第五章 支援

「ビルフラン!」
 マロクールを出発したビルフランを呼び止めたのは、フランソワーズであった。彼は荷馬車を止めて振り向いた。
「どうしたんだい。そんなに慌てて」
 走って後を追いかけてきたフランソワーズの顔は、少し怒っていた。彼女は呼吸を整えると、ビルフランを詰った。
「あなた、いつまでオーレリーを放っておくつもりなの!」
「何を言っているんだ。きちんと順を追って話してくれ」


 それは、ビルフランが27歳になった年のことであった。ビルフランは、ロベール・レスコーの工場の一件以来、それまで以上に仕事に没頭していた。さらに空いたわずかな時間には、会社を経営するために必要な知識を得るための勉強を惜しまなかった。
 そしていまでは十人余りの人を雇い、会社組織としての体裁を整えつつあった。
 しかしその代償として、互いに想い合っているはずの、オーレリーとの交流の時間が大幅に減っていたのである。
 それを見かねたフランソワーズが、自分の仕事の合間を見つけて、ビルフランに一言文句を言いに来たというわけである。


「あの子ももう26になるのよ。あなたが結婚しなければ、婚期を逃してしまうわ」
 フランソワーズ自身は、三年前に結婚しており、すでに一人目の子供を産んでいる。
 彼女はさらに言葉を続けてビルフランの薄情をなじり、婚約するか、しないのかをはっきりさせるように迫った。
 彼女の話が終わったのを確認すると、ビルフランは返事をした。
「もちろん、私はオーレリーと結婚する。そして今はそのための自分の足元を固めているんだ。彼女だって、そのことはわかってるはずだ」
 フランソワーズは、そう言い切るビルフランの態度に絶句した。
「まだ用事があるなら、私はもう行かなければならない。
 立ち尽くすフランソワーズを残し、ビルフランは再び荷馬車を走らせた。


 ビルフランが仕事に夢中になる理由を知っているフランソワーズとしては、彼に仕事を減らせということはできなかった。しかし、オーレリーの事をこのまま放っておく訳にもいかない。
 彼女はいろいろ考え事をして来た道を帰っていたため、前から別の馬車が走ってくるのに気付かなかった。
「危ないっ!」
 掛け声に驚いたフランソワーズは、目の前に馬車が迫っているのに気付き、道路わきに倒れこんだ。
 少し先で馬車が止まり、乗っていた男が彼女の無事を確認するために降りてきた。
「ぼうっと歩いていると危ないぞ…。怪我はなかったか」
「ええ、大丈夫ですわ」
 フランソワーズが立ち上がって相手を見ると、それはロベール・レスコーであった。
「宿屋の若おかみが、こんなところでなにをしているんだ」
「いえ、別に…」
 彼女が立ち上がり、どこも怪我をしている様子がないのを見ると、ロベールは安心した。
「いまここを、ビルフランが通っただろう。彼に用事でもあったのか」
 フランソワーズは、ビルフランがロベールのことを嫌っているのを知っていた。そのため、彼がビルフランのことを尋ねるのが不思議に感じた。
「ロベール様にお話するほどのことではありませんわ」
「そうか。では怪我がないようなら、私は急ぎの用があるので失礼する。もし後でどこか痛くなったなら、今日の夕方には家に戻っているはずだから、うちに来るといい」
 そう言ってロベールは立ち去ろうとしたが、ふと何かを思い出したように立ち止まり、再びフランソワーズの元へ戻ってきた。
「おまえはビルフランが、ソニアの娘と結婚する気があるのか、知っているか」
 たった今、ビルフランに聞いたばかりの話を、ロベールが尋ねてきたため、フランソワーズはさらに不審に思った。
 普段なら、彼に詳細を伝えようとはしなかったかもしれない。しかしその日はビルフランに対する腹立ちも手伝い、また彼女が見る限り、ロベールという人物がビルフランの言うほど悪い人だとは思えなかったため、今しがたビルフランの口から聞いた話を、ロベールに話して聞かせた。
「ビルフランはその気があるみたいですが、自分の足元を固めてからだとか何とか言って、先延ばししているようですよ」
「ああそうか。結婚する気はあるんだな」
 ロベールはそれだけ聞くと、今度は振り向きもせず、馬車に戻って、そのまま走り去っていった。
「なんなのよ、一体」
 フランソワーズは一人残されて、しばらくそこで呆然としていた。


 ビルフランはカレーに到着すると、すぐに買い入れる麻糸の品定めをはじめた。
 彼が翌日の昼近くまでかかって、仕事を一通り済ませたとき、彼の名を呼ぶ声がした。振り向いて周囲を見回すと、少し離れたところに、身なりの良い紳士が立っていた。
 ビルフランは、その人物が誰かを理解すると、驚いて姿勢を正した。
「これはジュリアン様、このような場所でお会いになるとは、驚きです」
 ビルフランに声をかけた人物は、ジュリアン・タランベールといい、ピカルディ地方でも一、二を争う名家の御曹司であった。数年前に一度だけ、顔を見たことがある。
 御曹司といっても、もう若くはない。親が健在でまだ家督を継いでいないと言うだけで、すでに三十代半ばのはずである。軍に入隊し、外国へ行っていたと聞いていた。そのジュリアンが、なぜわざわざカレーなどに来ているのだろう。
 その疑問に答えるかのように、ジュリアンはビルフランに話し掛けた。
「一週間ほど前から休暇で帰っていてね。今日は少し遠出をしようと思って、こちらまで足を伸ばしたのさ」
 気さくに話し掛けてくるジュリアンを、ビルフランはますます不審に思った。彼とは初対面と言ってもよい。しかも立場も違う。ビルフランの方からジュリアンに接近したいと思う理由はあっても、彼のほうから積極的に自分に近づいてくる理由がわからなかった。
「あの、何か私に御用でしょうか」
 世間話をするジュリアンに対して、ビルフランは思い切ってそう尋ねた。
「ああ、君は今の世界の動きを知っているかい」
「はあ、多少は聞きかじっておりますが」
 ジュリアンは、海の向こうを眺めながら話していた。その先にイギリスがある。
「エジプトでは、我がフランスはイギリス他の四国に出し抜かれた。はるか東方のシンでも、イギリスは強引な戦争をして、戦果を上げようとしている」
 確かに、そうした話はビルフランも聞いている。しかし、それが自分とジュリアンをどのように結びつけると言うのだろうか。
 ビルフランの疑問を無視するかのように、ジュリアンはさらに話を続けた。
「イギリスがあれだけ活発に動けるのは、それだけ国力があるからだ。彼らは自らの産業を発展させ、それにより大いに富んでいるからだよ」
 そこまで言うと、ジュリアンはビルフランの方へ再び顔を向けた。
「フランスはイギリスの後塵を拝している状態だ。現状を変えるには、我が国も自国内の産業をもっと発展させなくてはならない。そのことに気付いているものもいるが、残念ながら私の地元では、まだ旧態依然の産業形態に甘んじている」
 ジュリアン・タランベールの地元とはつまり、ピカルディ地方を指しており、そこにはマロクールも含まれている。ビルフランは、ジュリアンの言わんとすることがおぼろげながら判りかけてきた。
「確かに、古いやり方になれている人にとって、新しい形態の産業に手をつけることは、冒険と言うよりも無謀なことに思えるようです」
 ビルフランの返事は、実感がこもっていた。事実、ビルフランも自分の仕事を拡大する上で、そうした声を耳にすることが多くあったのである。
「私としては、ピカルディに近代的な産業を興そうという考えをもつ者は、いないのかと残念に思っていたのだ。だが、君の事を聞いたので、こうして話を聞きにきたのだよ」
 ジュリアンはビルフランの顔を見ながら、いったんそこで話を切った。
 ビルフランは、自分の心臓が高鳴っているのが判った。これまで、地元の有力者は、ビルフランの行っていることをほとんど無視していた。それなのに今、タランベール家の世継ぎが、自分にこれほど興味を示しているのである。
 今、自分から何かを言わなければならない、そう考えながらも、言うべき言葉が思い浮かばなかった。
 やがてジュリアンが再び問い掛けてきた。
「君は以前、工場を持とうとしていたと聞いたが、本当かね」
「は、はい。しかし私自身に問題があったため、そのときは見送ったのです」
「では、まだ工場を持とうと言う気持ちに、変わりはないのかい」
「はい。しかし私自身の今の貯えでは工場を持つことはできません。前のときは、兄に保証人になってもらい、お金を借りようと思ったのですが、断られてしまいました」
「なるほど。それで、君は工場を持ったなら、どのように経営するつもりかい」
 ビルフランにとって、その質問の答えは、この二年間考え続けたものであった。彼は慌てて話そうとしたが、ジュリアンはそれを止めた。
「ああ、その様子ではかなり練りこんでいるようだね。今ここで聞くよりも、別な日に改めてゆっくり聞くとしよう。三日後の午後は空いているかい」
「あけます、他の用事があってもキャンセルします」
「そうか、それならぜひ我が家に来たまえ。奥さんも連れてくるといい」
 ジュリアンがそう勧めると、ビルフランは複雑な顔をした。
「ありがとうございます。しかし、私はまだ結婚はしておりません」
 それを聞いて今度はジュリアンが不審な顔をした。
「ほう、君はもう二十代も半ばを過ぎているのだろう」
「今年、二十七になりました」
「ならばもう、とうの昔に結婚して、子供の一人もいてよい年頃だろう。仕事が忙しくて、相手を探す暇がなかったというのなら、私が紹介してあげようか」
 ビルフランはジュリアンの申し出に驚いて、説明した。
「いえ、心に決めた相手はいるのです。ですが、もう少し私の仕事を軌道に乗ってからと思い、待ってもらっているんです」
 その説明を聞いて、ジュリアンは少し顔をしかめた。
「なるほど、君は君なりに相手を思いやっているのだな」
「そのつもりです」
「だがそれは君の独り善がりだな」
 ジュリアンからそう決め付けられて、ビルフランは不快になった。
「なぜ独り善がりだというのですか」
「だってそうだろう。相手だって、君のことを愛しているのだろう。ならば、君の助けになり、苦労も共に分かち合いたいと思うのが普通ではないかな」
 ビルフランは言葉に詰まった。しかし、ジュリアンはさらに言葉を続けた。
「それとも、君の愛している女性は、楽に暮らせるようになってから結婚したいとでも、言ったのかい」
「…いいえ、そんなことを言う女性ではありません」
「それなら、早く結婚したほうがいい。第一、君と働こうという人たちも、君が女性一人養う自信がないのだと思えば、自分たちの将来に不安を感じるんじゃないかな」
 そう言われると確かにそんな気がしてきた。
 ビルフランは、ジュリアンが親身になって自分に助言してくれているのが判った。これまでビルフランには、仕事上のことで、親身になって自分に助言を与えてくれる人は、ほとんどいなかった。
 母親は仕事のことにはほとんど口を挟まない人であったし、セバスチャンもビルフランの行うことに、まず異議を唱えることはなかった。実兄のフレデリックとは離れて暮らしているため、たまに会うときも、表面的な意見を交わす程度であったし、義兄のアランとは色々と話をしても、親身になって助言をしてくれているとは言い難かった。
「まあ、本来なら結婚をする、しないというのは、君個人の問題だ。もし私の意見が君にとって不愉快なものだったなら、謝ろう。それでも、そういう見方をする者もいる、ということを忘れないでくれ」
「いいえ、大変勉強になりました。今日はありがとうございます。三日後の午後、必ずお伺いします」
 ビルフランが礼を言うと、ジュリアンは微笑みながら去っていった。

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