第8回「一橋オープン」

 

 1999年2月28日、一橋大学クイズ研究会の主催で行われた第8回「一橋オープン」の観戦記です。
 8回も続いているオープン大会って、こことうちんとこ(Ryu杯)くらいではないでしょうか。
 例によって記憶だけを頼りに書いているので、細かい点で事実と異なっている点もあるかと思いますが、ご容赦ください。

 

1.プロローグ

 布川は、相変わらず独走状態で先を走っている。
 追いかける4人のうち、1番布川に近いところにいるのが僕。3点差くらいまで差を詰めてきたものの、「ちょっと届きそうもないか」という気配が濃厚になってきた。でも、最後まで勝負は諦めない。
 僕の後ろにいるのは、慶応2年のジミー(花井尚)、そして一橋1年の相田真人と東大1年の上野裕之。1年生の2人はそんなに恐怖感ないけど、ジミーの知識量はちょっとコワい。まさに「後門の狼」とでも言おうか。
 布川がリーチをかけた。問題が読まれる。「…国分寺商店街の」というキーワードが聞こえてくる。あっと思って反応したけど、布川の手が動く方が速かった。布川答える、「椎名誠」。
 正解音が鳴り響く。
 終わった。
 記念すべき第1回「一橋オープソ」の優勝者が決定した瞬間だった。
 合計ポイントで僕が一応「準優勝」という扱いとなった
 しかし、彼我の力の差は歴然だった。
 「悔しいなあ…」。
 僕の一橋での戦いは、ここから始まった。

2.What's 一橋オープン?

 おそらくもう知っている人(あるいは覚えている人)も少ないと思われる第1回の決勝の様子から入ってみました。
 今年の大会の様子を語る前に、まずは一橋オープンの歴史について。
 そもそも、どのようにして「一橋オープン」が誕生したのかというところを語るときに、「一橋四天王」の存在を語らないわけにはいかない。根岸潤、草間宏貴、武井和弘、中村誠という、昭和63年入学組(つまり、僕と同期。他には慶応の緒方創造など)のなかでもトップクラスの実力を誇った4人を擁していた90〜91年当時は、一橋の第1期黄金時代だった。ほとんど無名状態だった一橋が今日に至るまでその名をあまねく天下に知らしめすようになった原動力がこの4人(+1年上の能勢さん)だったと言っても過言ではないだろう。実際、僕はいろんなところで彼らと手合わせしたものの、壁に跳ね返されることがほとんどだった。第1回の大学対抗戦(91年12月)の1vs1でも根岸に負けているし、草間に至っては当たって勝ったためしがなかった。卒業直前に行われた第6回『史上最強』の予選の早押しで根岸にリベンジを果たして本戦進出を果たしたくらいかな、僕が勝ったのって。…ちょっと話がズレたけど、とにかく、当時の関東学生クイズ界をリードしていた早稲田と一橋のなかでも特に最強のメンバーだったのがこの4人なのだ。そこら辺は、秋田や上野など「当時の若手プレイヤー」 に聞いてもらえれば分かってもらえるかと思う。どれだけこの4人が強かったか。
 その4人が、92年春、「卒業記念に大会を開催したい。それも、他の大学からも多数の参加者を募ってやりたい」と大会を開催することになった。当時まだまだ例を見なかった(Ryu杯もこの頃は「早稲田の例会内でのクローズド大会」という位置付けだった。Ryu杯がオープン化されるのは翌93年の第2回でのこと)「オープン大会」の始まりである。そういった意味でもエポックメーキングな大会だった。例の対抗戦以来すっかり親しくなった我々早稲田の面々や、法政(研究会。当時まだリバティは存在していなかった。リバティ発足は93年7月)の宮里吉徳率いるインカレサークル「KIQS」のメンバーなど、100人を超す参加者が集まったように思う。コンパも大盛況だった。もう今となっては行われることもないであろう「一橋流コンパ(注)」で大いに盛り上がった。ちなみに、第1回大会の正式名称は「一橋オープソ」。よく見ると、最後がカタカナの「ん」じゃなくて「そ」になっているのがミソ。そんなくだらないところにシャレ心を盛り込んでいく4人の演出がなんだか妙に嬉しかったのをよく覚えている。この名称も、洒脱を好まなかった第2回の 総合プロデューサー小川悟によって翌年から「オープン」に改められ、今日に至っている。
 僕的には、この大会は、かつてはなぜかは知らないけど「相性のいい」大会だった。第1回の準優勝を皮切りに、第2回(4位)、第3回(3位)、第4回(3×でとんだため10位)と4年連続で決勝に進出を果たしていた。例年「Ryu杯直後」というローテーションだったために、Ryu杯のために問題作成をしてきた成果が反映されていたのがその理由だったのだろうか。しかし、第5回で初めて3R敗退。相対的な実力が落ち始めていた頃だった。第6回ではなんとか準決勝第2ステージ(ベスト6)まで進んだものの、昨年の第7回では屈辱の2R2○2×負け。もはや僕にとって一橋は「相性のいい大会」ではなかった。
 それだけに、今年は雪辱を期す気持ちだけはいっちょまえに強かった。目指すは、4年ぶり5回目の決勝。ただ、今現在の自分の力、そして99年オープン初参加である点、さらにRyu杯準備オーヴァーワークの反動から来るものかどうかは知らないけどここ2か月まったく「やる気なし夫」であるということからすると、その目指すところがほぼ「高望み」でありそうなことは十分承知していた。だったら、自分なりにベストを尽くして、納得のいく勝負ができれば、それでいい。

 <まめちしき>
○一橋流コンパ…例の『学連本』こと『挑戦!! クイズ王への道』でもほんの少しだけ触れられていたコンパ形式。ある決められた人が「自己紹介」をしていき、その人のプロフィールに該当する人はその人と一緒に飲まなくてはならない、というもの。例えば、自己紹介をする人が「血液型はA型」というと、会場中のA型の人間が一斉に立ち上がり、その人とともに1杯ビールを飲むことになる。完全自己申告ではあるが、申告漏れが発覚した場合は3倍のペナルティとなる。また、言うまでもないが、自己紹介をしている人はことあるごとに延々と飲まなくてはならないので、かなりヘヴィー。第1回終了後のコンパで一橋の内輪のコンパ以外では初めて行われ、新井健一の「大学は立命館」の自己紹介によって「立命館大学を受験した経験がある人(←このように多少のヴァリエーションが加えられることもあった)」という声があがったのに呼応して何人かの参加者が立ち上がるなかで、ひっそりと立ち上がっている布川の姿が発見されたとき、座は最高潮の盛り上がりを見せた。また、僕が「自己紹介」に回るときには、決まって「FNS」のゲートの件に触れられ、その都度ゲート落ちの回数と同 じ5杯飲まされたという苦い経験もある。この形式は、後にこれを気に入った「史上最強」の問題作成者大木一美さんの手によって「史上最強」の打ち上げコンパにも導入され、第9回のときには誰かの自己紹介で「3択通過回数だけ」という声が上がったところすかさず水津康夫さんから「殺す気か!」というリアクションがあり、そのあまりのタイミングのよさに場がメチャクチャ沸いたものだった。ただ、この形式の弊害として「うるさくてじっくり話ができない」「個人個人の交流を持ちづらい」なども挙げられ、またいつしか「自己紹介」の内容もマンネリになってきたため、いつからかパッタリと行われなくなってしまった。

3.とにかく、よく食べてよく飲んだこと

 そんなこんなで当日。8時ちょい過ぎに自宅を発ち、相模線→横浜線→中央線というルートで国分寺に向かう。途中、八王子駅で「駆け込み乗車をしようとした(←よい子はマネしないでくだちゃいねー)挙句にドアに挟まれる」という恥っさらしを繰り広げたものの、9:45頃に無事国分寺駅に到着。当初の予定より若干早目に着いた。さて、誰ぞおらんか…と辺りを見渡してみたものの、人影は少ない。いつもなら見るからに「いかにも」って連中がウジャウジャいるんだけど。お、あそこにおわしますのは松尾浩大先生じゃないか。ヤバいヤバい、Ryu杯での1件、まだ怒ってるのかな? 「POISONパンチ」を食らう前に挨拶しないと…。三跪九叩頭の礼(注)をもってご挨拶。畏くも畏れ多くも、こんな罪深いバカチンを松尾さんにおかせられてはお許しいただいたようである。心の広さに乾杯していると、インテリヤクザこと飯田暁登場。久しぶりに見るけど、相変わらずノリは変わっていない。挨拶代わりの膝蹴りを食らったので(注.寸止め。この辺は顔面キックでムレネコを流血させた黒巣とは若干違うところか…)、越中詩郎ばりのヒップアタックで応戦 しておいた。「かったるいからタクシーで行こう」と飯田に誘われたので、なすがままにタクシーで小平校舎へ。
 会場となる教室が昨年までと変更になったとのことなので、一橋OBの飯田に導かれてつつその建物まで行くと、まだ受付は始まっていなかった。で、結局一橋学園駅まで歩くハメになる。なんだったんだ、タクシーで来たうちらは。駅隣のソバ屋「戸隠」に行こうという飯田の提案で、駅にいたラガー(渡辺徹)、タカシ(小林崇)とともに牛めしを食す。うまい。
 しばしくつろいだ後、改めて会場入り。沼屋の横に「デカダンス1」の問題集を抱えたノビ発見。「生きてゐるノビ」を見るのは法政オープン以来である。Ryu杯は結局フラれてしまったし。「てめー、Ryu杯来るって言ってたじゃねーか、このバカイヌ!」と殴る蹴るの暴行を加えつつ(一部ウソ)近況を聞いたのだけど、なんでもRyu杯当日は遅れて会場に顔を見せていたそうである。ちーとも知らなかった。いかにRyu杯当日の僕がボロボロの状態だったかを物語っているといえよう。
 当初の予定から30分遅れの11:30に大会スタート。司会は相田聡一と石川貞雄。貞雄は序盤からテンポはずしまくっていた。前回優勝者のノビへのインタビューも段取りなんてあったもんじゃーない。どうも「ミスキャスト」という気もしないでもなかったけど、考えてみれば司会なんて初めての体験だろうし、いきなり多くを求めるのは酷というものか。とりあえずは、他の連中とともに、ドラえもんばりに「あったかーい目…のつもり」で見守ってやることにした(ただしヤジを飛ばすことだけは忘れないうちら…)。
 ペーパーが始まる。形式は毎度おなじみの「筆記25問+3択50問」というものだったのだけれど、筆記がさっぱり分からない。例年より空欄の目立つこと目立つこと。「もしかして、分かんないのって俺だけなの?」ととても不安になる。25問中どうひいき目に見積もっても10問くらいしかできなかったよー。ほぼ2か月ロクに問題作りもしなければ他人の問題すら見ていなかったツケがここに来てカツーンと出てしまったようである。対照的に、3択の方は自分なりにけっこうできた。選択肢見ているうちに答を思い出したものもあれば、明らかにカンプレー炸裂で正解したものもあった。ま、これで最悪予選落ちしたとしても3択正解数のワイルドカードで拾ってもらえそうだ。
 再開までかなり時間があったのでどうしようかと思っていたところ、飯田に「龍園行ってビール飲もう」と誘われたので、またもなすがままに龍園へ。この「龍園」というラーメン屋は、もう6年ほど前の『アタック25』「大学クイズ研ペア大会」のなかで紹介されたという店で、メニューのうちの1つ「ぷるぷる丼」はパーソナル問題の答にまでなったほど有名なものであるということは、プレイヤーマニアのはしくれを自認する貴兄ならぜひとも押さえておきたいネタである。どうでもいいけど。ともあれ、そこに、飯田、沼屋、ノビ、金谷、奈良間、一橋OBとおぼしき子(名前知らなくてゴメン)、そして飯田に強引に拉致された待木と僕の8人で出かけ、2階の座敷を占拠。とりあえずビールを頼んだんだけど、奥から出されたビールは…凍っていた。幾分かマシなのを選んで人数分注いでいったけど、待木のグラスなんてほとんど「ビールシャーベット」だった。そういえば、大昔カナダの「ラバット」ってビール会社が「アイスビール」なんて出したことあったけど、あっという間に姿消したなんてことあったなあ。思い出してしまった。自分的にはけっこうな量のビール飲む。そして飲まされ る。おいおい、2R大丈夫なのか?
 13:30にペーパーの結果発表。1位は関口。生涯初PPらしい。入場テーマが『結婚行進曲』(byメンデルスゾーン)だった。え、このBGM差し込み?(←そんなバカな…) それにしても、73点かあ。同じ「今年オープン初参加」なのに大したもんだなあ…。
 結局、自分は55点(自己採点。実際にはもうちょい低かったかもしれない)で27位。まあ、こんなもんかな。あれだけ筆記はずしてよくこの順位でとどまってくれたと思うよ。さ、巻き返しはここから…。

 <まめちしき>
○三跪九叩頭の礼…中国で明・清朝の頃に行われていた、皇帝への謁見方法。3回ひざまずき(三跪)、その都度3回ずつ、計9回地につくまで頭を下げる(九叩頭)。

4.それなりに、いいちょうし

 2Rは2○2×。第3セットにマッチメイクされた。同じ組には秋田、高山、待木、松本隆一くん(横浜国立大学OB)などがいる。しかし、最近2○2×で待木と当たってばっか。明治でも、法政でも当たったよなあ。なにげに高山とも同じ組になることが多い。
 さて本番。難易度は自分にとってちょうどいいくらい。これはイイ感じだぞ。ま、大事にいきましょう。序盤に1つ正解し、あとは待つだけ。無理して×を背負うと後半戦キツくなるし。そうこうしているうちに、秋田、高山と先に抜けていった。さあ、ボチボチ、かな。次の問題、何か植物のことを聞いているとおぼしき長ーい前フリが読まれたのでヤマ張って待ってたら「子供の頃から優れている人のことを…」と来たので、難なく「栴檀」を正解して3抜け。上々だね。2か月何もしてなかったわりには指は調子いいみたい。
 3Rは、4つあるコーナーのうち、「A-1 Grand Prix」を選択。ま、ベースになってるルールは「アタック風サヴァイヴァル」なんだけど、それを2セット行って、それぞれのセットごとに終了時点で上位から「10点、6点、4点、3点、2点、1点、0点…」と順位点をつけていき、その合計を競うというもの(同点で複数の人間が並んだときは、その合計点を等分して配分。例えば、4位タイで2人並んだときは、得点は「3点+2点」を2で割った「2.5点」となる)。
 言うまでもなく、このルールでは、第1セットがかなり重要になってくる。第1セットで10点や6点を取ることができれば第2セットは慎重に戦ってポイントを追加しさえすればOKになる。しかし、まかり間違って第1セットノーポイントなんてことになってしまったら、第2セットはもう10点ゲットしか勝つ手段はなくなるのである。その他のセオリーとしては、まあ、通常の「アタック風サヴァイヴァル」同様に「不必要に誤答を重ね過ぎないようにする」「常に他のプレイヤーとの得点状況把握に努めて、その都度フレキシブルに作戦を切り換える」といったところか。
 序盤は慎重に出方をうかがうつもりだった。ところが2問目、「当時の皇后『日葉酢媛尊』が亡くなった/とき…」うわ、手が勝手に動いちゃったよ。とはいっても、問題文の続きで考えられるのは1つ。だとしたら…答は「野見宿禰!」。正解音。ナイス知識。いくらなんでも「(形象)埴輪」が正解ってことはないだろうなあと思って、問題文の続きを「…殉死の風習を廃止するために埴輪を作って古墳の脇に立てるように『垂仁天皇』に提唱したという人物で、『当麻蹶速』と日本初の相撲勝負を行い勝ったことで知られる…」と読んで正解したんだけど…ギャラリーは「なんのことやら…」って感じでシーンとしてた。ガクー。
 その後は、精神的にも、スコア的にも優位に立てたのが功を奏したか、「多分そうだろうなあ…」というナイス勇気系の問題をいくつかゲットすることができた。そんなさなか、「『可愛い目元をほんのり酒に染めた女が高く/さし掛けた…」また手が勝手に動いた。これは一昨年夏の第7回「Ryu杯」4Rで出した問題。ムレネコが間違えたんだよ、確か。正解なんだったっけ…。『乗合馬車』? いや、それは牟禮が間違って言った答の方。じゃあ何だっけ。作者は…正宗白鳥、ってことは…思い出した。答える、『何処へ』。正解音。こういう「自作問題とかぶっての会心の1撃」は実に気分いい。一瞬「差し込み」かとも思ったけど、多分スタッフは俺に差し込むいわれも義理もないはずなので偶然に違いないだろう。逆の意味での「ハメる差し込み」はしたとしても(後述)。
 結局、この先も自分向きの問題をいくつか正解し、ノビを何点差かでかわしてトップで第1セットを終了することができた。10点ゲット。これは非常に大きい。これで第2セットは誤答しないように気をつけながらいくつか正解すればそれでOK。準決勝がついそこまで見えてきた。ノビが手堅く2位に入り6点獲得したものの、もう一方の強敵と目していた塚本は誤答でツブれていってまさかのノーポイント。ラガー、飯田も誤答が響いて低空飛行。こりゃ、ノビのポイントだけケアしてればよさげだな。
 第2セットスタート。作成者が変わったのか、急に問題傾向がガラリと変わり、途端にパタっと押せなくなる。ランプつけることすらままならない。もっとも「金持ちケンカせず」とやらで、気持ちのうえでは全然焦らなかった。焦って自滅するようなことになるくらいなら、かえって地蔵でいた方がほよどいい。そうしているうちに、周りが次々と勝手に誤答でツブれていき、気がつくと1問も正解していないのに3位タイ。こりゃ楽でいいや。ただ、第1セットと決定的に違うのは、塚本が次から次へと正解重ねてダントツのトップを走っているということ。まあ、第1セット0点の塚本に10点取ってもらう分には展開上かえって好都合なので、それはそれでとてもいい。あとはノビとの2位争いだけか。しかし、さすが2連勝中のディフェンディングチャンプ。シブといなあ…。
 終盤、「『なぜ山に登るのか/と…」なんて問題が出た。おいおい、タイムレースでもあるまいし、今さら「ジョージ=マロリー」でもないよなあ、他の問題と著しくバランス損なうし…なんて思って、あえて、この私こと俺様があえて手を出さないでいたら、案の定他の誰かがそこで押して答えた「マロリー」は誤答だった。問題文がどう続いていったかは忘れたけど、答は記憶が確かなら「西堀栄三郎」。貞雄「いやあ、山本さん辺りにもっと早いところで押して引っかかって欲しかったんですけど」。そうは問屋がおろさないっつーの。それまでの問題聞いてりゃこんなところでマロリーもないもんだってことは3歳児でも分かりそうなもんだし。どーせ地雷仕掛けるならもっとハイブリッドな地雷仕掛けなさいな。ま、地雷が100%悪いとまでは言わないけどねん。
 その後、狭間狭間に来る「向いた問題」をいくつか押さえて、最終的にはノビと並んで2位タイまで挽回。このセットの得点は「(6点+4点)/2」で5点。これで2セットの合計点は15点となり、本人ですら予想外だった1抜け。「6点+5点=11点」と手堅くまとめたノビが2抜け。そして3つ目の椅子を手にしたのは、第2セット1位の塚本。第1セット0点から挽回したのはすごいの一言に尽きる。
 今年に入ってからずーっとテレンコテレンコ過ごしてきてたからさぞやヘボヘボになってるだろうと思いきや、この結果。上出来以外の何物でもない。ここまで来たら、もう1つかわして、ぜひ4年ぶりの決勝進出を果たしたいところ。
 さて、うちらの出た「A-1 Grand Prix」は1つ目のコーナーだったので、準決勝までは相当間がある。お腹もすいたので、仕事を終えて仙台からかけつけたこーぢを一橋学園駅に迎えに行きがてら、深澤とマックに出かける。そして、帰り道に桜餅まで買って食べる。メチャクチャだよ、俺の食欲。胃拡張にでもなっちゃったのかね?

5.「それなり」は、所詮は「それなり」

 準決勝は2つのコーナーに分かれて行われる。早押しボード基本の「LIMITed」と、3ポイントに到達した人が通過クイズかゲートクイズ(1人筆答クイズ)を選択することができる「PASSAGE OR GATE」。やっぱりかなり迷った。明大オープンのときと同様に早ボの方に行こうかとも思ったけど、塚本、ノビ、クロスたちは多分早ボに行くだろうし、今回は弱気に「PASSAGE OR GATE」の方にしとくことにした。しかし、フタを開けてみると、ノビは「PASSAGE…」の方に来ていた。そりゃねーって。しかも、秋田、春日もこちら側。まあ、どっちに行ってもメンツ厳しいことには変わりないけど。けど、こりゃー厄介なメンバーだな。
 コーナー開始。やっぱり、問題の難易度は上がっていた。ま、当然さね。走るのは秋田、ノビの優勝経験者2人。春日がそれに続く。自分は、隙間隙間に舞い込む「向いた問題」を確実にゲットするのが精一杯で、得点は伸びない。こりゃー、3ポイント到達はワンチャンスしかなさそうだぞ。だったら、ダメもとで通過にかけるしかない。他の人がどう考えてたかはともかく、僕はそんな理由で「通過クイズのみ」という方針を決めていた。しかし、他の5人も、誰1人1度としてゲートクイズを選ばなかった。そりゃそうだ。ゲートで2回とも正解できるなんて保証、どこにもないしね。第一、僕みたいに「2回3ポイントに到達できるかどうかも怪しい」ってヤツもいるんだし。このメンツでやってるんだしね。
 序盤戦最大のポイントは、「新潟県初の県民栄誉賞を受賞/した…」、分かった、押した、ランプは…ついてない、あれ? ランプがついていたのは秋田。僕はこの瞬間に「…今日はこれまでかな」って予感がした。逆に、秋田は僕をコンマ何秒押さえてこの問題を正解したことで「今日はいける」と思ったらしい。本当に勝負のアヤは微妙なものである。
 そうこうしてるうちに、隙間隙間を埋めていく地道な作業が功を奏したか、なんとか3ポイントに到達。これが最初で最後のチャンスかも。1問に集中して待つ…西洋の画家について尋ねているとおぼしき前フリの後、「…その名はイン/カ帝国…」僕の左側でボタンを押す音がする。隣の西村が押したみたい。それが、離れた逆サイドにいた秋田やノビたちには僕が押したように聞こえたらしく、「やべっ」「しまった」などと声がする。しかし、僕は全然ピンと来てなくて、ボタンを押すこともできなかったのである。西村がこの「ピサロ(注)」を正解して僕のポイントが0に戻った後、再びパタっとランプがつかなくなる。やっぱワンチャンスだったのか。逃した魚は大きかったみたい。
 このコーナー、1抜けを決めたのは、その秋田。「黒人として初めてラジオで歌った…」という前フリだけで「ハティ=マクダニエル」を正解し、2度目の通過席であっさりと決勝進出を決めた。その後は、勝負はほぼノビと春日の2人だけで勝負が続けられたような印象。お互いがお互いの通過クイズで阻止を続け、何度も通過席に立つものの勝ち抜けには至らない。すっかり蚊帳の外の僕は「…早くどっちか抜けちゃってくれよ」なんて思っていた。どちらかが抜ければ、きっともう片方も阻止役がいないからすぐ抜けちゃうはずなのにね。終盤僕も何回かランプをつけたものの、正解と誤答を繰り返し一進一退のうちに、結局2度と通過席には行けずに規定問題数終了。結局、通過席に行った回数が圧倒的に多かったノビと春日が決勝進出となった。
 それまでの自分の状態を考えれば、こんなもんでもきっと上出来な結果なのだろう。ただ、これで満足していていいわけがない。やるからには常に「勝つこと」を目指していかないとダメ。それができないのなら、なんとかしていかないと。「決勝に行くための何かが今の自分には欠けている」っていうことがよく分かったので、今後その「足りないもの」をよく見極めて補給していくようにしないと。ま、モティヴェーションがあったらの話なんですけどね。

 <まめちしき>
○ピサロ…カミーユ=ピサロ。フランス印象派の画家。クールベやコローに刺激を受けた後、モネと出会い印象派に加わる。その作風はセザンヌやゴーギャンなどに強い影響を与えた。ちなみに、インカ帝国を滅ぼしたスペインのコンキスタドーレスのピサロのフルネームは「フランシスコ=ピサロ」。

6.カンタンに、その後のことを…

 決勝。3連覇を目指すノビを阻んだのは、飼い主のクロス。僅差だったけどね。クロスは「法政オープン」以外では初めての優勝。ノビは準優勝となった。もっとも、2連覇の前年は準優勝だし、その前の年は優勝してるし、これで5年連続連対ってことになる。同一オープンで5年連続連対なんて記録、おそらく今後2度と出ないだろう。その話をノビにしたら、「いやあ、悔しいですよ」「だって、準優勝よ」「いや、準優勝はいいとしても、クロスに負けたのが悔しい。他の4人なら誰に負けてもよかったけど、クロスにだけは負けたくなかった…」だと。いろいろ複雑らしい。そのノビの横で挑発するかのようにポージングするクロス。あーおもしろかった。

7.大会を振り返って

 まあ、可もなく不可もなし。そういうとたいへん言葉は悪いけど、目立った不可がなかっただけナンボかましだと思うわ。
 大会自体は、極めてオーソドックスなものだった。演出はほとんどなかったけど、僕は別にそれでもいいと思う。何もどの大会も演出こだわらなきゃいけないなんて決まりはないし(あるならあるにこしたことはないけど、その程度。必ずなきゃいけないという昨今の風潮は間違ってると思う。本当に大切なものは、あくまで問題であり、企画であるはず)。
 ただ、演出ないのはともかくとして、やっぱ、司会。舟太も言ってたけど、はっきり言って石川貞雄は司会に不向き。たった1回で決めつけるのもどうかと思うけど、もう上がり目ないっしょ。まあ、そりゃおサムいものだった。段取りは悪いし、トークはテンポ悪いし…。大会の流れを損なうことすらあったもんなあ。「うまい司会」である必要まではないかもしれないけど、最低限「大会の流れを阻害しない司会」である必要はあるんじゃない? もはや「あったかーい目」で見守る限界を超えてたね。僕の司会もこんな偉そうなこと言えた義理じゃないかもしれないけど、これならまだうちの大会の方がちったーマシだよ。貞雄の司会で大会全体の印象を下げてしまったのはとても残念。演出がない大会はその分司会のトークが大会の盛り上がりを大きく左右するはずなので、その点でもなおのことこの日の貞雄の司会は「いかがなものか」と思ってしまう(この点については前回の「Ryu杯」も同罪かもしれないですけどね)。
 問題の難易度的にはちょうどよかったのでは。そこらへんはまったく違和感なかった。
 あと、会場が死ぬほど寒かった件だけど…かなりブーブー言ってる人多かったけど、こればかりはスタッフの努力でどうにかなるもんじゃなかったし、しょうがなかったんじゃないかと思う。3月いっぱいで廃止になる小平校舎の建物の暖房設備そのものがもうストップしてたんだし。事前にその旨はちゃんとインフォメーションされていて、ちゃんと「暖かい服装でお越しください」って言われてたんだし、この件については僕は「不可抗力」と考えている。まあ、「あんたらは酒飲んでたから平気だったんだろ」って言われちゃうと反論できませんけどね。え、別問題?

8.戦いすんで…

 コンパに出るつもりはなかったので、あっさり撤収。箱根の湯治帰りで疲れてたしね。とりあえず、駒形にだけ一言かけて消える。なんか、コンパ会場ではいろいろあったみたいだけど、それは僕が口を差し挟むことではないので割愛。

9.エピローグ

 実は、「一橋オープン8回皆勤」というクイズ屋はもはや僕1人(「俺もいるぞ」という人いたらご一報ください)。
 あの第1回オープソの頃から7年。
 本当にいろいろなことがあった。
 その間、いろいろな人が現れ、名を成し、そして消えていった。
 そして、僕は…。
 天下を掴むことを目指していた7年前の情熱が、どれだけ今の自分に残っているのだろうか…。
 盛者必衰は世のならい。
 そして、今の自分には、あの頃の勢いはもはやない。
 だったら…。
 一瞬一瞬の「花」を満天下に見せつけてやることにこだわって、今後も走り続けるのみ。
 それが、今の自分のレゾンデートル。

(第8回「一橋オープン」完)

 

 

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