大白法

 平成11年5月1日号


主な記事

<1面>


<2面>


<3〜4面>全国で地方部総会行われる
北関東総会


<5面以下>


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宗旨建立七百五十年 法華講三十万総登山を目指して


日蓮大聖人が誕生された鎌倉時代(貞応元年 1222)は、経典に「闘諍言訟 白法隠没」と予証される末法の世に入っていました。法華経にはこの悪世末法に上行菩薩が出現し、日月の光明が闇を除くがごとく、衆生を苦悩から救うことが示されています。この経文のとおりに末法に出現され、法華経を広められた方が日蓮大聖人です。

大石寺から富士を望む

建長五年(1253)4月28日の早朝、清澄山上において、御年32歳の大聖人は、旭日輝く東天に向かい南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と、末法万年の闇を照らす下種の題目をおごそかに唱え始められました。この題目こそ法界に向かっての立宗の宣言であり、仏教史上、いまだ誰人も唱え出すことのなかった法華経の肝要たる久遠元初の南無妙法蓮華経です。

日の出

正午、清澄山の諸仏坊持仏堂の南面において開始された諸宗破折の初転法輪は、地頭をはじめとする謗法者の強い瞋りをまねき、大聖人の法華経の行者としての忍難弘通がこの日から開始されました。文永8年(1271)9月12日、竜口法難において御内証を久遠元初白受用報身如来と顕本あそばされた大聖人は、熱原法難に御感あらせられ、弘安2年(1279)10月12日、末法一切衆生の即身成仏の対境として、御本懐たる三大秘法総在本門戒壇の大御本尊を御建立あそばされたのです。

日蓮大聖人はこの三大秘法の御法体とともに、下種仏法のすべてを第二祖日興上人に相承され、広宣流布・戒壇建立を御遺命されて、弘安5年(1282)10月13日、安祥として御入滅あそばされました。

春の塔中

その後、日興上人は謗法の山と化した身延を離山され、正応3年(1290)富士の地に末法万年の広布の根本道場たる大石寺を建立されました。そして、法を日目上人へ付され、日目上人は日道上人へと一器の水を一器に寫(うつ)すように、清浄なる血脈の法水は御当代67世日顕上人に紹け継がれ、日蓮正宗は僧俗一途、一切衆生救済の浄業を掲げ、一閻浮提広宣流布に向かって精進しているのです。

日蓮正宗総本山大石寺は、平成2年10月に開創700百年の徒節を迎えました。700年の護法の誉れある法華講は三万総登山をもって慶祝奉り、以来、法華講による僧俗和合の真の広宣流布が、御法主上人猊下の御指南のもと、平成6年の地涌六万大総会、平成十年の客殿落慶十万名登山と、4年毎に力強く進められて来たのです。

地涌六万大総会

そして『出陣の年』の本年、宗門は去る正月三日に出陣式を挙行し、僧俗一体となって、平成14年・宗旨建立七百五十年・法華講三十万総登山へ向けて大前進を開始致しました。この法華講三十万総登山は、日蓮正宗の歴史において末曾有の戦いであり、御法主上人猊下は、「御本仏大聖人様の御命であります」と仰せられています。

私たち日蓮正宗の僧俗は、地涌の菩薩としての重大なる使命と、未来広布の礎としての三十万総登山の甚大なる意義を深く自覚致すべきであります。そして僧俗和合異体同心の信心を根本に、唱題と折伏に勇猛精進し、以て「広布への確実なる進展と共に、法界を浄化し、清気、清風を世に送り、国家社会の自他倶安同帰寂光の礎を建設する事により、広大なる仏恩に報い奉る」 (於地涌六万大総会) との御法主上人猊下の御指南にお応えし、三十万総登山を必ずや達成して参ろうではありませんか。



経王山本源寺移転落慶法要

4月17日午後2時より、宮崎県清武町の経王山本源寺において、本堂庫裡移転増改築落慶法要が、御法主日顕上人猊下の御名代として総監・藤本日潤御尊能化の御導師のもと、厳かに執り行われた。

本源寺は、日向定善寺の末寺として矢野下野守義元を願主に開創されたと伝えられる歴史ある寺院であるが、明治時代の廃仏毀釈により廃絶。その後、大正8年に当地出身の黒木智善御尊師により復興され、昭和54年には、その弟子である岩切智順御尊師の発願で宮崎市大字内海の地に移転新築された。しかし、内海の地は近年の台風災害による国道の一時閉鎖、裏山の岩石崩落などが重なり危険な状態となったため、御法主上人猊下の御慈悲を賜り、このたび日蓮正宗寺院建設委員会の全面補助によって風光明媚な清武町に移転並びに増改築の運びとなったものである。

この法要には、随行の宗務院庶務部主任・斉藤栄順御尊師、大石寺理事・駒井専道御尊師、さらには宮崎布教区宗務支院長の本山定善寺住職・石田栄尊御尊師、同副宗務支院長の仏知寺住職・斉藤誠昭御尊師をはじめ、布教区内外の多数の御僧侶方が出席。また南九州地方部からも、野田地方部長をはじめ多くの法華講員が参列した。

はじめに法要の部が、藤本総監の御導師のもと、駒井大石寺理事による御本尊御開扉、石田支院長による献膳の儀、読経・唱題と厳粛に奉修された。引き続き式の部に移り、はじめに加来信俊総代より、今回の移転増改築に至るまでの経過報告が述べられた。次に、石田支院長が祝辞に立たれ、かつてこの地に蓮徳寺という日向定善寺の末寺があり、再び因縁の地に尊い御題目が唱え始められることに有り難い思いであると述べられた。次いで、野田地方部長の祝辞に続いて、感謝状並びに記念品贈呈が行われた。この後、住職・長岡練道御尊師より参列の各位に対して丁重な謝辞と今後の決意が披瀝され、最後に代表者による記念撮影をもって式の一切が滞りなく終了した。



『最前線で戦える果報に』 本行寺支部 池田洋子

 私の入信は、昭和44年です。今年で30年になります。当時、東北の宮城から上京して、アルバイトをしながら短大に通っていました。そしてアルバイト先で法華講本行寺支部の講員だった友人に折伏され、22歳のとき入信いたしました。その後、退転状態になって御本尊様をお返ししたいと悩んでいたときに、大家さんより「古くなったアパートを建て直すので、余所へ移って欲しい」という話がありました。私は御本尊様をお返しする方法が判らなかったため、軽率にも御本尊様を鴨居の中に入れたままで引っ越しをしました。

 そして結婚しましたが、その後の人生は生き地獄でした。主人は、かつて学会の青年部で活動していたこともあったそうですが、訳あって知り合う前に御本尊様をお返ししていたことが判りました。二人とも御本尊様を捨てたという因縁に驚きました。結婚と同時に銀行を辞めた主人は、巡り合わせが悪く、勤めても給料が支払ってもらえなかったり、何をやってもうまく行かず職を転々としました。それと同時に、住まいも転々としました。そのような状況のなかで長女を出産しました。主人は、いつしかサラ金に手を出しておりました。借金に追われ、食べる物もなくミルクも買えず、親子心中をはかるところまで追い詰められていました。気が付くと、線路を歩いておりました。子供の泣き声で我に帰り、思い止まることができました。

 ふとこの時、私に御本尊様を持たせてくれた人が、結婚してこの町に住んでいることを思い出し、不思議にも、偶然に再会できました。その方も、私を折伏してすぐに退転して、御本尊様をお巻きしておりました。私のこれまでの経緯を話すと大変に驚きました。その方と二人、7年ぶりに御本尊様を置き去りにしたアパートを訪ねました。不思議なことに、アパートは取り壊されずに残っており、御本尊様が無事に戻って来ました。これを機会に、主人と長女が本行寺で御授戒を受けました。しかし地方に転勤となり、またお寺から遠くなりました。

 転勤先での主人は名聞名利に流され、蔵の財を求めた不知恩の生活を送っておりました。やっと本社に戻ったときには、あと半年の命と宣告されて肝硬変で入院しました。私は、4歳の長女を頭に2歳、1歳と娘3人をかかえ、昼も夜も働いて借金の返済、育児、看病と寝る間もなく、精神的にも肉体的にもボロボロになっておりました。4歳の長女の苦労も大変なもので、私が仕事をしている間は妹たちの面倒を見てくれ、特に1歳の妹のオムツの取り替えは、大変なことだったと思います。

 主人は3年間の闘病生活を送り、感謝しながら、題目を唱えつつ亡くなりました。親兄弟の反対もありましたが、無事、日蓮正宗で葬儀を出すことができました。大聖人七百御遠忌の年で、私は33歳でした。葬儀のあと、子供のいない兄夫婦のたっての願いで、三女を手離すことになりました。残された2人の子供と共に、入信10年目にして初めて、戒壇の大御本尊様に御目通りすることができました。涙が止まりませんでした。

 下山してすぐに保土ヶ谷に3DKの団地が当たり、安心できる環境に変わってきました。初めて御報恩御講に参詣した折、柳沢総講頭が当時、講頭をしておられ、お会いすることができました。そのとき、「遠回りをしたね。子供も同じ宿業になるよ。がんばりなさい」と激励していただき、このときに発心できました。


 当時、本行寺は柳沢講頭と加藤セツ婦人部長のもとに強力な婦人部体制が敷かれ、活発な折伏活動と育成が展開されており、私はそのなかで厳しく躾けられました。同じ団地の中で法華講の同志をいただきたいと願っておりましたら、自治会の会長をやることになり、知り合いになった吉沢さん御一家、中嶋さん親子、星さん、伊藤さんと次々に折伏ができ、眷属が増えました。また方面別に婦人部長がおり、渡辺板橋方面婦人部長に、折伏、育成に連れて行っていただき、仏道修行の実践を教えていただきました。

 発心して5年、もとより器でありませんが班長、婦人部担当に任ぜられ、その後地区長代理、向島地区長と、支部の最前線で闘える果報になっておりました。班長時代、開創七百年の佳節に向けて、班の折伏誓願目標完遂と育成を祈って5時間の唱題のあと、自宅のある横浜から班員さんのいる墨田区まで定期券を買って、片道1時間半かけて通いました。そのかいあって班員の2家族が立ち上がり、小さい子供を負ぶって自転車で朝詣りを始めました。集まっては2時間、3時間と唱題したあと、折伏に動くようになり、折伏がどんどん成就しました。折伏された人がまた折伏するというようになり、今日の地区に発展しました。地区長になり早や7年です。

 支部の活動のなか、御本尊様からたくさんの功徳をいただきました。子供の腎臓病の回復、10時間におよぶ心臓の手術、家出をした娘のこと、自分自身の病気、再婚の際の問題など、様々な罪障と宿業を、その都度、7時間、10時間の唱題行で解決していただきました。

 今の私がある陰には、平成元年に再婚した主人の大きな存在があります。子供たちが父親を欲しがるようになり、お願いして試験的に同居するところから始まりました。同居の際、主人は小学生の子供たちに、3つの約束をさせられておりました。それは、給料はちゃんとお母さんに渡すこと。お酒はあまり飲まないこと。お母さんを大切にすること、の3つでした。私からの条件は信心をしていくことでした。

 今は、手離した娘も戻り、3人の娘は女子部員として活動しており、主人は娘たちを車に乗せてお寺まで来ます。また、地区の育成、折伏に、遠方であろうと、どこへでも行ってくれます。今、一家で信心第一の、知恩報恩の折伏の御奉公をさせていただく境界になりました。住居も、横浜に一軒家を購入でき、青年部活動の会場としても使っていただいております。

 平成2年に学会問題が起こってから、支部の活動の1つに、学会に対する活動があります。それは、青年部中心のローラー作戦といいます。これは、お寺にある名簿をお借りして、学会員宅に資料配布後、各家庭を訪問します。各地区から壮年、婦人も参加し、合同して行うこともあります。有力な所へは個別に再訪問をします。私は地元の横浜で、子供たちと手分けし、聖教新聞や公明党のポスターが貼ってある家を地図に印すなどして、後日資料を配布し、訪問しました。またお寺に来たときは、墨田区、江東区などで同様にしました。

 そのような動きの中、一昨年、私は5世帯の折伏を成就させていただきました。また、本山任務をさせていただいている娘が、1世帯の折伏を成就しました。昨年は主人が1世帯、長女が1世帯、私が2世帯と、家族で4世帯の折伏を成就させていただきました。「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる」(御書 986ページ)の御金言のとおり、学会員から妨害、中傷誹謗、悪質な脱講運動、嫌がらせを受けました。家を見張られたり、玄関に葬儀用の花が置いてあったり、多勢に取り囲まれたり、入れ替わり立ち替わりの訪問等があります。後をつけられたときには家族の身の危険を感じ、命がけであると思いました。そこで子供たちを呼び、私たちはこのことに値わんがために生まれてきたこと、しっかりした信心をして欲しいことを話しました。


 「出陣の年」の本年は、支部折伏誓願目標250世帯です。うち婦人部は150世帯を5月までに達成すべく、昨年より準備して敷かれた91班の班体制で、5月までに各班3世帯の折伏をもって成就していくようにとの指示が、講頭より出されました。私は下種先が全部だめになり、年初の時点で有力な縁がありませんでしたが、3時間の唱題行の功徳で御本尊様の不思議なお計らいにより、2月21日に1世帯の折伏を成就させていただきました。

 2月16日、大聖人様の御誕生会の日のことです。お樒を持って、お寺の前の立て札を見て、帰ろうとしている御婦人にお会いしました。面識がありませんでしたが、話しかけてみました。すると学会の方でしたので、お寺に在勤の御僧侶に話をしていただきました。その方が21日に入講された小室さんです。小室さんは、学会のなかで5年間、苦しみ、悩んでいたこと、そして今日私に会えたことが功徳だと、喜んで帰られました。5日後に、娘さんとともに、無事、勧誡式を受けることができました。

 御法主上人猊下は「眦(まなじり)を決して」と御指南されております。法華講30万総登山達成に向けて、高野日海御尊能化のもと、家族、眷属、班、地区が、一人が一人の折伏達成の実現に向けて、信力・行力・仏力・法力の4力を根本に、みんなで「一丈の堀」をこえるべく、精進していく決意でおります。

※この原稿は昭倫寺支部の若山さんの御協力で転載いたしました。




『悩みの日々を抜け今、春』 法高寺支部 黒須美和子

 皆さん、こんにちは。北関東地方部第14回総会、まことにおめでとうございます。今日は、これまでの自分の信心と、先日折伏させていただきました体験をお話させていただきます。

 私は昭和42年に、黒須家の4人姉弟の長女として生まれました。生まれた時には両親が信心をしていましたので、自然に自動的に入信という形でした。家はあまり裕福ではありませんでしたが、「御本尊様のお家はいつもピカピカしているなあ」と子供心に感じていました。また、言葉を理解できるようになった頃から、父に「お前たちは、御本尊様に願って、願って生まれてきたんだぞ」と言われながら育ってきました。小学校入学以前は、両親の後ろについて、当然のこととして勤行をしていたのですが、その後、中学校を卒業するまでは、勤行をしたりしなかったり、という具合でした。その頃、末の弟が勤行を覚えたことがきっかけになり、私も含め姉弟全員が、進んで勤行をするようになりました。

 24四歳のとき、以前よりやってみたいと思っておりました本山任務の整理班をさせていただくことになりました。登録が済んだときの喜びは、今も忘れることができません。2回目の任務のため、総本山に向かう途中のことでした。電車の中で腰が痛くなり、着山した時には、立っているのも辛いくらい痛みが増してきたのです。「これでは任務が無事に務められない」と思いましたが、「何か少しでも御奉公させていただけることがあるのではないか」と思い、心の中で御題目を唱えながら一生懸命がんばりました。すると、痛みが少しずつ薄らいでいくのが感じられ、帰る頃にはほとんど消えてしまったのです。私は「これも大御本尊様に御目通りさせていただいたことと、御奉公させていただいたことのおかげだろう」と思いました。

 御奉公で総本山へ行かせていただく度にいろいろな方に縁をし、お話を聞き、今まで知らなかったことをたくさん教えていただきました。その一つは、御奉公の意味です。「人に見られるからがんばるのではなく、どこにいても、常に御本尊様が私たちの姿や振る舞いを見てくださっている」ということです。総本山にいるときだけではなく、日頃の朝夕の勤行はもちろん、唱題、支部活動、折伏等の自行化他にわたる信心活動が大切なのではないでしょうか。


 私は常々両親の姿を見て、私も信心を中心とした家庭を築きたいと思っておりました。しかしいつも、楽しくあるべきはずの出会いが、時には身体にまで影響を及ぼすほどの悩みに変わってしまうのです。これは、後から気付いたことですが、その時の自分の信心の現れと、自分の持っている宿業の探さであると、感じております。  一昨年の年末に、こんなことがありました。勤行中に「お前のように信心の″し″の字もない人間に、願いなど叶えられるわけがないだろう」と、御本尊様がささやかれたような気がしました。それというのも、それまでの私は、結婚願望が強く「今年こそ結婚させていただきたい」と、強くお願いしていたのです。それまで、自分なりに信心をやっていたつもりでしたが、自分のことばかり願って、周りの人の幸せを願っていなかったことに気付かされたのです。それ以来、自分のことは一切願わなくなりました。

 昨年の11月に柳沢委員長さんより、「折伏の達成していない支部、地方部は5時間10時間の唱題をしてでも達成していきなさい」という内容の通達が出されました。そのお話を、私は3回耳にすることができ、3度日のとき永井地方部長さんより、「青年のうちに、10時間唱題の経験をしていくことによって、仏様の境界の一分につながっていく」とのお話を伺いました。そのとき、「仏様の境界とは、どんなものだろう。見てみたいなあ」と思い、12月に入って早速、実践することにしました。

 しかし、始めたとたんに電話が鳴ったり、買い物を頼まれたり、いろいろな魔が入ってきました。その度に「早く御本尊様の前に座りたい」という気持ちが、強く湧き上がってくるのです。そして、一緒に買い物に行った母には、「早く帰りたい」とせがみました。以前、弟が大病を患ったとき、治るまでの期間、8時間の唱題を実践して乗り越えた体験を持つ母は、私の気持ちを察してくれ、必要な物だけを買うと、急いで帰ることに同意してくれました。その後、夜12時を少し過ぎてしまいましたが、なんとか達成することができたのです。

 そして10日ほど後にもう1度、10時間の唱題をさせていただき、非常に貴重な体験となりました。次の日の勤行中のことです。「10時間唱題も大切だが、1日1時間の唱題を持続するのも同じように大切なのではないか」と、御本尊様に教えられた気がしました。「そうだなあ、持続していくのも大切だなあ」と感じていた矢先、整理班責任者の青井さんからも、持続していくことの大切さを聞き、整班のメンバーで今年の1月1日より、1日1時間のリレー唱題をすることになり、そのおかげで、今まで以上に唱題できるようになりました。


 3月に入り、鈴木和信さんと出会い、不思議な縁を感じていました。鈴木さんは、鍼・灸・マッサージの先生です。2年半前に治療していただいたときに、私が日蓮正宗の信仰をしていることをお話してあり、最近また話をする機会がありました。その時に鈴木さんが自律神経失調症で、目と耳に若干の不安があるということを知り、また充実した人生を送りたいということを聞き、ぜひこの方を折伏させていただきたいと思い、鈴木さんのために唱題をさせていただきました。それと同時に、信心の話をしていくと、鈴木さんはとても興味を持ってくれました。その後、私の家族に会ってもらうことになり、家の御本尊様の前に座って、みんなと一緒にお題目を三唱いたしました。その姿を両親が見て「この人だったら、娘を任せても大丈夫」と思ったらしく、父は、今まで話したこともない話をしはじめたのです。父が入信当時職場の人に理解されず、勤行ができる環境を求めて11回も職場を変えたことや、仕事中の事故で「一生使えない」と診断された手が元通りに回復したことなどです。

 そして3月17日、入信を決意した鈴木さんは法高寺において、無事に御授戒を受けることができました。次の日より、一緒に勤行をしたのですが、ペースはゆっくりだったものの、鈴木さんは、お経がすらすら読めてしまったのです。私は、大変驚いてしまいました。その5日後に、下妻第二地区の座談会に参加し、帰りに私の家に寄ってもらい家族と勤行をしたところ、普通の早さでのお経についてこられた鈴木さんを見て、家族全員驚いてしまいました。きっと、過去世において正法に縁していたのだろうと思います。また、奉安堂の御供養のことなどでも、出陣式の委員長さんのお話を、一緒に大白法で読んだところ「それじゃ早速ペットボトルを用意しようね」と、とても素直に受け止めてくれました。

 3月31日には、総本山に見学に行きました。行くときはものすごい雨が降っていたのですが、着く頃にはすっかり上がり、快晴になりました。これも、鈴木さんの素直な信心が、大御本尊様に通じたのではないかと思いました。御開扉のない日でしたが、御塔婆供養をさせていただき、六壷の夕の勤行にも参加できました。太鼓の音や、お小僧さんたちのお経の声に大変感激し、また、御焼香の仕方もゆっくり覚えていただくことができました。とても充実した、有り難い1日を過ごすことができました。4月に入り、お寺の行事にも、きちんと参加されています。

 そして昨日、法高寺御住職・東羅御尊師により、鈴木さんのお宅に御本尊様を御安置させていただくことができました。今回の折伏により、私自身に大きな変化がありました。それは御本尊様への確信が、より深まったということです。今まで大きな体験もなく、両親の信心に守られて、支部、地方部、整理班等の御奉公を通し、縁をしてきた方々に、いろいろ教えていただきながら、自分なりの信心をしてきました。そして、その都度悩みが発生していたわけですが、その原因は、相手ではなく自分にあり、それらすべて、御本尊様の御計らいで縁しているのだと思いました。また、真剣に御題目を唱えられたおかげで「自分の見る目というものが境界によって変わる」ということを教えていただきました。

 今、私は、自分でも不思議に思うほど、愚痴を口にすることがなくなりました。毎日が楽しくて楽しくて、仕方がありません。『妙一尼御前御消息』に、「法華経を信ずる人は冬のごとし、冬は必ず春となる」(御書831)とあります。父が大好きで、私にも教えてくれた御金言です。また有り難いことに、鈴木さんとの経緯を、地元の友達に報告する際に、信心のこと抜きでは語れず、今まで信心の話をしたことのない友達にも下種している自分がいるのです。今まで縁したすべての方に幸せになってほしいと思うようになり、毎日御祈念、下種させていただいております。

 思えば、父が御本尊様を御下付いただいてから確信が深まった年が8年目。我が家に常住板御本尊様をお迎えし、同じ年に私が整理班をさせていただくようになってから今年で8年、一段と確信が深まった年となりました。全く不思議なことだと感じております。これからも、平成14年・法華講三十万総登山に向かって、御報恩のためできるだけ多くの方にこの体験を聞いてもらい、どこまでも御本尊様を信じきる両親の姿を見習い、御題目を唱えきって「1年に一人が一人以上の折伏を」を実践し、御法主上人猊下のお心に適うよう、素直で正直な信心で皆様と共に精進してまいりたいと思います。

※この原稿は日正寺支部の福原さんの御協力で転載いたしました。



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