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Current News 5 Dec,2006
Moment 2006年10月に上演されたTSミュージカルファンデーション「AKURO-悪路-」についてのインタビューです。
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-「謎の若者」という役柄は、どのように作っていったのでしょうか。
圭吾:最初に謝先生に「どういう風にやったらいいんですかねえ」って相談したんだけど。死んだときの、40いくつの「アテルイ」としているのがいいのか、それとも「謎の若者」として、若者の姿でいるのがいいのか。で、謝先生は、若い頃のキラキラしているアテルイとして居て欲しい、と。そういうのを踏まえたうえでやっていました。
-実際にはイサシコくらいの年だったのでしょうか。
圭吾:そうだね。 「火怨※1」だと、アテルイ、単純じゃん(笑)。でも今回はモレ(母礼)※2がいなくて、アテルイ一人で出てくるわけだから、それじゃダメだなと。やっぱり、モレの要素とアテルイの要素が、組み合わさってなきゃいけないな、と思ったわけですよ。…なんかねえ、俺の中のモレって、ヒトカみたいな感じなんだよね。モレっていうと、あの人のイメージが見えるんだ。
-語尾を伸ばしたり、話し方も独特でしたね。
圭吾:そうすることによって、ちょっと古っぽい感じが出るかなと思って。脚本にはけっこう現代的な言葉遣いも書いてあったりするから、その中で、古い感じを出せたらいいなあと、心がけていました。あとは、語尾を飲まないで言い切るってことだね。そうすることによって、アテルイの威勢のよさとか大きさとか、性格が築かれていくような気がしたんです。
※1高橋克彦氏の小説。 ※2アテルイの参謀で、アテルイと共に処刑された人物。
-あの毛皮の上着で踊るのは大変そうでしたが。
圭吾:大変じゃないんだけど、暑いよ。暑い暑い(笑)。
-北国っぽさがよく出ていましたね。
圭吾:でもみんな腕出てるけどね(笑)。腕出てるのに雪降ってきちゃう。
-「獣となって」駆け巡っていたわけですね。
圭吾:俺もなかなか動きが少ないから、その「獣」の部分を出せるところが、巌谷へ行く最中のあの道しかないんだよね。
-でんぐり返しをして障子を開く動きがよかったですね。
圭吾:「障子開けて外に出ようよ!」って。ケンちゃん(坂元健児さん)に「一緒に開けて出て行こうよ!」って言ってました(笑)。
-「闇に眠る真実」を歌いつつ、洞窟を縫っていく部分は、どのように作っていったのでしょうか。
圭吾:「できれば、亡霊エミシたちとからみたい」ってお願いして、あの「岩を抜けていく」っていう感じを作っていきました。
-黒装束の亡霊エミシたちが高麿にからみつくのをさばいていく振りがありましたね。
圭吾:そうだね。俺には見えるけど高麿には見えないから。
「ここを抜ければ、鉄の谷だ」って言って、岩をグァッてあけるところも、 いろいろ考えたの。最初は両手で持ち上げようとしてたんだけど「でもなんか違う気がする…触れずに開けてもいいですか?」そういうちょっと不思議な部分があってもいいんじゃないの、と。 …でもやってみたら、市村さんの「オペラ座の怪人」で(オペラ座地下の)柵が上がるところが思い浮かんでしょうがなかったんだよね(笑)。
-「エミシの戦い」での存在の仕方はご自分で工夫されたのですか?
圭吾:そうだね。今回、全部そうなんだけど「俺は、どんな居方をすればいいんだろう」っていうことは、ずっと考えていました。
-アケシに手を差し伸べるという振りは決まっていたのでしょうか?
圭吾:いえ。別にお話の上で重要な部分っていうわけじゃないけど、なんか、出ちゃったんだよね。手を出してから、自分が触れられないって事に気づいて「ああ…そうか」みたいな。そんな表現をしてみたらどうかな?って思って。そうすれば、次の歌詞(「エミシは戦う道を選んだ!」)に、切り替えて歌うことができるなあ、そして自分の踊りのところまで行けるな、と。
-アケシとアテルイの関わりは物語にはあまり詳しく出てこないですよね。
圭吾:ないねえ。でも、高麿の縄をほどいてやって、「俺を信じろ!行くぞ」って出て行った後に、アケシが一人で歌って、「アテルイ」って言うじゃない。その感覚はあの、手を差し伸べるところから始まっている…っていう風に繋げたかったんですよ。
-デュエットも多かったですが、特に難しかったところはありますか?
圭吾:一幕最後の、あの歌を歌い始めるにはどういうテンションでいたらいいのか、いろいろ考えました。「人間なんてそんなもんだよ」とか言ってたのに、歌詞的にはいきなり「はるかーなーるー思いーつーづーくーこの大地にー夢咲くー時をー」ってキラキラしちゃうからね(笑)。だから、あいつにかけてる「言葉」とは関係なく、もっと自分の「思い」で包めればいいなあって。歌にかぶってるわけじゃなくって、歌を包んでるっていうか、高麿の思いを包んでる。そういうのが出たらいいな…っていう感じでやってました。
-一幕の終わり方も本当に綺麗でしたね。
圭吾:あの消えるところが気持ちいいなと。「だらららららら」っていう曲のところで駆け上がった後の、あの振り向きに命を賭けてた(笑)。アテルイとしての、しっかりした絵が、絶対必要だと思って。今までの「若者」とは違う「アテルイ」がそこに立ってる、っていうことを目指した。あの場面では若者になったりアテルイだったりしてたね。高麿の見えないところではアテルイであって、高麿と一緒の時は「若者」として居るみたいな。
-二幕の冒頭ではアテルイとして戦っているのでしょうか。
圭吾:悪路王だよ。あれは御伽草子の中の悪路王だからね。御伽草子っていうものを知った、高麿の中の御伽草子なの。…でも、そこからちょっと変形して行くんだろうな。刺されて、「ヤマトが我らに何をしたか、我らの姿がなんであったか」っていうのは、アテルイの言葉なんだと思うけど。
-田村麻呂の中でもああいう絵なのでしょうか。
圭吾:ああ…それは違うと思う。本当は、別に戦って死んだわけじゃないもんね。おとぎ話上そういう風にしている、っていうことだから。そこがまた難しいんだよね。「アテルイがああやって死んだ」みたいなことになっちゃうから、そこは考えなきゃいけないね。本当はそうじゃなくて「もうやめてくれ、自分の命を捧げるから、もう攻めないでくれ」という終わりだったわけだし。混乱させないようにするのは難しいね。
-高麿がアケシに「はなればなれの心と…」という歌を希望に満ちた調子で歌い上げた後、入れ違いで登場してきた若者が、もう壊れてしまったものを抱えて同じ歌詞を歌う、という繋がりが綺麗に表現されていましたね。
圭吾:そうだね。謝先生曰く、彼らにとって「今」の「はなればなれ」の歌があって、でも、若者は過去のほうで。「もう一度繋ぎ合わせ」って歌うけど、でもその振りが、この(両手を目の前に掲げて二つを重ねようとするけれども)「重ならない」っていう振りなわけですよ。重ならないものを見つめて、そこへアラハバキ(白い鹿)がやってきて「剣」なわけで。「やっぱりこれは避けられないのか!」という。
-前半の若者の姿を、後半のアテルイに繋げていくところで工夫した部分はありますか?
圭吾:あの「鬼の絵」だね。鬼の絵のインパクトが、前半戦でしっかり欲しいなと思ってやってました。最後に、俺がいなくなってから、絵が一枚落ちている。で、その、絵を、高麿が見て、もう一度「悪路王が鬼だったか」と。「本当の鬼は何だ」っていうことを考えて欲しかったんだよ。だから振付の時に、「『阿修羅のように』の最後で、この鬼の絵を高麿に返したい」ってお願いして。ホントは俺がいなくなったところに絵が降ってくるとか、そういう風にしたかったけど、それは無理だったので、ああいう形になりました。
-もともとは「鬼の絵が残される」という場面はなかったのですね。
圭吾:うん。その後に田村麻呂が出てきて、鬼の面になるじゃないですか。そこに重なっていけばいいなと思って。
-最初の「この絵を俺にくれないか」の時点では、若者が高麿を連れ出す口実とも取れますね。
圭吾:そのときは口実だったって思うんだけど。でも、最後に返さないともったいないな、と思って。どっかで出せないかな、あの絵を有効に使えないかな、ってずっと考えてたんですよ。
-最後に戦う高麿の背後に映し出されるアテルイの映像は、事前に撮影されたのですね。
圭吾:そうそう。生で出るか、映像にするか、両方の選択肢があったんですよ。で「僕はいつも準備はオッケーなんで、先生がいいほうを選んでください」って。 映像で動きを合わせるのは難しいから、高麿とさんざん稽古しました。あれを撮ったときもケンちゃんが前に立って、一緒に動いて撮ったんです。
-「AKURO」という作品を経験してよかったと思うところは何でしょうか。
圭吾:「存在のありかた」を勉強できたね。みんなとからまない分、そのシーンの「絵」としていることが多かったから。台詞もなく歌もない、そこでの、存在のありかた…そういうのが凄い勉強になった。
-再演を願うお気持ちはありますか?
圭吾:そうだね。再演してもらいたいですね。
-特に心に残っている場面はありますか?
圭吾:そうだなあ…一幕最後かな。一幕の最後に、すごいグッと来たときがあって。
「で、どうするね。手柄立てるかい、何もかも報告してさ」って言って、高麿が前に出ていって「私は夢を見てたんだな、今までのことは全部夢だ」。で、「へえ、そうかい」「みんなも、夢を見てるんだな…」…って言っている後姿に、なんかすごい「輝き」を見たことがあって。そこで「ああ!…こういうことか!」っていうか、なんだろうなあ、自分の役割とか、高麿のキラキラしたとことか、そこにグッときたことがあったんだよ。…そうなったときに「包んで歌う」っていうことが「これに間違いない!」って思えた。そんな時がありました。このお芝居できてよかったな、って思った。舞台っていいなあ、役者やっててよかったなと思った瞬間。
役柄的には「この人を選んでよかったな」と。アテルイが高麿という人物を選んで、自分の意思を伝えていく、「あ、俺の選択は間違いじゃなかったな」って思った瞬間でした。 この感覚を感じさせてくれたこのお芝居に、出演者に、謝先生に、脚本の大谷さんに、スタッフに、感謝でしたね。…そこを味わっちゃったらもうあとは、なんかもう、何でもすんなり行くような気がしたの。何も怖いものがなくなった瞬間でした。