大白法

平成9年7月16日号


主な記事

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◇躍進のスリランカで出張御受戒ならびに総会

赤道と北回帰線に挟まれてインド洋に浮かぶ熱帯の島国スリランカ(セイロン)で6月8日、御受戒ならびに総会が開催され、宗務院海外部主任石橋御尊師、スリランカ担当金塚御尊師らがご御出席、またコロンボ市内ならびに周辺都市・地方都市から400名の日蓮正宗信徒が参加した。

この南伝仏教の国スリランカでは、現在テロリストと政府軍の紛争が絶えず、日本の外務省から渡航自粛勧告が出ている中での出張ではあったが、御本尊様の御加護により万端滞りなく執り行われた。わずか半年前に130名の御受戒と54体の御本尊下付がなされたばかりにも関わらず、今回も168名の御受戒と69体の御本尊下付がなされた。平成6年に初めて宗務院海外部が現地へ赴いた際には150名程の信徒数であったが、現在は800名を超す陣容である。

総会は尾林海外部長よりのメッセージが披露されたあと、信徒4名から体験発表があり、その後出席各僧侶から挨拶があったあと、信徒代表の謝辞により、一同歓喜の中散会となった。




◇体験発表

○法霑寺支部 藤枝香織

は、平成5年2月21日に入信しました。それまでの一年間は、苦しい病気との闘いでした。ある日腹部に激しい痛みが起こり、あまりの痛さに身動き一つできない状態で、食べ物は喉を通らず、体重も日に日に減っていきました。はっきりした原因が判らず、幾つもの病院をたらい廻しにされ、行き着いた所は九州大学付属病院の心療内科でした。

そこでの治療といえば、定期的に受けるカウンセリングだけでした。症状は全く改善せず、二年半通った看護学校を退学せざるを得ない状況になってしまいました。子供の頃からの、看護婦という夢を絶たれた私には未来への希望もなくなり、精神的にも肉体的にも大変苦しく、人生に絶望すら感じていました。その時友人だった主人に折伏され、主人は「信心したら病気が治るよ」と一生懸命に話しをしてくれたのです。「病気が治るのなら」という気持ちになるのですが、家族が反対するだろうと、いろいろ考えるとなかなか決心がつきませんでした。主人は煮え切らない私を無理矢理といった感じでお寺に連れて行き、強引に入信させてしまったのです。


授戒の時、大変不思議なことに、深く暗く沈んだ心に光が差し、希望が湧いてくるように感じました。

それからは、一生懸命に勤行を続けました。腹痛のため、勤行の途中で横になることも度々でしたが、毎日の勤行が楽しくて仕方ありませんでした。体調の悪い時だからこそと、バス停からお寺までの坂道を何度も休みながら、参詣させていただきました。入信して二ヶ月もすると健康な体を取り戻し、仕事もできる程になっていました。入信したことは、家族には内緒でした。いつの日か、私も御本尊様を御安置したいと、強く願うようになっていました。

この頃、信心の根本は本門戒壇の大御本尊様にあると聞いていましたので、私は是非登山したいという気持ちになり、家族には内緒で支部総登山会の申し込みをしました。そして、登山を二日後に控えた夜、母と三人の兄に日蓮正宗に入信したことや総本山に行くことを話したところ、案の定猛反対で、「親戚に顔向けできない。勘当だ」と言われました。母の涙を見て、私はどうして良いか判らず悩みましたが、御本尊様を信じてどんなに反対されても信心は絶対に止めないと決心しました。そこで今度は、主人と二人で実家に戻り、両親と兄たちに許してくれるように頼みました。しかし兄は、私の話は聞かずに信心を止めさせようと殴ったり蹴ったりの暴力です。それでも変わらない私の態度に、父は言葉を失い、母は泣き崩れてしまいました。

もう話し合いにはなりません。兄たちは、「登山へは絶対行かせない。後日、もう一度話し合おう」と言って、主人を追い返してしまったのです。その後も、兄の暴力はますますひどくなり「もう二度と信心の話しなんかするな」と言い始めました。もう登山もできないかもしれないと、半分あきらめかけた私に、講中の常任委員をしている馬場さんより電話があり、「最後まであきらめたらだめだよ。真剣に御題目を唱えなさい」と激励されました。家族に隠れ、一晩中、御題目を唱え続けて朝になりました。私は、この家に二度と戻って来られないことも覚悟し、必死の思いで、御本尊様だけを抱きしめて家を出、支部総登山に参加しました。御開扉の時は大変感動して涙が止まらず、大御本尊様の素晴らしさを肌で感じさせていただいた、大歓喜の初登山でした。


る家を失った私は、いつの日か必ず、家族に信心で幸せになった姿を見てもらおうと決心して、お金も何もない二人でしたが、「御本尊様だけあれば」という思いで主人と結婚しました。すぐに妊娠し、安定期に入った頃、両親に電話をして子供ができたことを伝えると、信心のことは何も言わず、大変喜んでくれました。

無事に長男を出産することができ、この長男・理英の誕生が、私と家族との間にできた溝を少しずつ埋めていってくれるようで、私には御本尊様から戴いた大きな功徳に思えてなりませんでした。しかし、実家では、信心のことは誰も口にせず、いつしか触れてはいけない話題となってしまいました。私はようやく以前のような家族に戻れたのだから、自分だけ信心できれば、それで良いとさえ、思うようになっていました。


んな時、信心を一番反対した兄の家に、三男が産まれました。生後二日目にして、手の指の奇形が見つかり、精密検査をすることになったのです。その結果、脳の萎縮や呼吸不全・てんかん・体温調整も自分でできず、病名が付けられない程の原因不明の難病であるとわかりました。医者もこの先どうなるか推測もできないといった状態で、その後も病状は好転しないままでしたが、その子の一日も早い回復を願う兄夫婦を見るのは大変辛いものでした。

平成七年度の夏期講習会登山を二日後に控えたある日、病状が悪化したため覚悟をしておいて欲しいと、母から知らされました。登山への参加を迷い、兄夫婦に信心の話しをする勇気のない私たちは、当時の執事さんより、「今一番苦しんでいる両親を救ってあげられるのは、あなたたちだけですよ。その子は絶対に助かると、確信をもって折伏してあげなさい」と厳しく激励を受けました。そして、私たちは真剣に折伏を決意しました。

登山から戻った翌日、私たちが登山に出発した夜から昏睡状態になったことを知りました。ここまで命がもったのは奇跡的だったそうです。「今日しかない。子供が待っているんだ」と、その日の夕方、夫婦で兄の家に行きました。そして兄に「兄弟の縁を切られることも覚悟の上で来ました。信心の話しをさせてください」と言った主人の真剣な態度に、兄も黙って話しを聞いてくれました。「子供さんは必ず治ります。入信して一緒に願って行きましょう。子供さんはそれを待っていますよ」。

主人の絶対に折伏するんだという熱意が兄夫婦の心を動かし、翌日、お寺に話しを聞きに行くことを約束して帰りました。しかし、次の日の早朝、「先程、息をひきとった」と知らされたのです。私は頭が真っ白になってしまい、兄夫婦に会っても、声一つかけることができませんでした。


ると、兄の方から、「昨日話していたお寺で、葬儀をお願いできないだろうか」と言ったので、私が驚いて「御本尊様をお受けするのね」と聞くと「それがあの子にとって一番良いと思うから」という答えが返ってきたではありませんか。嬉しくて嬉しくて、涙が止まりませんでした。斎場よりお寺へ向かい、8月1日、兄一家は親子4人で入信して、御本尊様を御下附いただくことができました。私の信心に一番猛反対だった兄一家の入信で、仏縁と御本尊様の偉大さを、改めて教えていただきました。

御通夜の席で執事さんは、「人間は、誰もが使命を持って生を受けます。一生の中で、その使命に気付かない人や、気付いても使命を果たせない人もいる中で、この子は六ヶ月という命ではありましたが、両親を信心につかせるという大きな使命を果たしたのです。両親の御題目が子守唄となっていることでしょう」とお話くださいました。死に顔は、御書にある通り、肌は白く、唇は紅く、まるで眠っているかのような無邪気な顔で、まさに最高の成仏の相でした。生まれて六ヶ月で、口も聞けなかった子供が両親を折伏したのです。私はこの子から、大聖人様の仏法の正しさを教わり、感謝の気持ちで、葬儀の間中、涙が止まりませんでした。

葬儀は、兄夫婦の願い出により司会者より「この葬儀は日蓮正宗で執行し、創価学会によるものではありません」との旨、宣言して貰い、御住職の秋山日浄御尊能化の御導師により厳粛なる儀式を営むことができました。そして、入仏式と初七日、追善供養、また納骨の儀も無事に終わり、四十九日を過ぎた頃、姉の妊娠を知りました。


姉は、子供の月命日に欠かさず安産の御祈念をさせていただき、去年の5月、安産で無事に元気な女の子を出産しました。お産した日に姉から電話がありました。「今までの子供たちと違って、この子は守られてるような気がしてたのよ。御本尊様のおかげね」と話しでくれたのを聞いて、体験というのはその人の信心をより強くしてくれるものだと感じました。

新しい家族と共に、亡くなった子の一周忌も済み、ホッとしていた時、今度は姉の実母が子宮癌の初期で、手術を受けるために入院したと聞きました。このお母さんが、30年くらい前に創価学会で御本尊様をお受けしていることを姉から聞いていたので、姉に最折伏するように勧めたものの、「一度話したけど、断られたからもう話しにくい」という姉に、親には言い辛いという気持ちが判るだけに、私は物わかりの良いふりをし、何も言えませんでした。常任委員から、「そんな慈悲のないことをしては、だめ」と、厳しく言われて反省しました。御能化様は、よく「謗法を容認すること程、怖いものはない。謗法罪は我々の仏性を根本から焼き尽くしてしまうのです。折伏行は悩みを除いて薬を与える抜苦与薬です」と御指導されます。この言葉を思い出し、姉に真剣に最折伏するように話しをしました。次の日姉は意を決し、お母さんに話しをしようとすると、なんとお母さんの方から「お寺に移りたい」と言ってくれたのです。そして2月5日、入講することができました。


のことがきっかけで、御法主上人猊下の「一年に一人が一人の折伏を」の御指南どおり、私もこの意義ある2月に絶対に折伏しようと決意しました。そんな時実家に行くと、母がいろいろ悩み事を話し始めたのです。私は最後まで黙って聞き、「悩みを解決するには信心しかないよ」と折伏をしました。今では、母に信心の話しをすると「そんな話しをするんなら、もう来なくていい」と言われていましたが、今回は真剣に私の話を聞いてくれました。しかしいざ「お寺に行こう」と言うと、「もう少し考えてから」と決心が着きません。さっそくお寺で折伏御祈念をしていただき、母を救いたいとの一心で御題目を唱えました。それからは、事ある毎に信心の話しをしましたが、なかなか首を縦に振ってくれません。とにかく明日、必ずお寺に連れて行こうと一方的に決め、家に戻って真剣に唱題し、母の入信を願っていました。

次の日、母は気がすすまないようでしたが、渋々車に乗ってくれました。お寺では地区部長、常任委員が待っていてくださり、不思議なことにあんなに嫌がっていた母が入信を決意し、3月17日、御本尊様をお受けすることができました。4年前私が入信した時と同じで、家族には内緒の入信です。入信前は、勤行なんてできないと言っていた母も、今は一生懸命勤行をしており、信心の話しを素直に受け入れてくれるようになりました。

四月一日の御経日に、初めて母と一緒にお寺に参詣させていただきました。その時の御能化様の御指導の中の、「御本尊様に巡り会い、縁できたことは、幸福を約束されたことになるのです」との言葉で、母もこの信心に確信を持ったに違いありません。


えば4年前、家族に大反対された日から、ずっと一家和楽の信心を願ってきましたが、兄夫婦・母の入信で力強い見方ができました。必ず、父も折伏して、一家の広宣流布の大願を叶えたいと思います。折伏は真剣な唱題で、御本尊様がしてくださることを本当に確信させていただきました。親不孝だと言われ続けてきた私が、御本尊様により、最高の親孝行をすることができたのです。値い難き仏法に巡り値えた喜びと、報恩感謝の年でいっぱいです。

「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(御書1109ページ)

の御金言を拝し、一心欲見仏・不自借身命の精神で常に勇気を持ち、御能化様の御指導のもと、本年「充実の年」を折伏に精進してまいります。ありがとうございました。





○平安寺支部 東克枝

昭和29年3月8日、私が8歳の時、母に連れられて東京・品川の妙光寺において御受戒を受けてより44年の歳月が流れました。信心を貫き通せた喜びは、何にも代え難い宝であります。思い起こせば10歳の夏休みに、子供同士で総本山へ参詣していたときのこと、写生をしていたそばを御僧侶が通りかかられ、笑顔で「将来は絵描きさんになれるね」と、その一声が深く脳裏に刻まれその後の人生に多大な影響を受けるとは思いませんでした。

折しも進路を決める私に、予て母は独りでも生きられる女性にと、薬剤師か医師を望んでおりました。実は母方の祖先の松本家は、織田信長に仕えた家臣として、伊吹山に薬草を育てる薬師の仕事を命じられ、その職は代々受け継がれて、後に伊賀上野城主・藤堂家に、医師として迎えられました。その後、七代藩主・藤堂伊豆守高虎の代に、徳川家の御殿医にまでなる家臣として、変転はありますが明治の末まで16代続いた家系であります。正宗の法華講に入信したのは両親から数えて3・4代前で、家宝として御本尊様が現存していましたが、母の長兄の出来心で焼いてしまい、その兄は26歳で急死した経緯があります。今再び法華講員として、信仰に巡り値えた縁(えにし)の不思議さに、ただ熱き涙が溢れてまいります。

それに引き替え母の姉たちは、自分ほど偉い者はないと、奢りと慢心故に、一向に創価学会を抜け出ようとせず、自ら不幸を招いております。小さい時から絵の好きな私は、高校、少し時を経て大学と、共に美術系を選び、考えも及ぱぬ円山応挙の直系弟子の方に水墨画を教わるという不思議な出会いもございました。期せずして、現在の御法主日顕上人猊下が平安寺に御住職として在職なされた節は、毎月御講に参詣し、昭和39年19歳より御書講義を拝聴して、私の人生の礎ともなる充日した青年期を過ごしました。母と私によくお会いくださり、「絵を描いていただきたいですね」の御言葉を賜りまして、後に、昭和57年より、『大日蓮』に挿し絵を書き続ける今日の姿となり得たのです。


人間年をとれば何らかの病になるは必定でありましょう。父は多発性脳梗塞、母は父の看病の疲れから骨粗鬆症となり薬害のためかアルツハイマー病と重なり、私白身もつらい日々の連続でしただが、今くじけてなるものかと自分自身を励まし、病起きてより信心が触発されるごとく、御本尊様を見つめ、己の業の深さに御題目を唱える毎日となりました。

ふと、「折伏する以外に切り抜ける道はない」と決意したのです。同じ業界の東氏に、なんども信心の話を続けるうち、彼の実家は鹿児島であり、朝夕に先祖の墓に花を供えていることや、因習深い念仏の土地柄であることが判りました。名家である故、宗旨を変えさせることは至難の業でありましたが、創価学会は嫌だが法華講なら入信してもよいとの返事を得ました。この時ほど喜びを味わったことはありません。

そしてその後、私の主人となり、私の両親の面倒をよくみてくれる功徳となりました。転重軽受の御法門に、今生において人それぞれに内容も異なれども、過去の罪報が今日現れ出で、大難が小難の姿で消えてゆくものと思えばこそ、私の前に立ちはだかる試練は、人生の宝と成り得る修行と鑑み、必死に御題目を唱え、乗り越える勇気が湧き起ったのです。


と思ったのもつかのま、昨年9月2日に主人が胸の痛みを訴え、水がたまっているとのこと。即入院となり、治療をほどこした所が化膿し、運悪くメリシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)という細菌が増殖しており、どこに供給巣があるのか解らないとのこと。臨床医に恐れられている院内感染でありました。再び脳に進入、脳腫瘍(※脳が化膿し崩れる)と診断され、抗生物質100日間も投与し続けました。3度目の危篤の時には、電気ショックで生還するという凄まじさい戦いでした。

また、8月中旬頃より父の容態が悪化し、父と主人の危篤を知らせる電話が交互にかかってくる様は、まさしく冬の荒海にも似た、寒風吹きすさぶ絶体絶命の状況でありました。しかし、御題目を唱えての看病が、他人には冷静な立ち振る舞いと感心されたのです。『祈祷抄』の一節の、

大地はさヽばづるるとも虚空をつなぐ者はありとも、潮の満ち 干ぬことはありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りの叶わぬ事はあるべからず。

の御金言を心に刻み、鳴咽する心を御題目で癒しながら、必死の看病の明け暮れとなりました。


だが、主人に抗生物質を打ちすぎたため、さらに悪化し磁気共鳴診断装置(MRI)の検査結果、再び脳の中枢部に水が溜まり、余命30分もないと判明し、急ぎ脳外科病棟に転院して2度に渡る手術で、やっと一命を取り留めたのです。MRSAは皮膚などにより感染する病原体であり、人格変貌・意識混濁となって死に至る、世界中で恐れられている病で、抗生物質も効かず手をこまねいている病の一つであります。この時、御仏智が働いて主治医に談判し、「私が責任を持ちます」と訴えて、抗生物質の投与を取りやめて、栄養剤点滴と錠剤のみの治療に代えていただきました。その結果、薄紙をはぐような回復の兆しが見え始めました。ついには願い出て家に連れ戻すことができたのです。

年末に家に戻った主人の、すぐに御本尊様に手を合わせて御題目を唱える姿は、まさしく蘇生した柔和で優しい顔付きとなり、涙を流して語るしぐさに奇跡としか言い表せぬ功徳を感じ、生きていることの喜びは、夜が白々明けるまで「嬉しい、楽しい」も何遍も何遍も繰り返す言葉でた。あれはど身体傷だらけにされたにもかかわらず、不思議と本人には痛み・苦しみは記憶されておらず、「目が覚めたら、あれ、今冬なのか。と思った」と本人はビックリしていました。病気に伴う後遺症は全く見つからず、退院後2ヶ月で仕事に復帰出来ましたことは、医師より「奇跡としか考えられない。奥さんのとった方法が正しかった」と、初めて謝罪してくれました。この例は医学会で発表され、その後厚生省より、院内感染MRSAの治療には抗生物質を極力控えるよう指示があったそうです。このことを、3月26日の報道で知りました。今後の医療の手助けと成り得た喜びは、感無量であります。

また父は元気になった主人を見届けるかのように2月5日、成仏の相を表わして息を引き取りました。『上野殿御返事』の、

花は開いて果(このみ)となり、月は出でて必ず満ち、灯は油をさせば光を増し、草木は雨降れば栄ふ。人は善根を為せば必ず栄ふ

のごとく、今ようやくして、母は病も治り、主人には寿命をいただきました。


3月23日、父の納骨の為、主人・母・私の三人で大御本尊様に御礼申し上げたいと思い、登山しました。主人は「本山は、清々しくて心が洗われる。こんな美しいお寺は日本広しといえども他にはない」と涙ぐむ一面を見せてくれたのです。

今世に巡り合えた御法に甘露の涙尽きず、その外に何の宝が世にありましょう。僧俗和合の麗しい姿で、御法主日顕上人猊下の御指南あればこそ、私は人としての道理を踏み外すことなく生きてこれたことを、心より感謝する次第であります。素直な心で、これからも長い道のりを、清い心で折伏に勤(いそ)しみ、歩みたいと思います。


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