「ドン・トシキ杯」

 

 1998年3月28日、田中利樹くん(名古屋大学、現・OB)の主催で名古屋で行われた「ドン・トシキ杯」の観戦記です。
 ご存知の通り、僕が10年目で初のオープン制覇を果たした大会です。
 てなわけで、思い入れたっぷりな文章になってますけど、まあお付き合いください。
 (データがまだ手元にない上に、大会から2か月以上も経過してしまったので、事実関係と違っていたり、詳細にまで筆致が及んでいなかったりする部分もあろうかと思いますが、ご容赦ください)

1.プロローグ

 今だから言えるけど、初めから勝つ自信はあった。
 なんとなく、そんな予感がしていた。
 うまくいくときって、そんなもの。何やっても、いいように、いいように事が進んでいく。
 反対に、ダメなときって、どうあがいてもダメ。その日はそういう星回りだったとでも思って、おとなしく諦めるしかない。
 1人で新幹線に乗り込む段階で「今日は勝てそうだぞ」と何度もつぶやいてる自分がいた。
 今から思い出しても、全く不思議。
 としきくんから数日前に届いた「優勝者を予想してください」というメールにも、自信満々に「自分」と書いて返事していた。
 何が僕をここまで強気にさせたのだろうか。

2.としきと私の事情

 としきくん(と僕は呼んでいる)と僕の縁は不思議なものがある。同じ12月2日生まれのA型。QUAPSにお邪魔するようになってしばらく経ってからそう知った。それがきっかけかどうかは知らないけど、ちょいちょいメールでやりとりするようになった。そうこうしているうちに、98年1月のQUAPSの例会担当をとしきくんがやることになった。直接メールで誘ってもらえたので、秋田と2人で出掛けた。途中いろいろと紆余曲折あったものの(後述)、終わってみれば安藤、秋田に次ぐ3位フィニッシュ。けっこう嬉しかった。
 その席上で(だったかどうかはちょっと記憶が怪しい。すんません)、としきくんから「3月末に名古屋でオープンやるんで、ぜひ来てください」とお誘いを受けた。この日の例会で問題との相性がよさそうだと意識したこともあったけど、なにより直接声をかけてもらえたのが嬉しかったので、「ぜひ」と返事して名古屋を後にした。
 その後はメールでのやりとりを繰り返し、「地元密着オープンなのに俺が行っちゃってもいいのかな」なんて気持ちもないことはなかったけど、「まあ直接誘ってもらえたんだしいいか」と思い直して、3月28日の当日を迎えたのである。

3.順調だけど、ちょっと悔しいスタート

 案内図をもらってたはずなのに、地下鉄の駅を降りてからかなり長いこと道に迷った。まいった。自分の方向オンチ加減を再発見。おまけに、いつものようにRyu杯の問題集を抱えてるもんだから、カバンの重いこと重いこと。しばらくして、肩と足の痛みに歩くことを諦め、タクシーを拾う。こっちのタクシー運転手ってフレンドリーだね。東京は最低な人種が大多数だもんな。とてもいい気分で会場まで向かうことができた。タクシー運転手に礼を言い、天白生涯学習センターに到着。ロビーを見ると、そこには泥のように眠る松石徹がいた。
 会場に到着し、アスワン、パンチョ、キムタケなど久々に会うメンツと話して時間潰したが、予定時刻を過ぎても一向に大会が始まる気配がない。その間、ホリエが軽妙なトークで間をつないでみんなのつれづれを慰めていた。なかでも、直前にオンエアになったばかりの自らの『アタック25』ネタには涙を誘われた。最近の児玉はオニだ、なんてみんなと話していたが、まだ始まらない。ホリエの顔にもだんだん焦りが見え始めている(この辺脚色5割増)。
 その刹那、突然ボラの「輝け! ドン・トシキ杯!」との叫び声とともに(あーびっくりした)、としきくんのMCで大会がスタート。いつもより緊張しているようなとしきくんがいた。大丈夫かな…慈母のように心配そうな視線を送る自分がいた。
 1Rは50問ペーパー。オーソドックスな問題で、かっちり得点重ねたものの、たった1問だけ、「テネシー=ウィリアムズ」を落とすというヘボいミスをしてしまう。でも、順調な滑り出し。いつもよりはできてるはず。順位が楽しみ。
 2R開始前に、順位決定戦として、11人が名前を呼ばれる。このうち、上位10人は2Rをシードされることになっていて、正解したら即同点の人のなかでの最上位、誤答は即同点の人のなかでの最下位、11人全員の順位が確定した時点で終了というもの(それぞれの得点は伏せられていて、もちろん後から正解した人でも先に正解した人より得点が高い場合は上位となる)。1問目、なんだか分かんないうちに、安藤、アスワンなどの面々を出し抜いて、自分が正解。これで同点の人のなかでは最上位ということになる。あとは得点次第。
 が、結局発表された自分の順位は4位。1位の安藤とは1点差だったらしい。ってことは、あのヘボいミスさえなければ、1点プラスで安藤たちと同点だったわけで、そうなると早押し先に抜けた自分が予選1位になるはずだった。生涯初の予選1位を取るチャンスだったのに…。しかも、安藤にペーパーで勝つチャンスなんて、もうこれからの自分の人生で2度と巡ってこないかもしれんぞ。後悔先に立たず。まあ、基本をおろそかにしたツケですな。2位は安藤と同点のアスワン。しかし、アスワンは問題文の限定が甘くて×にされた箇所にクレームをつけ、大会期間中ずっと「予選2位の佐藤宏司さん」と呼ばれるたびに「いや、俺が真の1位や(笑)」と繰り返して笑いを誘っていた。

4.そこそこ順調な中盤戦

 予選4位なので、2Rはシード。3Rで選択したコーナーは最終の「早押しボード」。てなわけで、しばらく生涯学習センター内を探検することにした。隣を見ると、そこには図書コーナー。クイズ屋の悲しい性で、さっそくメモ帳片手に訪れ、いっぱいメモを取る。本当は大会見てなきゃいけなかったんだけど。ごめんね。
 さて、そうこうしているうちに出番。早押しボードでは、ある程度はいけるかなって予想があった。QUAPS1月例会の決勝でも「柳寛順(第7回Ryu杯決勝ではスルー)」「竹橋事件」などコアな問題を前フリで単独正解し、安藤、秋田の次席につけることができたわけだし、何より、問題はそこまで難しくはならないだろうという安心感があった。案の定、始まってみると押しごろな難易度の問題が続き、いくつか日本史問題を早押し正解しているうちに安全圏に到達。こんなに早押しボードで危なげなく勝てたのは初めてかもしれない。
 続く4Rはボード。イヤな思い出が頭をよぎる。同じくQUAPS1月例会の準決勝。僕は最下位タイで敗退している。ボードが苦手なのもここまでくるとどうにもこうにも。続いて行われた敗者復活で7馬身ちぎって復活できたからよかったものの、なんともヘボかった。知識量増やすべくなんとかしないといかんよなあ。さて、今回のボードは、かつて「K-1 Grand Prix」などで行われていた、不正解者数だけポイントが入るルール。正解問題数はさほどでもなかったものの、少数正解問題をいくつかヒットしたのが功を奏したか(記憶に間違いなければやはり日本史問題だったような…)、ギリギリの線で通過。さあ、鬼門をクリアしたぞ。ここからが見せ場。

5.怒涛の終盤戦。そして…

 準決勝は1vs1対決クイズ。ルールは5ポイント争奪クイズ。正解は相手が1ポイント減り、誤答は自分が1ポイント減る。0ポイントになった方が負け、というおなじみの形式。予選上位の人から対戦相手を指名していくわけなんだけど、自分より順位が上だった3人がそっくりそのまま残っている。おまけに、自分が指名しようと思っている人を次から次へと指名していくし…。さて、自分が指名する番になった。残っているのは、ホリエ、松石、キムタケの3人。ちょっと考えた末、松石を指名。理由はあんまないけど、松石がよかったというよりは、なんとなく他の2人がイヤだったというのが本音だった。ホリエは勢いに乗せると恐いし、キムタケには2週前の「一橋オープン」2○2×で痛い目にあってるし…。てなわけで、消去法で残った松石を指名したのである。
 上位3人が順調に白星を重ねていき、いよいよ自分たちの出番となった。落ち着きを取り戻すべく1回深呼吸し、第2回「早稲田オープン」以来愛用している騎手用のゴーグルをつける。それからのことは…信じられないくらいの快進撃だった。速攻の数々で翻弄していく自分がそこにはいた。「1967年の日本ダービーをアサデンコウで制/した…」「増沢末夫」なんてラッキーな問題も出た。「接待クイズ」かと思った。あっという間に4連取でリーチ。そして、5問目、「かつては『筑前今様』という/題名…」ランプがついた。答える。『黒田節』! 正解音が響く。自分でもまさかの5タテでの勝利。信じられなかった。いくら安めの問題だとはいっても、こんなに完勝できるとは思わなかった。さあ、あと1つ。
 決勝はオーソドックスな7○3×。いきなりホリエが2×をつけるという荒れた展開になり、他の出場者もそれぞれ×を背負っていた。が、自分は間違えなかった。珍しいこともあるもんだ。冷静に、終始他の4人をリードして正解を重ねていくことができた。でも、4点目になった頃からにわかに息苦しくなってきた。これが初優勝のプレッシャーか。この重圧に勝てないと美酒は味わえない。途中「バッテラ」を正解したときには「これがウイニング・アンサーにならなくてよかった…」と内心ホッとしたりもしたが、いよいよゴールが見えてきた。6○0×でリーチ。ここから、自ら「僕はとぶ人なのです」と語るホリエがとんでいき、続いて問題の安さに悪戦苦闘していた安藤も3×で消えていった。残り2人。しかし、そこから猛烈なチャージをかけてきたのはアスワン。2×の身ながら正解を重ねていき、慎重になりすぎて手が出せないでいた自分を尻目に遂に追っかけリーチ。もういくしかない。次の問題「…『新しいスコットランド』/…」という絶妙のポイントでハネたものの、「…ニューヘブリデス諸島」と大ボケ(正解は「ノヴァスコシア州」)。会場から失笑も漏れる。ここで負けたら一生ものの恥だ。次の問題を待つ。前フリでは分からなかったけど「…ゴマノハグサ科/の…」と聞いて、知らないうちに手が動いていた。そんなん他に知らん! 「ジキタリス」。正解音! 勝負は終わった。この瞬間、僕は予感を現実のものにしてみせたのである。
 それからのことは、何をしゃべったのか全く覚えていない。ってことは、相当気分が高揚していたのだろう。でも、勝ったときって、そんなもんかもしれない。今まで味わったことはなかったけど、なんとなくそんな気がした。

6.大会を振り返って

 この大会は、始める前に「地域密着型」「フレンドリー」をセールスポイントにしていた。その点からいくと、問題レヴェルはまあ適正だったように思う。が、残念だったのは、大会の進行上にいくつか不手際が見受けられたのと、としきくんが時々口にしていた投げやりな言葉(「まあ、クイズなんて所詮は遊びですから」という類の言葉をよく耳にした覚えがある)だった。僕らよく知ったうちわの人間だけでやるならそれでも許されるだろうけど、「フレンドリー」を頼りに参加したオープン初参加の人たちにはどのように写っただろうか。「フレンドリー」を売りにしていたのなら、そこら辺のところにはぜひ配慮してもらいたかった。
 とはいえ、今回の大会には合格点を与えてもいいだろうと個人的には思う。今回の初優勝は素直にとても嬉しい。10年間待ちに待った初優勝というのも嬉しいけど、何といっても、自分を慕ってくれる子の大会で初優勝できたという事実が嬉しかった。自分なんか呼んでくれたとしきくんの期待に応えることができたと思うと、なんだか胸がいっぱいになってきた。

7.宴の後で

 大会終了後、キムタケの車で、豊嶋さん、パンチョ、萩原くんと5人で食事に。なんでも「あんかけスパゲッティ」なるものを食べさせる店があるということで楽しみにして出掛けたものの、入った店のメニューに「あんかけスパゲッティ」はなかった。まあ、またの機会やね。しばらく世間話して過ごした後、キムタケに適当なところまで車で送ってもらい、豊嶋さん、パンチョと名古屋駅へ。新幹線の指定券を入手したものの、1時間近く待ち時間があったので、先に出るパンチョを見送るべく下りホームへと向かい、ダベりながら時間を潰す。そうこうしているうちに、パンチョの乗る電車到着。「次はDDTで」と再会を約束したものの、まさか半月後のQUAPSでまた顔突き合わせることになろうとはつゆ知らず。「さて、俺も帰るかな」。自分の乗る電車の到着時間が近くなったのを確認して、上りホームへと急いだ。

8.エピローグ

 新幹線に揺られて、車窓に映るネオンを見ながら思った。
 1年後、2年後に、今日のことどう思い出すんだろうって。
 多分、この日のことって、一生忘れられないんじゃないかな。
 周りにいた大勢の人たちとの思い出と一緒に。
 そう考えると、1人で乗る電車が無性に寂しくなって、思わず携帯片手に電話をかけてしまった。
 電話の向こうには、最大級の祝福をくれたあるプレイヤーがいた。
 その男の名、秋田芳巳。長い休養を終え、今また戦いの舞台に戻るべく爪を磨いている男だった。

(「ドン・トシキ杯」完)

 

 

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