通り過ぎた風たちへ
その日、帰る十数分前からそわそわしていたことを、隣の同僚に気づかれていた。鞄を手に立ち上がろうとする僕に、満面の笑顔が待ち受けていた。そうか、バレバレだったか。わかりやすい性格だよな、僕ってやつは。思えば、僕が抱えた鞄は、その日待ち合わせをする人にもらったものだ。実は待ち合わせだけでドキドキする。その程度の回数しか経験していない、ということだ。誰かと出かける、ただそれだけのことに。
その日はフォーキング・ワールド・ライブを、赤坂グラフィティに観に行った。さすが「ワールド」が付くだけあって出演者は豪華だ。瀬戸口修さん、サスケさん、きくち寛さんの3人、いや厳密には4人だ。3組だけど4人。そう、サスケさんは
2人組なのだ。しかも兄弟デュオ……を越えている。なんたって顔も声も体格も瓜ふたつの双子デュオなんだから。
デビューもほぼ同時期のシンガーソングライター。そしてもうすぐデビュー30周年に手の届くところにまで来ている3者が同じステージ上に立つ。こういう光景はなかなか見られるものじゃない。貴重だ。しかも構成が泣かせる。まずはその場で
出演者がじゃんけん。勝った人から順番にステージを受け持つ。これは歌手歴が長いからこそできる技。どんな順序になろうとも、自分の歌を存分に聴かせる確固たる自信とプロとしてのキャリア、そして歌手魂がそこにある。
今回のジョイントライブ企画の中心となったのは瀬戸口修さんだ。実はこの時まで、僕は瀬戸口修さんの歌を聴いたことがなかった。サスケさんは聴いたことがある。きくち寛さんはいつも聴いている。子供の頃からだ。
僕の耳には「初めて」「何度か」「数え切れない」の3つの異なる歌が届いてくる。この経験は良かった。それぞれに違った味わい方ができるのだから。しかも全員、曲調も唄い方もまったく異なっている。まさに特徴の三つ巴戦だ。……いや、 決して闘いなんかではない。それを証明してくれたのは、第2部だ。それぞれが個別に自分の持ち歌を熱唱した第1部とは趣がガラリと変わり、3者が同じステージ上に並び、しかも互いの持ち歌を別の人が唄うのだ。
温かさ溢れるMCの印象とは異なり、ギターをかき鳴らし、熱く激しく燃えるような唄い方が特徴の瀬戸口修さん。曲調はいつも明るく、双子ならではの息の合ったハモリを聴かせてくれるサスケさん。女性の指先のように繊細な詞と心の琴線に 触れる珠玉のメロディを、誰にも真似できないハイトーンボイスで高らかと唄い上げるきくち寛さん。
2つの発見があった。「同じ歌でも、唄う人によってこうもテイストが変わるのか」――きくち寛さんの歌を瀬戸口修さんとサスケさんが違う声で唄う。馴染みの歌だからこそ、本人との違いをしっかりと比較することができる。まさにヴォーカ リストの競演である。そして「唄う人がどれだけ変わろうが、良い歌は良い」――きくち寛さんのメロディは、それを雄弁に物語っている。
圧巻は3者のハーモニーだ。1粒で3度美味しいステージと形容するのは安易すぎるだろうか。調和というのは似たもの同士の集合体ではない。それぞれにベクトルの異なる特有の個性を最大限発揮した時に生まれる芸術品なのだ。
聴きたくなった人のために、きくち寛さんの曲から歌詞を紹介しましょう。
これはきくち寛さん最大のヒット曲。
『貴船川』
恋に苦しむ女の涙を 流す川があると聞き
わたしもひとりで訪ねてきました 鞍馬の貴船川
あの人への思いを断ち切るために 小石に名前を書き添えて
流れの中へ投げてみても わたしの胸に波打つものは
あの人への愛しさなんです 結ばれない愛なんでしょう
わたしの流す涙をどうぞ 貴船川よ流しておくれ
……僕が女だったら今すぐにでも貴船川へ足を運んでいるだろう。今はそんな心境だ。
『貴船川』の前の曲は『通り過ぎた風たちへ』だった。こちらも澄みわたる素晴らしいメロディである。通り過ぎる風、通り過ぎる人だからこそ、もっとこの場所にいてほしい、行かないで、いっそ連れていってくれ……そう感じるものなのかもしれない。でもこのメロディと歌声は、決して通り過ぎてなんかいない。今も僕の耳の奥にある。 2003.06.02
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