大白法

平成9年10月16日号


主な記事

<1〜3面>

<4〜8面>


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体験発表


○本修寺支部 輪島真明 『学会員の友人を必死で救済』

みなさんこんにちは。私は今年北海道から東京に転居となり、1月6日付で本修寺支部へ移籍しました。

本年わが講中は70世帯の折伏誓願目標を掲げ、青年部はそのうち20世帯の誓願となりました。しかしこの20という数字は、恥しながら(まだ草創期の)我講中の青年部にとっては未曽有であります。何せ一昨年は成果ゼロ、昨年は何とか11世帯の成果、今年はその約倍の数字であり、活動メンバーが全員結果を示さなくては達成できません。しかし、御住職の陣頭指揮により、やればできるとの確信に立ち、個人としても本年5世帯の誓願をたてました。

活動は御住職さまが作って下さった再折伏のビラ配りからスタートです。徹底的に学会員宅にビラをまき、日を改めて一軒一軒訪問します。この活動をしていくと、必ず妨害されます。学会の妨害は、おおむね嫌がらせグループと理論武装グループとにパターン化されています。例えば私たち男子部2・3人に対して初めは20人程のいやがやせグループが取り囲み、塩や水をまいて来たり、タバコの煙をかけてどなり散らしたりします。すぐに10人程の理論武装グループがやってきて、私供の発言、一言ひとことに対して「文証を出せ、御書にないものはすべて邪義」と言ってきます。彼らはそれで問答をしているつもりのようです。

また、家庭訪問も粘り強く行なってまいりました。面白いことに、普段お寺に来ない青年部に対して、「学会員宅に一緒にビラをまきに行こう」と誘いをかけるとやる気を出して立ち上がったケースが見受けられたのです。また、私共は輸送班として本山任務から帰ってきたその日のうちに、徹底的に家庭訪問に行き、登山の息吹を伝えてまいりました。このような活動の中、青年部の成果は9月2日現在で、昨年を越えて12世帯までこぎつけました。

私自身は、新天地東京において、まず下種先づくりからスタートしました。何とか2月1日に、会社の同僚の浅見君を御住職様に折伏していただいて御本尊を御下付いただきました。その後6月3日には中学時代の同級生の川瀬君、8月31日には専門学校の友人の植木君、9月2日には近所にお住いの堀田さんが脱会され、それぞれ勧誡式を受けることができ、今年は4人の眷族ができました。

この中で、6月3日に勧誡を受けた川瀬君について紹介させていただきます。彼は中学時代の同級生で、卒業後も長くつきあった親友です。実は彼は小学校の頃から学会員で、特に中学・高校の時は熱心に活動していました。しかし、昭和62年に千葉県君津市の新日鉄化学へ就職して以来、何度電話をかけても決まって不在なので、私もあきらめて10年間会うことはありませんでした。なんとか下種先をいただきたく御祈念していますと、苦しんでいる川瀬君の姿が浮かびました。もしかしたら、まだ君津にいるかも知れない、こう思って新日鉄の総務に電話しましたが、「とっくの昔に退職して北海道に帰った」との答でした。私は、たとえ北海道であっても居場所を突き止めて、再折伏させていただこうと、君津市の役所に頭を下げて移転先を尋ねました。しかし、教えてくれません。なんとか食い下がると。「ではあなた方のつながりを証明する物を持参して下さい」と言われました。自宅へ帰って一日中探してやっと出てきたのが、15年前の中学2年時の生徒手帳です。この住所録に川瀬君の当時の住所が書いてありました。これを持って市役所に出直しましたら、しぶしぶ「後日あなたの自宅に川瀬さんの住民除籍票を送ります」と答えてくれました。ところが不思議なことに郵送されて来たのは住民表そのものでした。彼は一度北海道に帰ったのですが、どういうわけか平成7年頃から再び君津へ帰って来ていたのです。

6月2日月曜日、私は仕事が終ってすぐに君津に向かいました。しかしやっと見つけた住民票記載の住所には、パチンコ屋一軒しかありません。そこの従業員に住民票を提示しましたら、「ああ、川瀬なら半年前までここにいたよ。いまは違うパチンコ屋にいるよ」と答えました。次のパチンコ屋を教えてもらい、一目散に車を飛ばしました。しかし、次のパチンコ屋でもさっきと同じ答えでした。そして、3軒目のパチンコ屋に着いたのが夜の10時半でした。ここのパチンコ屋で店員に川瀬君のことを尋ねましたが、事情を判ってもらえず「お前には教えられない、帰れ」と言われました。しかし、ここにいると判った以上は引き下がる訳にはいきません。何とか食い下がってやっと呼んでもらいました。

10年ぶりに会った彼の装いは、しわだらけのシャツとズボンのみすぼらしい姿でした。すっかり私のことを忘れていましたが、「俺だよ、あのときの輪島だよ」と説明したら「あ、輪島か」と言って私の手を握りました。すぐに近くの店へ行って、お互いのこれまでの10年間を語り明かしました。

私は、彼の波瀾万丈の10年間の話しに衝撃を受けました。この10年間、御本尊様をお巻きしていたこと、学会破門後も何も知らずに会合へ参加していた罰で災難が相次ぎ、借金地獄となり、パチンコ屋に住み込んだり、限りなくホームレスに近い生活をしていたりという境界まで落ちていました。またあと2日後には給料を貰って今のパチンコ屋も退職し、野宿でもしながら次のパチンコ屋を探そうと思っていたと苦しそうに語りました。

私は学会の逸脱について話し、川瀬君の謗法の生活を破折しました。ある程度話しが済んだ時は、もう夜中の1時半でした。しかし彼にはもう明日がないと思い、このまま一緒に東京に帰って、職場を休んで勧誡を受けさせる、ということになったのであります。ここまでが、川瀬君が脱会を決意するまでのいきさつです。本日川瀬君が自分の体験を文章にして登山してきましので、それを読ませていただきます。

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みなさん、こんにちは。川瀬と申します。私がこの仏法に巡りあったのは、小学校4年生の時でした。父の再婚相手、私にとって二人めの母が熱心な創価学会員だったのです。以来、中学・高校の時は一所懸命に学会活動をして、昭和62年3月、苫小牧工業高校を卒業と同時に御本尊様を御下付いただいき、君津市の新日鉄化学へ就職しました。しかしこの時期に両親は離婚し、私は父へついて行きました。父は退転状況となり、私も同時に信心が堕落していきました。住まいが社員寮ということもあり、御本尊様を御安置する気持ちにすらなれませんでした。勤行は全くせずに、勝手気ままな謗法の生活となっていきました。

たまたま気が向いたときに創価学会の会合に参加するという状態でしたから、平成3年に学会が破門されたことの真相も知る由がありません。しかし罰は出てきました。学会破門と同時期に、私は酒気帯び運転で人身事故を起こして多額の借金を負い、さらに退社を余儀なくされました。また、当時一番仲のよかった学会員で会社の同僚が、事業費を使い込んで失踪してしまいました。周りの学会男子部は「これは学会が正しい故の魔である。宗門は謗法と化してしまった。今こそ学会男子部として奮い立とう」などと馬鹿なことを言っていました。しかし、幸か不幸か罰の現証がどんどん出てくる中で、私は学会活動どころではくなり、経済的にも持ち切れなくなって実家の北海道に帰ってしまいました。そこにはすでに、私にとって3人目の母と二人の連れ子が生活していました。父は完全に退転し、御本尊様もお返ししておりました。私も信心のことどうでもよくなり、適当にアルバイトをして、借金の返済をしながら気ままな生活をしました。しかし、大きな夢を抱いていた内地の生活の未練が捨て切れずに、平成7年夏にわずかな資金を頼りに君津へ戻って来ました。

初めのころは友人の世話になりながら生活をつないでおりましたが、長く続くはずもありません。いつの間にかパチンコ店を渡り歩く生活となりました。そしてまたもや酒気帯び運転の交通事故を起こして、借金は振り出しに戻りました。たった一つの私の財産である、ボロボロの車までもとうとう動かなくなり、次のパチンコ店が決まるまではこの車を住まいとしました。しかし、すぐに警察の職務質問に会ってしまうので、動かぬ車を手で押してあちこちと移動しました。もう私にはゴミ袋二つ分の衣類だけで、生活の道具すらなくなり、ただ生きていくだけ、となりました。今年の4月に某パチンコ店に転がりこみました。ここでの生活は最悪でした。6月5日に給料をなんとか貰って辞めることにしました。

そうしていると6月2日の夜遅くに、スーツ姿の輪島君が訪ねて来たのです。はじめは輪島と聞いてもピンときませんでしたが、すぐに思いだし、懐かしさで一杯になりました。いろいろ話しているうちに、学会の間違いに気がつき、腹が立ってきました。そしてすぐに脱会しようと思いました。そのまま夜通しで東京に行き、朝に輪島君の所属するお寺に行って勤行をしました。

御住職様からは「君津でそんな生活をしていてもしょうがないだろう。こっちで暮らしなさい。今日君達は休暇を取ったのだから、今日一日で住まいと職場を見つけなさい。そして夕参りのときに勧誡式をしましょう。もう今日から川瀬君はうちの青年部だよ」と温かく御指導下さいました。

早速二人で住居捜しをしました。が、どこの不動産屋へ行っても、私の装いと資金のなさが信用されず、挙げ句の果てには「あなたは日本人ですか?」と言われる始末です。最終的に、ある新聞店に住み込みで働くことになりました。夕方、勧誡を受けすっきりとしました。しかし、その後はこれまでの罰により、大変ハードな生活となりました。朝夕の配達と仕分け、集金、昼夜の拡張営業、留守番のすべてがのしかかり、ほとんど睡眠時間がありません。さらに月に一日の休暇しかもらえません。このままではいけない、信心の活動ができる場所を見つけるぞ、との思いで必死に勤行と唱題を続けてまいりました。御祈念も君津にいる田中さんという友人を救っていただきたい、との思いだけになりました。それからは思う存分、報恩感謝の信心活動をできる職場をみつけて、どんどん折伏していきたいです。

創価学会という組織の中で、知らずに猛吹雪にあえいでいましたが、29歳にしてやっと雪解けの望みが見えてまいりました。私の人生はこれからです。今日の登山を機にがなばります。よろしくお願いします。

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以上が川瀬くんの体験です。川瀬くんを再折伏させていただいて、私は今の時がどういう時なのか知ることができました。今、いかに再折伏が大切か。

御住職様は、今活動は何よりも再折伏が最優先の時であると教えて下さいました。『時』ということについて、話は前後しますが私は6月末に40度近い熱を出して倒れてしまいました。医者には「過労でしょう」といわれましたが、御住職様は「医者は絶対ではないよ。まっしてや原因不明となると、信心でしか解決はないだろう。今回の病気は、信心のズレからきていることもあると思われるから、自分の信心を見直したら」と御指導いただきました。以来私は自分の信心を反省すべく、朝詣りを今日まで続けてきました。もし朝詣りをしていなかったら、今回の病はもちろんのこと、私の懈怠謗法も増長していたことでしょう。

また、今年は私の妻も一つの体験をしました。妻は、多くの難病を抱えながら、9月20日に長女を出産しました。膠原病・バセドー氏病・子宮内膜症・無排卵など妊娠に不利な病が重なる中での懐妊でした。3ヶ月目には切迫流産が進行しましたが無事乗り越え、また6ヶ月目にも医師から切迫早産になると言われましたが無事克服し、順調に臨月を迎え安産となったのです。これは間違いなく御住職様の安産祈念のお陰です。大聖人様は

法華経の行者は、信心に退転無く身に詐親無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、たしかに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願も成就すべきなり

と御教示であります。私の残りの誓願は、一週間後、本修寺御会式の10月5日までに完遂していき、さらに残り3ヶ月を毎月1世帯の折伏をさせていただく目標を立てました。そして、12月の客殿新築御供養は、生活の中の無駄を省き、貯金をし、喜んで御供養させていただきたく思っています。明年『革新の年』、中でも記念法要登山にむけて自身の境涯の充実に尽くしてまいります。



○慧照寺支部 中島哲威 『不思議な因縁に導かれて』

私が入信させていただいたのは、平成4年12月5日でございます。その入信のきっかけとなったのは、入信の20日程前の11月14日のことであります。当時12歳になる長男が不慮の事故に遭い、8日後の22日、私たちの願いも虚しく意識の戻らないまま帰らぬ人となったのでありました。

まさに青天の霹靂としかいいようのない不幸が、我々家族に起こったのでありました。我子の死というものを目の当たりにして、ただおろおろと何もしてやれない自分自身に対し、また子をはねた相手に対して腹が立つのと、口惜しいのと、どこへもぶつけようのない怒りというものは、到底言葉ではいい尽くせるものではありませんでした。

また当時入信していなかった私は、いざ葬儀の支度をする段になって、なにをすればよいのか、またどこのお寺にお願いすれば良いのか、皆目見当もつきませでした。その時に妻の母から、自分が信心している日蓮正宗で是非とも葬儀を出してやって欲しいと懇願され、妻の実家である法舟寺様にお尋ねしたところ、現在の慧照寺様を紹介していただいた次第でございます。

早速お電話いたしましたところ、夜も11時を過ぎており、また当時私がまだ信徒でないにも関わらず、当時の御住職であられた岡崎法顕御尊師がすぐに枕経のために駆けつけて下さり、日蓮正宗の意義について丁寧に御指導して下さったのでありました。お話を受けたときの私供の心境といえば、まさに地獄に仏様にお逢いしたような思いでありました。また告別式の時にも法華講の方々にご参列をいただき、まだ12歳の息子には勿体無いくらいの立派な葬式を出すことができたのであります。

その後も岡崎御尊師は、初七日の法事をはじめ、七日毎の法事で参詣する度に、五御本尊様のこと、信心のこと、塔婆供養の意義などについて親身になってお話して下さいました。が、当時宗教にまったく関心のなかった私は、神も仏もあるものかとの思いで、とても素直な気持ちで受け入れることが出来なかったばかりか、御尊師様には大変に失礼な態度をとっておりました。


これまで、人様の不幸ということに出会ったことはありましても、まさか自分の身の上に降り掛かろうとは、思ってもみないことであり、夢でもみるかのように、全てが上の空のような時間が経つうちに、御住職様の言われる言葉だけは不思議と身に染みて、少しづつ判るようになってまいりました。最初は子どもを亡くすということが、自分たちの宿業であるということにも、反発を覚えたのであります。しかし、大変失礼な言い方かもしれませんが、御住職の熱心な折伏に心を打たれ、12月5日の二七日の法事の時に、家族全員揃って、御授戒を受けさせていただくことができた次第であります。

それから三カ月後、現在の秦道二御尊師が慧照寺御住職に就任され、しばらく毎月の命日忌毎に寺院に参詣させていただいておりますうちに、息子との別れという寂しさが、なくなったと言えば言い過ぎかもしれませんが、参詣の回を重ねる毎に不思議とその寂しさも乗り越えることができ、この信心の歓喜に気づかせていただくことが出来たのであります。

また不思議と寺院への参詣が楽しくなり、毎月のお経日・御講など寺院の行事に喜んで家族で参詣させていただけるようになり、御住職の法話を聴き、御指導をいただく機会も増えてまいりました。その中で、仏法の道理も教えていただき、日蓮正宗の信心は自行化他にありということが、私にも少しづつですが判るようになりました。


平成6年の地涌六万大総会の年、唱題が50万偏に達した翌月に二女が誕生しました。子供が出来たと判った時には、亡き長男への思いからずいぶん悩みましたが、御住職にその思いをお話したところ、大変に喜んでいただけたことで、その悩みも解消しました。無地に出産を終えた時に、縁のある子供だからと『ゆかり』という名前まで頂戴しました。本当に不思議なことに、今ではこの子のおかげで家族も円満であり、この子は無くてはならない存在となっています。

また長男の死に伴い墓地を用意しなくてはと思いながら、漠然と御本尊様のお側に眠らせてやれたら、どんなにか幸せだろうかと思っておりましたところ、御住職の配慮により、総本山の墓園にお墓を建立することができました。今でも夢のようで、本当にありがたく思っております。

また、特に不思議でならないのは、次男が総本山に出家得道させていただいたことであります。それも、亡き長男の遺骨と共に本山に上がり、3月28日の得道式終了後、御住職と、僧侶になられた次男と共に、墓地の開眼と長男の遺骨を埋葬をしていただくことが出来たのであります。お兄ちゃん子であった次男が、兄弟で共に総本山をお護りしているようで、この因縁を不思議に思えてなりません。

また今年の5月にささやかな新居も完成いたしましたが、この家を建てるに当たり、展示上を幾つも回り、やっと気に入る物件を見つけて契約を交わしたところ、その会社の担当が、亡き長男が最後にお世話になった担任の先生の御主人であったとは、そう知ったときは本当にびっくりしました。お蔭様で諸手続きから完成までを親身に対応していただけました。これも長男のお蔭としみじみと感じ、御本尊様に心から感謝を申しあげました。新居の入仏式に当たりまして、特別御形木御本尊様を賜わり、責任の重大さを改めて痛感いたしております。


私はこの5年間を振り返ってみて、とてもありがたく思うことは、この信心のお蔭で、家族が大きな変遷を遂げることができたということです。それはこの長男が信心を教えてくれたからこそ、今があると思っております。それには、お二人の御住職のお蔭であることはいうまでもありません。そして、もったいないことではありますが、次男を出家得道させていただいたことであります。子供と別れて暮らすのは、寂しくないといえば嘘になるかも知れませんが、御法主上人猊下様の御弟子となられた喜びをとても強く感じております。

御住職は、次男の得道に際しまして、三月の御講の法話で『出家功徳御書』を御講義下さいました。『出家功徳御書』に曰く、

よそ父母の家を出て僧となる事は、必ず父母を助くる道にて候なり。『出家功徳経』に云はく、「高さ三十三天に百千の塔婆を立つるよりも、一日の出家の功徳は勝れたり」と。されば其の身は無智無行にもあれ、髪を剃り、袈裟をかくる形には天魔も恐れをなすと見えたり。・・・されば出家と成る事は、我が身助かるのみならず、親をも助け、上無量の父母まで助かる功徳あり。されば人身を受くること難く、人身を受くるとも出家と成ること最も難し。

と仰せでございます。次男の得道に当たりまして、周囲から様々なことを言われました。この信心を知らない身内からは、何でそこまでするのかという意見も強くあったのであります。しかし、親の意見で決めたのではなく、あくまで本人の意見を尊重して決めたことを強く訴えてまいりました。ただいまの御書を通して、次男の得道によってみんなが救われるということを確信し、この喜びを伝え折伏をしていきたいと思っております。御法主上人猊下様の御弟子となられ、『成宏』という立派な道号を頂戴した今は、親として恥ずかしくない信心をせねばならない、という気持ちで一杯でございます。

学会では、総本山や御僧侶のことを悪く言いますが、自分の息子が総本山で修行されて、まだ五カ月でありますが、面会の時の態度といい、自分の息子とは思えない程の成長ぶりには驚きの連続であります。これも、すべて根本道場である総本山で修行させていたさいているからであって、先輩の御僧侶の御指導の賜と深く感謝いたしております。


御住職は、「総本山は厳格なところですから、いい加減な気持ちでいると還俗することになる。親の信心で子供も変わる」と仰せでありました。また「住み良い環境にしたければ、この信心で自分が変わればよい、自分が変われば環境も変わるものである。行住座臥の信心で自分を変えなさい」と御指導されます。

いたらぬ信心の私ごとき者でも、この信心のお蔭で不思議な功徳をいただくことができました。『四恩抄』の、

法華経の故にかかる身となり候へば、行住座臥に法華経を読み行ずるにてこそ候へ。

との御金言を常に心に置いて、これからも指導教師であられる秦御住職の御指導のままに、正直で素直な信心を貫き、自行化他に励む覚悟でございます。ご静聴ありがとうございました。



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