「ふたり」35ミリフィルム上映&トークショー |
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2023.12.23 土曜日 ロイヤル劇場 |
映画コーナーの冒頭にも書いていますが、大林宣彦監督の作品に本格的にハマったのは 1991年(平成3年)5月11日公開の「ふたり」でした。 自分はこの「ふたり」を公開日初日に(おそらく)有楽町の劇場で(たぶん)舞台挨拶の次の回に見た覚えがあります。 公開当時、会社の新人研修で上京していた事もあり有楽町の劇場で見ましたが、「ふたり」を見ようと思ったきっかけは 公開日前夜放送されていた深夜番組(おそらく日テレ系の「EXテレビ」)にゲストで出演していた中嶋朋子さん?(石田ひかりさんも?)が この映画の宣伝をしていたことだった。 予定もなく暇だったので....と見に行った訳ですが、それがその後、大きく自分に影響を及ぼすことになるとは! 「一本の映画が人生を変える」というのはよく言ったものです。 「ふたり」はその後、地元名古屋で1回、東京でもう1回、都合3回見ましたが 実は公開の前年、NHKで2回に分けて放送された(1990年11月9日/16日)テレビ版も少しだけ見ていました。 その時は"ながら視聴"して真剣に見ていなかったこともあり、ほとんど印象はなかったものの なぜか映画館で最初から見た(実際は途中入場だったが)ら、見事、ハマってしまったのでした。 その後、新尾道三部作の第二作「あした」が公開され、大林監督のファンクラブ(OBs Club)も結成され、その支部も全国各地に創られた。 自分も真っ先に入会要項を取り寄せ、入会しました。 まあ、その後、数年間は本部から送られてくる会報を読んでいるだけの ただの会員(幽霊会員?)でしたが、大林監督が地元で講演会?だったかでいらっしゃったことで 初めて地元 OBs東海支部のメンバーと出会いました。 1999年には新尾道三部作の第三作「あの、夏の日 とんでろ じいちゃん」が公開。 尾道での完成披露試写会が大々的に行われ、全国のOBsメンバーと共に参加したことで自分もこれ以降 積極的に支部会や、上映会、講演会にも参加するようになりました。 同年には「淀川長治物語 神戸編 サイナラ」のエキストラ撮影にも参加、数メートル先の大林監督から「よーいスタート」と直接 声を掛けて貰ったのは一生の思い出です。 そう考えると全てはあの時 なんとなく「ふたり」を観に行ったことがきっかけであり、今も昔も「ふたり」は自分にとって特別な映画であるのは間違いありません。 「ふたり」はその後、上映会で何度か 大きなスクリーンで見た覚えがありますが 今回のような出演者の、それも主役 北尾実加役の石田ひかりさんを迎えての上映会なんてものは この30年、自分には全く縁がなく(最近では 尾道映画祭2022では同様のイベントはありましたが)それだけに岐阜とはいえ すぐに参加を決めたのです。 とは言っても、このような催しが行われることを自分は当初、全く知りませんでした。 支部長さんが X上でリポストしていたことにより かろうじて知りましたが 気付かなかったら......知らずにイベントは終わっていたことでしょう。 時は2023年12月23日 世間的にはクリスマス・イブ・イブということで盛り上がって?いるのか、あるいは土曜日ということもあってか人通りは多い感じであった。 前日から雪が心配され、特に会場は岐阜市中心部であった為 不安にさせたが当日は朝から晴れ上がり 快晴であった。 名古屋から岐阜市に向かうには 名鉄とJRの2つの交通機関がある。 しかし、会場である「ロイヤル劇場」は名鉄岐阜の方が若干、近い。 それゆえ躊躇なく名鉄を選んだが、昨夜調べた時点で岐阜には特急でしか行けないという事が判明し吃驚した。 以前は急行でも 行けたと思ったのだが....。 とは言え、特急でも(別料金の)指定席となるのは1〜2両のみ。 あとは(料金的に)なんら急行と変わらない。 なんとも判りにくい話ではある。 13:30からの上映開始に合わせ、昼前の電車に乗ったが それは中部国際空港を始発とする列車であった。 それゆえカートを引く客で車内はいっぱい。いきなり面食らってしまった。 だが、そんな状態は名古屋駅まで。 カートの客のほとんどは名古屋駅到着と共に早々に下車していった。やれやれである。 ここから車窓には 住宅地、田園、河....都市部では決して見られない風景が続いた。 終点の名鉄岐阜駅に到着。 ここに降り立ったのは LoVendoЯのライヴ以来、10年ぶりである。 駅構内を出て ロイヤル劇場へと 目抜き通りを真っ直ぐ歩いた。 ただ ここで気付いたのは「明らかに名古屋よりも気温が低い」ということである。 体感的に2度ぐらいは寒かったのではないだろうか。 ここが岐阜だということを改めて認識させたのだった。 前夜までにストリートビューで何度も予習しておいた為、ロイヤル劇場には間違うことなく辿り着けたが 10年前に訪れたライヴハウス「Club G」のほぼほぼ隣というのも偶然すぎるかも。 エスカレーターと階段で会場の3階にあるロイヤル劇場に上がると、予想以上にロビーは人でごった返していた。 すぐに開け放たれたドアから客席に入っていくと、地元放送局(?)のカメラがいくつか客席後方でセッティングされ 思った以上のイベントであることに驚かされた。 客席も大入り満員という感じで賑わっていたが、OBsメンバーも全国から多く集まってきていたことをこの時は まだ知る由もなかった。 13:30 「ふたり」は時間通りに上映が始まった。 言い忘れたが、今回は今となっては超貴重なフィルムでの上映会であった。 つまり自分が1991年5月の公開時に観に行った時と 状況は同じなのである。 荒い画質、カタカタという映写機の音さえ聞こえてきそうなほどのブレる映像....今や高精細なデジタル映像に慣れてしまった眼には 冒頭、少々違和感が残ったが、それが気になったのは体感的にもわずか数分ぐらいだ。 何度も見ている筈なのに どんどんと「ふたり」の世界に夢中になっていった。 お姉ちゃん(千津子=中嶋朋子)を不幸な事故で失い、精神を病んだ母親(富司純子)と仕事が忙しい父親(岸部一徳)の間で健気に頑張ってきた実加(石田ひかり)。 ピアノ教室に向かう途中に男(頭師佳孝)に襲われるものの、その時、助けたのが亡くなった千津子であった。 しかし、その姿が見えるのは実加のみ。千津子はずっと実加を見守り続けていたのだった。 そして実加と千津子、"ふたりでひとり"となって 様々な困難に立ち向かっていく。 簡単にあらすじを説明するとこんな感じだが、いじめ、友人の自殺未遂、父親の浮気と実加の周りで起こる問題は想像以上にハード。 そんな中で グッとくるシーンは何度見ても感動する。 千津子が事故に遭ったシーンで、その死の間際 実加の手を取って「あんたは周りを見渡せる人なの」「自分の人生なの、自信を持ちなさい」と叱咤激励する件は いつ見ても涙しそうになる。 思えば、このシーンで感動してハマったと言っても過言ではない。 そんな事をダイレクトに思い出せる今回の上映会であった。 それから忘れてはならない、劇中のそこかしこで流される久石譲さんの素晴らしいメロディ。 当時はサントラも購入して ずっと聞いていたのを思い出す。 映画のラストには 有名な大林監督と久石譲さんの「草の想い」が流れますが、久しぶりに大林監督の声を聞くとやっぱり泣きそうになりました。 上映が終わり場内が暗転すると同時に 客席では自然と拍手が湧き上がった。 こういう経験も随分と久しぶりである。 10分少々のトイレ休憩が設けられた後、雑然とした雰囲気の中、いよいよ本日のスペシャルイベントがスタートした。 司会は岐阜新聞・映画部の後藤さん。 まず今回のトークショーが小芝風花さんのCMで有名なCCIの協賛だということが報告された。 映画館の入り口で チケットのもぎりと同時に紙袋を渡されたが、それはこのCCIの商品であったのだ。 どうやらCCIの本社が 岐阜県関市にあるからという縁なのだが、ここで訊くまで全く知らなかった情報であった。 また 35mmのフィルムだけで上映されている映画館は このロイヤル劇場が日本で唯一であることも述べられ、本日の上映会がいかに貴重であるかを印象付けられた。 トークショーのイントロというべき部分が終わり、いよいよ今夜の主役 お二人が呼び込まれた。 スクリーンに最も近い開け放たれたドアから まずは大林千茱萸さんが拍手を傍らに登壇。 続いて 石田ひかりさんが 大きな拍手の中、登壇したのだった。 精巧に復刻された映画ポスターを間に挟み、下手側が 石田ひかりさん、上手側に大林千茱萸さんが、用意された席に着席された。 まずは千茱萸さんからご挨拶。 「みなさん、こんばんは。映画を見て頂けてありがとうございます。フィルムの上映は多分、公開の時からしばらくぶりで、フィルム保管しておいてホント良かった。と思って私も古い人間なので 久しぶりに(フィルムで映画を)見て、このロールチェンジ、フィルムって缶で何缶もあるんですね。デジタルと違って。この(フィルムの)隅に白丸と黒丸がでて、それがちょうどロールチェンジの合図なんですよ。ああ、フィルムならではのこの感じ、のっけからこのフィルムの感じで感極まってしまって。」 と我々が考える以上に このフィルム上映で見る「ふたり」に甚く感激されていた。 引き続き「クリスマス・プレゼントで ひかりちゃんを連れてきました」と千茱萸さんが仰ると、場内は満場の拍手となった。 そして今度は石田ひかりさんからご挨拶となった。 「みなさん、メリークリスマス・イブ・イブです。本当にご覧いただき、ありがとうございます。自分の作品を見て泣くことはほとんどないのですが、もうこの作品は私にとっては特別な作品で、後ろの方で見ていたのですが 所々でグッとくるところがあり、そしてなんと言っても監督の最後の(歌)声。もう今日も号泣してしまいました。今日はそんなまつわるお話をみなさんと一緒にしていけたらと思います。短い時間ですが、どうぞ宜しくお願いします。」 拍手に包まれた。 今日は岐阜新聞・映画部の後藤さんがお二人に質問を投げかける形でトークショーが進んでいったが、その後藤さんも「私も一緒に見させて頂いて、泣きました」と共感するのだった。 そして「最後の名曲『草の想い』のリフレイン、この演出は凄いなと思いました。千茱萸さん振り返っていかがでしょうか?」と早速、質問する。 「まさか 当時はね、映画監督も色々やるけれども、歌う監督がいるなんて.....」と客席は笑いに包まれた。 「のっけから裏話で、有名な話なんですが 普通はこういう場合は (中嶋)朋子ちゃんだったり、ひかりちゃんだったり 女優さんがキラキラとして歌うというのが良くある形、80年代のアイドル映画のスタイルだったんですが、まあそれの最たるものが「時かけ」だったのですが、でもひかりちゃんと朋子ちゃんが映画の中で この役を生きて役をそのまんま気持ちを当時生きてくれことが本当に素晴らしくて、もう親父ふたりは(大林監督と久石譲さん)すること無いね。という話になって、じゃ自分達が出来るのは応援ソングで、二人で歌おうか。という話になり、それで....」 「当時、ベストテンという番組があって それでいいところまでいったことがありました」 ひかりさんも「私、最初、デモテープで監督が歌っていらっしゃったのかな? 監督がお歌いになればいいのに。と思っていて、劇中、色んな人が歌って 私もレコーディングしたんですが、この映画ではひかりは実加として終わった方がいいということで 私が歌うことはなかったんですが でも監督の声が最後に流れると、本当に堪らないですね。もう本当にグッときます」 「久々に見て、二時間半。どんどんのめり込んで行って 泣かせて頂きました」と後藤さん。 「この映画は ひかりさんがオーディションで入られたんですか?」と質問が投げかけられた。 「いえ、あとから思うとあれがオーディションだったんだなと思うのですが、大林組で長くメイクをされている岡野(千江子)さんという方がいらっしゃって、私はこの監督の映画に出させて頂くまでアイドルをしていたんですね。なかなかちょっと...(苦笑)。その時、これが御縁だと思うのですが、あるプロモーションビデオを創った時のメイクさんが岡野さんだったんです。岡野さんが今、監督があなたぐらいの年齢の娘を探しているからちょっと監督にお話してみるわね。と仰って、そしてそこから程なくして監督と奥様の恭子さんにお会いする機会がありまして、小一時間 ある喫茶店で話をしてそれで、でもその時は本当に他愛のない話をして、その生い立ちですとかそういうお話をして終わりました。」 「でもその日だったかもしれません。ちょうど私、誕生日が5月の末なんですけど、自宅に大きなお花と『実加へ』っていうお手紙が届いて、それでこの映画のお話だったんだということがその時、判るっていう。なので思えばあの喫茶店でのお話がオーディションを兼ねていたのかなという感じでした」 当時、この映画で石田ひかりさんは映画賞、新人賞を総ナメという形になって反響すごかったんじゃないですか?と尋ねられると 「いろんな処の映画祭に呼んで頂いて賞を頂いたり、また何より、こうして33年、33年経っているんです!あの時、高校3年生ですから!そこから33年経った私を またこうして呼んで頂けることが本当に私の財産です」 「私(ひかりさんの)間近にいるので、キラキラ感は変わらないです」と後藤さんもノリノリで会話に続いた。 「草の想い」の大林監督と久石さんの歌唱のこと、石田ひかりさんの青山のスパイラルカフェでのオーディション代わりの面接のこと、これは「ふたり」ファンにとってはお馴染みの話ですがそれを当事者から直接、訊けるというのはこの上ない貴重なことです。 そんな神話化されたエピソードを冒頭でいきなり話されたものだから 今回のトークショーのイベントに参加した意味の80%は叶ったという気持ちになった。 その後も貴重な話は続く。 「みんな若いですよね。(岸部)一徳さん! 一徳さん!!」とひかりさんが仰ると、場内は笑いに溢れた。 「人のこと言えないですけど、(島崎)和歌ちゃん!(中江)有里ちゃん!こないだ 一緒にごはん食べたんですよ。多分、これ以来。有里ちゃんも全く変わらなくて。有里ちゃんと私、1歳違いらしいんですが、彼女、凄いタイガースファンなんです。ちょっとひどいんですよ(笑)ご夫婦そろって。うちの夫もひどいんです。これはもう(日本一)祝勝会をやらなきゃねって。4人でごはん食べたんです。色んな(タイガーズ)グッズ持ってきて、被ったり、巻いたりして写真撮りました」 この「「ふたり」タイガース祝勝会」はネットでも大きな記事となっていて、興味深かったが、それが早速、御本人の口から訊けるというのもビッグサプライズとなった。 後藤さんが「竹中直人さんとかも、変わらないですよね」と発言すると 「いやいやいや ツルッと(笑)」とひかりさん。 そして千茱萸さんが「頭を丸めていらっしゃいますけど、こないだ世田谷区のカフェで夜中、ごはん食べていたら竹中さん、入ってきて ありゃりゃ千茱萸です、おうおうとなって。会うと時を飛び越えて 向こうは全く変わってなくて。また監督とやりたかったねという話になって。」 「33年経って、変わってないね。というけれども有里ちゃんも ひかりちゃんも当時から 自分がちゃんとあって映画が終わってもちゃんと自分を生きているから そのまんま変わらないように思えるだけで 映画の中でその時を生きているんだな。と今日すごく感じたの。」 「あれがオーディションだったのかも。というお話があったけれども、(その日)監督がお家に帰ってきて『私、実加に会ったよ』『実加が居たよ』って言ったんです。なので、ひかりちゃんから世間話をしただけです、自分の身の上話をしただけだよと言っていたけれど 監督にはそれが必要で 本人がどうやって生きてきたかを知ることで それによって『実加が居るよ』と思ったんだと思うんですよ、だから経歴とか、アイドルとかではなくて どのようにここまで歩んできたのかに実加を重ねて『実加が居たよ』と言ったんだなと33年経っても 其処はブレていなかったんだなと」 「監督にも みんな変わらず此処に居るよ。と伝えたいですね」と千茱萸さんは感動的な話をされたのだった。 大林監督のオーディション代わりの面接後の話は訊いたことがないものだったので これまた超貴重と思ったのだった。 身近な家族だからこその超秘話でしょう。 後藤さんからは 千茱萸さんに率直な質問も飛び出した。 「大林さんって どういう人で、どんなお父さんで、昔から16mmの映画でも本当にお優しいのはにじみ出ているですが、どんな感じのお父さんだったのでしょうか?」 「生まれる前から 恭子さんのお腹に居た時から 映画の現場には参加していたので...1歳半ぐらいが私のスクリーンデビューなんですが、その時の笑い話で『あなたの背が小さいのは ミルク代がフィルム代に代わったからね』と言っていたぐらいで ずっと家族で映画を創ってきていて "一卵性双生親子"と言われていたぐらい通じる処も多かったし、兎に角、母=恭子さんと私、監督が大林映画をらしい映画を撮る為にどうしたら良くなるだろう?ということばかりを考えて家族で映画を創ってきたこともあって、世間話というよりかは もうお家でご飯を食べていた時でも 映画のココが良かったよね。この人、監督の映画に合うような気がするよね。大体、キャスティングとか音楽とかは私が担当することが多かったので この人が合うねとか映画ことばかり話していて、そういう意味では 喧嘩みたいなことはないけれどもお互い、我が強いので納得するまでずっと朝までしゃべりっぱなしで議論を、それも小さい頃から鍛えられていて。小さい時はとても議論なんて出来ないので、泣きながら『私はこう思うんだけど、パパは間違っている』みたいな事を言いながら、でも向こうは私が子供だからと子供扱いをしたことは全くなくて。映画も大人の映画、子供の映画と別け隔てなく、3歳の時に『男と女』を見て ラブシーンが多い映画なんで 帰り道で監督と恭子さんに チュチュッとして、この娘愛想が良いのねとなったけれど映画の影響となって。映画と現実がごっちゃとなることはよくありましたけど、本当に映画の事ばっかり話していましたね」 断片的に昔、読んだ監督の本に書いてあったエピソードを千茱萸さん本人から訊けて なんだか懐かしい気持ちにもなった。 後藤さんはひかりさんにも監督は現場でお優しいんですか?と尋ねた。 「私も監督が声を荒げたり、イライラしたりしているところを一度も見たことがないです。大林組では監督が一番、睡眠時間が短くて一番働いている時間が長いと言われているんです。本当に実際にそうで セリフも毎日、変わるんです。朝、起きるとホテルのドアの下から(台本が)差し込まれて、而も今日撮るものが入っていて、本当に毎日、ほぼ変わっていきます。」 千茱萸さんが「これは家族以外知らないのですが、次の日の撮影の毎夜毎夜、凄く丁寧に台本をおさらいするんですよね。まず台本をおさらいするところから始まって、大林映画は順撮りではないので辻褄が合うようにおさらいをして『嘘から出た真』とよく言ってましたけど 辻褄を合わせるということを疎かにせず、最後まで粘り、あきらめない人でしたね。そのあきらめの無さが、全部、自分の手で絵コンテも書くんですけど 先週も尾道の実家で監督のものを整理していたんですけど、片付けていたらちょうど「ふたり」の絵コンテもいっぱい、出てきて、その絵コンテも凄い面白いんですよ。何か機会があったら公開したいですが、頭師さんにひかりちゃんが襲われるシーンがありましたがその絵コンテも全部 コマ割が書いてあって あれだけ撮ってもアニメになるんじゃないかというぐらい書いてあってお見せしたいですね」 「パンフレットも私が作っていたんですが、高校生の夏休みの絵日記みたいにしたいとスナップ写真をいっぱい撮ったんですが、ダンボールにいっぱいとってあって、時間を飛び越えて先週 見つけたばっかりだったので全部とっておいて良かった」 ここでこの劇場で貴重なパンフレットを PSC(大林監督の事務所)が提供する形で少数限定で発売されていることを後藤さんが説明し「本当によく、ここまで凝ったものを作られたと。1991年当時、このパンフレットが5万部売れたって訊いたんですが?」と改めて訊くと千茱萸さんは 「一応、公称10万部って言われているんですが(笑)実際は8万部ぐらいで、そんな売れたパンフレットは無いんで テーマは映画館で映画を見て、お家に帰るまで読み終わらないのがテーマで テーマとしては東京(駅)で見てもらって名古屋(駅)でも読み終わらないという感じで作っていました」 と仰ったのだった。 石田ひかりさんもこのパンフには思い出が多くあるようで 「今でも劇場で舞台をやったり、イベントとやっていわゆる出待ちの方がいらっしゃると ほんとよくこのパンフレットを持ってきてくださって、これにサインくださいって仰るかたが今でもたくさん いらっしゃいます」と述べられた(ちなみに自分もこの時、あるいはチャンスがあるのかもとこの「ふたり」の映画パンフレットは持参していたのだった。結局、そのチャンスは訪れなかったが) 「この「ふたり」と「青春デンデケデケデケ」の野口久光さんの原画はあるので、原画の迫力をいつかみなさんに見て頂きたいなと思っております」と千茱萸さんは答えられたのだった。 そしてステージ中央に据えられた「ふたり」の映画ポスターの件に話が及んだ。 後藤さんは このポスターが今も存在したのかと驚いていたが 残念ながらこれはカラーコピーであったものの それでも出来の良さに驚いていたのだった。 それから前回の「尾道映画祭」で千茱萸さんとひかりさんが尾道を訪れた際、ロケ地巡りをした話も出て これこそ『聖地巡礼(本人)』と思うのだった。 ロイヤル劇場前の、商店街に敷かれたレッドカーペットを、自分たちの為と思った石田ひかりさん。 「赤いものを見たら歩かないと!」と女優らしさを発揮したとか。 それから話は大林監督の商業映画デビュー作「HOUSE」へと及んだ。 この映画のアイデアに当時10歳だった千茱萸さんは大いに関係していたが 「思いついたのは10歳で、映画ができたのは12歳でした」と発言。 原案としても千茱萸さんの名前はクレジットされていた事は有名です。 「大林監督の生まれたお家が尾道にあるんですけれども、そこには古い井戸だったり、背の高いところにお布団が入っていたり、古いピアノがあったりして、 私はちっちゃい頃両親は映画を撮っていたので、祖父母の家であるその家に預けられるというか、夏を過ごすことが多かったんですが、井戸とか怖いわけですよ。井戸から生首が出てきたら怖いとか、おばあちゃまの使っていた鏡台の鏡に自分が映ったら怖いとか、小さかったから、お布団を降ろそうと思ったら、自分に上からばーっと襲いかかってきたりとか。ちょうど1977年は『JAWS』でスピルバーグ監督が出てきた時で、日本の映画が斜陽と言われていた時です。みんな子供たちもハリウッドの映画を観に行く、日本映画を観ないという時代だったんですけれども、そんな時に監督はその頃コマーシャルを撮っていたんですが、誰も見たことのない映画を大林さんだったら撮ってもらえるんじゃないだろうかというお話が東宝の松岡さん(松岡功氏=松岡修造氏の父)から来まして。大林監督からどんな映画が観たいかと聞かれました。私が見たい日本映画がないから、私が見たい日本映画を作ろう。じゃあ、どんなのがいいかなと。『今の洋画はジョーズとかグリズリーとか全部生きているものが襲ってくるので 井戸とか鏡とか布団とか家とか、生きていないものが襲ってくる方が怖いよ。生きているものが襲ってくるのは当たり前じゃん』と。子供だから言っちゃったみたいな感じで、監督もそうですが、東宝の社長さんとか、みんな子どもの言ったことだと馬鹿にせずに、それは思いつかないから、 思いつくことはどんな考えでもヒットしないから、思いつかないことを映画にしてもらおうということであんな映画ができたんです」 と千茱萸さんは「HOUSE」の思い出を一気に喋り尽くしたのだった。 後藤さんはそれを受けて「お父様が娘さんにどんな映画なら怖いとか、そんな風に聞いて、映画が実際出来るなんてすごい素敵な話ですよね」と称えたが、それは観客の総意でもあったのではないかとも思えた。 「本当に家族で映画を作っていましたから。それの最初の1歩が『HOUSE』だったかなと」と千茱萸さん。 後藤さんは「吉永小百合さん主演の『女ざかり』以外は 大林監督作品はほぼ全部見れているので このロイヤル劇場で、ぜひ今後も大林監督の作品を色々上映できたら本当に嬉しいなと思っております」と述べた。 千茱萸さんも「もうちょっとフィルムを保管しておきます」とつぶやき、場内は体温上昇を感じることができたのではないかというぐらい和んだ。 「フィルムの状態が『ふたり』も『青春デンデケデケ』も素晴らしかったです。本当に嬉しいです。フィルムの味わいって、独特の色気があると思いますね」と後藤さんが仰ると千茱萸さんは 「私もデジタルで観ていた時とは違うところですごく泣けてしまって。今日ここから座って見ると、映写窓が2つ見えるんです。映写機があるところって2つの映写機でロールチェンジしながら上映するんですよね。デジタルでは絶対ありえない、この微妙な揺れ。画面がちょっと揺れているんですよ。デジタルにはない、フィルムだけしかない揺れ。魂があるというか。 あとは黒み。暗いじゃないですか。今はよく映りすぎてしまって、毛穴まで見えちゃうんです。光と影という映画の持っていたスタイルが今もこうやってスクリーンで、デジタルでもかかりますけれども、本来のむき出しの魂の姿、これはフィルムで撮られたものなので、フィルムで撮られた時代のものに、その本来の姿に今日は戻してあげることがこの劇場の力と、皆さんの応援の力を借りてできて、すごく映画が喜んでいるなと感じました」 私は映写窓や、フィルムの揺れの話で 映画「ニュー・シネマ・パラダイス」のシーンの数々を思い出したが、そんな人はこの客席に絶対居たと思うがどうなんだろう? 最後に後藤さんは「「ふたり」の何処でも喋っていない初めての撮影時のエピソードをお聞きかせください。これは凄いネタだというものを」とひかりさんと千茱萸さんに求めた。 ええ〜なんだろうと困惑気味であったが 千茱萸さんがまず 「大林映画の特徴かもしれないんですが、映画の中でその時を生きてしまっているので、日常を一生懸命生きているという感じがあって、面白いエピソードが突出してあるとかはなく....」 ひかりさんは「無我夢中で駆け抜けた1か月半。ほんとに夏休みだったんです。尾道で撮影が始まって、みんな期末テストがあるので、夜行で東京に一旦戻って数日、また尾道に戻って。本当に8月いっぱい全部を尾道で撮影していたという高校3年生の夏でした」と当時を回想した。 後藤さんはひかりさんの話に記者魂に火が着いたのか、食い気味に「その時はホテルに泊まったりしていたんですか?」と訊く。 するとひかりさんはすぐさま「サンルート尾道」と応えて 尾道を訪れたことがある観客だろうか、笑いが漏れた。 (大林映画スタッフの定宿として確かに「サンルート尾道(現:尾道ポートプラザホテル)」は有名である) 「必ずホテルの中の1室の1番大きいところをスタッフルームにさせてもらって、そこに冷蔵庫とかコピー機とかを置かせてもらっていました。冷蔵庫はみんな自由にスタッフとかもビールを飲んだりとか、自分の私物を入れていました。若い子達はヨーグルトとかプリンを入れたりしていました。富司(純子)さんは今でもそうなんですけれど、本当に女優さんとして素晴らしいし、奥様でもありますし、家業を支えていらっしゃる。いろんな生活者という言い方が生きてる方なんです。泊まったり、帰ったりと出入りが多かったんです。 でも、出入りする度に『監督はこれ好きかしら』と言って美味しいお土産を冷蔵庫にちゃんと入れてくださったりしてました。普通は出番のない時は皆さん他のお仕事もありますし、短い期間で行ったり来たりするんですが、この時代はまだ色々といい時代で出番がなくても、2、3日だったらどうぞ滞在してくださいみたいなことも言っていて10日ぐらいいる人もいたんですけど(笑)。その中で、富司さんはまるでお母さんが娘たちのご飯の心配をするように映画のスタッフのことを気遣ってくださって『お魚がそこで売っていたから、いいお魚だったから、今日は煮付けにしちゃいます』と言って作ってくださったり。この人、本当にお母さんなんだと思っていました。増田恵子さんも、あのシーンだけのために尾道に来てくださって。小樽の女(笑)。まさか小樽で『はるか、ノスタルジィ』に結びつくとは思いませんでした。今日の「ふたり」の画面の中に『花筐』の原作本が置いてあったりとか、色々細かい仕掛けがありました。別に後々に『花筐』を作るとかじゃなくても、そうやって辻褄が合っていくんだなと」 スタッフとして加わっていた千茱萸さんの証言は、30年以上経っても正確であった。 富司純子さんの話は今回 初めて訊いたものであったけれど、DVDのメイキングにあった制作発表記者会見の席で「家にも、同世代の娘がおりまして〜」と発言されて、今 思えばその娘さんこそ女優の寺島しのぶさんだったと判り、感慨深くなったことも思い出した。 終了予定時間も迫り、最初の予告通りに客席からの質問タイムへと移っていった。 観客2人にマイクが回され、3つほど質問された。 千津子の部屋に飾ってあった笑い声が特徴的な人形の件や、あるいは散らかった美加の部屋で でんぐり返しをして(近くにあったラジカセとか)危なくなかったですか?という質問が為された。 (ただ2問目の質問が どう考えてもおかしなものであった為、千茱萸さん ひかりさんともに困惑されていたが) でんぐり返しについては ここでも我々ファンが知らないような秘話がひかりさんから公開された。 「最初に実加が「どこじゃどこじゃどこじゃ」と言って、杖を持って楽譜を探しているんですが、あの時の体勢は衣装合わせの時にとっても体調が悪くて、あんな風に前かがみで歩いていたんです。そうしたら、監督が「それ面白い」とおっしゃって、あの演出がついたと記憶しています」 まさかあのファーストカットが、不調から派生したものだったのかと驚いた。 33年ぶりに開かれた新たな扉という感じであった。 またファンにとっては 自明の理ではあったのだが 「この映画、しかもほぼオールアフレコなんです。なので、台本に書いていることと毎日セリフが変わるんですね。そして、さらにアフレコの時にまた変わっているんです。それはやっぱり監督が映画として1番いいお芝居や、いいタイミングで物事が進むように本番中でも「はい、目開けて」とか「はい、ちょっと見てもらう」と監督がおっしゃっていたりしています。音に縛られずに芝居を優先して撮ってくださっていました。監督の作品はオールアフレコが多いですよね」 とひかりさんは仰ったが、あとで声入れをするアフレコにおいても大林監督が日々の撮影に創意工夫をされていたことが判り、感動出来たのだった。 千茱萸さんもそのオールアフレコについて補足を加えた。 「多いし、アフレコで本当に足すし、最近は字幕も足すし、詩も入れるしみたいな。足し算、掛け算かなと時々思うんです。ひかりちゃん、この間 富田靖子ちゃんと3人でご飯を食べた時も靖子ちゃんが「当時は監督は何も教えてくれなくて、全部自分でやったと思っていたけど、大間違いだった。すいませんでした」と言っていて。 「はい、こうやって。人差し指、中指、薬指、吐いて、止めて」と全部言ってるんだよね、カメラのそばで。そういう現場音が実は録音テープに残っていて。それもあるんだよね。どうしましょうと思っています」 ここでなんと「さびしんぼう」の富田靖子さんと 石田ひかりさん、大林千茱萸さん3人で食事をしたというポロッとサプライズ報告が! 前述の中江有里さんのこともそうだったけれど 大林組の女優さん、出演者さんが今も繋がり再会していると訊くと やっぱり嬉しい。 (先日の大林千茱萸さんのインスタグラムでも 中嶋朋子さんの朗読劇に ひかりさんに誘われて参加したというのも載っていました) 質問タイムが終わり、ロイヤル劇場の応援プロジェクトの一貫でステージ上で記念写真を撮る時間が取られた。 ステージにはクラウドファンディング的なものに参加した客が5人ほど登壇したが、その中には見慣れた人も.....。 「あっ あの方もいらっしゃっていたのか!」と10数年ぶりにその姿を見付けて懐かしくなったのだった。 その後には 我々、観客にも撮影タイム(フォトセッション)が設けられ一斉にスマフォがステージに向けられた。 「ここで一言ずつ(お二人に)頂いて 終わりしたいと思います。千茱萸様」 「私は2人のように姉妹も兄弟もいなくて、1人っ子なんです。なので、本当にこの映画を見る度に、兄弟がいたらな、姉妹がいたらなって思うんです。でもまあ、こうやって父はちょっと長いロケハンに行ってしまっていて、なかなかその映画が大作のようで帰ってこないんですけれども、残された映画が私にとっては家族というか、兄弟姉妹なので、ほんとにちっとも寂しくなくて、映画を観るといつもそこに父はいるので、今日いらしたお客様たちも大林作品を見る時に なんとなくそうやって監督のことを、気配を感じてもらえたら嬉しいなと思います。今もあの人は寂しがり屋なので、こうやって話していたら絶対その辺にいるんです。ぜひ映画を観た時に思い出して、語り継いでいただけたら、それが私たち映画を作ってきた家族にとって最大の喜びなんです」 続いて石田ひかりさんが 「皆様、今日は本当に楽しい時間をありがとうございました。そして私にとって本当に特別な作品を皆さんと一緒に観ることができて、本当に幸せでした。今 千茱萸さんがおっしゃいましたが、監督はロケハンに出ているようでお姿が見えないから寂しいんですが、でもきっとまた楽しいことを、素晴らしい作品のことを考えているだろうなと思います。「海辺の映画館-キネマの玉手箱」の試写の時に、監督にお会いしたのが最後だったんですけれども、その時に「ひかりで1本新作を考えているから、スケジュールを空けておきなさい」という風におっしゃってくださった言葉が、私は本当に忘れられなくて。監督に会えるその日まで、ちゃんとスケジュールを空けて、そして少しでも成長して監督にお会いできるように頑張っていきたいと思います。監督がいつもおっしゃっていた『映画は過去を変えることはできないけれど、未来を変えることができる』その一員になれたらこんなに幸せなことはないと。それに向かって精進していきたいと思います。ここのところ、世界は本当に悲しいことが続いていて、監督があんなに命をかけて、平和の大切さ、戦争は絶対に起こしちゃいけないということを伝えてくださっていたのに、本当にニュースを見るのも辛い日々がもう何年も続いていて、監督も悲しんでいるだろうなと思います。私たちは表現者として、映画や作品を通して未来を変えていくことができるんだということも伝えていきたいと思います。どうぞ皆さんのお力もお貸しください。本当に今日はありがとうございました。どうぞ皆様、良いお年をお迎えください。ありがとうございました」 −とご挨拶をされた。 これは余談だが、「ふたり」の続編「いもうと」が2019年に刊行され話題になったが 大林監督はその映画化もきっと考えたのだろう。 新作とはこれではないのかと考えると切なくなる。 「いもうと」を大林監督の手で、見たかったなあと...。 大きな拍手の中、石田ひかりさん、大林千茱萸さんがステージを降りていった。 後藤さんがロイヤル劇場への応援や、大林監督の平和の願いを伝えて「ふたり」上映とトークショー全て終了となった。 そして客席からロビーへと戻っていくと、先程以上に懐かしい顔が並んでいたのだった。 その中には 東京や大阪から来られた方々も いらっしゃり吃驚したが、これが映画「ふたり」の力なのかとひとりごちたのだった。 その後、楽屋にお邪魔しご挨拶できるのでは?と其処にいた仲間は(自分も含めて)どこかで思っていたには違いなかったが、それは残念ながら 叶わなかった。 結局、仲間たちと喋りながら もと来た道を戻り名鉄岐阜やJR岐阜を目指した。 名鉄岐阜からは 懐かしい方と一緒に名古屋に向かったが、以前もこんな感じで地下鉄で帰宅したな。と思い出したのだった。 もちろん車中の話題は「ふたり」の感想や先程のトークショーのこと。 大いに盛り上がったのである。 映画『ふたり』 石田ひかりさん、大林千茱萸さん トークレポート |