているのか図りかねたセバスチャンは、黙ったまま馬を駆りつづけた。
「セバスチャン、どうやら私はついているらしいよ」
「はあ、さようでございますか」
 突然の発言に、セバスチャンは驚いた。工場は持てず、麻糸は値上げする。なぜそれでついているのだろう。
 ビルフランはセバスチャンの横顔で、彼が不審に思っていることに気付き、説明をはじめた。
「だってそうだろう。もしも兄さんが金を出してくれたなら、私はすぐに工場を手に入れていた。だがその直後に麻糸に値上げされたなら、わたしは瞬く間に破産したかもしれないよ」
「なるほど、そうでございますな」
「それにだ、先にアラン義兄さんに相談していたとしても、私は胡散臭い仕方で、お金を借りることになったかもしれない。どちらにしても、私は困った立場に追い込まれただろう」
 ビルフランはセバスチャンに自分がついている理由を説明したが、それは同時に自分に対する言葉でもあった。
 今ここで落ち込んだところで、どうなるものでもない。それよりも今回の一連の出来事から、教訓を学び、今後の糧とすべきである。そう思うために、口に出して説明したのである。
「さあ、これからは会社としての組織を作らなければならない。工場を持つのはそれからでも遅くはないさ」
 ビルフランが大声で叫ぶと、セバスチャンもそれに応じた。
「さようでございます。ビルフラン様なら、かならず会社をお作りになれましょう」
 しかしその会社の中で、自分がどんな位置を保てるというのだろう?セバスチャンは心の隅でそう思った。

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