<3・4面>
尚、6月9日(日)午後1時、常泉寺(東京)に於いて、日蓮正宗総監、柿沼広澄尊師の御出席を得て辞令授与式が行なわれる。
この総会を目ざして、御法主上人猊下のもとに集まろうと闘争して来た大会であっただけに、この総会に参加することが出来たよろこびと、真に異体同心に力を合せてこの総会を実現出来たよろこびは、終生忘れ得ないことであった。宗門史上に輝やかしき一頁を飾ったこの歓喜がさらに法華講員としての信心の確信にかわり、この総会を契機として、より一層団結を強固にし、前進を誓う意義深き総会であった。
午後12時半、常泉寺から、高野重役、早瀬庶務部長等御尊師、諸大徳、平沢全国連合会会長御一行が会場へ先発される。12時45分、御法主上人猊下、柿沼総監、随行御一行が御出発。午後12時55分、会場玄関にて、御僧侶をはじめ平沢全国連合会長、東東地区連合会幹部、各地区連合会会長が御出迎えする中を御法主上人猊下御一行が御到着遊ばされた。
午後1時、入場式開始、ブラスバンドにより「若き命」の吹奏する中を、小島青年部長の先導により、来賓入場、続いて柳沢企画部長の先導により、平沢全国連合会長、東京地区連合会幹部が入場すれば一斉に拍手をもって応える。司会者より、「御法主上人猊下御入場!」との声が館内に響き渡ると、拍手の嵐が一段と高くなる。袴田副会長の先導により、御法主上人猊下、柿沼総監とつづき御尊能師、諸大徳の入場が終る。実にこの時こそ待ちに待った感激の一瞬であった。御法主上人猊下の御来臨を仰ぎ奉り、法華講大会を開く念願をここに実現し得たからである。
岩井庶務部長より「ここに総会を開催し法華講衆の固い団結を作り、御法主上人猊下を中心に一丸となって広宣流布への前進を誓うものでございます」と開会の辞を述べれば、『東京地区連合会5ヶ年の歩み』と題して、柳沢企画部長より経過が力強く発表された後、代表抱負として、青年部女子部を代表して渡辺芳江さん、男子部代表として小島青年部長、支部代表として法道院支部より田島孝之氏がそれぞれ確信を披歴した。
『法華講の伝統』と題して、日蓮正宗総監、柿沼広澄導師より「大聖人様の三大誓願を法華講の伝統の精神として、世界永遠の平和を乗せた、大法船のこぎ手となつていたゞきたい」と激励をされた。
御題目三唱、『御法主上人猊下の御言葉』を謹しんで拝聴させていたゞく。会場の全講員は、一言一句聞きもらすことないよう、真剣な態度が眼に現われて一心に、御法主上人猊下にそそがれていた。
来賓として御出席下さる予定の大講頭創価学会会長・池田大作先先には、御都合によって御欠席のため、『メッセージ』を袴田副会長が代読。つづいて、はるばる北海道から来賓として参加せられた反橋会長より「全国法華講連合会の中枢として、原動力としてしっかりやって下さい」と祝辞が述べられたあと、祝電披露があり、平沢金国運合会会長・平沢益吉先生より「不自惜身命の信心を呼びおこし、和合僧の姿をもって大同団結し、広布達成へ勇猛邁進せねばならない」と現在の法華講衆の立場を強調して挨拶が述べられた。
「日蓮正宗の歌」「東洋広布の歌」を力強く合唱。加藤理事より「本大会を契機として、老いも若きも大同団結の旗印を立て御奉公の誠をつくそう」と閉会の辞を述べ、場内に高なる拍手の中を、御法主上人猊下が御退場遊ばされ、もって宗内史上に法華講衆として輝かしい一頁を飾るにふさわしい、東京地区連合会第1回総会は終了した。
日蓮正宗法華講東京地区連合会第1回大会に当たり、謹んで御祝いを申します。しかも本日は、見渡すところ若い方々が大半を占めてここにお集り下さいましたことは、正宗の今後の発展が如何に明るいかということを、私は非常に喜んでおる次第でございます。
我が日蓮正宗は、宗祖大聖人の建長5年4月28日の宗旨御建立にはじまり、今年は711年になります。その間において、わが正宗の三宝は、宗祖大聖人様を仏宝と立て、久遠元初の自受用報身の法体たる南無妙法蓮華経を法宝と立て、二祖日興上人より歴代を僧宝と立てておるのでありまして、古来より少しも変っておりません。
大聖人様が御本仏であらせられることは、宗旨御建立のはじめのうちは大聖人様の御内証に留められておりましたが、竜の口の法難により発迹顕本なされ、佐渡において、開目抄において人本尊を、勧心本尊抄において法本尊を開顕せられ、弘安2年10月戒壇の大御本尊に御法魂を留められて、我々凡眼に大聖人様の御本仏であるお姿を拝させしめたのでございます。
これに依れば、勿論かの小笠原慈聞の神本仏迹論をとりあげてこう考えたのかも知れません。あの第二次世界大戦以前は、天皇が神様でそれが中心で、仏様もその家来であったその神様・天皇は、日本が敗戦したゝめその座から降りて人間となり、神様の椅子は空席になったからその空いた席へ、日蓮大聖人を御本仏と名づけて座らせたのが日蓮本仏論であるなどと言っておるのであります。ずいぶん馬鹿げたことを勝手に言えるものであります。また彼は本地だとか、垂迹だとかという考え方は、間違っておると言い、彼の考えからいけば、本は本体、迹は現象と解釈しておるのであります。
現象の奥にそのものを動かすところの本体などあるはずがない、そういうことは皆まちがっておるのであると言い、それは天台大師が本迹ということを考案したので、そういう考えがそもそも間違っておるのであるということを言っております。彼は、本地垂迹という言葉の意味を良く知らないらしいのであります。元来、本地垂迹とは、彼は言うが如き本体と現象の関係ではないのであります。
本地垂迹の意味を簡単に申しますれば、本地は本拠地の実相即ち実の姿、垂迹は即席の仮の姿のことを言うのであります。譬えて言うなら、私は日蓮正宗総本山大石寺の住職であります、それが本当の姿でありますが、今日ここへ出席して皆様にお話を申し上げております、これが迹の姿であります。その本体に於いて、どちらも私の姿でありますが、本山の住職として御本尊様をお護りすることが実の姿で、今日、皆様に話をするため、仮にここに来ておるのにすぎないのであります。そして私の本体には変わりはないのであります。
これを本地垂迹というので、本が体で垂迹は現象だなどと考える、その高木某の考え方こをおかしなものであります。
元来、諸々の大乗経には十二部経が説かれておるのであります。十二部経が説かれていなければ、大乗経と言えないのであります。その十二部経に本事、本生の二つがあるのであります。本生談と申して今の仏は過去に於いて、どういう仏であったか、どんな化導をなされたかということを説かれ本事談に於いて、今の菩薩は過去にどういう修行をしておったかということを説いて、本迹のありさまを明らかに説いておるのが大乗経であります。その大乗経であり、しかも高木某の賞賛するところの法華経には明らかに本門、迹門と分けて説いてあるのであります。
また、法華経の中心である寿量品その寿量品には、「一切世間の天人及び阿修羅は、みな今の釈迦牟尼仏、釈氏の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に座して阿耨多羅三藐三菩提を得たまえりと謂(おも)えり。然るに善男子、我実に成仏して己来、無量無辺百千萬億那由陀劫なり」(法華経429ページ)とお説きになって、インド出現の今の釈尊は迹仏であって、実は久遠五百塵点劫の昔の仏であることを釈尊自ら御身の上に於いて、直ちに本仏の開顕をせられておるのであります。
もし彼、高木某が云う如く、天台大師の本迹論が間違っていると云うならば、法華経は大妄語の仏典となる訳でございます。
御書、『総勘文抄』に、「釈迦如来、五百塵点劫のその当初、凡夫にておわせし時、我が身は地水火風空なりと知ろし召して、即座に悟りを開き給う」(新編1419ページ)と、お書きになっておる事をよくよく熟読玩味しなければならないところでございます。これらの人々は、すでに教学の浅いところから間違いが出て来ておるのであります。
この法華経は、「この法華経は深智の為に説く。浅識はこれを聞いて迷惑して解せず」(法華経174ページ)と、いう事がお説きになっております。譬喩品にあります。この法華経は、すなわち本当の智慧を持った人の為に説いたのである。彼等謗法の如き、浅学なる智慧者には法華経の文上だけを見て、真の意味を解せず、只迷ってその意味を知る事が出来ないという事を法華経にちゃんとお説きになっておるのであります。
法華経は文上のみならず文底の深きに到達するところの智慧をもって、これを読まなければならないのであります。もし、彼等をして智慧がなければ、真の御本尊を一心に信ずれば良いのであります。信によって、その智慧は湧き出されるからであります。
法華経に、「汝、舎利弗すら尚この経に於いて信を以て入る事を得たり、況や余の声聞をや、その余の声聞も仏を信ずるが故にこの経に随順せり、己が智分にあらず」(譬喩品、法華経174ページ)と、お説きになっております。法華経を知って悟りに入る事はいかに、舎利弗もその他の声聞達の智慧をもっても、その智慧をもって到達する事が出来ない、信によってこれを慧に代える、すなわち以信代慧をもって初めて法華経を知る事が出来ると説いておるのであります。
況んや、今日の高木某や、三宅某等のいわゆる世間の仏教学者らしい顔をしている人びとに、この法華経の文底を究める事が出来ないのは当たり前であります。況んや、日蓮本仏論などというこの本当の大聖人様の真意を汲み分けることの出来ないのは当たり前であります。
我々は、世間の謗法者の間違った仏教の解釈に迷わされず、大聖人様の久遠下種の南無妙法蓮華経を正直に信じ奉り、世界広布の大願業に向って、これを達成する様に大いに精進いたしましょう。
それが一つのきっかけとなり宗教に人間の道を求め様と思い立ち、妻が10年もやった霊友会に足を踏み入れてしまいました。夢中になってやりましたので、古い信者達は、いい人が入ってきたと思っていたらしいです。その中に長男が天ぷら油で右腕に大やけどしましたが、かまわず尚も霊友会を真剣に続けて居りました。たまたま、お盆も近くなり大工の叔父の所へ行き、霊友会特有の死んだ先祖の戒名集めをやって居りました所を、柳沢講頭さんの兄さんに、「霊友会は邪教だから一度座談会をやっているから来い」と云われ、父と共に出席したのです。
昔から知っているお宅なので出席させて戴きました所、驚くことばかりだったのです。先ず第一に仏壇の御本尊様の中央の南無妙法蓮華経の文字ですが、どなたがお書きになったのか知りませんが、ゆらゝと生きて動いて見えるのです。丁度かげろうが燃える様でした。随分毛筆の字は見たが、この御本尊様の文字は何と云っていゝか分かりませんでした。実に不思議なことだと思えました。
次に法話をなされた阿部信雄先生の「立正安国論」の一説の御言葉も正しさに溢れ、日蓮大聖人様は破邪顕正のお方であると何も知らぬ自分にもそう感じました。次に柳沢講頭さん始め皆さん方の折伏でしたが、法華経は生活の教であると云われ、間違った私の考えは強く破折されて、講頭さんの村八分をうけ改宗した体験や利益と罰の体験もあり、「とうゝ自分にも待ちに待った大福音が来た」と思いました。
もっと早くさがしてゞも正宗の信心をやるべきだった。それに早く死んだ母親のことや短命の親戚の者たちを考へた時、後悔しました。「よし自分はこの信心のために本当に命を捧げ様、大折伏をして不幸な人々を悉く救うのだ。死ぬ迄信心をやり抜こう」と堅く心に誓い、父と私は即座に「やります」と云って入信の決意をしました。私の如き形の人は少なかったのですが、毎日それからは天に昇る様な喜びの日でした。入信当初の想出は何年経っても忘れられません。
折伏はそれこそ旺盛で、阿部先生も講頭さんも吾々の陣頭指揮をして下さり、霊友会の座談会、神道、キリスト教、不動や成田の行者等、猛烈に折伏の連続でした。知人は勿論、電車の中でも折伏したことがあり、一度は都電を降りるのを忘れて行者風の人を折伏した経験もありましたが、この時は電車中が敵になり、喧嘩騒ぎの様なことがありました。
そんなわけで近所からは「狂い坊主」とか、「信心に凝って頭がおかしくなった」とか悪口があっちからもこっちからも聞く様になり、大分反感が高まりましたが、それと同時に味方も多数殖えて来ました。又大工の叔父の折伏の時、「この信心をしないと家が潰れる」と言ったことにより、叔父・叔母が烈火の様に憤り絶交状態となり、救うべき一言がうらみと変り、折あらばと眼を皿の様にして私を伺い、「これ見よ」と云わんばかりに自動車等を買い込み建築ブームに乗り豪勢な家を建て、職人も置き、世間の人々から日の出の勢いと噂されていました。
一方私の方も折伏は益々実り家庭も向上し、その年の御大会に、柳沢講頭さん一家の熱烈な御指導に依て待望久して大御本尊様まします大石寺へ初登山が許され、水谷日昇上人猊下の御導師で大御本尊の扉の開かれた瞬間、満々たる水が堰を切られた如く涙がこみ上げて全くお恥ずかしい次第でしたが、泣けてゝどうにも仕方がなかったのです。感激そのものでした。
この有難い大御本尊様を守り通された先師先輩の方々の御恩に報い奉るべく、しっかりとご本尊様に御誓いし、下山してからの折伏は面白い様に成果が上りました。恐ろしいものなしの有様でした。手の舞い足の踏む所も知らない状態で、喜びの毎日でした。
医師には、「胃潜孔です。すぐ入院して手術しないと危険です。一時を争うから早く」と云われました。私は困ったなと思いました。節制を保たず、医師にも重きをおかず、痛んだ時は薬を飲む程度で痛さをこらえては来たのですが、無暴だったことにつくゞ悔を懐きましたが、「自業自得だ。仕方がない」と仏壇へ匍(は)う様にして行き、妻と唱題しました。涙が出て来るし、子供等4人のことも考えられるし、どうにもこの苦しさは致し方ありません。
午後8時頃から痛んで数時間も経ったので意識もボゥッとなって来た時、柳沢講頭さんと加藤副講頭さんがかけつけて御祈念の勤行をして戴きましたが、自分では最後の勤行の覚悟でした。勤行も済み子供2人を呼び「しっかり信心をするのだ」と云い遺して、順天堂へ入院しました。
翌日午前10時頃切開手術をしましたが、飯粒を全部取り出すので手術は恐ろしく手間取り、薬も新薬をどんゝ惜し気もなく使って万全を期して戴きました。切開後胃を取り出すと十二指腸潰瘍で胃の中央にも親指大の孔がありました。手術後発熱と腹膜とを起す危険が九分九厘あったので、切開部両端は縫はずにおき、そこから化膿したものを出す予定だった。
所がこれを聴いて見舞いに来た叔父は、この時とばかり「信心していても病気にかゝり、死にかゝったそうじゃないか」と、恰(あたか)も再起不能と思っていたらしく、云う言葉にどうだと云はんばかりでした。「叔父さんには今何んの話をしても聞く耳はないでしょう。今の叔父さんの気持ちも分かっていますが、以前家が潰れると云ったことは今この病気によって、強い確信を得、さらに言っておきます」と言うと、叔父はいやな顔をしてすぐに帰ってしまいました。
近所の人々も決していゝ話はしませんでした。「信心しているのなら、何故もっと早く治療もしないのか」等と云って批判ばかりでした。しかし、いまふりかえってみるとこの病魔に打ち勝てた事は、即、謗法罪障消滅の一であり、一大飛躍の第一歩であったということを確信しています。
手術以後から今日迄、全く健康人と変りありません。入信当初と今では総てに亘って遥かに向上し、功徳に護られた生活は御本尊様の偉大な御力であり、今後も折伏を力のある限りやって参ります。
以上13年の信行から極く一部ですが、体験の一端と致します。
法華講全国連合会組織の件について、かねて申請中であったが、去る5月22日付をもって御法主上人猊下より正式に許可書が出された。また法華講全国連合会規約にもとづき、役員の決定が待たれていたが、今度、5月22日付をもって、平沢益吉氏に法華講全国連合会会長の辞令が通達せられた。また理事、幹事、会計の各役員も認証されて、ここに法華講全国連合会の会長及び役員の人事が決定した。
御法主日達上人猊下の御来臨を奉り、柿沼総監、高野重役、早瀬庶務部長、阿部教学部長、御尊能師、諸大徳の御出席を得て、また北海道をはじめ各地区連合会の代表も参加し、法華講員5千名が結集して、全国各地区連合会に先きがけて、風薫る5月19日、東京・台東体育館に於いて、東京地区連合会第1回総会が盛大に挙行された。
○御法主日達上人猊下御言葉
ところが一般世間の謗法者は、宗祖本仏論は、わが日寛上人によって造り出されたものであると考えておるのでございます。さらにおかしな事は、先日私のところにパンフレットが一つとんできました。それには、神奈川県の高木某という人が、「日蓮本仏論は終戦後できたものだが」などと言ってきております。
次に彼は、本迹という言葉の意味を全く知らない、かくの如く知らない、ところが彼は一方において、法華経を非常に賞賛しておるのであります。法華経は仏法・八万四千の教法中で唯一無二の真理の法であると言っております。
また、昨年三宅某が、『御義口伝研究』という本を出しました。それにはやはり、本宗の日蓮本仏論を批判して、本仏はどこまでも釈尊である、五百塵点劫の本仏は釈尊以外にはないのである、宗祖は釈尊の使いだと言って、相変わらずそういう身延のお先棒をかついだ事を言って発表しております。五百塵点劫、五百塵点劫といいますが、五百塵点劫の当初(そのかみ)というその二字を、当初の二字を見落としておるのであります。
久遠の本仏の「我が身は地水火風空なりと知ろし召して、即座に悟りを開く」という、この即座の開悟という事は、我々末法の衆生の一念信解に当たるのであります。この一念信解に於いて、我々末法の凡夫は即身成仏の境涯を成ずる事が出来るのであります。
東京地区連合会本行寺支部・板橋清
私の入信は昭和25年6月で本年は14年目に入ります。当時は敗戦直後で食料の買出し、住居や衣類にも事欠く日本の苦難の時代で、おまけに朝鮮動乱等で実に荒んだ恐ろしい暗黒の時代でした。私共も文字通り悪税や経済苦や病苦で一日として朗らかな日もなく、妻とはよく争いもし、封建的な暗い家庭でした。それに私は20才頃より無茶食いがたゝり毎日毎晩激しい胃痛で年中腹をかかえて苦しんでいました。
本行寺支部では、毎日柳沢講頭さんを中心として猛折伏が始まり、忽ちにして数十世帯の同志が集まりました。実に数々の体験があります。邪宗の坊さんと法論したり、墓地のことで大喧嘩したり、来る客ゝに全部折伏しました。一度は折伏した人が夜中の1時頃家の硝子戸を叩き、「貴様は偉そうなことを云っておきながら、この仕事のざまは何だ」と、酒の勢いでドンゝ戸を叩くので、近所の人々は皆起き出し何事ならんと表に飛び出てきたこともありますが、折伏の肚いせに来たわけです。
所が、昭和32年9月19日、永らく痛んだ胃がその晩には猛烈な痛みと変り、医者が来て注射を何本打っても効めがなく、直視的にとうゝ胃が破れたと思いました。時間が経つ程痛みが加わり呼吸も困難になり、全身しぼり出す様な脂汗と然も腹が組板の様な堅さに変り、寝ることも起きることもどうすることも出来ない有様となりました。
所が何日経っても腹膜の気配は全然なく、どの先生も不思議がっていました。「君は異常体質だ」、「信心のお蔭ですね」と口を揃えて云はれた程でした。流石(さすが)の大手術も経過は良好で、手術後は盲腸の手術の経過の様にぐんゝよくなって命を取り止めたのです。全く大利益を戴きました。
5月19日の第1回東京地区大会も盛大に終了し、もったいなくも日達上人猊下の御来臨と給はり、信徒一同に親しく御言葉を賜はり法華講衆は、大会と同時に更に決意を新たに致しました。そして後続の若き人々のために、更に鞭打って頑張り、折伏に全力を挙げて参ります。