木地師が作る大山こま
(小学生地域教材用)

大山コマの挽物技術は,文徳天皇の大一皇子であり ろくろの挽物技術の先駆者である
推喬(これたか)親王の伝統的手法を受け継いでいるといわれる。推喬親王を木地師の
祖とする木地屋社会では一定の地に留まらず良材を求めて山から山へ移住することが
親王の遺訓に従う事であるとされ、中世以後木地師達は職の特権を認めた木地師通行
手形と文書を携えて木地山集落を構成し生活していた。
大山の木地師達は この流れを汲むものと伝えられ、現在でも太子講と呼ばれる講社を
形成し推喬親王を奉る筒井神社(滋賀県神崎郡)へ参拝しお札を授かり奉っている。
大山は材料の木材が豊富であった為、木地師の仕事場として最適であり お椀お盆食器
などの生活必需品を生産し生活をしていたが江戸時代中期(250年前)大山信仰が
盛んになると大山独自の玩具を考案生産し、おみやげとして販売しその中から現在の
大山コマが生まれ育ったと云われている。
おみやげの語源は、御宮笥であり、神社や仏閣にお詣りした際神仏の恩恵を分かち合う
ための記念品を意味したと云われていました。
郷土玩具として名高いと云われ始めた今日の大山コマは、人々の生活の中に幸運を
もたらす縁起物として発達し愛されてきました。俗に独楽は《よく廻る事》から
生活も《よく廻る事》つまり人生が滞りなく廻る事と《金運》がついて廻るとして
家内安全商売繁盛、五穀豊穣を願い買い求められた。特に最近では男子出生の際の
《出世こま》として、又新築、栄転、結婚などの御祝事に台付きの企画デザインされた
コマが人気を呼んでいる。
子供達にも《喧嘩ごま》として根強い人気のある大山コマは、昔そのままの伝統手法により
制作されている。材料はミズキ。粘りのある木で冬の葉の落ちた頃、山より切り出し、天日で
3ヶ月乾燥させた後約4ヶ月陰干しし、使用する。その頃には約5割の材料はひび割れし
使用不能となる。切断、荒加工の行程を経過した後、轆轤(ろくろ)加工に移り木肌、色彩
線模様の素朴な味わいのあるコマが完成する。
こうした伝統手法を忠実に守り続けているが為生産能力は非常に低く又後継者が育たず
現在では数人の職人で生産されている。
当店の大山コマは、7代目 貞雄 8代目 吉延 により大きい18センチの特大コマより
3mmの超ミニゴマ迄15種類以上が制作されています。ご予算に応じた装飾台付き
セットこまのご注文も承っております。
縁起の良い大山コマを末永くご愛顧くだされます様 宜しくお願い申しあげます。
大山コマ制作,民芸品漆器販売元
金子屋本店 金子屋支店

Ohyama Top
English translation by Meg & Kazu
A Mountain is often an object of religious worship in Japan. 
For Mt. OHYAMA, both Buddhism and SHINTO(Japanese traditional religion)
are mixed and co-exist together on this mountain.
OHYAMA's KOMA(top in above picture) is related to the sacred feeling
which the people have toward the Mt. Ohyama.
This KOMA is considered to be a object of good-luck which brings happiness
to the people's life.
This top has been adored by the people for around 250 years.
People have believed that "a well-spun" top means "a well-spun life" which
their life will go well. It is a symbolic object.
There are thirteen different diameters ranging from 3cm to 18cm.
With those variety of sizes, anyone from a child to an adult can enjoy
playing KOMA.
Now there is also a custom of giving this KOMA as a gift for new born baby,
open house and other occasions.
Dogwood is usually used as material for these KOMAs.
First the wood is dried for a year and then cut to an appropriate size.
It is then shaped by the "kicking lathe." Finally it is painted in purple,
red and other colors.
Recently an electric lathe has come into use, but those who create
everything by hand have not yet disappeared. The craftsmen of Ohyama say
that "the KOMA made of wood put to sleep for a year is sacred". The
affection for KOMA made by hand has not died.
These OHYAMA KOMAs are made by Sadao Kaneko and his son Yoshinobu,
whose family have been craftmen for 7 or 8 generations.

English translation by Hiroko Tagami
A mountain is often an object of religious worship in Japan.
In the case of Mountain OHYAMA, both Buddhism and SHINTO ( Japanese traditional
religion) are mixed and co-exist on this mountain. The Ohyama Top is related to
the sacred feeling which people hold toward Ohyama.
Considered to be an object of good luck and happiness bringing to the lives of people.
This top has been loved by people for around 250 years.
A" well spun" top means a "whelps" life ..... a life which will go well.
This the reason why Ohyama tops are regarded as symbolic objects.
There are thirteen types of tops with diameters ranging from 3 cm to 18 cm.
Anyone from a child to an a adult can enjoy tops. There is also a custom of
giving this top as a decorative present for celebrating a birth of a children or
the opening of a house.
Dogwood is usually used as material for these tops. The wood is dried for
one year and then cut to the appropriate size. It is then shaped by the "kicking lathe".
Finally it is painted purple, red, etc. Recently and electric lathe has come
into use but those who create everything by hand have not yet disappeared.
The craftsmen of Ohyama say that the top made of wood put to sleep for a year
is sacred. People love handmade tops.
The affection for tops made by hand has not died. These OHYAMA
tops are made by Mr. Sadao Kaneko and his son Yoshibnu.
Kaneko family has been making tops for 7 or 8 generations.

以下 参考資料
(神奈川県立博物館だより)通巻88号より(昭和60年8月)

相模大山木地屋雑記

 丹沢国定公園の一角に大山(伊勢原市)がある.別名 阿夫利山雨降山とも
呼ばれ雨をもたらす霊山とされ,近郷の農村より信仰の的であった。
また,近世以降の大山講が盛んな時期には関東一円の村々からの「大山詣で」
で繁栄した地である.この霊峰大山の中腹に,木地業を営む人々が活躍している。
 
本稿は大山の木地屋について,聞き取り調査の結果を中心に報告する。
尚,技術的なことに関しては神奈川県エ芸指導所より昭和44年に刊行された
「伝統工芸技術調査資料NO3.挽物技術に関する報告〜伊勢原市の大山こま
について〜」がある。

大山の木地屋の歴史は明らかではないが,新編相模国風土記稿
(天保12(1841)年刊)によると「盆器 坂本村辺に多く製す」
(坂本村は現在の大山)とあり,この頃すでに木地屋が活躍していたことは
確かである。現在,大山の木地製品の代表として「大山こま」があるが
これは近世の大山信仰と結びついて発展してきたといわれている。
関東各地から訪れる「大山詣で」の人々が五穀豊穣.商売繁盛などの
縁起物として買い求めた.それは,こまの回りと金運がついて回ると
いわれ,人々の夢を誘った.

大正時代から昭和初期に30軒以上もあった木地屋も現在は8軒が
伝統ある「大山こま」を守りつづけているが,後継者難であるという。

注(平成17年現在4軒のみ)

 一般的に,木地屋は滋賀県小椋郷(現神崎郡永源寺町)を本拠地とし
そこから発行された職の本縁を紀した縁起書や、木地屋の特権を認めた
論旨,免許状,通行手形等の所謂木地屋文書を持って全国各地の山々
を渡り歩いて仕事をしたといわれている。そして その木地屋文書と
いわれるものが各地で保存されている。また、職神である惟喬親王橡の
掛軸も伝えられている。
これらは,小椋郷にある筒井神社,金籠寺両派によって行われた氏子狩と
呼はれる制度の中で、奉納金を納めた結果,木地屋文書等が与えられた
ものである。 
大山の木地屋に関しては,これらの文章が発見されていないため詳細は
明らかではないが,伝承によると小椋郷とは無縁であったという。
しかし,大山の木地屋仲間に太子講があり、この祭具の中に木像の太子橡
とともに,「器地ノ祖惟 喬親王殿下御肖橡 近江国愛知都東小椋村大
君ケ畑社務所蔵版」と配された掛軸を所有している。祭具の箱には
慶応元(1865)年の紀年銘がある.この掛軸が,どの様な経過で入って
来たのか定かでは無いが、いずれにしても当時は小椋郷とは関わりを持って
いたのは明らかである.
現在,大山の木地屋の家々には筒井紳社発行の惟喬親王橡の掛軸が所有
されているが,これは昭和40年頃に当時の人々が同神社を参拝したのを
期に祀る様になったという。そして,この掛軸は祭壇に祀られるとい
う.また,前述の惟喬親王像も太子講の際に祀られるといい,複雑
惟喬親王信仰を示している.県内のもう一つの木地屋の地である小田原
箱根に関しては,早川の紀伊神社に惟喬親王を祀り,信仰しているが
大山の木地屋はこれには関係していない。今後,文書等が発見され
大山と小椋郷,大山と小田原・箱根などの関係が明らかになっていく
ことを期待したい.

大山の木地屋の仕事に関する1年のサイクルを略記
すると次の様である.

●1月15日まで正月休み.ただし,2月は「挽き始め」といい
 午前中にこま1個を作り神棚に供える.
 15日すぎると,暮に使用して痛んだ道具(カンナ)を直す為
 鍛冶仕事を行う。
●2〜4月 山へ入り材料の伐採(材料のことを総称してツポキといい
 材料のある山をツポキヤマ,その木を伐ることをツポキギリという)
 伐採した木は樹皮を剥ぎ,井桁に積み上げ乾燥させ暮のこま作りに備える。
 節分には多くの人々が参るため,1月15日頃から店で売る玩具を毎晩
 ネズッコ(寝ないで仕事を行う)で挽いた。また,春山祭に売る品を
 4月頃には挽いた.
●8月 夏山祭に売る品物を挽く。
●9月 ツポキギリ(来年の春山祭・夏山祭に挽く材料となる)
●11〜12月 正月用品(こま,雑器)を挽く.1年で最も多忙な時期である。
 かつては,この時期になるとこまを挽く職人と雑器(正月神棚に雑煮を盛って
 供える器)を専門に挽く職人とに分かれたという。
 また,こまは正月のみの玩具であったため,この時期に集中して製作した。
 12月25〜6日で仕事を終わり,大掃除,餅つき等正月準備を行う。
 尚,材料を1本残しておいて,雑器を挽き,自家用としたり親戚等に配った。
 以上が1年間の概略であるが,ロクロを挽かない時は,材料であるミズキの
 ある山を下見して歩いた。現在は,ワキ(大山以外の土地をいい,
 主に小田原山梨)から材料を入手しているが,かつては大山周辺の
 ものを使用した。


 現在の大山における木地製品は「大山こま」に代表されるが,先に記した
新編相模国風土紀稿には,土産の項に「盆器」とあり,当時はこれが代表的な
製品であったのであろうか。食器とは椀などのフタモノの容器をいう.
 
伝承による玩具以外の製品を記すと,盆,椀.菓子器 煙草入れ,雑器
(正月神棚に雑煮を盛って供える器)や 掛軸の軸を作ったという。
雑器こついては 11月、12月にこれを専門に挽く職人がいて,多量に出荷し
た。また,昭和の初期頃までは塗師もいたので,盆・椀などは仕上げて
出荷したという。この頃が大山木地屋の全盛期の感があり,バラエティーに
富んだ品物を産出していた。

次に玩具類を列記すると,こま(大山コマ,ピーゴマ,ヤサイゴマ),臼と杵,
ダルマオトシ,ケンデマ,テッポーー,ヤジロぺエ,オシャブリ,ママゴト道具
(茶器のミニチュア)等である.ビーゴマとは,芯棒が笛になっている品で
大山詣での土産として買われていったといい,伝統的なこまである。
このピ-ゴマは「月習いのこま」と言われ,修行時代にこのこまによって
必要な技術を習得させられる.形態はいたって単純で作りも簡単な様に見えるが
所謂「大山こま」より難しいという。ピーゴマを「習いのこま」とした理由は
技術的な面と,他のこまに比べ材料が少なくて済むという2点にあった。


 大山の木地屋の特色の一つとして,職人と商人の二面を持っていることが
考えられる。登山道としての門前町には土産品店が建ち並んでいるが
この中には木地屋が直営している店がある.一般的に言われている
木地屋とは,盆・椀などの木地を挽き,それを塗屋に出荷している。
しかし,大山の木地屋は,他の土産品とともに,自らが挽いた物を
自分の店で,自らの手によって売っている(一部の品は問屋に出荷している)。
大山が,各地から訪れる人々で賑わう時など客を見てから,その客が帰りに
買い求めそうな品を,裏の仕事場で挽くこともあったという。現在も,店を構
えており,仕事場においては伝統ある「大山こま」を守り続けている。