競馬学校教官の指導に寄せて

トラックでの練習


 トラックでの練習に騎乗するようになると、彼らが最初にぶつかるのは、どうやって正しいペースを守るか、すなわちどうやって馬を抑えるかということで、逸走しないような乗り方をすればいい。
 若い騎乗者がトラックの練習に乗り始めたときなどに、鐙が短すぎると批判する者もいる。しかし、トラックにはいると馬が非常に強く引っ張ることを忘れてはいけないのであって、あまりにも長い鐙で騎乗すると制御する力を失い、馬を抑えることが難しくなる。もともと騎乗者は、自分がいちばん乗りやすい長さの鐙で乗るべきだと私は考えており、もし乗ったときに身体のどこかに筋肉が強い圧迫を受けるならば、楽な長さに調整するといい。
 今日の平地競走の騎乗姿勢では、オーストラリアの騎手が少し長めなのを除けば、一般的には非常に短い鐙が流行していて、これによって騎乗者のバランスが良くなり、ゴールに向かって馬はさらなる伸びを見せるだろう。しかしもっと重要なのは、鐙が短いと馬を追うときの身体の動きが少なくなり、ただ腕を使えばすむだけになることで、騎乗者が余計な動きをしなければ、馬にとってもそのほうが楽だろう。最高の騎手は、騎乗したときの身体の動きが非常に少なく、そのため馬も気持良く走ることができるのである。
 トラックでの、ゆったりしたスピードによる練習で、若き騎乗者の騎乗姿勢に満足したなら、この段階においてさらにつけ加えるものはほとんどない。ゆったりした速さの練習によって少しずつ筋力がついているからで、騎座と騎乗姿勢さえ正しければ、進歩の度合いは筋力によって決まってくる。体育館での特別なトレーニングが重要なのはこのためで、筋力がつくと若き騎乗者は自信を持ち、驚くほど進歩を見せる。彼らの騎乗姿勢を見ればそれは分かるし、馬も気づいて自分のボスであることを認めるようになるが、筋力がないと残念ながら、騎乗者がボスであるとの立場をとることはできない。騎手を育てるうえにおいて、騎乗姿勢と知力は非常に重要だが、ただ筋力がともなっていないとそれも実際には発揮できないことを教官は覚えておくべきである。
 優れた騎手であることは、言葉のそのままの意味において優れた運動選手なのであって、必要なトレーニングを嫌がる生徒は、遅かれ早かれ明らかになる。頂点を目指し、頂点に達するためには、なによりも自分自身に厳しい練習を課さなければならないだろう。技術も判断力も備えている優れた騎手は、筋力によって差がでてくるといえば議論があるかもしれないが、もし同じ様な能力の馬に騎乗したなら、筋力がある騎手のほうが上位にくるはずである。やがて筋力のない生徒は自信を失い、難しい馬に当たったときなど気持ちが萎えてしまうだろうし、そういう騎乗者に対しては馬のほうが主導権を握ってしまうので、通常は上手い騎乗など期待できるはずもない。
 ときにはこれに教官が苛立ち、楽しむどころか馬を抑えることで手一杯な生徒に向かって、無線を通してなにかと口うるさく指示することがある。私はこの問題については、悩める若い騎乗者に少しは同情的だが、ただ同情することが最も良い解決法だと主張するつもりはない。生徒の心構えはたしかに重要で、怠惰であってはいけないのであって、それが分かったならばただちに叱責すべきであろう。叱ることは若い人々を教育する場合には不可欠で、騎手として成功するつもりならば教官と生徒が完全に力を合わせなければならないが、もちろんだからといって親密な関係がかならずしも不必要だということではないし、学校においてはむしろそうあるべきだろう。じつは生徒は、教官が自分の持っている職業的な知識を教えたがっていることを理解しているので、ときには彼らを怒らせるかも知れないが、騒ぎが片づいたときにはその関係はきちんと修復されているに違いない。

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