一つの完成された伝統工芸品は人間の技と知恵の結晶である。それには
人間がある地域に定住し、生活しようとするときに行われる活動が反映されている
現代社会の機械によって大量生産された個性のない製品が氾濫する日常では人間の
知恵のすばらしらを垣間見る事ができない。当店を初めとして当地域に密着した
伝統産業があることを認識して 昔から伝わってきた技や工夫を見ることによって
地域の再認識のきっかけとなり、又 子供たちが地域の伝統工芸品に触れることに
よって温かみを感覚的にとらえられたら”すばらしいかなっ””少しなりとも 
小学生社会科の学生さんのお役に立てれば”と思い そしてチビッコ取材記者の
足掛かりとして このベ−ジを開きました。
理解できない部分は直接取材お待ちしております。 八代目店主 金子吉延 

神奈川県伊勢原市大山585
大山こまの里
金子屋支店 (延金屋)engiya
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図解解説

木地師とは?
山林などの木を伐採し その材料を 荒取り加工し ろくろなどを
用いてお盆やお椀や日用で使う器を作る人を 木地師 とか ろくろ師と呼ぶ
大山での木地師の製品
昔は 木の玩具である だるま落とし けん玉 木の鉄砲 鉛筆 こけし など
かなりの種類の一般的玩具は ほとんど作っていたが 今では 大山こま以外は
ほとんど生産されていない(大山コマについては後で説明します)
生活用品で かすかに生産されているものの中に オザッキ(オブッキとも言う)
があるが これは 正月の諸行事に欠かせない 神や仏に 供え物をする際の器
であり 木地師にとって年末の主要製品であったが 現在では福島あたりで生産
されている単価の安い物が 雑貨店店頭に置かれているので 自家用として及び
木地師のお歳暮として 隣近所に 配られるくらいの 量しか作られていない
なぜ大山に木地師がいるのか?
大山の木地師の存在は大山信仰と結びついて発達してきたと言われる。
いつ大山に木地師がやってきたのかはよく解っていないが 江戸中期から
庶民の間で大山信仰が盛んになると、これと結びついて 大山こまを中心に
おみやげとして発達してきたのは確かでる。
大山は材料の ミズキが豊富であったため 木地師の仕事場として
最適であり おみやげとは神社 仏閣にちなむ品であり 特におもちゃ類
を 多くおみやげに持ち帰った様子が伺えることが 発展の一因と
されている まして 大山こまの由来が こまが良く回ることから
金運が回り込むと言われ 家内安全 商売繁盛と結びつき縁起物として
買い求められたのも確かである。
もう一つは 確かに大山にお参りしての証拠の品だったのかもしれない。
大山の木地師は昭和の初期まで坂本町追分社上女坂真玉橋上下から上へ
紅葉橋下までの間 通称「松葉入り」【本当は昔 山上の修行者が弓の
稽古をした的場への入り口だったことから的場入りと言っていたのだが
変化した物である】と呼ばれる石段道に沿って集落をなしていた。坂本
町だけでも10数件の木地師がおり、大山全体では20〜30軒ほど
あった。が 大正13年の関東大震災で松葉入り集落は大打撃を受け
その上 昭和の初めのケ−ブルの開通でおみやげを買うお客さんたちが
通らなくなったのも打撃だった。やがてそれぞれのお店は ケ−ブル
手前の土地に移るか他郷へ流出して、松葉入りは無人の里となり現在に
至っている。
大山の木地師の特徴は?
販売と製造を両立している事が大山の木地師の特徴であり
収入源が おみやげの販売が主流であることから いろいろな
種類の製品を作り分ける器用さを持っている が 手間の割には
製品の価値とのバランスが悪く 木地師の仕事だけでは生活できないのも
現在の現実である。
こまの歴史
こまとは軸を中心として回転させる玩具。その回転によって遊ぶ他
吉凶を占う道具 および さいころの代わりとして止まった方向で
勝負したりした道具でもある。元来自然の一種で、世界中に分布している

現在残っている最古のこまはエジプトから出土した紀元前2000年
〜前1400年の木製の物という 日本では 宮城県名取市清水遺跡
石川県金沢市戸水遺跡、奈良県平城京跡などから7〜10世紀のものと
思われるこま および こま型木製品が出土している。従来 日本に於ける
こまの起源は 大陸から伝来したことのみ強調されるが 自然玩具としての
こまが古くから日本にあったことは出土品から見ても明らかで それに
大陸伝来まこまが混じり合って 日本独自のこま群を作り上げたのだろうと
思われる
 日本で初めてこまが文献に現れたのは【日本書紀】の雄略天皇紀にある
「楽」だと言われるが この説は私には判らない
独楽という言葉が最初にでてくるのは 10世紀の【和名抄】で、こまは
日本名で「こまつくり」といい 穴が空いていたと言う。こまが平安時代
既に大陸から渡来していて、宮廷の儀式の際などに回されていたのは確かで
ある。それらは「こまつくり」とか「こまつぶり」と呼ばれ 14世紀の
【太平記】に初めて「こま」という言葉が単独で登場する。この場合
「こまつくり」とか「こまつぶり」の最初の文字を とって呼ばれた物だが
逆に 東北地方では 今でも 「つくり」とか「つぶり」が訛って
「ずぐり」とか「ずんぐり」と呼ばれている。
18〜19世紀には ヨ−ロッパで こまは大流行し 日本でも元禄年間
(1688〜1704)に、こまがはやり賭博行為などに使われ 風俗的弊害が
発生したので度々禁止令が出されたほどであった。そして幕末になり
曲ごまを除いては 完全に子供の玩具となり 男子遊びの主流となっていった。
現在では その遊び事は 衰退の一歩をたどり その一方 大人の趣味として
多くの郷土玩具のこまが市販され 新しい創作独楽 及び 昔の独楽の再現と
かつて無いくらいに種類だけは豊富であるが 一個の生産量は極めて少なくなって
いる。
木地師の用いる道具と材料(大山こまの場合)
材料は主に【みずき】で 白く仕上がる肌の色の他 乾燥後 木に
粘りけがあるため 加工しやすく 又 育ちが早く 植林に適している
材料は ほとんどが他地域からの購入ではあるが 大山に自生する
ミズキを山に入り 水が上がってこない 10月以降に伐採して使用する
ことも 少なくない。直径約22p以下の材料以外は 伐採しない。
伐採された材料は すぐに皮を剥かれ 1.2ヶ月 天日に干され
その後 陰干しにて 2.3ヶ月乾かされ 製品加工されるが
その乾燥工程で 材料の 約半分は 割れたり ヒビが入り 廃棄処分される。

道具は まず 轆轤【ろくろ】
陶芸などに使われる垂直回転の物ではなく 水平回転の物
回転の動力は モ−タ−によって 電気で動くが 明治初期までは
足踏みろくろ で製品が生産されていた。

刃物は 材木取りに利用される なた 鎌 チョウナ と
材木を削る際に使用される 丸バイト 平バイト みずひき かんな
ラッバカンナ をそれぞれに 材料の大きさに合わせて 5.6種類
自ら 鍛冶し製作する そのため ふいご 金敷 槌なども必要である
その他 シダ植物で茎に細かい突起を持つ トクサ 独楽の外郭を
削る際 刃物を固定させる ウシ や 型枠10種.塗料などがある。
道具類は いつでも 当店で見せてあげられますので お気楽に
お声掛けください。

大山こまの技術習得は ほとんどが 子供の頃からロクロを遊びながら
覚える が 他地域に修行に出て 上手な人の技術を 盗み見て
刃物類の製作や調整やら 習得に努力する すなわち 自分の刃物が
出来ない人は 一生 ろくろに乗って 生産することは出来ない。