<2面> 御法主上人猊下御言葉
<3〜5面>
<6面以下>
御法主上人猊下御言葉
宗祖御誕生会の砌
皆さん、本日はおめでとうございます。宗祖日蓮大聖人様は貞応元(1222)年2月16日に、この日本国に御誕生あそばされました。インドに出現した釈尊は2月の15日に入滅をされまして、その次の日に当たる2月16日に、釈尊が大法を付嘱せられた御本仏日蓮大聖人様が日本の国にお生まれになっておるのであります。これも実に仏法の不思議な姿であると拝するのであります。大聖人様がお生まれになる前後において、御父、御母が見られた不思議な夢、これを夢想と申しますが、そのような知らせがあったことが大聖人様より日興上人への御相伝のお言葉によって、今日それが『産湯相承事』(うぶゆ)として残っております。これは実に大事な、また不可思議な仏法の姿であり、それが大聖人様の御誕生に関連して示されておるのであります。
まず、御母君の梅菊女という方について、「平の畠山殿の一類」(御書1708)とお書きになってありますが、畠山氏には有名な畠山重忠という強力無双の人があり、この人は源頼朝と共に平家を追討した勇者でありました。その一族は桓武平氏の末孫として、現在は埼玉県になりますが、武蔵国畠山庄の荘司となり、のちに北条時政等に色々な面からあだまれて、一族が滅亡したと伝えられております。そのようななかで、その家来あるいは家人(けにん)等も色々な面で討たれ、あるいは流浪の憂き目に値(あ)ったと思われますが、「我父母に後(おくれ)れ奉り」(同)と言われておりますので、父母がおいでにならなかったような時に、その御母君がまだお若い時に房州の清澄寺においでになりまして、そして遊芸をもって事とされつつ、毎夜、清澄寺に参詣をされ、特に「通夜」すなわち、お篭もりをして身の末を祈られたようであります。この清澄寺は、大聖人様が御年12の時にお上がりになって、僧道に入られたゆかりの寺でありますけれども、この寺の元はそれより約450年前に不思議法師という人が虚空蔵菩薩を彫刻し、開創したのであります。この不思議法師ということは、不思議は妙法の妙であります。それから法師の法は妙法の法になり、法師の師は師匠でありますから、不思議法師は文字としてそのまま「妙法の師」という意味があるのであります。この方が彫った虚空蔵菩薩に大聖人様が御幼少の時に、「日本第一の智者となし給へ」(同1077)という祈願をあそばされ、満願の日に、不思議にもこの虚空蔵菩薩より智慧の宝珠を頂いて袖(そで)に受け取られたということが、大聖人様の御書に示されておるのであります(清澄寺大衆中・御書946)。
そのような意味からも、御母君が通夜をされた時に、不思議な夢想を蒙(こうむ)られました。これは「一閻浮提第一の宝を汝に与える」という言葉でございました。そして「東条の片海(かたうみ)に三国大夫(みくにのたいふ)という者がいるから、これを夫と定めよ」という不思議な言葉を授かったのであります。これは御書にはどなたからとは書いてありませんが、おそらく虚空蔵菩薩のお告げであったと思われます。それから三国大夫すなわち、貫名(ぬきな)次郎重忠公に嫁(か)されたのでありますが、大聖人様を御懐胎あそばされた時の御夢が比叡山の頂に腰を打ちかけて近江の琵琶湖の水で手を洗い、振り返って富士山より日輪が出るのを見て、その日輪を懐(ふところ)に抱いたということであります。ちょうどそれから月水とどまりて御懐胎のよしを自ら覚知されたということであります。
その時にまた、御父君の夢想として虚空蔵菩薩が夢のなかに現れて、貌(みめ)よき稚児を肩に乗せられ「この方こそまさに上行菩薩様である。そしてこの方が一切衆生のための三世常恒(じょうこう)の大導師である」ということを言われ、今これを汝に授けるという夢を見られたということが、御夫婦の間で語り合われたということであります。それからさらに大聖人様がお生まれになる時の夢は、富士山の頂に登って十方を見ると、十方ことごとくが明らかになり、そこに下り来たった梵天、帝釈等の諸神王の「今まさに御誕生なり」「産湯をまいらせよ」という言葉に対して、阿那婆達多(あなばだった)竜王が八功徳水を持ち来たりました。これは、ほかの竜王は金翅鳥(こんじちょう)に食らわれるのでありますが、阿那婆達多竜王は無熱池に住んでいる徳をもってその害を受けることがないと言われておるのです。その阿那婆達多竜王が青(しょう)蓮華を持ち来たり、その花から水を出し、この清水をもって産湯をまいらせたということです。そして、諸天善神がその姿を見て、「善哉(ぜんざい)善哉善日童子、末法教主勝釈迦仏」(同1709)と三たび唱え、礼拝して去った、というような夢想でありました。
このことを大聖人様の御母君が大聖人にお伝えになりまして、「まさにあなたは今に真の聖人として世を導く人である」ということを申されたのであります。大聖人様はこのことを深く心にお留めあそばされ、のちに日興上人に「母親の夢物語と思って、けっしておろそかに聞いてはならない。自分の一代の功徳、一代の修行はことごとく、この母と父の霊夢に存したのである」ということを仰せになりました。それはすなわち、大聖人様の「日蓮」というお名乗りが自然にそのまま、この夢のなかの姿として示されておるのであります。すなわち、日輪が富士の山より出でて御母君の懐に入ったこと。また、青蓮華をもって産湯をまいらせたことはそのまま、日蓮の御名を表しておる次第であります。また、上行菩薩の出現について釈尊は、法華経の神力品のなかで、「日月の光明の能(よ)く諸の幽冥(ゆうみょう)を除くが如く斯(こ)の人世問に行じて能く衆生の闇を滅す」(新編法華経516)という有名な金言を説かれております。この「日月の光明」と示される「日」の字は、線が5本あります。「月」の字もまた線が5本ありまして、この5と5を合わせて10本になり、これはそのまま十界互貝を表し、また十羅刹女としての末法の仏法守護の諸神を示しておるのであります。したがって、日蓮の御名の「日」は日月の日であり「蓮」は月神を表す。つまり、月は水を縁とし、蓮華は水より生ずる故に、「蓮」は月の神を表すという上から、「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如し」という御文がそのまま、大聖人様の日蓮の御名として表れております。
さらに、上行菩薩をはじめとする地涌の菩薩の体徳として、「世間の法に染まざること蓮華の水に在るが如し」(同425)ということが、涌出品のなかに説かれてあります。これはすなわち、あらゆる煩悩のなかに在りながら、しかもその煩悩に冒(お)されず、囚われず、その煩悩によって様々に悩み苦しんでおる人々を煩悩即菩提の妙法蓮華経の功徳をもって成仏せしめていくという意義が四菩薩の功徳として、また用(はたら)きとして示されておるのであります。
したがって、太陽が一切の幽冥を除くが如く、衆生の闇をことごとく滅することは、そのまままた、一切衆生の迷いの元であるところの煩悩を浄化し、さらに色々な面から邪義邪宗によって不幸となっておる人々を糾して、真の仏道を示していくというところの意味を説かれておるのであります。
このような意義から、大聖人様が2月16日に御誕生あそばされたことを記念して、本宗においてはこの五重塔の扉を開いて大聖人様の御誕生をお祝い申し上げる次第であります。また、この塔は寛延2年(1749)に建立をされておりますので、本年がちょうど建立されて250年に当たるのであります。その建立より約30年乃至それ以前において、25世日宥上人、26世日寛上人、27世日養上人のお三方が御内談をあそばされまして、我が山に五重の宝塔を建立すべきであるということを合議されたのであります。しかし、当時といたしましては直ちにこの塔を造ることがなかなかできません。したがって、将来のことに託され、当時の50両はかなりのものであったと思いますが、お一人が50両ずつ御宝蔵にお入れになって、150両を基金として将来の塔の建立を願われたのであります。
その後、第30世日忠上人が御先師の志を受けて塔の建立を急がれ、当時の東京の三カ寺の講中、加州の信徒その他の方々に掛け銭を命ぜられました。いわゆる月掛けのお金を五重塔建立のために御信徒に呼び掛けられまして、当時の檀信徒の方々が、月に16銭ずつを掛けて貯金されたのです。そして、最終的には3・400百両になったのであります。しかし、その時もまだ建立できませんでしたが、第31世の日因上人の代に至って、板倉周防守(すおうのかみ)勝澄公という大名が金1,000両の御供養をされ、それを元として、さらに多くの方々の寄進をも仰ぎ、また日因上人御自身も百両を出されるなど、色々な面から二千数百両が工面できまして、ようやく塔の建立に着手したのであります。それでもまだお金が充分ではなかったのでありますが、これはまた将来のこととして、4,200百余両のお金によってこの五重塔が出来たという記録が残っております。
この五重塔は高さが30数メートルありまして、その中央には大きな太い木が一本、そのまま心(しん)の柱となって入っております。これは御承知の方も、そうでない方もあると思いますが、ずっと上まで行っておるのであります。この木は、今日もここに見えておりますが、白糸の渡辺家の裏の森の大将木(たいしょうぼく)という、その家にある一番大きな檜(ひのき)の丸太を供養されて、それによって中心の柱が出来たということが言われておるのであります。そのような次第で粒々辛苦(りゅうりゅうしんく)の結果、寛延2年に、すなわち今から250年前にこの塔が造られました。その時以来、この2月の16日に塔の扉を開いて大聖人様の御誕生をお祝い申し上げておるのであります。また、この塔は西に向いて建てられておりますが、これは、釈尊の仏法が西より生じて日本国に伝わったのに対し、今度は大聖人様の御出現による日本の仏法が中国からインドヘ還(かえ)り、さらに西に向かって広宣流布をしていくということを表しておるのであります。
本日御参詣の方々のなかには、はるばる台湾の方々が160数名お見えになっておるそうであります。また、香港、マレーシア、アメリカ等の方々もお見えになっておるということでありますが、これこそまさに、日蓮大聖人様の御予言の如く、これからあらゆる障魔を乗り越え、多くの人々の真の幸せのために正法を広宣流布していく姿が表れておるものと思うのであります。どうぞ参詣の皆様には、さらに本年の意義を深く考えられて、これからも自行化他に御精進あそばされることを心から御祈念する次第であります。本日はまことに御苦労さまでございました。
※この原稿は日正寺支部の福原さんの御協力で転載いたしました。
第二回慶祝記念局委員会の砌
本日、第2回宗旨建立七百五十年慶祝記念局委員会を開催することになりまして、僧侶の委員の方々、信徒の委員の方々にはまことに御多忙のなかを御参集いただき、まことに御苦労に存ずる次第であります。第1回の委員会から今日に至るまで、色々な面における内容にかなりの決定事項を含む前進があったと思うのであります。しかし、この事業はこれから3年にわたって継続していく意味からも、色々な面でさらに様々の問題を討議していくこともあると思うのであります。本日、第一に申し上げておきたいことは、正本堂の解体の状況についてであります。皆様方も用務において総本山に登山をされますが、正本堂の周りがすっかり囲ってありますので、内部の状況をあまり御存じない方が多いと思うのであります。宗祖大聖人様の本門戒壇の正義に対する根本的な邪義をもって、池田大作が様々なことを過去において行ってまいりましたが、それらの象徴として正本堂を解体することを決断いたしたのは昨年の4月でありまして、それからの趣旨に従って種々に解体を進めてまいりました。最初に法庭から始まり、さらに円融閣の真ん中に大きな太い柱が5本と、前に15本、後ろに15本、合わせて35本の大きな柱がありましたが、それは既に解体されております。さらに正本堂の妙壇と言われた本体については、初めに屋根が落ちまして、それから周りの外壁の全面の1/4、後面の1/4、さらに東の面の1/4が落ちまして、西側だけが残っておりました。これも一昨年に解体に便利なような形で、屹立していた部分の根元を壊したことによって全面に倒れております。そして倒れた形からさらに進んで、西側の部分がこれから解体されていく次第であります。したがって、地上の部分の解体は、言うなれば8/10から9が既に終了しておると言ってよいと思うのであります。残された約1/10の部分が、正本堂妙壇に向かって左側、すなわち西側の、全体の1/4一の部分でありまして、これが既に全面に倒れておるというような状態になっております。
したがって、3月いっぱいぐらいで地上物件としての解体がすべて終了し、残りの基礎の部分が7月乃至、8月ぐらいまでの予定において全部、取り払われるということになると思うのであります。そして現在考えておりまするところ、宗旨建立七百五十年における三十万総登山で法要等を行っていくために必要な意味における奉安堂の建立ということになりますが、これらがことごとくきれいに整地されたのちに、その上に新しい工夫と創意を凝らしてあらゆる面において万全を期した、信徒の方々の参詣のための施設が立派に出来上がるようにかんがえておるのであります。
これは大きな事業でありますから、正本堂解体、奉安堂建立に関しての様々な付帯関連事業が出てまいります。それらのことについては、今日これからの議案のなかで説明もあるかと思いますが、これも全体のまとまりの上から必要欠くべからざる仕事であることをお考えいただいて御審議をいただきたいと思う次第であります。本日はまことにお忙しいところを御苦労さまでございました。よろしくお願いをいたします。
※この原稿は自得院支部の河野さんの御協力で転載いたしました。
台北市本興院で台湾法華講幹部指導会
中華民国・台北市において、第一回法華講本興院支部幹部研修会が、1月30・31日の2日間にわたって盛大に行われた。今回の研修会は、昨年6月に成立した法華講本興院支部において、『法華講精神の確立』というスローガンのもと法華講員としての信心と、幹部としての心構えを学ぶために開催されたものである。これには、日本より本行寺・法道院・妙光寺の各支部代表19名が講師として参加し、宗務院からは宗務院書記・佐藤信俊御尊師が同行した。また本興院からは、講頭・副講頭をはじめ支部幹部約150名が参加した。
第1日目、開会に当たって本興院主管・黒沢糾道御尊師から「結成してからまだ一年も経っていない本興院支部は、『法華講精神の確立』こそが最大のテーマである。縦の筋道である師弟子の道と、横のつながりである講員同士の切礎琢磨によって、中華民国法華講の歴史を作るのは我々である」と挨拶があった。その後、本行寺・法道院・妙光寺各支部の代表者によって『折伏のススメ』『組織運営について』『役員の心得』と題し、それぞれ講演が行われた。第2日目には前日の講演を受けて、三グループに分かれての質問会が行われた。日本からの法華講の先輩に対して、具体的な支部の組織運営方法や、役員としての心構えなどについて、活発な質問が行われた。これに対して適切なアドバイスがなされた後、総括が行われた。続いて黒沢主管から閉会の言葉があり、はじめに本行寺・法道院・妙光寺の各住職に謝意を表したあと、「今回学んだ内容もさることながら、万里を遠しとせず、広布のためにかけつけるという信心の姿勢を学んだことも大きな収穫であった。今後は、学んだことを実践していくことが大切である」と述べられた。最後に本興院支部の林徳晃講頭から謝辞があり、2日間にわたる研修会は大成功の裡に終了した。
はじめに 皆様こんにちは。私は、只今ご紹介をいただきました、本行寺支部講頭を務めております大嶋でございます。よろしくお願いいたします。 本日は、法華講本興院支部の「幹部研修会」が、いよいよ本格的な支部構築を目指してこのように開催され、まことにおめでとうございます。この意義ある「幹部研修会」に、私たちの支部から7名の者が参加させていただき、さらに私どものささやかな活動の一端を話させていただく機会を与えられ、感謝をしている次第です。
講演に先立ち、私どもの支部の紹介を簡単にさせていただきます。本行寺支部は、昭和26(1951)年に、現御法主日顕上人猊下を御住職として、現総講頭・柳沢喜惣次氏を中心に45名で発足いたしました。住職の厳しい御指導を得て、活発な折伏により短期間で急速に講員が増え、今日に至る基礎が出来上がりました。昭和38(1963)年には現住職・高野日海御尊能化を迎え、さらに発展充実し、今日までに二つの支部を分離独立させるとともに、現在約1,800世帯、3,800余名が在籍し、平成14年には僧俗一体となって5,000名の参詣を目指し、精進しているところです。
また、来年には支部結成50年を迎えます。この50年の歩みの中から、本日いただきました『折伏のススメ』の講演題目にそって、支部全体が体験の上につかんだ話を、私が代表して話させていただきます。少し脇道にそれたり、皆様にはもう十分お判りになっていると思われる部分もあるかと思いますが、しばらくの問、お聞きいただければ幸いです。
1、折伏の意義 はじめに「折伏の意義」について簡単に述べてみたいと思います。皆さんはすでに御僧侶から直接、折伏についての御指導を受け、大聖人様の御指南についても勉強されていると思います。また、現に折伏に励まれている方がたくさんいらっしゃると聞いております。 折伏は、ご承知のように、末法の御本仏・日蓮大聖人様の示された、成仏のための修行であります。これは勤行・唱題と同じく、基本的修行ですから、誰もが励まねばなりません。「折伏は自分の力で成就するのだ」という考え方は、間違いであります。自分の力でやると思うと、教学がなければできない、話が上手でなければ、性格が社交的でなければ、と考えてしまいます。そして、自分の話を聞いて入信する人などいないだろう、だからできないんだと、心の中で先に決めてしまうわけであります。
ところが、現実はどうかというと、入信してすぐに折伏をする人がいるのです。一週間か二週間で信心が強くなるとも思えませんが、できる人がいるのです。また、御書の勉強を全然していない人でも、折伏はできるのであります。無口な人でも、性格が内向的で地味な人でも、折伏はできます。今日ここに、私と一緒にやってまいりました本行寺支部の村松壮年部長は、今から30年ほど前、学生時代に折伏をされて入信しました。入信してすぐに折伏をしなさいと指導され、その指導を素直に聞いて、わけも判らない状態でどんどん友人にこの信心の話をしたのです。といっても、自分で話せる内容はわずかですから、自分の住まいに友人を呼び、そこに信心の先輩に来てもらって、話をしてもらうのです。私もその先輩の一人でありまして、彼の横浜の住まいにはよく行きました。その頃、村松さんが折伏し入信した人は数多くおり、育成できずに退転した人もいますが、立派に成長され宗門のために大活躍されている方も大勢おられます。
このように、折伏は自分の力でできるものではなく、「仏様の力でできるのだ」ということです。結局、信仰をするかしないかは、相手が決めるのです。こちらが苦にする必要は何もありません。また、自分が縁で、相手が入信したとしても、それは御仏智であって、その人が自分の子分になったとかということではないのであります。この信心をしようとする側から見ると、誰かが縁にならなければ入信はできません。まれには、自らお寺を訪ねて信仰に入る人もありますが、ほとんどの人は、誰かに話を聞いて信心を始めるのであります。折伏ができるということは、入信する人と巡り合うことだと言うこともできます。御本尊様の功徳により、そういう人と出会えるのです。
わが支部のこれまでを振り返ってみますと、特に、宗門・大石寺の動きに合わせてがんばることにより、発展をしてきたということが言えます。本行寺支部の結成は今から48年前の昭和26(1951)年1月です。この時、結成式に参加した人は45名でした。それから1年3カ月後、昭和27(1952)年4月の立宗七百年祭の記念登山には、約200名が登山しております。わずかの間に五倍近くに増えました。これは、宗旨建立七百年という大住節を目指して、死にものぐるいでがんばった結果であります。昭和56(1981)年の大聖人様第七百御遠忌の時も、その何年も前から、支部の体制整備に取り組み、記念御供養、登山の啓蒙、折伏にがんばりました。そして、七百御遠忌の年の夏季総登山会には、支部として初めて、1,000名を越える参加者を出すことができました。折伏も、一年問で200世帯近く成就させることができました。平成2(1990)年の大石寺開創七百年への取り組みも同様でした。この時も、御供養、登山、折伏に取り組み、特に夏の全国三万名の登山・総会が猊下からの御命題でしたので登山には力を入れ、結果として支部から2,000名を越える参加ができました。さて、現在私たちは、平成14年の宗旨建立七百五十年に向かってがんばっております。皆さんも同じだと思います。私たちの支部の登山目標は5,000名で、自分の力でやると思うと、とても無理ではないかと考えてしまいます。しかし、これも仏様のお力で実現するのであり、私たちの我見で考えてはいけません。「宗門の方針に合わせて励んでいけば必ず発展する」このことを忘れずにがんばっていきたいと思います。
2、折伏の要領 (1)唱題の利益 次に、折伏の要領ということについて申し上げたいと思います。「折伏はどのようにするのか」よく聞かれる質問でありますが、これに対する答えはすでに決まっております。それは、「折伏に特別な方法はない」というものです。ただ一つ、心の底から、本当に折伏をしよう、と思うことだけであります。本気で折伏をしていけば、仏様が必ず助けてくれますから、折伏は成就します。 しかし、実際にはなかなかそうはいきません。それは、本気で折伏をすると決意することが難しいからであります。大聖人様は、臆病ではだめだとおっしゃっています。しかし、人間であれば誰にも臆病なところはあるのです。どうすればいいのでしょうか。「自行満つれば必ず化他あり」(文段集476)という言葉は、猊下もよく引用されるお言葉で、この場合の「自行」とは勤行・唱題のことであります。その自行が積み重なって、たとえばコップに水が満ちて溢れるようになると、その溢れた水が「化他」すなわち折伏をしようという心となる、お題目を熱心に、数多く唱えるところから折伏は始まるということであります。折伏の第一歩は「下種」です。誰でも最初の一言は勇気がいります。ところが、題目を数多く唱えているときは、不思議と話をしやすくなります。また、その人には折伏するつもりもなかったのに、いつの間にか話が始まっていたということもあります。
唱題は、一人でするよりは、大勢でしたほうがより多く唱えることができます。まず、数多く真剣に唱えていくことであります。異体同心に題目を唱えていくと、最初は折伏がなかなかできない、難しいと思っているのですが、そういうかたくなな気持ちが変化してきます。唱題の際に、頭に何が浮かぶかは人により異なりますが、いろいろなことを思いつつ、結果として、折伏はできないのではない、必ずできるのだという気持ちに変化していきます。私たちの支部では、ある程度の責任者であれば、皆このような経験をしております。あとは皆で縁を出し、どんどん下種をしていくことです。
また、謗法の人を相手に信心の話をしているときに、いつもの自分なら話せないようなことを現に話しているということがあります。これは仏様がついていてくださっている証拠であります。こういうときは、必ず相手の心も変化しています。それを見逃してはいけません。入信できる人というのは、実は仏様との緑を持っている人です。あとからそれが判る場合があります。昔、別の人にしっかり折伏されていたとか、本人が生まれるずっと前におじいさんが一人でこの信心をしていた、等です。唱題の功徳により、そういう人と巡り合っているのであります。
(2)組織としての実践 引き続き、折伏の要領について、組織として実践するという観点から少々申し述べます。折伏の意義について承知していても、現実の折伏はなかなか進まないものです。全体が地響きをたてて折伏の推進が行われるよう願うのは、皆様方も私たちも同じだと思います。先ほど「宗門の方針に合わせて励んでいけば必ず支部が発展する」と述べましたが、それは、仏様のお心に適(かな)えば前進できる、と言い換えることができると思います。猊下の御指南に僧俗が真に異体同心して精進するとき、組織は全体的に大きく前進します。この進み方は「僚原の火のごとく」という形容のとおり、あちらこちらから一人立ち、二人立ちと、全体に折伏の意欲が広がってまいります。勢いは一日ごとに増し、私たち凡夫の浅はかな考えをはるかに凌駕(りょうが)して奔流となっていきます。 私どもの支部で、ある年に一カ月に120世帯あまりの方が入信したときがあり、このときはそのような動き方でした。また組織においては、折伏の数多くできる個人の出現が全体の進捗に大きく影響します。そういう人々は偶然出てくるのではありません。支部が爆発的に発展するときには、そのような人々の輩出にふさわしい環境があるものです。私どもの支部の歩みの中でも、時に応じて、めざましく折伏を推進する人が入信してまいりました。草創期においても、中間期においても、近年においてもそうでした。それぞれが現在の支部幹部であり、また二代目、三代目が親の信心を継ぎ、それぞれの家が見事に宿業を転換し、今また未来に向かって功徳を積みつつあります。
具体的な動き方については、私たちの支部では、地区・班ごとに年間の目標を持ち、また壮年・婦人・青年の各部ごとに、それぞれの長のもとに折伏を進めていきます。この長の一念が折伏推進の大半を決します。この長に、「断じて行う」という一念がなければ勢いは止まってしまいます。そして、折伏のための座談会が開かれ、そこに新来者を迎え、小グループに分かれた折伏が中心者のもとに進められます。当支部では、昭和56(1981)年の大聖人七百御遠忌の年に、この座談会での折伏を一歩進めて、御住職の出席をいただき、支部全体でお寺の会館を会場として、日曜日ごとに総合折伏座談会を行い、大きな成果を収めました。多い時には2,30人の新来者があり、現在も伝統ある行事としてこの座談会を開催しています。時に恵まれ、組織全体の前進を真剣にご祈念していくと、一度に大量に折伏できる場所が得られる、ということです。
私たちの折伏推進の支えは、御法主上人現下御指南の「一年に一人が一人以上の折伏を」ということにあります。この御指南の実現のためには、個人の誓願が基本となりますが、全体として推進することが最も重要なことです。組織の中で、あちらでもこちらでも折伏ができてくると、他の人々もうかうかできなくなってくるものです。こうして、勢いが出てくると必ず全体に波及して、自然に動きが出て、目標は成就いたします。結論として、勢いを大切にし、火を消さず、縁付けをし折伏を進める人を大事にし、猊下の御指南、御住職の御指導をもとに異体同心し、在家の幹部が率先して励むことであります。
(3)未入信者への接し方 次に、末入信の人たちにどのように接していくかということについて、申し上げたいと思います。私たちは、折伏をすることにより、宿業に苦しむことから脱皮し、幸せになっていくことができます。その意味で、折伏の相手は自分にとっては大変有り難い人であります。この人に対しては最高の妙法のお話を、ていねいに、誠実に説いていくべきであります。相手が怒るときもあります。いろいろ理屈を言ってからんでくることもあります。莫迦にされたりもします。そのすべてを自分にとって必要な修行と思い、じつと耐えて、とにかく話を進めることであります。大聖人様は「忍辱の鎧」と御指南されています。 また、話を聞いているとき、なかなか本音を言わないで、ただ虚勢を張って、今の自分には必要ないという人もいます。しかし、もし座談会に来たのであれば、話を聞きに来たということ自体、その人は何か問題を抱えている可能性が高いのです。自分からは言わないその問題が何かを早めにつかめれば、的確な指摘をすることができます。そして、確信をもってそれが解決できることを訴えることです。最初からこの話を嫌って、短時間しか話せない相手には、結論だけを的確に言う必要があります。「謗法の報いは恐ろしい」ということをはっきりと伝えるべきです。
座談会などでは、大勢に囲まれることが苦手な人もおります。そういう人は、下を向いたきりで一言も話さず終わってしまいます。こういう場合は、最初から別に場を設けるとか、話す人を2,3人にするとかの工夫が必要です。そして、話をしたら、必ず相手に感想を求めることです。口に出すことにより、やってみようという気になるものです。日常生活の中で、ふだんから折伏を心がけていると、誰が縁となるか判りませんので、いい加減な態度で人と接することはできません。自分を失うところまでお酒を飲んだりしては、誰が見ているか判りません。隠れて悪いことをするような生命は、だんだんと封じられてきます。これも折伏の利益であり、自分が磨かれていくのであります。
(4)親への折伏 次に、未入信の現に折伏をするということについて、特に申し上げたいと思います。私たちの支部でも、近年においては、一人で入信した若い人が、しっかりと信心に励みその結果親を折伏し改宗せさるという例が増えてきました。大聖人様は、人は親には大恩があると述べられ、親に背いていいのは、親が謀反を起こそうとしているときだけであると御指南であります。謗法をすることは仏様に対する謀反・反逆です。子が先にそれに気づいたならば、親をいさめ、改めさせなければなりません。それが大恩ある親に対する真の孝行です。 しかし、親の折伏は理屈ではできません。特に、親に力があるうちは軽く一蹴(いっしゅう)され、相手にされません。それでもまず、仏様の真実の教えがどこにあるかを明確に伝えることが大切です。そして、あとは自分の振る舞いで示していくことです。時間はかかっても、まじめに信心に励んでいけば、必ず道は開けます。年月とともに、親はだんだんと歳を取り、力も衰えてきます。晩年に誰を頼りにするかというときに、正法を持(たも)つ子と、持たない子と両方いたとき、その違いは歴然です。正法を持つ子のほうが慈悲も深く、孫の躾(しつけ)もしっかりしている。人も大勢集まってくる。安心して後を任せられるということです。親が入信するときはそれでも勇気がいるでしょう。何代も続いた宗旨を改宗するというときはなお大変です。しかし、初めて大石寺に登山すると、その心配も消えてしまいます。広大な寺域、荘厳な堂宇、何とも言えない清々しさ、七百年の伝統と仏教の正統であることを肌で実感し、心から納得して帰っていきます。
(5)子供への折伏・法統相続 次に子供への折伏です。法華講では、「法統相続」ということをやかましく言います。これは単に子供が形ばかり御本尊に手を合わせるとか、何人かの子供のうち一人がやればよいとか、ではありません。法統相続の真実の姿は、親の信心を越えて励むということであり、三人子供がいれば三人とも信心に励むということであります。他の人の幸せを願って折伏をしていく私たちの立場に立てば当然のことであり、これを怠(おこた)れば、家の将来は子供たちがそれぞれ御本尊を離れ、宿業により振る舞うことですから、だんだんと我が家が衰微していくのです。 「令法久住(りょうぼうくじゅう)」の精神からすれば、子供への折伏は心がける第一のことであり、それをしないということは親として大変無慈悲な振る舞いというべきでしょう。法統相続は支部の常識として、入信の当初から耳にする環境でなければなりません。入信してから生まれた子供に対しては、日常の生活の中で勤行の習慣をきちんと付けさせることが重要です。始めは時間がかかり、忍耐のいることですが、後にいくに従って大変楽になります。話さなくては判らない世代の場合には、何度かきちんと話をし、その後はしっかりご祈念していくことです。親の話には反発しても、真剣なるご祈念により、誰かが必ず助けてくれ、信心に励むようになるものです。
私どもの支部では、信心微弱な子供が立ち上がるときには、陰に親の真剣な祈りがあり、表にその子供の成長にふさわしい人の出現が見られます。逆に、子供が次第にやらなくなる家庭は、二心(ふたごころ)のある生活で、猊下・御住職に従わない不正直な信心であり、同信の者の批判・中傷を繰り返している例が多く見られます。子供は、親の信心を通して日蓮正宗の信心を学びます。私どもの信心を評価するものは、子供が信行に励むかどうかということです。子供が法統相続するか否かということは、子供が暗黙のうちに突きつける私どもの一生の信行の評価と言えます。親・子・孫と三代にわたる信心の続く家は栄え、こうした家を数多く持つ支部は時間の経過で隆々と繁栄してまいります。
(6)台湾の人の折伏の経験から ここで、私どもがこれまでに体験した台湾の方の折伏について、少しお話をしたいと思います。今や国際化の時代であり、日本にいながらにして多くの外国人の方に折伏をする機会があります。台湾の人も私たちのお寺にはかなりお見えになりました。当支部には、北京語や広東語を話せる講員が少しおりますが、そういう人がいなくても、漢字による筆談だけで、相当なコミュニケーションが図れます。 漢字で必ず私たちが伝えたのは、まず「善因善果、悪因悪果」ということです。因果のことは大体の方はすぐに同意されました。仏教の素養があると話がスムーズに進みます。次に伝えたことは、法華経と爾前経の違いです。法華経は「真実」の教えである、爾前経は「方便」の教えである。この「方便」という言葉も大体伝わりました。そして、「四十余年未顕真実」と書いて示します。この言葉がすんなり伝わると、入信につながる確率が高くなります。あとは、真実の仏法は今は日本の大石寺にだけある、と訴えます。
ある方の縁で、日本の大学で学ぼうと来日された学生さんがまず入信しました。その人がお寺に行くときに、もう一人友人がついてきて、その後その人も入信しました。そして、二人共通の友人がもう一人おり、皆でこの人にも折伏しました。その人は一カ月以上かかりました。気持ちはやりたいのですが、母親からもらったという「四面仏」の像に執着していました。結局これは親の元に送り返し、御本尊様をいただきました。この方は、台湾では一日三時間以上も仏像を拝んでいたそうで、入信後、勤行を教えますと「今までよりも楽ですね」と言われました。そう言われた経験がないので、こちらも大変驚きました。
残念な例もありました。入信した女性が、一過問ほどしてから、「台湾にいる親に連絡したらひどく反対された。自分にはもうできない」と言ってきました。一生懸命皆で説得しましたが、その人はただ泣くばかりで気持ちを変えることはできませんでした。家族の反対については折伏の際に言ったつもりでしたが、実際に反対されてびっくりしてしまったようでした。断りに来たときは、入信の時の明るい表情は消え、弱々しい姿でした。魔の用(はたら)きを見せつけられ、もっと心して折伏をしなければと教えられました。当支部で入信した台湾の方は、その後しばらくしてから、皆帰国されました。現在、連絡が取れていない人もいますが、いずれは本興院支部の皆様の仲間に加えていただき、この地で励んでほしいと願っております。
3、総括・折伏の利益 総括して、折伏の利益について、申し上げたいと思います。それは、一言で言えば「境界が一段と開く」ということであります。そして、境界が開いた証(あかし)には、眷属が増えてまいります。眷属とは、自分を支え助けてくれる、緑のある人の意です。この人々とともに、さらに功徳を積んで進むところ、創意工夫が始まり、ご祈念が真剣となり、状況にふさわしく御仏智がいただけ、苦境を何回となく越えさせていただき、「日蓮、通塞(つうそく)の案内者」(御書723)との御金言を身をもって感じることとなります。そして、子供たちの教育、冠婚葬祭、また時代の変化にのみこまれないようにと、眷属を一人も落とすことなく励ましていこうとする精進の中に、次第に自分のことばかり考えていた狭い人間が、他のことも真剣に考えられる人間に成長していくものです。これまさに、初めに一人を折伏したことから始まったのです。 この人の振る舞いは「知恩報恩」であり、御本仏日蓮大聖人の恩にお応えする道であります。この人に対し、諸天は昼夜に擁護し、何事があっても「闇から闇に葬り去られる」ことはありません。そして、一人の折伏は次の人への折伏となり、どこまでも広がり、世界広布へと結びつくことです。混迷の続く世の中ですが、次の時代は法華講のこうした大聖人の教えを正直に実践する、境界の開けた人々の登場を待っているものです。
御法主日顕上人猊下は、「教、行、理のほかにもう一つ大事なことは『人』ということであります。これは要するに、正しい教えによって正しく行じ、また正しい理によって培われ現れてくるところの尊い人格であります。これは自分も徳を積み、幸せになっていくとともに、自分が触れるところの人をも正しい道に自然に導いていくというすばらしい人格であります」とお示しです。因果の理法を固く信ずるならば、その行いに対して、ふさわしい果報が必ずあるということです。これを簡単に言いますと、「仏様は私たちを只(ただ)では使わない」ということです。少し理屈っぽく言いますと、「天下は誰人を棟梁と仰ぐとき、静謐(せいひつ)に治まるか」ということで、この棟梁の座が、慈悲の座、猊座なのであります。猊下・御住職とつながる道は、慈悲に従う道ですから、不敗の道なのであります。
私の支部の人で、婦人の方ですが、事情があって離婚し再婚した関係上、子供たちと離れて暮らしておりました。途中でやめてしまわない人柄を見込まれ、その人は地区長を委嘱されました。この人は実によく活動し、連日夜中の11時過ぎに、帰宅途中の駅から電話で、その日の活動の結果について連絡をしてきます。生活は大丈夫かと心配しておりましたが、3年あまり後、地区をまとめ上げ、ご主人のご両親の遺産相続で土地が手に入り家を新築し、子供全部を引き取るまでになりました。再婚したご主人は、信心に積極的ではなかったのですが、今では活動の大きな支えとなるまでになり、一家五人が欠けることなく活動しております。本人もこの3年間の地道な信行により、強信な大変立派な見識のある婦人に成長されました。仏様に使われていく生活は、私どものほうに、名聞名利の考えがなければ、このように必ず守られ、活動にふさわしい果報があることです。
結び さて、本年はいよいよ宗旨建立七百五十年の佳節に向かう「出陣の年」であります。御法主日顕上人猊下は、「昨年までの4年有余の期間は主としてその準備期間であったのに対し、本年よりの3年有余の期間こそ強力にその推進を計る実践の期間と言えましょう。その実践に当たってまさに眦(まなじり)を決して出発すべき年こそ本年であります。蓋(けだ)し出陣の最重要事は千万人と雖(いえど)も吾れ往(ゆ)かんとの烈々たる気魄であり、それを裏付けるものこそ法界を貫く大正理による不屈の信念であります」(大白法516)と御指南です。 この猊下の御指南を仰ぎ、御宗門とともに歩む人は、常に仏様の眷属であり、現世安穏後生善処の人であります。本興院支部の皆さんは、昨年6月の発足と伺っておりますが、この3年が将来の支部の骨格が定まる上で最も大切な期間であり、皆様方一人ひとりの、猊下に信伏随従し、指導教師の指導に従って、広宣流布に向かう気高い信心の成長が、支部の将来にわたる性格を決めるものです。何事が生じても、後輩たちは常に初期の皆様方の信心に立ち返ってくるからであります。私も講頭となって8年目の若輩者ですが、困難に立ち向かうたびに初期の方々の純粋なる信行に励まされているものです。「出陣の年」の意義をよくわきまえ、この時に巡り合えた喜びをもって、日本の法華講とともに、真の広宣流布のため共々にがんばってまいりましょう。以上で、私の話を終わります。
まず簡単にクロウ裁判のおさらいをしておこう。舞台は二つ。まず一つ目は日本国内での裁判。これは現在東京地方裁判所で争われており、まだ判決は出ていない。二つ目はアメリカを舞台にしての裁判。これは、既報の通り既に全ての審理が終わり完全に終結している。つまり、宗門側完全勝訴の判決は二度と動くことはないのだ。このアメリカでの裁判では、1994年11月にロサンゼルス地方裁判所で一審判決が、1997年11月にカルフォルニア州控訴裁判所で二審判決が、そして1998年2月にはカルフォルニア州最高裁判所で三審判決が下っている。なお、二審および三審は宗門側完全勝訴となった一審判決をそのまま支持する内容であり、創価学会側の控訴および上告を棄却するものであった。
創価学会側は理論上は首都ワシントンにある合衆国最高裁判所に審査申し立てを行うこともできたが、結局創価学会側デポラー・ドルーズ弁護士は完全敗訴(ロナルド・ジョージ最高裁判所長官名での却下)を認め、この却下書面にサインをしたので、現地時間の1998年6月18日午前8時30分をもってアメリカでのクロウ裁判は無事終結した。
このアメリカでの一連の裁判の申し立て人は、アメリカSGIの幹部であった故クロウ夫人である。故人は学会破門以後に『シアトル事件』なるものを発表し、御当代御法主日顕上人猊下が米国出張御授戒滞在中にシアトル市街で買春し、さらに売春婦と金銭トラブルをおこして逮捕されたと喧伝したのである。さらに、そしてこれに対する宗門側の反論が法華講機関紙に掲載されるや、自分の発表を嘘扱いされたことは名誉毀損だとして米国裁判所に訴え出た。
先に他人を誹謗中傷しておきながら、それに対する反論を名誉毀損として訴えたのである。しかし、宗門側弁護士の尽力と米国司法当局の賢明なる判断によって、名目的な原告である故クロウ夫人の背後に潜む創価学会が日蓮正宗に対する「罠」を張った訴訟であることが判決文に明記され、この邪悪なる訴訟は門前払いされたのである。
さて、現在係争中の日本に目を移してみよう。東京地裁では、創価学会側が創価新報等の機関紙に「日顕(上人)の買春を証明する決定的な証拠がアメリカ連邦政府内の記録で発見」(趣意、1995年1月)したと報じ、形勢が創価学会側に有利なように見えた。ところが、いつまでたってもその決定的な証拠がお目見えしないため、法華講機関紙等で「創価学会の報道はデタラメである」、あるいは「連邦記録とやらの偽造を試みたのではないか」との記事が掲載されたのである。これに対して創価学会側は、日蓮正宗が「創価学会がFBI記録の偽造をはかったのではないか」などと報じているのは名誉毀損であると訴えてきた。まるで米国でのクロウ裁判と似たようなストーリーである。この点を単独で取り上げるれば一理あるようではあるが、全体的に眺めれば、だったらまず本件の方でその『連邦記録』をやらをさっさと提出して貰おうじゃないかというのである。
もしも提出できるならば、我々も非を認めて頭を下げようではないか。ところが、その記録は現在にも過去にも存在しないのである。これは、米国司法省のハッフ部長の書面として当ホームページに掲載されている。ところが、創価学会側弁護団はつい最近(1998年3月)の法廷でも、記録は存在すると言い張っていたのだ。しかし、とうとう諦めたとみえ、1998年11月の時点で主張を変更して「実は平成7年の大報道の時点では、記録はすでに消されてしまっていて無かった」(趣意)とのたまったのである。
「消されてしまっていて」などと言いまわして、まだ過去にはその記録が存在したようなことを匂わせてはいるが、その証拠が出せないと自白したのであるから、裁判はほぼ目的の一つを達成したとみてよいだろう。何の証拠も無しに名誉毀損報道をしたのであれば、一体何を根拠としていたのか。
☆ 釧路市・興徳寺 遺骨事件で前面勝訴
遺骨を勝手に合葬されたとして創価学会員2名が、興徳寺(釧路市・小口寛道住職)に対し、総額250万円の慰謝料等を請求していた訴訟の判決が、2月9日釧路地方裁判所(阿部正幸裁判長)であり、創価学会員らの請求を全て棄却し、興徳寺全面勝訴の判決を言い渡した。原告創価学会員らは、平成元年11月13日、寺院内納骨堂に遺骨安置を願い出、平成2年7月15日には、その遺骨を納骨堂安置から合葬に変更の願い出をし、併せて永代供養・寺院過去帳記入も願い出た。これを受けて寺院は、所定の手続き・法要を済ませ、原告ら立ち会いのもと興徳寺墓地に合葬した。この時、原告らは返却すべき寺院内納骨堂の「預り証」を持参しなかったため、後日返却する約束をしたが、返却されなかった。平成9年7月24日、原告らは、平成5年3月に合葬された状況を確認したにもかかわらず、再び寺院に来寺し、「預り証」があることを奇貨として遺骨の返還を求めてきた。寺院としては、本件合葬は、原告らの申し出により、適正な手続きをして、原告ら立ち会いのもとで合葬したことを説明し、原告らは何ら異議をとなえず帰った。ところが、平成9年8月14日、遺骨を勝手に合葬されたとして、事実無根の慰謝料請求の訴えを起こしてきた。
阿部裁判長は、まず、本件合葬について原告らが本件運骨を合葬することに合意したこと、またその費用を支払ったことから、本件遺骨が同日に三師塔内の合葬所に合葬された事実が認められると判断し、原告らの主張を悉く退けた。さらに、「(平成5年3月に)本件遺骨が合葬されたことを確認していながら、その後平成9年7月に再び被告寺院を訪れるまで、本件遺骨の合葬につき何ら抗議をしていなかったことが認められ、右は遺骨を無断で合葬された遺族の行動としては極めて不自然であると言わざるを得ない」と判示し、完膚なきまでに、学会側の主張を排除するとともに、興徳寺の遺骨管理運営が適正に行われていることが証明された。