<2〜4面>
◇法華講連合会理事会、明年『出陣の年』の年間計画等を決定
法華講理事会が、9月15日正午より、東京・吾妻橋の法華講富士会館で行われた。正副委員長をはじめ、26地方部の地方部長(理事)および本部の各部部長(幹事)が出席した。読経・唱題の後、規約に基づき委員長が議長となり、明年平成11年(出陣の年)の年間計画や活動方針が審議された。主な決議事項は以下の通り。
- 実践項目の件
- 勤行唱題で、30万総登山達成の御祈念
- 全国一丸で、一人がひとりの折伏
- 歓喜の御登山で、信行の練磨
- 御報恩の信心で、家族ぐるみの寺院参詣
- 家庭訪問で、明るい講中の充実・発展
- 御書拝読で、行学の増進
- 折伏誓願目標の設定
- 年間登山計画
- 年間行事計画(総会は3月28日)
- 夏期講習会登山計画
- 少年部合宿および鼓笛コンクールの実施案
- 本年の夏期講習会会計収支報告
- 明年の一般会計予算案
- 教学試験(上級)実施
議案は全て終了し、午後1時45分理事会は閉会。その後地方部長懇談会が催された。
◇小説富士 『竜の口』 (10)
大東院日明著
「日昭殿……」
聖人は次の間の日昭を呼んだ。
広くもない草庵のことなので、日昭は「はい」と返事をすると、聖人の居間の板敷の上に両手をついた。秋の陽はようやく長くなりかけ、庇(ひさし)を通り抜けて聖人の膝の辺りまで達していた。
「日昭も左様に思います」
「そうか、では、一咋日来から申しておること、すべて用意はよいか」
「……はい……」
「何故、返事をしぶる」
「御聖人様……」
「なんじゃ……」
「日昭は悔しゅうございます」
「何を言われる日昭殿。そんな言葉は若い僧侶が言うことです。日朗より三つも年下の日興が、私の意中を読みとってか、黙って書状と『立正安国論』を持って問注所に行きました。……私の書状はともかく、再び日蓮が性も懲りずに『立正安国論』を献じたとならば、その弟子たる日興は問注所に留め置かれることは明白なことを知っても、日興は黙って出掛けました」
「日興が問注所に留め置かれるとならば、法華経のため、名誉至極と思いますが、この日昭は、後陣を受けた手前、只今から、皆の者の頭となって逃げねばならんのが残念至極でございます。さだめし後世の人々が、聖人を草庵に只一人にして、僧俗ともに皆逃げ隠れたと申されるのが、50を過ぎたこの日昭にも無念至極でなりません……」
「すべてが令法久住のためと、日昭殿……よおくお考え下さい。日昭殿が33歳、この日蓮が32歳の、今から19年前の建長5年に、日蓮は先陣、日昭は後陣と互いに約束をいたしたはず…」
「御言葉返すは失礼ながら、あの時は、師匠一人、弟子一人の時代でございましたが、只今はそれとは異なります。日朗、日興、日向、日頂、日持、日家等の青年僧や三位房、大進房等々の老成あって後顧(こうこ)の憂いはありません。なにとぞ、この日昭をこの草庵にお置き下さい。そのつもりで、弟子たちは、一昨日より御内意を体して、近くは鎌倉の檀越の方々に預けるように手配済みでございます」
「それは御苦労でした。日蓮厚く礼を言いますぞ。今日か、遅くとも明日は起こる事柄は、先年ここに起こった焼き討ちの時や、弘長元年の伊東配流の時とは事情がまったく違う。あれは文宇通りの不意打ちであったが、今度はすでに問注所に呼ばれておる……」
「今度はいかような処置がありましょうか」
「おそらく死罪じゃ」
「ええっ、死罪っ、まさか、そんな無法なことが……」
「法華経のためには言葉を飾らぬ日蓮。執権職時宗殿の御父上を地獄に堕ちたと申した日蓮。今を時めく鎌倉の七大寺の僧達の頸を、国難を除くためには由比ケ浜に斬るべしと、二度も三度も諌言した日蓮。おそらく死罪を言い渡そう。軍鼓を叩き喊声(かんせい)を挙げて、今にも、この松葉が谷を取り囲むであろう」
「事態はそこまで急を要しておりますか」
「日昭殿、蒙古の襲来を12カ年も前に予言した日蓮が、敵が我が草庵に攻め来るのを分からないでなんとする。先刻、日興に問注所に持参させた手紙には、未萌を知るを聖人というと書いておいたが、どうじゃ。あっははっ、あっははっ」
「ここまで覚悟をした日蓮、日昭殿よろしいか、そうそう案じて駈けつけた人々も、さっそくに連れて一刻も早く立ち退きなさい」
「御師匠様が死罪の御覚悟をなされたのに、弟子一人も庵室におらぬとは、もっての外でこざいます。日蓮が弟子は臆病にては叶うべからずとは、常日頃の御教訓であります。日昭をおいて外の日朗、日向、日持等々の処置は充分ついております。どうか、日昭だけは、聖人の側にお置き下さいまし」
「日昭殿。一昨日の夜、しかと皆の者に言い聞かせ、そなたが頭となって退散することを承知したではないか。先刻も申したように、先年の焼き討ちは理不尽な念仏門徒の仕業であったから、これと一戦交えても理屈は立った。だが、今度はそうはいかぬ。おそらく、平左衛門尉が総大将となって数千人の兵をもってこの草庵を取り囲むであろう。されば、これに手向かえば皆、日蓮と同罪ということになるであろう。それでは、敵の戦法に我からかかってゆくも同然である。今度は、手向かいせぬのがこちらの戦法。法華経は諸人をたぶらかす秘法とは、今日蓮が示すところじゃ。数千人の人々をもって、この麻衣(あさごろも)の一介の僧日蓮を取り囲んだとあれば、幕府もえらい名誉なことではないか。この辺の道理を、日昭殿が分からぬことはないと思う」
庭の松の樹に休んでいた山鳩が、一勢にはばたいて急に舞い上がると、四、五十匹の沢蟹がさあっと、時雨でも来たよう音をたてて、庭の面をあたふためいたが、やがて、崖下の穴に向かって姿を消した。何か、地の物音を聞いたに相違ない。
◇創価学会の誤りを糾す(2)
あるいは、
これに対して現在の池田創価学会による宗門への誹謗はどうでしょうか。余りに多すぎて選ぶことも容易ではありませんが、その大本は、根源の本門戒壇の大御本尊に対する、
などの信仰者にあるまじき、軽善・憎善・嫉善・恨善等の十四誹謗に根ざすことが明白です。
このように、池田創価学会の発言はその時々でまったく正反対の、精神分裂病的症状を呈しています。したがって彼等が、その主張の中で「文証」だとして使用する御書などの引用文献も、すべて切り文(もん)、スリ替えに終始しており、無責任、無節操と言うか、まったく一貫性がないため、当然ながら、その論旨は破綻(はたん)をきたしています。これを自語相違というのが常識でしょう。しかし、彼らは、自語相違と指摘されても、厚顔無恥にも決して認めようとはしません。
からであるなどと言い、さらに彼らがニセものだという本尊、導師曼荼羅で葬儀をしたなら、
とまで誹謗しています。これはどうでしょう。それでは、過去に導師曼荼羅によって日蓮正宗の葬儀を執行(しっこう)してもらった何百万人という会員や、戸田会長をはじめ、北條会長、池田大作の母親や二男、すべての創価学会員が、彼らの言うように、生前に積み上げた功徳を破壊され、地獄へ堕(お)ちたということになるでしょうか。それについては何の説明もありません。追求されたら、今度はどうやって言い逃(のが)れるのでしょう。
さらに言えば、創価学会は、日寛上人書写の本尊をもとにして『ニセ本尊』を作製し、これを販売配布することを正当化するために日寛上人のお徳を特別に取り上げて、日寛上人こそ大聖人直結の正当な御法主としていますが、その日寛上人も、当然、導師曼荼羅を書写されております。もちろん日寛上人御書写の導師曼荼羅にも、はっきりと閻魔法皇と五道冥官が認められているのです。
一方で正統な御法主日寛上人と言い、もう一方で『ニセ本尊』の導師曼荼羅を書いた不当の法主だと言うのでしょうか。あちらを立てればこちらが立たず、一体どちらを立てるのでしょう。誰が見てもハッキリとした自語相違の一例ではないでしょうか。
御法主日顕上人猊下は、この彼らの誹謗に対し、先に発刊された『偽造本尊義を破す』において、
と破折あそばされるところです。導師曼荼羅こそが、本宗の葬儀における正式な御本尊なのであります。創価学会は、知りもしないのに、平気で難癖をつけ、自語相違をきたし、破折される恥知らずを延々繰り返しているたくさんの例から挙げてみました。
と御指南くださっております。「御書根本」ということは何も新興宗教・創価学会に限らず日蓮宗各門下教団においても、一様に言うところであって、御書によって宗義を立てることそれ自体は決して誤りではありません。問題は、御書の拝し方なのです。御法主上人猊下が、
もしも、「極理師伝」がなくとも、単に御書を拝読するだけで仏法の深義が領解できるのであれば、五老僧やその門下が謗法となることもなかったはずです。御書に示される大聖人の御聖意は、その深い元意と義理を「極理師伝」の上から拝することが肝要です。三宝を破壊し、日蓮正宗の師弟相対の上における極理の伝授を軽んじ否定するところの、創価学会の我意我見による御書の拝し方は、大聖人の、
と仰せの御意に背逆するものであり、御本仏の御言葉によっていると思いつつ、その実体は蜃気楼のごとく空虚であり、むしろはっきりと堕獄の因となる大謗法なのです。
大聖人は、一期(いちご)御化導の締めくくりとして、重大法義を明かされた『三大秘法抄』に、
と仰せられています。すなわち、大聖人の弘通あそばされる御法門とは甚深の秘法であり、当時の弟子たちですら、その深義を領解できておらず、むしろ大聖人の御法門を汚す恐れすらあったことを慮られての周到なる御用意であられたと拝されます。このように私ども凡夫の浅識、凡智をもってすれば、えてして我意、我見による信解の狂いを生じるであろうとの、滅後の衆生を慮かられての大慈大悲が、先程の大聖人様の「口伝法門」の大事に関する御教示であり、また血脈相承による「極理師伝」の大切なることについての二祖日興上人の御指南であり、さらには歴代御法主上人の「師資相承」の肝要に関する諸御指南なのです。
池田創価学会は日蓮正宗の信徒団体に過ぎなかったその分を忘れて、本宗の根本宗是たる血脈を誹謗・冒?する大謗法を犯し、御書を曲解して大聖人の御聖意に背く邪義を構築し、独りよがりの我見による素人法門を展開しています。御法主日顕上人猊下は、
と、大綱と綱目の筋目をわきまえた上での御書の拝し方が大切であることを御教示くださり、さらにまた、文・義の上から、文の表面になくとも義が具わっている場合、反対に文の趣意はそれぞれに明らかでも、さらに深い義までは具していない場合等さまざまであって、表面だけの文や語に執(とら)われて聖意を見失うことのないようにすることの大事を御指南くださっています。この当家古来の御書拝読の基本姿勢の上から、創価学会が、手前勝手に、恣意(しい)的に引用して「御書根本、御書根本」と言いながら摧尊入卑(さいそんにゅうひ)し、「文証、文証」と莫迦の一つ覚えよろしく切り文やスリ替えでつつき回すことを「ねずみ法門」というのです。私たちは、この創価学会の狡猾なトリックを見破っていくことが大切です。
この下種三宝について、本宗第26世日寛上人は、内体と外相の上から論じられ、
と示され、外相においては三宝に勝劣次第がありますが、内体においては三宝は一体であると教示せられています。すなわち、僧宝たる血脈付法の御当代御法主上人の御内証に下種三宝の御法体がましますと深く拝信して、信伏随従申し上げることが本宗信仰の肝要です。創価学会も、かつてはこの三宝義に則り、御法主上人に随順していたのであり、池田大作自身も、
と述べていたのです。しかし、平成2年以降、池田の御法主上人に対する驕慢・非礼な言動が顕著になり、
御法主日顕上人猊下は、この創価学会の僧宝否定について、
と御指南せられ、「大聖人直結」という邪義の矛盾と欺瞞(ぎまん)を指摘あそばされています。創価学会は、「大聖人直結の血脈」「大聖人直結の法主」「直結の師弟感応」などと、邪悪な「直結信仰」を正当化しようとしていますが、その狙いは、下種三宝と唯授一人の血脈を否定し、御歴代上人との師弟相対に関わる法義を「池田直結」「創価学会直結」に改変しようとするところにあるのは明らかです。
創価学会の「直結信仰」は、仏法破壊の誑惑の邪義であることを知らなくてはなりません。大きく変質をしてきた不正直の団体の存在を許すことは、社会悪を放置することになります。我々は折伏を続けてまいりましょう。
「只今、日興を問注所に使いに出したが、もはや二度とは帰るまい」
聖人は、草庵の屋根をふるわすような声で笑うのであった。
日昭は黙念として、返事がなかった。
創価学会の誤りを糾す(2) 変質する創価学会
今回は、創価学会の「自語相違」と、「御書根本・大聖人直結」という邪義の破折についてです。 はじめの自語相違については「本尊・血脈に関する自語相違」と、「導師曼荼羅に関する自語相違」に分けて述べます。
本尊・血脈に関する自語相違
かつて池田創価学会は、
などと述べていました。そして、これらは皆、外ならぬ池田大作・創価学会が過去に発言してきた言葉です。
との不信謗法にあり、さらには御法主日顕上人猊下に対する、
導師曼荼羅に関する自語相違 彼らの自語相違の顕著な例が、まだあります。日蓮正宗の葬儀において貸与(たいよ)される導師曼荼羅についての自語相違です。彼らは、日蓮正宗の導師曼荼羅に閻魔法皇・五道冥官が認(したた)められていることについて、
「御書根本」の邪義を破す
日蓮大聖人様は『一代聖教大意』に、
と仰せです。また日興上人は『日興遺誡置文』に、
と仰せのように、凡夫の我意、我見、浅識等による自己中心の考え方で御書を拝することは、山に入って山を見失うようなものであることに、深く注意すべきです。深い信心をもって拝すべき大聖人の尊い御金言を、自己中心の偏った邪義をもって拝しても、御聖意を汲むことはできないのであり、それを「御書根本」とは決して言いません。そこに御本仏日蓮大聖人より唯我与我の相伝を受けられた日興上人以来、唯授一人血脈付法の御法主上人の御指南をもとに、すなわち極理の師伝によって御書を拝することに大切な所以があるのです。つまり、真の「御書根本」とは、御法主上人猊下の御指南を戴く日蓮正宗の僧侶と法華講においてはじめて言えることなのです。
「大聖人直結」の邪義を破す
日蓮大聖人は『四恩抄』に、
と仰せられています。これは、下種仏法の深義は必ず僧宝によって正しく伝持されるとの御教示です。本宗における下種三宝とは、仏宝は宗祖日蓮大聖人であり、法宝は大聖人出世の御本懐として御図顕あそばされた三大秘法総在の本門戒壇大御本尊。そして僧宝とは「血脈の次第 日蓮日興」と、大聖人より唯授一人の血脈相承を直授せられた日興上人を随一とし、以来三大秘法の法体と金口の相承を承継あそばす血脈付法の御法主上人です。
などと、本宗の血脈相承を無視した「大聖人直結」という、52年路線と同じ血脈論を、再び展開するようになったのであります。このような池田大作・創価学会の信心の変節こそ、彼等には本宗信仰の肝要である下種三宝義と唯授一人の血脈の信解が全くなかったということを示し、かつ、御法主上人に対する随順も、上辺だけの面従腹背であったことを如実に物語るものです。この「大聖人直結」が大いなる邪義であることは、すでに日興上人が『佐渡國法華講衆御返事』において、
と仰せられ、血脈の次第を無視して、勝手に大聖人の直弟子(大聖人直結)を名乗る者はすべて謗法であると厳しく戒められているところです。すなわち創価学会が言う「大聖人直結」は、「僧宝」にまします日興上人が仰せられた戒めを破る師敵対の邪義であると同時に、日興上人、及び御歴代上人を飛び越えて「大聖人に直結」すること自体、下種の僧宝を否定する仏法破壊の大謗法なのです。このことは、かつて昭和52年路線においても、宗門から厳しく注意され、創価学会は反省を誓ったはずの事項です。