ことばにできない言葉
傘は持っていたが、まだ雨は降り出していない。土曜日の午後。最近は100円ショップでも傘が買えることを知った。これなら、もし忘れてしまっても悔やむ心配がない。思えば、僕は高い傘を持っている時ほど、忘れてしまうことが多い。どこか抜けてるんだな。おまけに方向感覚も弱い。でも今日は間違えなかった。岩波ホールへは、都営新宿線・神保町駅のA6出口からほぼ直接アクセスできる。だから安心だ。上映開始まで余裕もある。
その間、携帯のメールを打った。「今、岩波ホールにいます」このチケットを贈ってくれた人にである。僕は誕生日プレゼントとして『おばあちゃんの家』の鑑賞券を貰った。その時、こう言われた。
「この映画は、ひとりで観に行くといいよ」
その理由は教えてもらえなかった。僕も、訊かなかった。
岩波ホールは決して大きな映画館ではない。上映時間が迫ると館内は満員になっていた。パイプ椅子まで出ている。僕は前から3列目に座った。はじめはもう少し後ろのほうが見やすいかと思ったが、実際に幕が開くと、スクリーンは結構遠く、少し小さかったので、ちょうど良い位置に座っていたことがわかった。
映画が始まる。物語の設定は簡単だ。その夏、山奥に住むおばあちゃんの家に、孫のサンウが母親に連れられ、やって来る。手には携帯ゲーム機を持っている。まさしく現代っ子の7歳である。母親は新しい仕事を見つけなければならず、サンウを置いてすぐにバスでソウルへと帰っていった。
読み書きができず、話すこともできないおばあちゃんのもとに、ひとり残されたサンウ。おばあちゃんを気遣うのかと思えば、その正反対で我儘し放題。「汚い手で触るな」と寄せつけない。壁には、おばあちゃんの悪口。作ってもらったごはんに箸もつけず、持ってきた缶詰を食べるありさま。
そんな時、おばあちゃんは決まってサンウに対し、自分の胸に手をあてがい、円を描くように丁寧にまわす。サンウはそれを見ても、表情ひとつ変えず、そっぽを向くだけ。そんな生活が続く。それでも、おばあちゃんは決してサンウを叱らない。
サンウの悪戯好きは度を増すばかり。友達になった女の子と仲良くしている年上の男の子に嫉妬し、悪戯をしたら、彼が暴れ牛に追いかけられ、怪我をしてしまう。さすがに反省したサンウだが、口で謝るのは照れくさい。仕方なく、サンウが示した謝罪の方法は“胸に手をあてがい、円を描くように丁寧にまわす”あの行為だった。そう、いつもおばあちゃんが心の中でサンウに言っていた「ごめんなさい」。
サンウは、おばあちゃんの姿をいつも見ていたのだ。ある日、おばあちゃんは、サンウの好物のフライドチキンの代わりに、雨の中、鶏をとりに行き、ささやかなご馳走を振る舞ってくれた。その夜、おばあちゃんの様子がおかしい。サンウが、おでこに手をやると熱い。雨に濡れながら急な山道を往復したせいだ。必死で看病するサンウ。すでにおばあちゃんに対するサンウの思いは180度変化していた。
後半に入ると、映画館の中に、花粉が大量に舞い込んだようだ。四方八方から、鼻をすする音が止めどなく聴こえてきた。僕も何度となく、スクリーンがぼやけて見えなくなっていた。みんな泣きに来ているんだ、きっと。
別れの日はやってくる。おばあちゃんとすごしたのは、ひと夏のほんの短い間。母親は、山の家で何があったのか、詳しいことなど知らない。サンウを連れてバスに乗り込む。サンウはバスの後部座席へと駆け出す。おばあちゃんの姿が見えなくなるまで、胸に手をあてがい、円を描くように丁寧にまわし続ける。
僕はその時はじめて「ごめんなさい」と「ありがとう」と「さようなら」を兼ね備える言葉が、この世に存在することを知った。ことばにできない言葉。……たしかオフコースの曲にも、そんなフレーズがあったな。おばあちゃんが発明したその言葉は、サンウの胸の奥にしっかりと届いていた。
岩波ホールを出ると、外はやわらかな雨。チケットをくれたあの人が「ひとりで観に行くといいよ」と言った理由がわかった気がした。その人にも、宮崎におばあちゃんがいる。年末・年始は看病のために帰省していたそうだ。いや、おばあちゃんの顔を見るために帰ったのだと思う。そばにいることが一番嬉しいに決まってる。
「傘をささなくても、いいや」 ひとりで帰るのが少し心細いような、また目の前が滲んでぼやけてしまいそうな複雑な気分の中、それでも僕は上を向いて神保町をあとにした。 2003.4.16
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