<2〜4面>
<5〜8面>
平成11年2月10日午後7時より、神戸市・法恩寺御宝前にて、宗務院より、藤本日潤総監・早瀬義寛庶務部長・阿部信彰庶務部副部長・伊藤書記、法華講連合会より、柳沢喜惣次総講頭・石毛寅松大講頭、兵庫布教区より、宗務支院長・高野顕昇御尊師をはじめ、布教区内各御尊師方並びに、兵庫地方部・西尾憲一地方部長以下、500名を超える信徒が結集し、広い本堂が厳寒の時期だどいうのに、熱気でむんむんした中での指導会でした。
まず驚いたのは、7時からの指導会に、5時30分から6時30分までの一時間を、藤本総監自ら唱題されており、今回の指導会で御宗門が求めておられることがいかに大事なことかが判り、参加者全員の胸を打ちました。そして指導会が終了して、御尊師方が退席なされた後、柳沢総講頭を囲んでの懇談会にも、大勢の方が参加され有意義な時間を過ごせました。これらの指導会を受けたすべての方々が各支部へ持ち帰ることで、この感激が参加できなかった人々に確実に伝わり、兵庫地方部の全講員が異体同心の絆をより一層強め、勇猛精進されることを確信いたします。
海外布教を進めていく上で、もっとも大事なことは、文化・歴史そして言語の違いを乗り越えて、いかにして日蓮正宗の教義を正しく伝えていくかということにある。特に、正式な御書の翻訳は、必須の要件である。
宗務院海外部では平成7年5月より、海外サポートスタッフに登録している法華講員の中から、英語の実力のある強信の方々に集まってもらい、尾林海外部長の御出席のもと海外経験のある御僧侶方と僧俗一致協力して、英語の「御書翻訳委員会」を毎月開催している。さらに平成10年6月よりは、関束と関西の二班に分かれて翻訳を進めている。
御書の翻訳は、まず日蓮正宗の正義に照らして日本語の現代語訳を作ることから始まり、さらに御書原文の一語一句を詳細に調べつつ、議論をしながら、ふさわしい英文訳を検討し、進めていく。英語という言語自体がキリスト教の教義と歴史の影響を受けており、日本語とは異なる発想を持っている。まして仏教用語であり、700年前の日蓮大聖人の教えを翻訳するということは容易ではない。このため、一回の約4時間にわたる会議で数行しか翻訳できないということも度々ある。現在までに、『聖人知三世事』を翻訳し、南条時光殿への御消息4編の翻訳を終えている。
この依智に着く道中が変わっていた。警護の武士が大聖人を取り巻いていたが、はっきりした引卒者はおらず、大聖人が一行の主人のような様子で依智に到着した。竜の口の処刑場で、大聖人斬首の直接の命令者であった平左衛門は、刑場での異変に驚くと、相模の依智に大聖人を届けよと命令して、その場より姿を消してしまった。
それよりもっと悪いのは、大聖人を斬首せよと強い命令を出して、時宗までも動かした武蔵守宣時(佐渡の領主)が、大聖人の頸が竜の口で斬れぬと知ると、13日の朝早々に熱海に入浴と称して、これまた鎌倉を逃げ出していったのである。恐らく責任を回避するのと、大聖人斬首のことが鎌倉中の人々にいろいろな噂を生んだのを恐れてのことであったろう。しかし熱海にほとぼりを逃れたとはいえ、この宣時は大聖人斬首の考えは捨てなかった。かえって竜の口の命令者であった平左衛門が、眼前に大聖人様の威に打たれて、その後流罪説を取るようになったのだが、宣時はあくまで斬首を主張して止まなかった。自分の主張を通すために、熱海から念仏門徒に命を発して、鎌倉の街に火をつけるとか、殺人事件なぞを起こして、これは日連の弟子がお上をうらんでの仕事であると流言して、日連の弟子は全部首を斬らなければいけない、あるいは遠島にしろとか、鎌倉から日連の弟子は追い払え等々の命令を発したのだが、犯人を捕えてみるとこれが律宗や念仏宗の人々であったのは皮肉であった。しかしこの流言のために、日郎・坂部入道・伊沢入道等々が、土の牢におし篭められたのは有名な話しである。
さて、直接の命令者が、以上のような次第なので、依智に来た大聖人は、護衛の侍に取り囲まれていたとはいえ堂々たる態度であった。依智の本間の屋敷に着くと早々に「やあ、ご苦労だった。昨夜の夕方から、この昼まで、なかなか大変であったろう、一杯飲んでくれ……」と、その労をねぎらったのは、他ならぬ大聖人であったのだから驚く。「さけ(酒)とりよせて、ものゝふどもにのませ(飲ませ)てありしかば」(御書1060ページ)と『種々御振舞抄』にあるのがこれである。恐らく、大聖人と同行した四条金吾が直接の世話に当たって、護衛の人々に酒を振る舞ったのであろう。
これは人ではない、仏様だ。仏様でなければ振る舞えないことである。しかも、あれほど苛酷に当たった我々に、ご苦労であったと今、酒を振る舞ってくれているのは大聖人である。我々の直接の命令者だった平左衛門尉は、昨夜の刑場での異変に驚いて、その後、姿を見せぬではないか。そのまた上司は熱海までも逃げ去っている。
その後、学会問題が起こり、あらぬ宗門誹謗、中傷の攻撃が始まったのです。平成3年、御法主日顕上人猊下の、「たとえ将来、本山の参詣者がなくなって粥(かゆ)をすするようなことがあっても、私は正義は正義として立てていこうと思って、今回、この問題に踏み切ったわけである」(大白法340号)との御言葉に、とめどない涙を流し、猊下様に信伏随従の決心をいたし、母と兄、中川氏と私たち家族全員、創価学会を脱会いたしました。
当時、華光寺の御住職様より御書と日蓮正宗の歴史を学び、御指導をいただきました。一泊登山では、広宣流布御祈念の丑寅勤行に猊下様のお供をさせていただき、日蓮正宗の740年の歴史と正しい清流を肌で感じ、地域の学会の方たちに、お寺と本山へ一緒に参詣することを勧めて歩きました。そのことが学会の組織に知れ、あらゆる学会の人たちが毎日のように、御宗門、猊下様、御僧侶の悪口を言ってきました。その度に、猊下様がおっしゃられた「即応折伏」をいたしました。昨日まで友人だった人たちまで、「邪宗の寺に行った多田さんに、誑(たぶら)かされるから口をきかないほうがいいよ」と言って買物で会っても隠れる有様でした。学会の会館では、脱会者の名前を書いて、幹部が悪口を言い合っていたそうです。
「業(ごう)に二あり。一には定業(じょうごう)、二には不定業(ふじょうごう)。定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す。何に況んや不定業をや」(同760)の御金言です。今までの謗法の罪が今さらのごとく身に染みました。子供たちから真の信心を教えられているのだと、邪宗教に執着している親戚や友人宅へ御書を持って訪問し、私たちの体験を語り、折伏しました。また学会の友達には御宗門より出された印刷物や『大白法』号外を持って、なぜ破門されたのか、池田創価学会の教義逸脱、宗門の正しさを説明し、三大秘法の大御本尊と唯授一人の血脈から離れ、正しい仏法を御指南くださる御法主日顕上人猊下に矢を向けて、大謗法を犯した団体になってしまったことを訴えて回りました。病院の中でも縁した人たちに大聖人様の仏法を下種することもできました。
そうしている中、医者がさじを投げてしまった娘の足を、不思議なことに、御本尊様は歩けるようにしてくださったのです。六カ月かかっても神経がマヒ状態だから、排尿排便も一生自分で管を入れて出すようになると言われ、管を入れる練習をして退院してきました。手術してくださった先生も看護婦さんたちも、不思議だと首をかしげて「よっぽど運が良かったんだね」と驚いておりました。娘も先生にお礼を言い、「私たちは日蓮正宗の信者なので富士の大石寺にお詣りしているのよ」と話しました。
大聖人様の、「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」(同874)の御金言ごとく信じて行じてまいりました。御法主日顕上人猊下の御指南、御宗門が、いかに正しいか、実証させていただくことができました。平成9年「充実の年」猊下様より不思議の妙法の実践と、「一人が一人以上の折伏を」との御指南を戴きました。
今世に一生成仏の大仏法に巡り合いながら、聖教新聞、創価新報等の誹謗中傷の報道に洗脳されて、正しく判断できない可哀想な学会の人たちを思うと、じっとしてはいられません。3時間の唱題をし、一昨年『慧妙』を持って一度話に伺った竹井さんが気になり、班長である主人と一緒に班員さんの家庭訪問に合わせて折伏に行きました。竹井さんは初めて聞く話に驚き、なかなか信じられない様子でしたが、大石寺のビデオや、地涌六万大総会の写真集、『大白法』を見せながら、何度も繰り返し繰り返し根気よく説明いたしました。どうしても救ってあげたい一心で、御題目を唱えながら8カ月ぐらい通いました。あと一歩というところで、御住職様に一緒に行って破折をしていただき、その場で竹井さんは脱会の決意をされました。
活動日に倉林副講頭(当時)と共に訪問してお話ししているうち、8月12日に一緒に本山に行くことになりました。竹井さんは10年ぶりの本門戒壇の大御本尊様への御内拝が叶い大変感激され、学会で言っていることが嘘だと判り、涙を流されたそうです。その功徳で、親子三人が13日の御講の日に脱会され、無事に勧誠式を受けられました。脱会後、学会員が押し掛けてきたり、いろいろ大変なこともありましたが、それを乗り越えてくれました。今では、寺院参詣、折伏、登山会と、法華講の信心に精進され、御奉公されております。
一 般 初 級 対象者 参加2回目以降の人 初参加の人 1時限(宗史) 日蓮正宗史(江戸時代前期) 日蓮大聖人伝 2時限(宗義) 本迹相対・種脱相対 折伏の大事 3時限(信仰) 折伏実践 法華講員の心得 4時限 御法主上人猊下御講義
○ 妙本寺支部 秋田勝
▼ 翻訳委員会活動報告
文永8年9月13日、鎌倉の竜の口から相州の依智に大聖人は移られた。依智に着いたのは13日の正午であった。佐渡の領主武蔵守宣時の代官人の本間六郎左衛門の屋敷である。
護衛の人々の頭の中に浮かんだものは何だろうか。松葉ヶ谷の草庵では、平左衛門尉頼綱に向かって、「今、日本国の柱を倒すものは平左衛門尉なり」と叱咤し、頼綱を「犯人なり」と言い放った人。鎌倉八幡宮の社頭では、「八幡大菩薩こそ起請を用いぬ神である。急ぎ急ぎ約束を果たせ」と、神にその使命をせまった人。馬の口にとりすがって泣く鎌倉武士に、「これ程の喜びを笑えよかし、この数年が間願いつることこれなり」と斬首を眼前にして人を励ます死身弘法の精神。刑場に至っては、「夜明けなば見苦し、頸斬るべくは急ぎ斬るべし」。こんな言葉を刑場で、古今東西言った人があるであろうか。
☆ 娘の足が必死の唱題と折伏で回復 開徳寺支部 多田禎子
私の入信は、主人の転勤で東京より埼玉へ引っ越して来るときでした。「お願いだから協力してくれ」と主人の兄に勧められ、日蓮正宗の教義も勤行の仕方も知らないまま、昭和38年5月、品川の妙光寺様で親子4人、御授戒を受けました。その後次男である主人が多田家を継ぐことになり、父親の葬儀のときから邪宗の先祖代々の寺と縁するようになりました。何も知らなかったとはいえ大聖人様の仏法に背く謗法の限りを尽くしてしまいました。その罰の現証が20年後に出てしまったのです。昭和61年10月、長男を交通事故で一瞬の問に亡くしてしまいました。23才の若い命でした。息子の死によって発心し、謗法の懺悔をと朝夕の勤行・唱題に励み、私の母と兄を折伏し、平成2年11月、次女が結婚する相手の中川氏を折伏させていただきました。これが、学会員としての最後の折伏となりました。
私たちの心はどんなことがあろうとも猊下様から離れませんでした。「なにの兵法(ひょうほう)よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」(御書1407)の御金言を信じ、毎日3時間、4時間の唱題をしているときです。外出していた長女が事故に遭って病院へ運ばれたと連絡が入ったのです。心の中で御題目を唱えながら、「死なないで、生きていて、今死んだら猊下様に申し訳ない、学会に何を言われるか判らない」と祈る気持ちでかけつけました。御陰様で命は助けていただきました。「下半身はメチャクチャで特に右足は手術の方法がないので、切断する外ないし、寝たきりになるか、もし良くなったとしても歩けないかも知れない、一生車イスの生活になるでしょう」との医者の言葉に、主人と私は「もし動かないとしても切らないで、どんな形でもいいですから」と強くお願いし、「御本尊様、どうぞ娘の足を広宣流布のお役に立つ歩ける足にしてください」と主人と二人、毎日10時間の御題目を唱え、総本山の本門戒壇の大御本尊様への御開扉を戴き、謗法罪障消滅の御祈念を申し上げました。
平成6年、静かな所でリハビリと信心生活を送りたいと不動産屋に依頼しておりましたところ、縁あって桶川より東松山へ引っ越してまいりました。息子のお墓にも近くなり、一番大切な正宗の寺院・開徳寺がすぐ近くにあるのには驚きました。これもすべて御本尊様のおはからいと有り難く思い、お世話になることにし、華光寺より開徳寺へ移籍させていただきました。中村御住職様にもいろいろと御指導をいただきながら信心とリハビリの結果、神経もすっかり通って、トイレも自分の力でできるようになり、本山に行くのも自由に歩ける、丈夫な足にしていただきました。