2006年11月はこの2公演

 


無機王「吉田鳥夫の未来」

王子小劇場 11/15〜11/19
11/17(金)観劇。座席 自由(3列目下手:招待)

作・演出 渡辺純一郎

 舞台は、有名な漫画家、藤子・F・吉田(もちろん藤子・F・不二雄をモデルとしているのは明確)こと、吉田喜一郎(猪股俊明)宅の居間。息子の吉田鳥夫(西山竜一)は中学2年の時の事故が原因で、記憶を持続できなくなっていた。29歳になっているが本人の意識は中学2年生のままなのである。夜眠ると翌朝は全く忘れてしまい「ふりだし」に戻されている。鳥夫の一日は、彼の止まった記憶から、毎日再スタートを繰り返す。その繰り返しを自覚できるように、喜一郎はその日の出来事を漫画にし渡していた。でも、いつしかその漫画は鳥夫が描き込むものとなっていた。鳥夫には常に行動を共にする保(金森勝)がいたが、保の姿は鳥夫にしか見えてはいなかった・・・。吉田家には、鳥夫の他にも、姉の海老子(後藤里恵)が、5年前に夫の片桐小次郎(小寺悠介)と離れて、14歳の息子・洋(中島佳子)を連れて住んでいたり(ホステスで生計を立てている)、もう一人の姉・虎美(山崎康代)は結婚もせず、男勝りの大工仕事を続け同居していた。
 原稿の催促にやってくるコロコロコミックの新人編集者・安藤岬(山田佑美)は、締め切りを全然守らない喜一郎に困り果て、飛び込みで弟子入り志願してきた安倍麻里男(加藤和彦)を独断でアシスタントにつけてしまう。父親に戻ってきてもらいたいと願う洋は、同級生の中沢翔子(瀬戸口のり子)の白魔術に感化され、部活と偽り祈りを捧げていた。平穏な中にも、見えざるさざ波がたっていた。そしてある日大きな転機がやってくる・・・。

 前作『僕の腕枕、君の蟹ばさみ。』は自分的にはダメだったのだが、今回は面白く観れた。ただ面白かったが、様々な疑問は残る。まず、主人公である吉田鳥夫の物語として確立していたかと言うと、そうでもなかったのである。吉田鳥夫の物語は、群像劇の中の一エピソードみたいな扱いに思えてならない。記憶を辿る為に書いた漫画を、原稿を落とさない為に掲載させるという展開には必要ではあるが、鳥夫の存在が他の人々になんら影響を及ぼしていない(あっ、岬にとっては大きい助け舟だったけど)。鳥夫と保の関係もなんら追求していない。トラウマ的な存在であろう“保”が記憶障害の要因を示唆しているはずなのに、記憶できるようになって(病気が治って)保が見えなくなったと、なんか原因を解決しないまま結果オーライみたいな展開には疑問を感じる。それに15年くらい常に行動を共にしていた“保”の存在をそんなに簡単に解消できるものなのか・・・。ラストシーンで交差するとこは好きだけど、なんか釈然としない。

 次に時代設定に疑問。洋が口ずさむ曲がバカボンのテーマ曲だったり、リモコンのないテレビが居間にあったり(もちろんビデオなんてない)、弟子入り男はパーマンのコスプレだったりするが、編集者は携帯電話を普通に使う。昭和と平成が同居しているような空間なのである。それには、まるで歯の噛み合わせが悪いような気持ち悪さを覚える。建物が古い(縁側がある家は今時珍しい)のはいいと思う。が、その家に合わせたような古い生活をしている吉田家の時代のズレみたいなものに違和感を感じてしまった。
 加えて、建物に疑問。芝居から一階の状況は、玄関、居間(6畳くらい?)、キッチン、トイレ、風呂なのである。それに比べ2階はどれだけ広いんだろうと疑問が起こる。2階が住居空間になっているが、仕事部屋があったり、子供達(と言っても充分に大人)が住んでいたりの大所帯なのである。どうみても築数十年の木造建築。3階があるわけがない。相当の広さを有していないと無理なのに、そうは見えない・・・。藤子不二雄がモデルだからって2階が異次元空間になっているなんてことはないと思うけど・・・(実は2階にドラえもんがいたりして・・・)。

 なんか文句ばかりになってしまったが、洋を演じた中島佳子の素晴らしさを堪能できたのは嬉しい限りである。無表情の中で見せる心の揺らぎの表現は素晴らしいの一言。あのナチュラルさは天下無敵ではないだろうか。今何歳か知らないが、中学生の少年を演じさせたら右に出る者はいない、と断言できるくらい素晴らしかった。


“無機王”自分が観た公演ベスト
1.こどもの国、おとなの城
2.吉田鳥夫の未来
3.僕の腕枕、君の蟹ばさみ。

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elePHANTMoon(エレファントムーン)「シュナイダー」

王子小劇場 11/22〜11/26
11/23(土)マチネ観劇。座席 自由(6列目中央:招待)

作・演出 マキタカズオミ

 舞台はとある喫茶店。喫茶店の裏には広大な森が広がり、自殺の名所となっていた(具体的な地名は言わないが富士の樹海みたいな感じか)。その喫茶店は、夫婦でやっているみたいだが、今は、事故で足が不自由になった妻の佐伯里奈(坂倉奈津子)だけしかいない。旦那のヨウイチは、一週間前から行方不明になっていた。不安な里奈は、旦那の浮気相手の一瀬成美(渡辺美弥子)に無言電話を掛けたり、精神安定剤(だと思う)を飲んだり、精神的には一杯一杯の状態であった。そんなある日、ヨウイチの知り合いだという岩波修介(石橋征太郎)が現われ、働き始める。岩波には人に言えない過去があった・・・。
 店には里奈の幼なじみの警官・川尻慶太(永山智啓)ら、普通の常連客もいるが、里奈の足を不随にさせた日高武(竹岡真悟)は、毎日喫茶店に通い謝罪するよう強要されていた。その他、自殺のドキュメンタリーを撮影しに来た学生・ケンゴ(酒巻誉洋)やカズミ(墨井鯨子)。自殺する前に最後の食事にやってきたサラリーマン・西島信也(尾本貴史)など、訪れる客はみな何かワケありであった・・・。
 そんなある日、野球帽をかぶり子供用のバットを持った男・福光章(鱒田エンキチ)が店に現われる。彼は岩波の過去と深い関わりを持っていた・・・。

 以降、ネタバレ多いです。って言うか、ネタバレしないと感想が書けない・・・。

 全編に流れるのは“加害者と被害者の人間関係”だと思う。しかし、その関係は至って悪い方向へ傾いている。と言うか、死の臭いがプンプン漂う場所で、加害者にしろ被害者にしろ“不幸”にしがみついて生きているのである。で、いつしか不幸にしがみつく事が生きがいになっているみたいな、なんていうかドMの世界なのである・・・。そんな芝居に、正直気持ち悪さを覚えた。幸せになる為の努力とかが皆無であり、“死”を選ぶ事が一番楽な方法と考え(それは許されないが)、その一歩手前でしがみついている。普通、死に逃避しない物語なら、いい話になってもいいと思うのだが、この作品は真逆なのである。そんな一見正常に見える人達の異常さが気持ち悪いのか、それとも自分の心の奥底に同じ気持ちが眠っているから気持ち悪いのか、その真偽は判らないが、ともかく“気持ち悪い”のである。具体的に表現できないのが歯がゆいが、嫌な気持ちになる程度じゃすまない、最低な気分になった。それは、脚本も然ることながら、役者の素晴らしさもあろうと思う。里奈役の坂倉奈津子の人を蔑む目つきの悪さとか、気弱の中に狂気を見せる鱒田エンキチとか、普通の男に見えるのに異常な性癖を持つ岩波を演じた石橋征太郎とか、どれをとっても気持ちが悪い。

 ただ、いろいろ列挙はしたものの、その程度で最低の気分になることはないはずなのである。“何故だぁ〜”というモヤモヤした気分が消えないので、他の人の評価はどうだろうと気にしてみると、「リアリティがない。何かにつけ腑に落ちない。」という評価が多いのである。確かに警察官の茶髪とかあり得ない。いつもの自分なら“細部にまで気をまわして欲しい”と、苦言をたれているところである。ただ、今回に関してはその感情が起きなかったのである。それは、あの空間があまりにも歪んでいたからだと思う。昔のドラマ(「ウルトラQ」だったかな?)じゃないけど、アンバランスゾーンなのである。作演のマキタカズオミが、意識的に作ったのかは定かではないが、リアルなセットを組んでいるのに、そこを行き来する人々の行動にはリアリティがない。例を挙げれば、人があまり来ない(樹海のような)場所にある喫茶店自体に現実味がない。突然やって来た見知らぬ男を働かせるわけがない(いくら旦那の知り合いだからって)。もちろん警察官の茶髪も。でもそれを“リアリティがない”という気持ちで観なかったのである。当たり前のように普通に取り込んでしまったのである。不思議でならないが・・・。もしかしたら、そのアンバランスさに酔って、気持ちが悪かったのかもしれない。それらの表現を、意識的に演出していたなら素晴らしいと思うのだが、どうなんだろう。この劇団は初見であるが、才能の一端を覗けたと思っているので、今後も期待したい。

  ただ、そんな世界を容認した自分ではあるが、何箇所か疑問が残ってしまった。岩波は、男児に性的いたずらをしたあげくに、かなづちで頭を殴り、死んだと思い学校の焼却炉で焼いてしまう(焼却炉の中から叫び声が聞こえたので、生きながらにして焼かれたことになる・・・)。その上、思い出にと切断した右手を持ち帰り、その右手で自慰行為をする・・・。殺人罪で刑務所に入り(明言はしてないけど、殺人罪でしょう)、刑期を終えて出所した割には歳が若い。「ビールを初めて飲んだ」と語るので、未成年で捕まったと判るが、保護観察下に置かれないのだろうか?喫茶店には警察官が出入りしているのに、一切連絡はないのだろうか?

 あと、里奈の焼け爛れた顔にも疑問が残る。岩波に殺された男児の父親の福光章が、岩波が男児にやったことを、里奈に対して行う。その結果、ガソリンを体にかけられ生きながらにして焼かれるのだが、その後の時間的な展開から言って、まだ全身包帯ではなかろうか。喫茶店を手伝う川尻の手馴れなさから見れば、あまり時間が経過しているようには思えない。数年経っているというよりは数日もしくは数週間だろう。それなのにタダレタ素顔ってのは、いくら造型を見せたくても無理があるのではないか。また、福光章の帽子とバットが焼けて喫茶店の外に置かれていたのは、復讐が復讐を生んだと理解していいのか?それにしても、あの帽子とバットは里奈のトラウマになっていないのか?いや、それら全てを把握した上で、日高武が帽子をかぶった時に「似合う」と笑ったのだろうか?

 自分の不幸を「あんたが悪い」と突きつける事によって、より大きな不幸を招く。不幸が不幸を呼びその連鎖がさらなる悲劇を生んでいく・・・そんな物語だったのだろうか?様々な疑問もアンバランスさを形成している要因だとしたら、作者の罠にまんまとかかったことになる。あまりの気持ち悪さに深く探れなかったのが現実だが、未熟さから来るバランスの悪さとは思いたくない。不安の病理の新たな表現方法だと信じている。

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