〜靴底〜


97/5/15記

 あなたは自宅から10分ほど自転車で行った先に最寄りの駅があり、そこから電車を2本乗り継いで約1時間半掛けて学校に通っている、一介の大学生である。 そして何時も混雑している電車から解放された後も、駅から大学まではどんな道を辿ってもキツい坂が待ち受け、毎朝20分も歩かなければならない。
 そんな一週間のうちのもっとも忙しい、ある晴れた日の最後の退屈な授業も終わり、さあ後は帰るだけ。 ………おっと、いけない、借りていた本を返さなければ。
 返却日まではあと4日あるが、もう師走の末日。 これからフクフクなクリスマスを越え、正月を越えるまで他に学校にわざわざ来る用事もないのだ。 
 冬至の普段より早い夕闇にふと感傷しつつ、少し離れた図書館のある別棟へ向かう。
 入り口から入ると広めのホールになっており、意味もなく遠目から管理のおっちゃんを横目に棟の中に入る。 ループ状の階段を掛け上がるとカバンなどを置くロッカー、前方にチェックゲートがあり、その目の前が返却カウンターだ。 迷わず本を返却する。 そうそう、このまま帰ってしまってもいいが、当分学校に来る事もないので休暇中に読む本でも借りておこう。
 思ったよりも人が詰めかけている館内。 本の貸し出し端末Timeや本を読むためのボックス席も満席。 恐らくレポートなどに追われ、資料集めにいそしんでいる人がほとんどであろう。 まあ、ここで読んで帰るつもりもないので、特に臆する事なく目的ジャンルのある本棚のまで歩いて行く。
 興味のある本が幾つか並んでいる。 もう何度もこの場所に足を運んでいるが、この膨大な量の書籍はどれも興味があり、読みつくすのには数回足を運んだだけではとても読み尽くせないだろう。 全部読むつもりはないにしても浅探、かなりの量がある。 とりあえず自分の中で優先順位が高い物から気長に借りていく事にしよう。
 そんなあなたが背伸びをし、本棚のちょっと高めの右から3つ目の本に手を伸ばしたそのとき、ふと自分の右足に違和感を感じる。 何事かと履いていた革靴を見ると、なんて事だ、ちょっと厚めのゴム靴底が剥がれているではないか! 突然、その厚さ1.2p位あるかというそのゴム製の底が、片足だけ取れてしまったらあなたならどうしますか? 購入してから1ヶ月も経っていないというのに、あぁ、完全に取れちゃいました。

 これから家に帰るにはキャンパスから駅までキツめの坂を20分掛けて降りて行かなければならないし、その先には2本の電車を乗り継がなければならない。 そのまま歩いてみると明らかに違和感があり、ゴム底の取れた靴と地面が接触している部分は靴の皮1枚。 つまり自分の足と地面との間のパーツは「皮」「靴下」のみである。 なんと心細い事であろうか。 普通に立っていれば何とか他人をごまかせそうであるが、歩く姿は明らかにおかしい。 半ば足をくじいているかのようなその歩き方は、コツン、ぺた、コツン、ぺた、と歩き方に加え「音」までもヘンである事は残念ながら否定できない。
 さて、この後どうするか。 すっかり取れてしまった靴底の離脱面に粘着力は無く、再び靴底として機能する可能性は皆無に等しい。 かといって反対側の靴底も取れてしまえば左右対象でまだマシかとも考えたが、そうは問屋が卸さないようである。 しかし、今あなたがいる本棚の前はあらゆる角度から死角になっていて、他の図書館にきている人に「その瞬間」は見られた様子はなく、特に目立っていないのは不幸中の幸いである。
 しょうがない。 そのままこの靴底を図書館に置き去りにしていくわけにもいかず、右手に本を、左手には見た目よりも重いゴム靴底を持って貸し出しカウンターの前まで行く。 何という靴辱か、もとい屈辱か。 いや、前言撤回。
 心中穏やかでないが、なんとか貸し出し手続きを終え、カバンがあるロッカーへ向かう。 あなたの持っているそれは形から、一瞬靴の中にに敷く「中敷」かとも思うが、どう見積もっても2周り半ほどデカい。 まさか道中この靴底を直に手で持って帰るわけにもいかず、かといってそのままカバンに入れて帰るほど間抜けな事はしたくない。 何か靴底を入れる物でもあればと考え、ループ状の階段を降りていく際見つけたのが大学新聞。 図書館入り口のホールの真ん中に置いてあったこの新聞、ふだんこんなに無駄な物はないと思っていたあなただが、このときばかりはこの無料の学内新聞に感謝せねばと5秒ほど思う。 むろん、新聞を持ち去る際は管理人のおっちゃんに丸見えなので、その使い道を悟られないようにいかにもさりげなく、興味ありげに持ち去る。 外に出て、半ばありがたやありがたや的に靴底を新聞紙に包み、持っていたカバンにそそくさとしまい込む。
 しかし、ほっとするのもつかぬ間。 よく考えたら家までの道のりはまだまだ遠いのだ………。

■ ここで今、あなたが置かれている比類無き悲しき状況を「考え方だけで良く」してみる。 例えば「最悪じゃなかった」と開き直ってみよう。

〔1〕「行き」じゃなくて良かった
 家に帰れる範囲でならいいが、登校途中に中途半端に戻れない場所で離脱したと考えたらもっと辛かったであろう。

〔2〕明るくなくて良かった
 もう既に夕方過ぎで、道中は暗いので人の目をごまかせる。 あとはちょっとしたジェントルメンをきめ、直立ツッタカタ風に歩いていれば完壁であろう。

〔3〕雨が降っていなくて良かった
 これで雨が降っていたらどうだろう。 皮1枚となった右足の底。 雨水を含んだその右足が電車には入ろうものなら、「雪上、熊の足跡」よろしく片足のみの足型があなたが車内を歩んだ道のりを点々と記してくれる事間違いなし。

〔4〕図書館で良かった
 これがちょっと込み合った車内だったらどうだろう。 あなたが電車に乗り込み、ちょっと歩いたときにそのまま靴底が離脱。
 独軍の小型地雷か? はたまた毒ガス発生装置か? と車内は大混乱。 阿鼻叫喚死屍類々になっていたことは間違いない。 また、そうならなかったとしても、まさか走っている電車から飛び降りるワケにもいかず、発車してしまった後の車内でのその「気まずさ」といったらないであろう。 恐らく、大半の人が離脱したクツ底の上に再び足を乗せ、停車駅までは平常を装う事に勤めるであろう。 拾い上げたとしてもその処理に困る。

〔5〕首の皮1枚あって良かった
 予想に反してクツ底が取れてしまったワケだが、ゴム靴底が取れた後、その底が素足だったらどうであろうか。 靴はその靴としての役目を果たせず、足を上から覆う(乗っている)物としてぺたぺたと情けなく宙を舞っていた事になるであろう。
 
 ………と、最悪の場合を考察してみたワケだが、これだけ挙げただけでもあなたが置かれた状況は「ホント、良かったよ」と言えるのではないでしょうか。 さらに、靴底の離脱及び靴底携帯の禁止などという法律がない国家に生まれた事を心から喜ぶべきではないだろうか。
 この貴重な体験を一部始終(帰りの電車まで)見せて頂いたNくんには多大に感謝。 また、SATOXの名誉に掛けて、心理的脚色以外はノンフィクションであります。


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