2008年2月はこの2公演

 


親族代表「THE LIVE『発電所』」

THEATER/TOPS 2/14〜2/24
2/14(木)観劇。座席 I-1(招待)
2/21(木)観劇。座席 F-9(招待)

作 川尻恵太/ブルースカイ/岩井秀人/ケラリーノ・サンドロヴィッチ/福原充則
演出 福原充則

  1. アルプスの少女ハイジの替え歌で前説。
  2. 『ゴリラ』 作:川尻恵太(SUGAR BOY)
    動物園からゴリラのタケオが脱走。途方にくれるゴリラ飼育係の星野(野間口徹)と田所(犬飼若博)。このままでは一大事だ…でも、心底心配しているのは「責任をとるのも嫌だし、職を失ってしまうのも嫌だ」という超個人レベルなもの。そこにゴリラに似た上司・菊池(竹井亮介)も加わり、捕獲計画をたてるのだが…。
  3. 『日本代表の男』 作:ブルースカイ
    線路に落ちた女子高生(野間口徹:女装写真)を救って、右足を切断する怪我を負ってしまったレスリング日本代表選手の男(竹井亮介)。入院している病院に女子高生の兄で刑事の男(野間口徹)と、その上司の刑事(小村裕次郎)がやって来る。見舞いかと思いきや、日本代表の男にはバストタッチの痴漢容疑がかけられていた…。
  4. 『コンビニ(または謝罪について)』 作:岩井秀人(ハイバイ)
    いつもよりちょっとだけ前向きな日を送った男(野間口徹)。彼は、コンビニで買ったタバコが違っていたことに気づき、雨の中をわざわざ交換しにやって来た。しかし、タバコの銘柄を間違えたコンビニの店員・真島(三浦竜一)は、「すみません」の一言もなく商品を交換しようとするのであった。男は、やるせない気持ちで「なんで謝らないの」と詰め寄る。「謝れって言われて謝れなくなった」と店員。偶然そこにいた客(竹井亮介)も巻き込み、意地の張り合い合戦が始まる…。
  5. 『ラブ・トライアングル』 作:ケラリーノ・サンドロヴィッチ(ナイロン100℃)
    ルミ子(植木夏十)のアパートで偶然鉢合わせになってしまった徹さん(野間口徹)と亮介さん(竹井亮介)。実は二股をかけられていたのであるが、そんな女を罵倒することなく、二人は一人の女を仲良く奪い合うのであった…。
  6. 『虫けらでした』 作:福原充則(ピチチ5)
    昼休みのしもべ・のまちゃん(野間口徹)と放課後のしもべ・竹井さん(竹井亮介)。いじめられっ子の男子中学生2人は、何かのタイミングで体が入れ替わってしまう。しかし、入れ代わったところで、いじめられっ子には変わりはない…。でも、違う自分になったことを受け入れてしまう、ちょっと前向きな話をミュージカル風に。
 ひさびさの“親族代表LIVE”であるが、嶋村太一が交通事故で怪我をしてしまった為、急遽降板(確か本番一ヶ月前くらい)。4人のゲスト出演者を迎えた公演になってしまった。「なってしまった」ってのは申し訳ないが、やはりそんな気分になってしまう。親族代表とは馴染みのある役者やら劇団からの客演ではあるが、やはり嶋村太一不在は大きく影響を及ぼしていた。声の出演と物販でがんばってはいたけど、それだけじゃぁね。『日本代表の男』なら車椅子で出演できたのにって思ったけど、リアル過ぎるか。

 実はこの公演、初日に観た時は、あれれれってな気持ちになってしまった。おもしろいのに笑えないみたいな、不完全燃焼さが残ってしまったのである。でも、1週間後に観た時には雲泥の差で良くなっていた。ちょっとしたものから大幅なものまで演出が変わっていたが、脚本に変更があった訳ではない(と思う)。なんだろ、凝縮されてリズムが出てきたからなのか、むちゃくちゃ面白くなっていた。
 ネタバレ勘弁で、書いてしまうが、『ラブ・トライアングル』のラストシーンで、初日から数日間は大量の紙吹雪が降っている中、女が去って行った(それを暗転時に掃除機で吸い取っていた)。それが21日には、客席通路からハケる演出に変更になっていた。わりと大掛かりな演出であるが、全てカット(まだ天井には紙吹雪きが入った袋が吊るされていた)。でも、意外と掃除機で吸い取るという処理で温度を下げていた(笑いに繋がっていない)ので、変更は正解だったと思う。その方が面白かったし。あと席によって印象が大きく違っていたのが、『ゴリラ』の手。初日は下手、2回目は上手で観た。上手で観た時のインパクトは強烈で、巨大な手が出てくるのが分かっていながら、驚きと笑いが込み上げてしまった。

 その他、作品ごとに感想を書くと、『日本代表の男』はブルースカイらしいダークな笑いだけど、身体の不具を笑いにしてしまうのは不謹慎かなぁと考えてしまう。でも、小村裕次郎は輝いていた。やはりブルースカイの脚本だと光るねぇ。また猫ニャー復活してくれないかなぁ…。『コンビニ(または謝罪について)』は、コントとは違い過ぎてちょっと谷間。『ラブ・トライアングル』の“いい女”は嶋村太一にやって欲しかった。客席に向かって「これコントでしょ?」と問いかけるメタ的な演出は好き。まぁ、このセリフは植木夏十がしゃべってこそだとは思うけど。『虫けらでした』はゲストを使わないという事にこだわった結果なのか、親族代表らしい笑いだった。でも、初日はそのがんばり加減がダメだったんだけど、21日は自然な感じで、すごくいい感じになっていた。

 まぁ全て観終わって、親族代表LIVEはあくまで三人にこだわった公演をしてこそって事がハッキリわかった。
 脚本に関しては豪華な顔ぶれではあるが、親族代表としてのカラーが見えないのが残念。全体的に気持ちがアンダーになる話しが多かったのも影響しているかも。でも、これを三人だけでやったら又違った空気が生まれたかもしれない。

  来年で早くも結成10年らしい。10周年記念公演(あるのか?)を期待したい。


“親族代表THE LIVE”自分が観た公演ベスト
1.『小(りっしんべん)』
2.『3』
3.『発電所』
※故林prd.時代の作品は含んでいません。

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演劇復興の会「海ゆかば水漬く屍」

赤坂RED/THEATER 2/16〜2/24
2/16(土)マチネ観劇。座席(I-2:招待)

作  別役実
演出 小林勝也

 白布をかけた車椅子を押して舞台に登場する傷病兵2(モロ師岡)。そして、突然、白布の中からうめき声があがる…。その車椅子に座っているのは、傷病兵1(渡辺正行)である。傷病兵2は「どうしたんだ、何かしてほしいのか」と問いかけるが、傷病兵1は「苦しみを実感しているのだから、ほっといてくれ」と横柄に答えるだけであった…。 しばらくして、傷病兵2が夕飯の鍋焼きうどんを用意し始める。その間に、傷病兵1の両親だと名乗る男女(花王おさむ、阿知波悟美)が現れる。そして、「せっかくだから」と勧めてもいないのに鍋焼きうどんを食べ始める…。傷病兵1は、両目を負傷しているので、その二人が、本当の両親なのかはわからない…。
  と、ざっくり物語の導入を書いたはみたが、なんだか解らない。まぁ、最後まで観てもよく解らなかったのだから、伝えようがないか…。

  渡辺正行が「日本演劇えりすぐり」と題して行う公演の、初回に選んだのが『海ゆかば水漬く屍』である。この作品は、 渡辺正行が30年前に文学座のアトリエで観て「コントは、新劇には、勝てない…」と衝撃を受けたものらしい。 脚本は、別役実がサミュエル・ベケットの『勝負の終り』に触発され書いたものと、どこかに書いてあったが、私が知るベケット作品は『ゴドーを待ちながら』だけなので、『海ゆかば水漬く屍』を知る上でなんの情報にもなってやしない…。でも、ちょっとだけ豆知識を書いておくと、『勝負の終り』は『ゴドーを待ちながら』の4年後の1957年に初演された作品らしい。

  まぁ、それはさておき、『海ゆかば水漬く屍』である。♪うみ〜ゆ〜かば〜みづ〜くかばね〜♪と劇中でも歌われているが、第二次世界大戦の末期に流行った『海ゆかば』という歌に即した物語である。その歌の大元は、万葉集にある大伴家持の「海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)山行かば 草生(くさむ)す屍 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめかへりみはせじ」という詩であるが、それに、1937年、東京音楽学校教師の信時潔が曲をつけた国民唱歌が『海ゆかば』である。そして、大政翼賛会によって、国歌に次ぐ“第二の国歌”として指定され、その後儀式や学徒出陣式の際に歌われ、演奏され、戦時に欠かせぬ曲となったそうである。ラジオ放送での大本営発表の際に、その内容が日本軍が「玉砕」した場合に、番組導入部のテーマ音楽として用いられてもいたらしい…。ちなみに、この詩には「死を覚悟する」という意味が込められているのだそうです。(歴史も古文も苦手なので、ところどころ引用させて頂いてます…)

  まぁ、大伴家持がどーとかは置いておいて、簡単に言ってしまえば、反戦的な作品である。でも、単に“反戦作品”ではない。芯の部分に流れるのは“生と死”である。それを別役実が不条理劇として作り上げたのが、この作品だと思う。 でも、難解な作品である。そんな思いからか、まず初めに頭に浮かんでしまったのが、“この脚本が本当に渡辺正行がやりたかった芝居なのだろうか”という疑問である。たしかに別役実の不条理劇は面白い。30年前に衝撃を受けた作品かもしれない。でも、この作品を今上演する意味があるのだろうか…。舞台設定も終戦後間もない頃であり、主人公が傷病兵と言うのも、“今”を生きる人間には馴染みがなく、ただただ傍観する結果となってしまった。まぁさっきも書いたが、傷病兵は仮の表現に過ぎず、人間の生と死を見つめた物語なのであろうことは馬鹿な自分にも解る。しかし、解ったところで、自分にはリアリティがなく、作品に気持ちが入っていかなかったのが真実…。
 死んでいるか生きているかわからない人々(渡辺演じる傷病兵もそうだが、両親と名乗る男女も)が織り成す不条理劇。 読み解けば“苦しみを実感している=うんこを我慢している”事も“生”というものの表現だろうことはわかる。うどんを食べる事も“生”の証だろう。しかし、だからと言って作品を理解できた訳ではなかった。 で、一番の問題は、理解不能を感じとった脳が“眠気”という攻撃を仕掛けてきたことである。それに対してはあっさり屈伏して、ところどころ記憶なし…特に最初の方…。
  あと渡辺正行の傷病兵って…あんなに太っていたんじゃ視覚的にダメ。もっと精神的に病んでいるのことが視覚的にも伝わってこなきゃ、作品が生きないのではないだろうか…。 両親を名乗る二人の傍若無人ぶりは感情的に「イラッ」という感情を呼び覚ましてマル。これらも何かを表現しているのかも知れないが、わたしには読み取ることはできなかった… 。
 余談だが、 舞台美術には電信柱が1本… 別役芝居には電信柱が必須と昔聞いた覚えがあるのだが、本当かどうかは知らない。

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