日蓮正宗の本義から逸脱した謗法団体(異流義)について

顕正会(けんしょうかい)の概要と破折


【創   立】昭和17年(妙信講)
【創 始 者】浅井甚兵衛
【代 表 者】浅井昭衛
【本   尊】本門戒壇の大御本尊
【経   典】法華経十巻
【教   典】日蓮大聖人御書、日興上人・日目上人・日寛上人遺文
【本部所在地】東京都板橋区常盤台1−14−1
【信 者 数】410,000
【名称の変遷】妙信講(昭和17年)→ 顕正会(昭和57年・宗教法人所得−平成8年11月)※詳しくは本文参照


【沿革】

顕正会は、かつて「妙信講」と称し、日蓮正宗法華講の一講中として活動していたが、正本堂の意義付けを巡って創価学会と激しく対立し、やがて時の法主であった第66世日達上人の指南に背いたため、昭和49年に日蓮正宗より講中解散の処分に付された団体である。


<妙信講の発足>

妙信講は昭和17年、日蓮正宗妙光寺の総代であった浅井甚兵衛(じんべえ)が、妙光寺講中の1つとして設立したものである。しかし、講の中心者である浅井甚兵衛・昭衛(しょうえ)父子は独善的で身勝手な行動が多く、所属寺院の住職の指導も受け入れず、戦後の混乱期に法道会(法道院)に所属を変更したが、ここでも問題を起こし、昭和32年に法道会を離反した。そののち宗門より昭和33年1月、妙縁寺所属の法華講として再認可された。

昭和37年に全国法華講連合会が発足されたが、妙信講は連合会に加入することを拒否したため、昭和39年8月19日以降の5年間、総本山に登山もできない状態となった。


<解散処分の発端>

このような妙信講は、やがて宗門より解散処分を受けることになる。その発端の1つに、正本堂の意義について宗門や創価学会と激しく対立したことが挙げられる。

当時、創価学会会長であった池田大作は、正本堂を『三大秘法抄』『一期弘法抄』に示される御遺命の事の戒壇堂であるとの断定発言を行った。その後ことあるごとに、自分が会長の代に御遺命達成・広布達成を成し遂げたという発言を行った。

これに対し、妙信講の浅井は「大聖人の御遺命の戒壇は、天皇の勅宣と御教書(政府の令書)による日本一国総意の国立戒壇でなければならない。またその戒壇は天母山(あんもやま)に建てるべきである」と主張し、正本堂建立をもって「御遺命達成」とする池田に異議を唱えた。


<国立戒壇に固執>

この頃、創価学会の言論出版問題が起こり、これに付随して「国立戒壇」という名称に関しても、社会的に大きな問題となりつつあった。そこで宗門は、国立戒壇という名称を使うことは布教の妨げになるとの判断から、昭和45年5月、今後は国立戒壇という名称は使用しないことを宗内外に公表した。

宗門はこれを機に、妙信講に国立戒壇に固執する考え方を改めさせようとした。

また、池田の「正本堂をもって御遺命達成・広布達成」とする考え方に対しても、それを改めるべく、日達上人は昭和47年4月に正本堂の意義について『訓諭(くんゆ)』を発表された。その中で、正本堂は現時における事の戒壇とされ、「現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊は公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり」と述べられ、本門戒壇に関する法義を示されて宗内の和合統一をはかられた。

しかし妙信講は日達上人の意に背き、宗門や創価学会を非難・攻撃し続け、「流血の惨も辞さず」(昭和47年6月30日付)との脅迫文を送りつけるに至った。そこで日達上人は、自ら妙縁寺に赴かれて浅井父子を説得され、ようやく無事に、同年10月の正本堂の落慶法要を奉修されたのであった。

そののち、この問題は一時収まりかけたが、妙信講は執拗に国立戒壇を主張し続け、ついには文書の街頭配布やデモ行進を行うなど、事態はますますエスカレートしていった。


<講中解散処分>

そこで宗門は妙信講に宛てて、宗門の公式決定違反に対する反省を促し、弁疏(べんそ)の機会を与えて返答を待ったが、妙信講からはその公式決定に従わない旨の返事があった。宗門はこのような経過をふまえてやむを得ず、昭和49年8月12日、妙信講を解散処分に付した。しかしこれを不服とする浅井等は、宣伝カーで創価学会本部を襲撃し乱闘事件を起こすなど、過激な行為に至ったため、宗門は同年11月4日、浅井父子を中心とする信徒33名を除名処分とした。


<顕正会への改称と化儀改変>

こののち妙信講は昭和57年10月9日、日本武道館で10,000人の総会を開き、その名称を「日蓮正宗顕正会」と改めた。しかしその後、平成8年11月18日には宗教法人を取得し、その直後の総幹部会(12月22日)の折り、「冨士大石寺顕正会」と称することを発表し、現在に至っている。

さらに浅井昭衛は平成9年7月16日、一国諌暁などと称して、『日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ』との書を著し、新聞各紙に誇大な広告を載せて会員を扇動した。

そして平成10年4月、宗門が正本堂に御安置されていた本門戒壇の大御本尊を奉安殿に御遷座(ごせんざ)したことを聞きつけ、顕正会では勝手に、誑惑の正本堂から大御本尊様を守護できたとして「御遺命守護完結法要」を行った。さらに顕正会は、このときをもって新しい時代に入ったとして、勤行式を『方便品』『寿量品』の1座(1回)読誦と唱題のみとし、観念文も改変した。またこのとき、「儀礼室」なるものを設置し、法要執行職員として4名を任命している。


<主な主張>

  1. 事の戒壇は、国立戒壇である。
  2. 事の戒壇は、天皇の発願による。
  3. 事の戒壇は、天母山に建立する。
  4. 広宣流布以前は、本門戒壇の大御本尊安置の場所は義の戒壇である。
  5. 遥拝(ようはい)勤行。



【破折の要点】

<事の戒壇は国立戒壇>

「国立戒壇」という名称は御書にはない。この名称をはじめて使用したのは、明治時代の立正安国会(後の国柱会)の創始者であった田中智学(ちがく)である。智学は国粋主義者で、当時の時代風潮に乗って、国立戒壇の名称を用いた。この頃、日蓮門下でも富士戒壇論が盛んになり、本宗においても法論等のなかで便宜上使ったこともあったが、国立戒壇という語句自体を伝統教義として扱ったり、宗門の公式見解として使用したことはない。

ここで最も大切なことは、宗祖大聖人の血脈を継承される時の法主上人がその時代性を鑑みて、どのように指南されるかということであって、この指南に従うことが日蓮正宗の信仰の在り方である。

日達上人は、昭和45年5月3日、「明治時代には、国立戒壇という名称が一般の人に理解しやすかったので本宗でも使用したが、もとより明治以前には、そういう名称はなかったのである。よって、いらぬ誤解を招いて布教の妨げとならぬよう、今後は国立戒壇という名称は使用しないことにする」と明確に指南され、この方針を当代法主上人も受け継がれている。

こうした経緯を弁えずに、顕正会が「近代の御法主上人の仰せに国立戒壇の語があるのに、現在の大石寺は国立戒壇を捨てた」などと喚(わめ)くのは、まったくの戯言(ざれごと)に過ぎない。

顕正会では自分たちの主張こそ日達上人の御内意であると吹聴しているが、日達上人の度重なる公式な指南に背いて講中解散処分になり、その後信徒除名となった結果をみても、浅井等の主張はまったく当たらないのである。


<事の戒壇建立の時期・手続・場所について>

顕正会は『一期弘法抄』の、「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(新編1675)、また、『三大秘法抄』の、「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり」(新編1595)等の御書を論拠として、事の戒壇建立に関する時期や、手続、場所などを勝手に主張している。顕正会では戒壇建立の時期について、日本国の広宣流布のときとし、その広宣流布を、天皇をはじめとする上下万民が三大秘法を信じた時と規定している。

また手続について、「勅宣並びに御教書」とあることなどから、国権の最高機関である国会の議決、またこの議決に基づく内閣の決定がそれに当たるとし、さらには場所について、天母山(現在は天母原に変更)と指定している。

しかし、将来、国情などがどのように変化していくのかわからない現時において、未来の広宣流布達成における戒壇建立の形態を云々することは、不毛の論である。それは時の法主上人が血脈所持のうえから指南されるもので、それ以外の者が議論すべきことではない。大聖人の御遺命を、血脈不相伝の輩が勝手な解釈を加えて論ずることは、大謗法と断じるものである。


<顕正会の「広宣流布以前、本門戒壇の大御本尊まします処は義の戒壇である」との説について>

顕正会は、「三大秘法のうちの本門の戒壇は、広宣流布の暁に初めて建立されるものであり、それ以前に大御本尊が安置せられる場所は、その意義が本門事の戒壇に通じるだけであって、本門事の戒壇とはいえない。したがって、『大御本尊まします処は、いつ何時なりとも本門事の戒壇』とする大石寺の立場は大聖人に違背している」(日蓮大聖人の仏法123)と主張している。そしてその根拠として、日寛上人等の歴代法主上人の指南を挙げているが、そこに不相伝の輩の短絡的な考え違いがある。

日蓮正宗おいては、古来、本門戒壇の大御本尊在すところがそのまま本門の事の戒壇とし、そのうえで、将来に広宣流布が達成された暁に、信仰の根源の霊場として戒壇堂が建立されるとするのである。これが御遺命の「本門寺の戒壇」である。顕正会の引用する御先師方の指南は、この広布の暁に建立される「本門寺の戒壇」についての指南であり、その達成に向かう僧俗の信心を励まされているものである。

日寛上人は『依義判文抄』に、「一大秘法とは即ち本門の本尊なり。此の本尊所住の処を名づけて本門の戒壇と為し」(六巻抄82)と示され、また『三大秘法之事』の講義においても、「在々処々本尊安置之処ハ理ノ戒壇也」「富士山戒壇ノ御本尊御在所ハ事ノ戒也」(日相上人聞書)と仰せられている。

さらに60世日開上人は御宝蔵説法において、「その戒壇堂に安置し奉る大御本尊今現前に当山に在す事なれば、此の処即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山事の寂光土」と指南されている。近年においては、昭和47年3月26日、日達上人が正本堂の意義についての指導会の砌に、「この本門戒壇の大御本尊安置のところはすなわち事の戒壇である」(大日蓮315−23)と明らかにされたように、本門戒壇の大御本尊まします処が「事の戒壇」なのである。

このことは『日蓮正宗要義』にも、「三大秘法整足の大本尊が真実の事の法体であるから、そのところ即ち事の戒壇である」(113)と教示されている。

そしてさらに、『一期弘法抄』の「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべき」、また『三大秘法抄』の「最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり」と示される「戒壇を建立」ということについて、日顕上人は平成5年の虫払大法会において、「本門の本尊、妙法蓮華経の広宣流布が時至って、正道・正理の上に条件的に具備した時、戒壇を建立するところに、本仏の志し給う『事の戒法』が成就するのであります。すなわち、この一切は御仏意であり、これはさらに、のちの『一期弘法抄』に本門戒壇の建立につき、二祖日興上人に遺命されるところであります。したがって、この戒壇建立は、大聖人の御仏意による終窮究竟の厳然たる御指南であり、いやしくも凡夫や一信徒が知ったかぶりして、軽々にロに入れ、論ずべき法門ではありません。もし、そういうことがあれば、これは本仏のお心を踏みにじる大謗法であります」(大日蓮567−45)と御指南された。

このように宗門における「事の戒壇」義は、終始一貫しており、なんら疑義を差し挟む余地はない。顕正会浅井の基本的な誤りは、大聖人の御書の意を自分勝手に判断するところにあるのであり、これは師弟子の道を違える謗法である。時の法主上人が血脈所持のうえから指南・裁定されたことに信順していくところに日蓮正宗の信仰があるのである。


<顕正会が掲げる本尊>

昭和60年3月15日号の顕正新聞に次のような記事が掲載されている。「松本尊能師には私の意をよくお聞き下され、自ら護持されていた大幅の常住御本尊7幅と、日寛上人の御形木御本尊数百幅を私に託して下さった。この7幅の常住御本尊とは、28代日詳上人、54代日胤上人、55代日布上人、56代日応上人、60代日開上人、64代日昇上人等の歴代上人御書写の御本尊であり、このうち日布上人の御本尊が高知会館に安置されたのである」

この7幅の本尊について、元顕正会本部職員によれば、

となっている。しかし、顕正会は近年になって地方に会館を次々と建て、それぞれ本尊を安置しているというが、その本尊の出所はどこなのか。顕正会があれほど創価学会のことを悪しざまにいいながら、こと『ニセ本尊』に関してだけは口を閉ざしている理由はここにある。

顕正会が、たとえどこからか本尊を持ってきても、それは血脈の切れた本尊であり、功徳の法水は一切流れ通わない。功徳どころか大罰を受ける所業である。そもそも御本尊の授受に関する権能は、御法主上人唯一人であることを肝に銘ずべきである。


<浅井の予言について>

浅井は顕正会の会合で、しきりに「今に地震が起こる」とか、「今に戦争が起こる」とか、「北東アジアが攻めてくる」などと予言めいたことをいい、会員の危機感を煽る。そして予言が外れると幹部に「浅井先生が災いをくい止めた」といわせる。

このようなやり方は、新興宗教の教祖がよく使う手で、自宗に引き入れるための脅しと騙しのテクニックにほかならない。こうして無知の会員を次第に誑惑し洗脳していくのである。


<顕正会員の勧誘方法>

顕正会の勧誘方法は非常識極まりないものである。例えば、学校の卒業者名簿を利用して無分別に電話し、相手と会えた時には、相手が嫌がろうと何時間でもねばって帰ろうとしない。また、夜の駅前などでグループを作り、通行人に声をかけ、相手を喫茶店などに誘い出しては名簿に署名させ、顕正会員とする。相手が顕正会を信じようが信じまいが、住所と名前さえ書かせれば、折伏できたとするのである。(顕正会では平成13年現在、会員が70万人いると公称している)

特に今日、社会的に問題となっていることは、若年層をターゲットにした勧誘や、暴力的勧誘である。学校などで生徒が生徒を勧誘し、教師が注意しても聞かず、それによって退学させられたケースもあり、さらには顕正会員の教師が、学校で生徒に顕正会への入会を強要するなど、各地の教育委員会に多くの相談が寄せられている。また暴力的な事例は枚挙にいとまなく、「入会拒否の男性を監禁」「勧誘を拒否した若者に暴力を加える」などによって逮捕者も出るほどで、新聞などにも報道され、警察には苦情が数多く寄せられている。

また、顕正会では「冨士大石寺顕正会」と自称し、正系門下の「日蓮正宗大石寺」と意図的に紛らわしい名称を使い、会員を惑わしている。


<事の戒壇は天母山に立つべし>

顕正会のいう天母山戒壇説は、京都要法寺の方から入ってきた義であって、大石寺にはもともとなかったものである。

これについて第66世日達上人は、

後世、天母山という説が出てきました。しかし、もっと古い日興上人や日目上人や日時上人等にはその名前はない、全然ない。天母原もなかった。それが、日有上人の晩年の頃に、左京日教という京都要法寺の方の僧侶であった方が、この富士の方を非常に慕われて、又日有上人に御法門を聞いたりして、この富士を慕われたあげく、天母原ということを言った。天母原というのは小さなところではなく、大きい広いという意味をとっておる。富士の麓の広大なる原を天母原という理想の名前に依って、自分等の考えておった理想を表したと思われるのである。その方が本山に来た後に初めて天母原という名前が出てくるのである。

天母山というのは、後には天母山も天母原も混同しておるようでございますけれども、天母山に戒壇を建てようというのは、要法寺系の日辰という人がやはり来られて、この人は大石寺とはあまり付き合いはなかったが、北山本門寺の方へ主におって、そこから天母山へ行ってそこへ戒壇を建てようとした。即ち、戒壇堂でもその時は仏像であり、釈尊の像を立てて、この向こうの岩本の実相寺あたりへ仁王門を建てよう。仁王門といえば仁王さんをお建てするのだから仏像となる。釈迦仏となる。そういう様な理想であった。ところがその人が当時においてなかなかの学者であった。その後、その人の書きものを大石寺の方の人が勉強せられて、その書きものが本山にたくさんある。

そういう考えが残って、本山においても後に天母原という名前が大いに出てきたのであって、本当の古い時にはそういう名前はない。富士山に本門寺を建立ということは、一期弘法抄を拝してもわかることであるが、決して天母山という名前はない。ことにまた、天母山ということを言い出した為に、その後に天母山という名前が出てきておる。古来の文献にはないはずである。この前富士宮の調査においても、古来においてはなかったということを言われておる。いつから天母山ということになったかということも分からない。おそらくそういう僧侶たちが来て、天母山と言い出したことが残った名前ではないかと思うのであります。

いずれにしても、我々は戒壇の大御本尊を所持しておる。この富士の大石寺においてお護りしておる。このところこそ、戒壇の根源である。という深い信念を以て信心して項きたいのである。そこに少しでも、事の戒壇だとか理の戒壇だとかということの、言葉のあやにとらわれて、そして信心を動かす様では、本当の信心とは言えないのであります。

と御指南されている(戒壇論63)。所詮、顕正会の天母山戒壇説は、本門戒壇の大御本尊から離れた不毛の論にすぎない。



出典:諸宗破折ガイド169−177/宗旨建立750年慶祝記念出版委員会編