銀次郎物語 第二章 −騎乗開始−

 さて、銀次郎も、走路でダクをするようになったと思うのもつかの間、調教メニューは、走路ダク2週となりました。走路にでる前の銀次郎は、ちょっとロンギ馬場でダクをするだけで、疲れを見せていましたが、ほんの10日ほどで、800の馬場を2週ですから、ダクを1600メートルできるまでになりました。他の同期の馬達6頭も順調に進み、銀次郎を含めて全馬7頭一緒に、ダク2週になったのですが、銀次郎の性格というか、気性というか、はたまた私の技術のせいか、人に対してあまり従順ではないところが、また出てきてしまいました。
 他の馬がみんな人の言うことを聞いて、真っ直ぐに進むのに対して、銀次郎は、斜めに肩から逃げようとしてしまいます。いつまでも、こんなままではいけません。私はこの原因を、ハミの受け方にあると判断しました。
 銀次郎はハミに突っ張ってくるところがあります。これは馴致の段階で、北海道から千葉に来るにあたって、ちょうどサイドレーンを付ける段階が、省かれてしまっていたようなのです。サイドレーンとは、だいたい鞍を載せる位置から、左右1本ずつ、ハミに向かってレーンを張り、前に突っ張ることが出来ないようにしするものです。これをしばらく付けていると、人にハミを軽く引かれた時に、下を向くような形になり、ハミに対して突っ張ることがなくなります。大丈夫な馬は、サイドレーンをしなくても平気かもしれませんが、銀次郎の性格もあり、是非やっておきたかったです。うーん、これはかなり手強いです。
 次の日から、私は手綱をサイドレーンのように、できるだけ固定したようにして乗ることにしました。そんなある日、我が牧場にとって、重大な出来事が起こってしまいました。会長が亡くなったのです。
 中堅牧場として、北海道で生産、千葉で育成をし、生産者成績も近年では毎年のように10位以内に入り、重賞も1勝づつくらいはしていました。しかし、大レース(GT)は1度も勝ったことはありません。現在の2歳馬に、2戦2勝の期待馬がいて、(旧阪神3歳牝馬S)を勝かもしれないというときに、レ−スの2ヶ月前に逝かれました。ご冥福をお祈りしたいと思います。
 会長の葬儀などもあり、2日間銀次郎の乗り運動はお休みになりました。次の日は、私の休日のため、他の人が乗りました。実質中3日で私は銀次郎に乗りました。休む前には少し良くなっていた口が、また戻っていました。ハミを受けようとしないので、しっかりとしたダクができません。また最初からやり直しです。しかし3日もすると、だいぶ良くなり、他の馬と同じペースでダクができるようになってきました。
 しかし相変わらず落ち着きがないというか、常歩(なみあし)はできません。すごくゆっくりならできるのですが、歩度は伸ばせません。これからはこのあたりに重点を置いて、調教していこうと思います。
 銀次郎も徐々に落ち着きが出てきて、常歩も少しずつうまくなってきた10月下旬。私に出張の話がきました。
 私の勤める牧場は北海道で生産し、千葉で育成をするのですが、その育成する1歳馬の輸送のため、北海道へ行くことになりました。と言いましても、10月30日に飛行機で北海道へ行き、31日は北海道の牧場の手伝いをして、11月1日の朝馬運車に馬を積みます。そして1日弱かけて千葉に着くのは2日の早朝という予定でした。
 馬運車はO運輸という馬輸送専門業者の車を1台貸し切り、運転手は2人います。ほとんどその人達がやってくれるのですが、私はちょっとした手伝いと、何かあったときの確認をとるため、牧場から1人付き添っているような形でしょうか。
 このような仕事が1年に3回くらい、この時期あります。そのようなわけで、私は3日ほど千葉を離れ、北海道に行きました。

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この物語はフィクションであり、実際の馬、人物、団体等とはたぶん関係ありません。
写真と本文はたぶん関係ありません。