ときめきメモリアルショートストーリー

魅惑の香水


第三話『悩める少年』の巻

【前回までのあらすじ】

 紐緒結奈に頼み込んで惚れ薬を作って貰った早乙女優美は、憧れの先輩を学
校の屋上に誘い出し、惚れ薬をたっぷりふりかけたお弁当を食べさせた。お弁
当を食べた彼は惚れ薬の作用で優美に対して欲情して押し倒してしまう。そし
てたまたま屋上にやってきた詩織にその場面を目撃されてしまった。
 その結果、彼が屋上で優美を押し倒そうとしたことはたちまちの内に学校中
の噂になってしまい、彼に対する悪い噂が流れ、彼に憧れていた女の子たちの
間では相次いで爆弾が点灯したのであった。


 ここで少し、この時結奈の作った惚れ薬について考察してみたい。結奈の作 ったのは厳密には惚れ薬もどきであり、擬似的に惚れ薬のような働きをする薬 である。  彼女の言葉によると、ある香りを好むように相手の男の嗜好を変化させる薬 に、更に性欲を増進させる薬を調合したものであるらしい。さて、これは一体 どういうものであろうか?  性欲増進剤については問題はないだろう。古来よりすっぽんの生き血、いも りの黒焼き、まむし酒、ガラナチョコなど精力を増進させる薬はいくつも知ら れている。結奈の作った性欲増進剤はこれらのものを化学的に分析して合成し たものであると考えてほぼ間違いないと思われる。  問題は嗜好を変化させる薬だ。果たして人間の嗜好をコントロールするとい うようなことが出来るものだろうか? そもそも人間の嗜好というものがどう いうところから来るか、というのもあやふやでよく判らないのだ。それは遺伝 的なものもあるかも知れないし、生まれてからの環境や経験に依存するものも 多いだろう。  しかもこの時の香りはコーヒー好きの人がコーヒーの香りを好むとかそう言 ったレベルのものではない。ドラえもんがドラ焼きに、ハクション大魔王がハ ンバーグに、怪獣ブースカがラーメンに惹きつけられるような強烈な作用を彼 に及ぼしたのだ。  普通の人間は好きな香りが漂ってきたからといって、こんな顕著な反応を示 すことは滅多にないだろう。一体結奈はどのような手段によってそのような薬 を作り出したのであろうか?  ここで人間を離れて動物界に目を向けて見よう。動物の世界には特定の動物 が反応する特定の香りというものが確かに存在する。その一番有名な例が猫に 対するマタタビであろう。  またある種の動物の場合、雌の分泌するフェロモンに惹かれて雄が寄ってく るという現象も存在する。だがそのフェロモンは通常、人間に対しては効き目 がない。怪しい通信販売等で、いかにも効果があるかのように宣伝して売られ ていることもあるが、そんなものは嘘八百であることは言うまでもない。  だが、もし特殊な薬物を服用させることにより、嗜好を一時的にでも他の動 物の嗜好に近いものに変化させることが出来たとしたらどうであろう? もし 猫の嗜好を人間に植え付けることが出来れば、その薬を投与された人間はマタ タビに対して顕著な反応を示すようになるだろう。フェロモンに関しても同様 である。  人間の嗜好を他の動物のものに、例え一時的にであれ変化させる……、そん なことが可能なのかどうか、これは筆者にも判らない。しかし結奈は科学のあ らゆる分野で当時の世界の水準を遥かに越えていたことは、科学界の常識であ る。結奈の卒業後の業績を見てもそれは明らかであろう。彼女がバイオテクノ ロジーで作り出した新生物などは、世界中の科学者が頭脳を結集しても未だに 作り出せないでいるのだ。それらのことを考えあわせると結奈が人間の嗜好を コントロールする薬品を作り出したとしても、さほど驚くに値することではな いと思えるのだ。  もしかすると結奈は非才な筆者には想像し得ないような、とんでもない方法 によってこれを実現したのかも知れない。とにかく結奈の作った薬はこの時驚 くべき効果を発揮したのであった。                  * 「おいっ!」  バンッと机を勢いよく叩いて、彼に話し掛けてきたのは早乙女好雄だった。 ぼんやりと窓の外を眺めながら考え事をしていた彼は驚いて好雄の顔を見上げ た。好雄はいつものちゃらんぽらんな調子からは想像もつかないような真剣な 顔つきである。 「俺はおまえをずっと親友だと思っていたが、いくら親友でも許せることと許 せないことがあるぜ。」  好雄は出し抜けにこう切り出した。その目には怒りをこらえたような色が漂 っている。 「な、なんのことだ?」 「おまえ、一体優美に何をしたんだ?」 「何って……。」 「噂を知らないとは言わせないぞ。」 「あ、あれは誤解だ……。」 「誤解だと?? 藤崎ははっきりお前が優美を押し倒したところを見たそうじ ゃないか? 優美が自分で言うならともかく藤崎が言ったんだぜ。公平に考え てお前の言葉と藤崎の言葉とどっちが信用出来るか、そんなの判りきったこと だろ?」 「だ、だからそれが誤解なんだ。」 「だからどこが誤解なんだ……。」 「そ、それが……、俺にもなにがなんだか判らないんだ。」 「おいっ、そんなごまかしは通用しないぜ。そりゃ、お前が優美に惚れてるっ てんだったら恋愛は自由だから、俺は何も言わないさ。だが優美はまだ子供だ。 やっていいことと悪いことがあるだろう?」 「・・・。」 「あんな奴でも俺にとっては大事な妹なんだ。もし真剣に付き合う気持ちがな くて、弄んでるだけだったとしたら、いくらお前でも俺は絶対許さないぞ。」  好雄の激しい口調に、彼はたじたじとなってしまっていた。 「言いたいことはそれだけだ。じゃあな。」  それだけのことをいうと好雄はくるっと背を向けてその場を立ち去って行っ た。                    * 『あああ、俺は一体どうなってしまったんだ……、詩織や虹野さんならともか く、よりにもよって優美ちゃんを押し倒してしまったなんて……。』  優美と一緒に屋上でお弁当を食べたあの日以来彼の苦悩の日々は続いていた。 あれ以来、詩織は口を聞いてくれなくなった。隣同士、同じクラスということ で顔を合わせる機会はあるのだが、彼が話し掛けようとしても鬼のような形相 で彼を睨みつけるとぷいとその場を立ち去ってしまうのだ。  それは詩織ばかりではなかった。今まで帰宅時に一緒に帰ったり、時々はデ ートに出かけていた何人かの女の子たちの態度も、詩織と同様に彼に対して非 常に冷たくなってしまった。  それも無理のないことかも知れない。彼は屋上で優美を相手に不純異性交遊 まがいのことを行い、よりにもよって詩織にその現場を目撃されてしまったの だ。 “卒業式の日、校庭に立つ一本の古木の下で女の子からの告白で生まれた恋人 たちは永遠に幸せな関係になれる。”  きらめき高校ではこういう伝説が代々伝えられていて、多くの生徒たちがこ の伝説に胸をときめかせている。伝説に自分自身を重ねあわせてロマンチック な気分に浸るのが、きらめき高校の女生徒たちの楽しみの一つなのだ。中には この伝説に惹かれて入学してくる女生徒もいるらしい。  その為、多くの女の子たちは卒業の日までは、好きな相手にはっきりとした 意思表示はしないし、男の方からも告白されることを望まないような風潮があ るのだ。当然、男子生徒も卒業の日、女の子からの告白を受ける前にはどんな に好きな相手がいてもはっきりとした意思表示をしないことが暗黙の了解とな っている。 で、あるにも拘わらず、そんな女の子たちの気持ちを無視して、意思表示をし てしまうような男は女の子の気持ちを考えない自分勝手で浅はかな男であると いう烙印を押されてしまうことを免れない。それどころか不純異性交遊にまで 及ぶとなれば、鬼畜呼ばわりされても文句は言えなくなってしまうのだ。  女の子たちの間で自分に対する悪い噂が流れているらしいことを、彼ははっ きりと感じ取っていた。それは噂に聞く“爆弾点灯”という状態と酷似してい た。 『本当に俺に対して女の子たちが爆弾を抱えてしまったんだろうか……。』  それを思うと心が寒々と冷えこんでいくような気分に襲われた。  “爆弾”それはきらめき高校の男子生徒たちがなによりも恐れる現象なのだ。 きらめき高校では女の子が男子生徒に悪い感情を持つと、爆弾点灯と言うよう に表現される。他の高校でそのような表現方法をしているという話は寡聞にし て聞いたことがないので、これはきらめき高校独特のローカルな表現だろう。  そしてそれが頂点に達して爆発という現象にまで発展すると、女の子の好感 度が一気に下がってしまい、こと恋愛に関しては致命的なことになってしまう のだ。かつて爆弾の破裂に見舞われて悲惨な高校生活を余儀なくされた先輩の 噂は男子生徒の間で秘かに語り継がれ、彼らの心胆を寒からしめていた。  最近の女の子たちの彼に対する接し方を見ているともしかすると爆弾のうち いくつかは爆発してしまっているのかも知れなかった。  もし爆弾が爆発すれば好雄からそれとなく情報が入るようになっているのだ が、最近は好雄との仲もぎくしゃくしてしまっている。 『それにしても何故自分はあんなことをやってしまったのだろう……。』  思考はその一点で堂々巡りを続けている。彼は自分の心の中を隅々まで探っ てみたが、自分が優美にああいうことをしてしまった理由がどうしても判らな かった。それはいくら考えても決して解けない難問だった。  少なくとも優美に恋愛感情を抱いているという自覚は皆無なのだ。彼は藤崎 詩織、虹野沙希、紐緒結奈、古式ゆかり、如月未緒、美樹原愛、など何人もの 女の子と友達以上恋人未満のような交際を続けており、優美も一応その中の一 人ではあったが、優先順位で言えばかなり下の方でしかない。あくまで優美は かわいい妹的な存在なのだ。  しかも優美は高校生とは言ってもまだまだ子供っぽくて色気などこれっぽっ ちも感じさせないような女の子で欲情の対象になるとは考えられなかった。 『もしかすると俺は二重人格だったんじゃ……。俺の中にもう一人の俺がいて その俺はバリバリのロリコンで優美ちゃんみたいなタイプに欲情する……、と か……?』  そういう可能性ももしかするとあるのだろうか……? しかし二重人格の場 合もう一つの人格が目覚めた時にはその間の記憶は無くなるんじゃなかったっ けか? あの時の俺の意識は朦朧としてはいたものの、はっきりと存在してい たし、自分が何をしているかも認識していた筈だ。で、あるにも拘わらず意思 の力で自分の行動を止めることが出来なかった。或は誰かが自分の体を遠隔操 作していたとか、催眠術にかけられていたとか……、そういう可能性も考えて みたが、やはり少々荒唐無稽に思えた。 『はっ、も、もしかすると……。』  あれこれ思い巡らせていて彼ははたと思い当たった。 『優美ちゃんの作った信じ難い程まずかったあのお弁当。あれを無理して食べ た為にもしかすると俺は気が変になってしまっていたんじゃ・・?』  あの時食べさせられたお弁当はおよそこの世のものとは思えないような驚天 動地のまずさだった。もし世界のどこかで味のまずさを競う料理コンテストの ようなものが開催されたとすれば、間違いなく上位入賞出来る代物だろう。 (もしそんなコンテストが企画されたとしても審査員の引き受け手を探すのが 大変だろうが。)  とにかくあのまずさを考えれば、それが原因で気が変になってしまったとい うことは大いにありそうなことに思えた。それに自分がおかしな気分に襲われ たのはあの弁当を食べた直後ではなかったか?  それに加えてもしかすると自分でも気付かない内に欲求不満をため込んでし まっていた、ということも考えられる。彼の部屋は詩織の部屋の真向かいにあ る為、変なことをしていて詩織に気付かれては大変なので、最近自重していた のだ。それらの要素が相まってあのような行動に至ってしまったのかも知れな い……。  しかし彼の原因究明の為の思考はそこで中断した。優美の作ったお弁当を実 際に食べさせでもしない限り、こんな言い訳をしてみたところで誰も納得して くれる人はいないだろう。  お弁当という着眼点はかなり真実に近いところにあったのだが、彼が思い付 けたのはここまでだった。いくらなんでも惚れ薬的な作用を持つ怪しげな薬が 混ぜられていたなどとは考えも付かなかったのだ。結果、彼の苦悩の日々は続 くのであった。                    * 「先輩、優美といっしょに帰りませんか?」  その日の下校時、彼は校門の前で優美に声をかけられた。 「あ、優美ちゃん……。」  多くの女の子の傷心度が最悪の状態になった中で優美だけはあれ以来、以前 にも増して彼につきまとうようになった。なにしろライバルが全て彼から離れ て行ったのである。しかも彼には優美を押し倒してしまったという負い目があ る。優美にとってはこれ以上ない絶好のチャンスが訪れたと言ってもいいだろ う。この好機を逃す手はなかった。 「ゆ、優美ちゃん、は、恥ずかしいからいいよ。お、俺は一人で帰るよ。」  彼は慌ててそう言った。これ以上優美に関わって誤解が広がったらたまった ものではない。それにいつまたこの間のような症状が出ないとも限らないでは ないか? それを思うと彼が逃げ腰になるのも致し方のないところだろう。 「先輩、優美といっしょなのが恥ずかしいですか? 優美のこと嫌いになっち ゃったんですか?」  彼の返答を聞いた優美はひどく悲しそうな顔をして言った。 「そ、そんなことはないけど……、ほら、優美ちゃんも噂は知ってるだろ?  あんな噂が広がったら優美ちゃんにも迷惑がかかるし……。」 「あ、なあんだ、そんなこと気にしてたんですか? 大丈夫、優美は気にして ませんから。先輩も気にしないで下さい。」 「そ、そう言われても……。」 「それとも先輩は優美のこと、なんとも思ってないんですか? なのにあんな ことしたんですか?」 「あ、あの時はどうかしてたんだ。あんなことをするつもりは全然なかったん だ。」 「ひどい! 先輩!!」  優美はそう言うといきなり顔を覆って泣き出してしまった。 「好きでもないのにあんなことしたなんて……。先輩は優美の“カラダ”が目 当てだったんですね。」  泣きながら優美はとんでもないことを言い出すのであった。お、おいっ!  ちょっと待て!! なんでそういう話になるんだ?? 体が目当てというなら もっと他の……、いや、そういう問題じゃなくて……。 「ちょ、ちょっと優美ちゃん。」  彼は焦ってしまった。ここで優美を傷つけてしまうと更に悪い噂に拍車がか かってしまうことになりかねない。 「ご、ごめん、優美ちゃん。やっぱり一緒に帰ろう。」 「本当ですか? わ〜い、嬉しいな!」  優美は今泣いていたのが嘘のようにころっと明るい表情になって言った。ど うやら嘘泣きだったらしい。  彼はうんざりしながら、優美といっしょに校門を出た。  そんなこんなで彼の方は悩める青春を送っていたのだが、一方の優美はあれ 以来張り切っていた。思わぬ詩織の出現ではっきりとした既成事実は作れなか ったものの、彼には思いっきりプレッシャーを与えることが出来た。それに詩 織に目撃されたことで、彼に対する悪い噂が学校中の女の子の間に広まり、殆 どの恋のライバルが彼から離れて行ったのだ。これは優美にとっては思いもよ らぬ収穫だった。  とにかく今が千載一遇のチャンスなのだ。優美としては悪い噂が下火になっ てライバルの女の子たちが彼への関心を取り戻さない内にしっかりと彼を自分 に繋ぎとめておきたかった。  しかし最近の彼は悪い噂が広がり女の子たちの評価が大幅に下がったことを 気に病んでいるらしく、優美のことを避けようとしているようなふしがある。  今日のようにあの時のことを持ち出して脅迫すれば、優美のいうことを聞い てくれるのだが、それもしぶしぶといった印象が強くそのことについては優美 も不安を感じていた。  きっとこれはあの時の既成事実が中途半端に終わってしまったのが原因だろ う。だから……、と優美は思った。なんとかもう一度惚れ薬を使って今度こそ 本当に彼が逃れようのない既成事実を作ってしまわなくてはならない。優美は そう思いつめて虎視眈々とそのチャンスを狙っていた。 「あのう、先輩、明日うちに遊びに来ませんか?」 と、その日の帰り道、別れ際に優美が彼に切り出したのも目的はそこにあった。 「えっ? 優美ちゃんの家に?」 「はい。先輩に渡したいものがあるんです。」 「そ、それなら学校ででも……。」 「人に見られるとまずいものなんです。だからうちに来て欲しくて……。」 「で、でも優美ちゃんの両親や好雄もいるだろ?」 「あ、それなら心配ありません。両親は明日から法事で親戚の家に出かけるん です。それにお兄ちゃんは女の子のデータ集めに夢中でいつも帰りが遅いから 大丈夫です。」 「そ、それってもしかして優美ちゃんと二人っきりになるってこと?」 「はい。」 「いくらなんでもそれはまずいよ。誰もいない家に二人きりだなんて!」  冗談じゃないぞ!! 何、考えてんだこの子は!! この間、あんなことが あったばかりなのに不用心過ぎるんじゃないのか? 彼はなんとか断ろうと思 ったのだが、優美の方もしつこく食い下がった。 「どうしても先輩にあげたいものがあるんです。優美の一生のお願い! 明日 来てくれたらこんなわがままはもう言いませんから……。」  優美は上目使いに必死の表情を湛えて彼を見つめている。こうまで言われる と女の子の頼みを断るのがとっても苦手な彼である。それに元々、優美のこと が嫌いな訳ではない。恋愛の対象として考えたことはないものの、可愛い妹の ような存在として優美はやはり彼にとっても愛すべき存在だったのだ。それも あり優美を悲しませるようなことをするのは少々気が咎めた。 「わ、わかったよ、そこまで言うなら、少しの時間だけなら……。」 「わあぁ、ホントですかぁ、ありがとうございます!! じゃ、明日、絶対で すよ。約束破ったら針千本飲ませますからね!」 「う、うん。」 「それじゃ、先輩、また明日、さよなら!」  優美は元気な声でそう言うと喜び勇んで帰って行った。彼は少々複雑な気分 になっていたものの、ま、しょうがないか、という気分でその後ろ姿を見送っ た。優美のいう“あげたいもの”が“決定的な既成事実”を作るための物であ ると知っていたなら、なにがなんでも優美の誘いを断ろうとしただろうが……。                    *  次の日、優美は張り切ってクッキーを作っていた。水で練って型を抜いてオ ーブントースターで焼けば出来上がりという超簡単に作れるクッキーの素を使 った代物である。勿論、クッキーの生地にはたっぷりと例の薬を混ぜこんだ。 これを彼に食べさせて今度こそ決定的な既成事実を作ってしまおうという魂胆 なのは言うまでもない。 「うふふ、いい匂いだわ。これを先輩に食べさせれば万事OKよね。おいしそ うに出来てよかった。あ、もうそろそろ先輩の来る時間ね。」  優美は柱時計を見て時間を確認すると部屋に戻り、香水を振り掛けた。 「ただいま〜。」  その時、玄関の方から声が聞こえてきた。好雄である。 「あれれ、お兄ちゃんったら今日に限ってなんでこんなに早く帰ってきちゃっ たんだろ? 二丁目の方で可愛い女の子を見掛けたもんで後をつけるから、今 日は遅くなるって言ってたのに……。」  いぶかしく思って優美は自分の部屋を出た。なんとかして邪魔な兄貴をどっ かへ出かけさせなくては折角の計画がおじゃんになってしまうではないか。 「ちょっと、お兄ちゃん、なんでこんなに早く帰って来るのよ!!」 「えっ? そんなの俺の勝手じゃないか。」 「でも二丁目の可愛い女の子はどうしたの? 今日は後をつけるんじゃなかっ たの?」 「あれ、優美、どういう風の吹きまわしだ? いつもは俺が女の子の後をつけ たりすると、不潔だ、スケベだって散々非難する癖に……。」 「そ、そりゃそうだけど、お兄ちゃんがいつもと違う行動なんかとったら、兄 思いの妹としては気になるじゃない。」 「兄思いぃ?? いつもプロレス技で虐待してくれる癖によく言うよ。」 「何、言ってんのよ。あれは兄妹のスキンシップよ。」 「そんなもんかね。とにかく今日は後をつけるのは中止にしたんだ。」 「なんで??」 「へっへっへ〜、これだよこれ。」  そういうと好雄はポケットから一枚の紙切れを取り出した。 「これが下駄箱に入ってたんだ。」 「なによ、それ。」 「女の子からの手紙だよ。今日の午後、電話をするから早めに家に帰っておい てくれと書いてあるんだ。」 「手紙ぃ??」  優美は露骨に顔をしかめてその紙切れを睨みつけた。全く誰よ、こんな大事 な日にそんな迷惑なことしてくれるのは……。 「そんなのからかわれてるに決まってるじゃん。」 「いや、そうとも限らないさ。駄目で元々、少しでも可能性があるならそれを 逃すのは勿体ないじゃないか。」  好雄がこのように考えるのは無理もなかった。好雄は明るくてひょうきんな 性格をしている為、女の子たちにも比較的人気はあったのだが、あくまで“面 白い男の子”としての人気であって、彼を恋愛の対象として見てくれる女の子 など一人もいなかったのである。いわゆる“女々しい野郎ども”の一人なのだ。 しかし女の子に対する関心が人一倍強いのは女の子のチェックデータなんても のを作っていることを考えれば一目瞭然である。そんな好雄であればこそ、僅 かな可能性でも捨て置けないと思うのは当然なことであろう。 「ああ、この手紙をくれた女の子はどんな女の子だろうなぁ、楽しみだなぁ。」  好雄は手紙を胸に抱きしめてうっとりとした口調で呟いた。もはや頭の中は そのことでいっぱいになっている様子である。 「きっととんでもない“ぶす”に決まってるわ。」 「おい、優美、そんな風に兄貴のささやかな夢をぶち壊すようなことを言うも んじゃないぜ。お前は“兄思いの妹”じゃなかったのか?」 「だから心配して言ってあげてるんじゃない。お兄ちゃんが変な女にからかわ れてるんじゃないかと思うと気の毒で……。」 「ふん、なんとでも言え。それはそうとうまそうなクッキーがあるじゃないか。」  好雄はテーブルに目をやってなにげなく優美の作ったクッキーを手に取った。 それを見て優美はギクッとした。 「ちょ、ちょっとお兄ちゃん、そのクッキー食べちゃダメ〜ッ!!」 「えっ? 優美、どうしたんだ、血相変えて。パクッ、モグモグ、ゴックン。」                              <つづく>
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