第六章 ビルフランの求婚

 ビルフランは、自分の考え方を他人の意見で、簡単に左右させる人物ではなかった。といっても、決して人の意見を軽視するという訳ではない。むしろ、決定する際には、多くの人に意見を求めることが多かった。しかし、最終的に決定を下す責任は自分自身にあり、他人の意見は決定のための判断材料にすぎないことを、よく知っていたのである。
 しかし、今回の件は特別であった。
 もちろんジュリアン・タランベールは、ビルフランに結婚を強制したわけではない。しかしビルフランはそれまで、同じように他人からオーレリーと早く結婚するようにと言われても、決してそうしようとは考えなかったのに対して、ジュリアンから同じ事を言われたとき、それをすんなりと受け入れることができたのである。
 このことをビルフラン自身、非常に驚いていた。
 実を言えば、ビルフラン自身も最近では、オーレリーとの結婚を早めた方が良いのではないかと、心の奥底で感じていたのである。
 しかしオーレリーや周りの人に対して、自分が成功して、彼女に苦労をかけずにすむようになってからでなければ、結婚はしないと宣言していた手前、今の状態で彼女と結婚することはできないと、頑固に思い込んでいた。それを破るなら、自分のプライドに傷がつくと考えたのである。
 しかしジュリアンは知ってか知らずか、ただオーレリーの感情を考慮することだけではなく、ビルフラン自身の仕事の上からも、早めに結婚した方がよいことを論じることで、彼が自分のプライドを傷つけることなく、彼女と結婚するための道を開いたのである。
 実際ビルフランは、自分とオーレリーの関係を詳しくは知らないジュリアンの言葉だからこそ、素直に受け入れることができたのであった。
 このため今では、オーレリーをこれ以上待たせず、正式に婚約しようと心に決め、馬車をマロクールへと向けて急がせていた。


 フランソワーズは、店の前の掃除をしながら、まだビルフランのことで腹を立てていた。
「まったく、あの人はこうと決めたら人の言うことを聞かないんだから。なんて頑固なんだろう」
 ぶつぶつ言いながら掃除をしていると、深刻な顔をしたオーレリーが、両手に荷物を抱えて、少し先の道を早足で歩いているのが見えた。
 いつもなら自分に声をかけていくのに、といぶかしんで目で追っていると、彼女は角の家のドアを叩き、中に入っていった。
「あの家は…」
 フランソワーズは驚いた。その家にはオーレリーの三つ年下で、やはりまだ結婚していない、レーモンという若者が、親と住んでいるからである。
 好奇心も手伝い、彼女はしばらく店の前で掃除をするふりをして、彼女が再び出てくるのを待った。


 ジュリアンとの出会いの後、少し寄り道をしたため、ビルフランはいつもより遅い時間にマロクールに到着した。
「今日は遅うございました。何かおありになりましたか」
 事務所代わりに使っている、家の脇の物置で、セバスチャンが出迎えた。彼はこちらでの仕事をすでに終えており、ビルフランが帰ってくるのを待っていたのである。
「カレーでタランベール家の御曹司に会った」
 セバスチャンも、タランベール家のことは知っている。しかし、まさかビルフランが彼と話をしたとは思わなかった。
「お見かけしたのでございますか」
「いや、私に向こうから話し掛けてくれたのだ」
 それを聞いてセバスチャンも驚いた。
「向こうから、でございますか」
「ああそうだよ。ジュリアン様は、私が行っている仕事のことをよくご存知で、お褒めになったくださった。しかも私が工場を持とうとしていることも知っていて、そのことについて改めて聞きたいと、私を招待してくださったのだ」
「それはなんとまあ、大変よろしゅうございました」
 セバスチャンはビルフランの話に驚きながらも、彼と一緒に喜んだ。しかし彼がもっとも驚いたのは、ビルフランの次の発言であった。
「私はそのときに、婚約者としてオーレリーを連れて行くつもりだ」
「それは…左様でございますか。しかしまだご婚約はされていないのでは」
「ああ。だからこれから、正式に申し込んでくる。後の片付けはやっておいてくれ」
 呆然とセバスチャンが立ち尽くすのを尻目に、ビルフランは軽い足取りで小屋を出て行った。


 ビルフランがオーレリーの家に向かう途中、向こうからフランソワーズが駆けてくるのが見えた。
「やあフランソワーズ。そんなに急いでどうしたんだ」
 最近、フランソワーズとは同じような出会い方をするな、などとのん気なことを考えていたビルフランとは裏腹に、フランソワーズは彼を見つけると、顔を強張らせながら詰め寄った。
「あなたが悪いのよ!あなたが彼女をいつまでも放っておくから!」
「何の事だ。彼女って、オーレリーのことか」
「他に誰がいるのよ。さっき、あのこがレーモンのところへ入っていくのを見たのよ」
「入っていくところを見たって…。別に、レーモンに会いにいったとは限らないだろう」
 レーモンの母親とソニアは親しい間柄である。オーレリーが母親に頼まれて、レーモンの家に行くことくらい、今までもあったことである。
 しかしビルフランの言葉を、フランソワーズは鼻で笑った。
「そんなのん気なことを言っていていいの。手遅れになっても知らないわよ」
「手遅れって、なんだよ」
 ビルフランが不機嫌な返事を返すと、フランソワーズも負けじときつい口調で言い返した。
「文字通りよ。オーレリーが、仕事に夢中なあなたを諦めて、レーモンに乗り換えるということ」
 今度は、ビルフランが鼻で笑った。
「オーレリーがそんなことをするものか」
「だけど、オーレリーはとても悩みながら彼の家に行ったわ。だけど、出てきたときは、とても晴れやかな顔だったのよ」
 フランソワーズが真剣な顔で言うのを聞いて、さすがのビルフランも少し心配になってきた。
「オーレリーと私の交際は、親も認めている。いまさら、他人に入り込む余地はない」
 虚勢を張って答えたが、フランソワーズはさらに彼の痛いところをついた。
「あら、だってあなたはまだオーレリーに婚約も申し込んでないじゃない。あなたにオーレリーを縛る権利はないのよ」
「君は私の味方なのか、それともレーモンの味方なのか、どっちなんだ」
 ビルフランはいらいらして大声を出した。だがフランソワーズの方は冷静に返事をした。
「私はオーレリーの味方よ。彼女が幸せになるのなら、その人の応援をするわ」
「私が幸せにしてみせる」
 先ほどとは打って変わって、低い声でビルフランがつぶやくと、フランソワーズは馬鹿にしたように彼を責めた。
「婚約もせずに十年も待たせておいて?」
「婚約するんだよ。これから、オーレリーに正式に申し込みに行くつもりだ」
 ビルフランがそう宣言するのを聞き、フランソワーズは唖然とした。
「あなた、つい数日前までは、まだ婚約しないといっていたじゃない」
「あの時はあの時、今は今だ。私はこれからオーレリーのところへ行く」
 フランソワーズはさらに何かを言おうとしたが、ビルフランはそれを無視して、オーレリーの元へと走って向かった。
「大変だわ!」
 フランソワーズも慌てて彼の後を追ったが、瞬く間に引き離されてしまった。


 ビルフランがオーレリーの家にたどり着き、扉を叩こうとしたとき、隣の家のおかみさんが顔を出した。
「おや、ビルフランじゃないか。今日はその家は留守だよ」
「どこへ行ったか知っていますか」
「確かソニアは隣町の親戚のところへ行くと言っていたねえ。オーレリーはたぶん、アニスの家だろうよ」
 アニスはレーモンの母親である。つまり、オーレリーはレーモンの家に行っているということである。
 ビルフランはそれを聞いて、すっかり頭に血が上ってしまった。


「レーモンはいるか!」
 ビルフランはレーモンの家に着くと、扉を激しく叩きながら彼を呼んだ。
「なんだい、ビルフランさんじゃないですか。そんなに慌ててどうしました」
 中からレーモンが笑顔で出てきたとき、ビルフランは理性の糸が切れてしまった。
「おまえ恥ずかしくないのか!オーレリーと私の仲を知りながら…」
 ビルフランの剣幕に、レーモンはすっかり驚いた。
「ちょっと待ってください。何か勘違いをしていませんか」
 レーモンが説明をしようとしたとき、彼の後ろからオーレリーが顔を出した。
「あら、大きな声がすると思ったらビルフランが来ていたのね」
「オーレリー!君は、君は何だって…」
 オーレリーを詰問しようとしながらも、彼女の全く影のない笑顔を見たとき、ビルフランの頭は混乱してしまった。
 なぜ私はオーレリーを責めようとしているんだろう?もし彼女が私に後ろめたいことをしているなら、こんな顔を私に向けるだろうか?
 ビルフランの様子がおかしいので、レーモンとオーレリーが顔を見合わせていると、彼の後ろからフランソワーズが息を切らせて走ってきた。
 家の中にいる二人の目が彼女のほうを向いたため、ビルフランも後ろを振り向いた。
「フランソワーズ!これはどういうことだ!」
「あな、たが、最後まで、聞かず、に、走り、出す、から…」
 息も絶え絶えに、フランソワーズが話すと、オーレリーもフランソワーズがビルフランに何かを言ったのだと、察しがついた。
「フランソワーズ、あなたビルフランに何を言ったの」
「彼が、あなたとの、結婚を、あまりに、先延ばしをするので、少し、焦らせてやろうと、思ったのよ」
 呼吸を整えながらフランソワーズが答えると、オーレリーはあきれ、ビルフランは怒った。
「何て馬鹿なことを!いい年をして!」
 ビルフランがそう怒鳴ると、フランソワーズも負けじと言い返した。
「まさかあなたが、オーレリーへ求婚しにいくところだなんて思わなかったから…」
 フランソワーズの言葉に、ビルフランは赤面した。
 本来なら、もっと静かなところで、二人きりで求婚するはずだったのである。
 それがこんなそうぞうしい事態の中で、しかも本人の前でそれをばらされるなんて、ムードも何もあったものではない。
 オーレリーもフランソワーズの言葉に驚いていた。
「ビルフラン、フランソワーズの話は本当ですか」
 ビルフランは視線をそらした。何もこんな人前で、しかも心の準備もしていないのである。
 しかしオーレリーは、それまでの笑顔を消して、真顔で返事を迫っていた。実際、彼女をこれ以上待たせるのは酷だと思った。
「…フランソワーズの言うとおりだ。今日は君に結婚を申し込むつもりで来たんだ」
 憮然とした表情でビルフランがつぶやくと、しかしオーレリーはとても晴れやかな顔になった。
「本当に、正式に申し込んでくれるのね」
「ああ、日取りなんかも、これから相談しないといけないな」
 なにか仕事の話でもするかのように言ってから、改めて大本の疑問に戻った。
「ところでオーレリー。君は何でレーモンの家にいたんだ」
 ビルフランがやきもちを焼いているのに気付き、オーレリーは微笑みながらレーモンの方を向いた。
 レーモンは、あまり話して欲しくないような素振りを見せたが、変な誤解を受けても困ると思い、自分でビルフランに明かした。
「実は、オーレリーさんが、アンナと親しいと聞いたので、彼女との仲を取り持ってもらおうとお願いしていたんです」
 つまりレーモンの本命は、アンナという女性だったのである。
 続きをオーレリーが説明した。
「それで、私は彼に、本当に彼女が好きなら、他人にお願いするんじゃなくて、自分で言いに行きなさいと諭していたのよ。それで、彼に彼女の好みを教えていたと言うわけよ」
 疑念も蓋を開ければ何のことはない。ビルフランも判っていたつもりだったが、すっかり拍子抜けしてしまった。
「だけど、このことはフランソワーズも知っていたはずよね」
「それは謝るわ。だけどそうでもしなければ、この人はあなたをいつまでも放って置きかねないと思ったのだもの」
 確かにビルフランも、その点は反省していた。彼としては放っておくつもりではなかったが、結果としてそうなったのは事実だからである。
「フランソワーズ、今後はそういう類の気の回しようは止めて欲しい。余計な混乱を招くだけだ」
 ビルフランはそういっただけで、それ以上フランソワーズを責めることはしなかった。
 なによりビルフラン自身が疲れていたのである。

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