<2・3面>
<4面以下> 各地で地方部総会行われる
妙縁寺住職・光久諦顕御尊師
風薫る6月も半ばを過ぎ、総本山では先月末から待望の夏期講習会登山が始まっています。つい先頃新聞で、大脳生理学者の話を読んで、なるほどと思ったことがあります。「人は大きな夢を持つことによって、脳の情報処理すべき方向が定まり、その働きが活性化される」という話です。人間は目的や進路が決まると、心が定まります。そして進むべき方向に全力が出せます。そうすると、思わぬいい結果が出るものです。この話の「夢」を私たちの信心でいう、誓願・目標・祈りに置き換えてみるとします。大聖人様の教えにそって誓願を立てて祈っていくと、自分の持てる力が最大限に発揮されます。それだけでなく、自分では及びもつかなかった力が縁するところに用(はたらい)て、思わぬ形で誓願が叶ってくることがあります。大事なのは、正直な信心をしてまず誓願を立て、それに向かって精進し続けることです。
しかし往々にして、その道程にはさまざまな障害が起こってきます。目標が大きければ、現実には失敗や挫折(ざせつ)が多くなり、意欲も萎(な)えがちになります。そうしたときこそ、誓願の強さと、確信が必要なのです。厳しい試練にさらされることも増えます。そうしたときこそ、忍耐が要求されます。こうしようと思っても、なかなか壁が破れないときがあります。そうしたときこそ勇気です。
人間関係や自分自身のことで、さまざまな迷いを持つときがあります。そういうときこそ、異体同心・慈悲・和・お互いの励ましが何よりです。これらは人とのプラスの関係です。励ましは人間を成長させる源であり、心を生かすエネルギーです。「いゐ(言)はげ(励)ましてを(堕)とす事なかれ」(御書 1398ページ)と大聖人様も仰せです。縁ある人をすべて信心に立たせていこうという強い化他の一念が必要です。この一念が人を導くときに、どのように用くかが大切です。たとえば、折伏推進の真剣さが、ときには眉間(みけん)にしわを寄せ、テーブルを叩き、人に対して刺々(とげとげ)しい言葉をなげかけてはいないでしょうか。どのように話をしたならば、人は受け入れやすくなるのかを、考える必要があると思います。「自行若し満つれば必ず化他あり」(日寛上人分段集 476ページ)の御文のように、私たちの化他行は、余徳の溢(あふ)れるものでありたいものです。そう心掛けるところに、私たちの精進の意味があります。
さて、夏期講習会登山についてでありますが、今、宗門は平成14年の宗旨建立750年に照準を合わせて前進しています。平成6年の地涌六万大総会の翌年より、平成14年の30万総登山に向けて、夏期講習会登山が実施され、講員の行学増進を図り、長期的展望に立って着実に進行しております。これには、毎年5万人が10期に分かれて、総本山で1泊2日でじっくり、教学の講習を受けております。講義内容や、登山体制も一段と充実されつつあります。大聖人様御命名の法華講衆の何たるかを学び、法華講の歴史と、信仰の誇りを教える夏期講習会登山は、何をおいても参加すべきであります。信心している我々が、生きていく上での大切なもの、絶対的なものを感じとるには、不自惜身命の求道心が何より肝要であります。そのためには求道心を奮い起こし、講習会に参加し、一信二行三学の信心を進めることが大切であります。もとより信仰は、理屈で理解できるものではありません。大聖人様の仏法を信仰することは、理屈では触れることのできない命の奥底に、仏性を開発していくことです。
このあたりを天台大師は、「只(ただ)心是(これ)一切法、一切法是(これ)心なり。故に縦に非ず横に非ず、一に非ず異に非ず、玄妙深絶(げんみょうじんぜつ)なり。識の識(し)る所に非ず、言の言ふ所に非ず、所以(ゆえ)に称して不可思議境と為す」と説かれています。
このことを大聖人様は一言で「有信無解」と説かれています。また、仏法正邪の基準を三証によってお示しくださっております。すなわち、「道理証文よりも現証にはすぎず」(御書 874ページ)の御文であります。どのように道理・文証を示そうとも、重要なのは現実の姿であります。信行についていえば、理論と現実が一体化してこそ尊いのであります。言い換えれば、理論を持たない行動は行き当たりばったりになるのであります。
また仏法では、諸法の実相を「事」と「理」の二つに立て分けます。日寛上人が、「事を事に顕わす」(六巻抄 48ページ)と説かれているように、私たちの信行においても、事の一念三千の信行を磨いていく事行が、勝(すぐ)れているのは当然であります。総本山という真実の仏法の霊場で、一信二行三学の最善の道を基本姿勢として、御法主上人猊下の御講義を拝聴し、第一線の講師の方々の謦咳(けいがい)に接して、教学の深さを学びましょう。知識を詰め込むというよりも、むしろ謙虚に法を求めて、祈る姿勢を習得していきたいものです。
最近、海外信徒の登山の姿に感じ入ることがあります。奉安殿における御開扉、御法主上人猊下への御目通りなど、総本山内でのあらゆる行事に参加し、日本の講中の人たちの行躰行儀(ぎょうたいぎょうぎ)を、それこそ目を皿のようにして、見入っているのであります。七つの海を越えて、妙法を求めて登山してきた、ひたむきな海外信徒にとっては、総本山で目にするものすべてが、仏法を体得する糧(かて)になるようです。この求道の姿勢には、むしろ私たち日本の僧俗のほうが、学ばなければなりません。求める心と祈る心が薄れては、信仰の喜びはありません。歓喜がなければ化他行が心の片隅に追いやられてしまいます。平成14年の30万総登山は、私たちの今突き当たっている壁を破らなければ、達成できないことです。御書に「一丈のほり(堀)をこへぬもの十丈二十丈のほりを越ゆべきか」(御書 1058ページ)「凡夫の仏になる又かくのごとし。必ず三障四魔と申す障(さわ)りいできたれば、賢者はよろこび、愚者は退くこれなり」(同 1184ページ)とあります。この御文は、すべて自分の今までの殻を破って、大きく成長することを教えられています。
飛行機も音速を超えて、マッハのスピードを出すとき、「ドーン」という衝撃が搭乗員の身にも響くといいます。大きな目的を達成するためには、それなりの試練は当然であります。この3年間は、「限りある身の、力ためさん」との正念場であります。未曾有の闘いが要求されているのです。「紙なからん世には身の皮を紙とし、筆なからん時は骨を筆とすべし」(同 579ページ)大聖人様は『佐渡御書』で、こう仰せられています。
法華講衆たる自覚は、正しく信仰をし、強盛な信仰を貫くことこそ信仰生活の第一義と心得るべきであります。それがためにも、御書にある古(いにしえ)の雪山童子(せっせんどうじ)や楽法梵志(ぎょうぼうぼんじ)等にお手本をとり、骨を筆とし、皮を紙とするような不屈の決意に燃えて、正法を学びとり、令法久住(りょうぼうくじゅう)せしめなければならないのであります。
今、この夏期講習会登山と共に、毎月各布教区単位による、30万総登山推進のための僧俗協議会が実施されております。向こう3年間の闘いの内容は、折伏と育成であり、そしてそれを土台とする、支部総登山の充実と発展ということに尽きると思います。この「出陣の年」の闘いが、30万総登山の成否を決する鍵です。
僧俗協議会も6月に入って3度目となります。全国の各支部が、お互いに刺激を受け、切磋琢磨して、30万総登山の推進がいよいよ活性化されるよう、念願してやみません。
※この原稿は昭倫寺支部の若山さんの御協力で転載しました。
『折伏なくして成仏なし』
私は昭和37年、友人の勧めで日蓮正宗に入信しました。当時の我が家は、主人の仕事がうまくいかず経済的に苦しく、何か信仰でもしたら良くなりはしないかと悩んでいたときで、友人の、「この御本尊様は、どんな祈りでも叶う」という言葉に藁をもつかむ思いで入信したのです。私は、「どんな祈りでも叶うと言うけれど、そのためにはどんなことをするのですか」と聞くと、友人は、「1つは毎日の勤行をすること、2つは折伏をすること、3つは総本山へ登山すること、この3つを真面目に実行したなら、どんな祈りでも叶う」と言うのです。私はそれをそのまま信じて、その日から主人の仕事のことや、私たち親子の生活のことを一生懸命お願いし始めました。ですから、動機は現世利益だったのです。ところで、私には5人の兄妹がおります。私の折伏第1号となった妹のことをお話いたします。妹は5歳のときに疫痢(えきり)にかかり、10日間、40度の高熱に冒され昏睡状態が続きました。幸い一命はとりとめたものの、この時に脳に障害を起こしてしまい、医者からは「一生治らないかもしれない」と宣告されたのです。それから何年かして生理があるようになってから、1日に7・8回もの発作を起こし、その度に意識不明の状態になりました。こんな状態が毎日続いたので、いつしか妹の存在は家族みんなの重荷になり、私はこの妹が不憫でなりませんでした。
入信後しばらくして、私は、どんな祈りでも叶うのなら、妹の病気も治るはずだと気付きました。それからは、妹の病気平癒の御祈念に変わっていったのです。それからというものは、妹にこの信心を教え、病気を治してもらおうと、毎日毎日、5時間、時には10時間と、一心不乱に御題目を唱えました。そのうち、「私だけが拝んでいてもいかん。妹本人にも拝まさんといかん」と気付いたのですが、脳に障害がある妹に教えるのですから、ただただ根気の要ることでした。しかも、両親や兄弟の猛反対の中でです。妹の病気を治してやりたいという私の真心が、なぜ両親や兄弟に判ってもらえないのかと情けなくて、泣きながら唱題したことも一度や二度ではありません。でも、そんなことを繰り返していくうちに、妹も少しは拝めるようになってきました。
努力の甲斐があった、これでだんだん良くなっていくだろうと喜んでいたのも束の間、今度はどうでしょう、拝めば拝むほど発作がひどくなって手が付けられない状態になっていったのです。父母は「お前がこんな信仰を持ち込むから、この子がよけい悪うなったじゃないか」と言ってかんかんに怒りました。私も困り果てて友人に相談すると、「そうやってだんだん悪業が切れていくのだから、もっと拝ませなさい」というのです。私は半信半疑でしたが、何としても治してやりたい一心から、続けて妹に拝ませると、発作が出て父母が怒る、こんな毎日でした。私も毎日一生懸命に、御本尊様に祈りました。時にはくじけそうになったこともありますが、私が諦めたら誰が妹を救ってやれるだろうと自分に言い聞かせ、勇気を振り絞って毎日繰り返しました。
そうしているうちに、不思議なことに妹の発作は軽くなっていったのです。ほっとした私は「妹に折伏をやらせないかん」と思い、私が折伏に行くときは、妹の手を引いて連れて行くようにしました。相手の人から妹のことを笑われたりしたときは辛くなりましたが、御本尊様の御加護を確信し、くじけずに続けました。妹自身が御本尊様を拝み、だんだん罪障が消滅して、元の体に戻っていく姿を示しながら、この御本尊様の偉大さを他人に教え、折伏のお役に立っていることを確信していたからです。
そして数年が過ぎ、妹も随分と発作が軽くなりましたので、今度は総本山へ連れて行きました。御開扉の最中に発作が起きはしないかとひやひやしましたが、無事に御開扉が終わり、ふと妹を見て、私は涙が湧き出てきました。それは、妹の顔が、それまで一度も見せたことのない晴れ晴れとした表情に輝いていたからです。私は、「治った、治った、この子の病気が治った。医者から不治の病と宣告された持病が、この御本尊様の大功徳を戴いて治った」と、うれし涙が止まらず、「御本尊様、ありがとうございました。この御恩に報いるために折伏行でお応えします」とお誓い申し上げました。このときから今日まで、ただの一度も発作を起こしていません。そして今は全く別人の様に心身共に健康になり、良縁に恵まれ、幸せな生活を送っております。
皆さん、これが私の初めての折伏でした、本当に命を削る思いの苦労の連続でしたが。しかし、この折伏が実りの時を迎えたその喜び、感動は生涯忘れることができません。さて、その後、猛反対をしていた父母が、妹の現証に、「これはすごい、これこそ本当の御本尊様じゃ」と言って、先祖代々拝んでいた真言宗を振り捨てて日蓮正宗に入信しました。次いで、兄弟の中で一番反対していた兄も入信することになりました。また、この4月に、先に述べた妹が学会に所属したままでおりましたが、この度、兄や私の折伏によって、法厳寺支部に加えていただけることになりました。本当に有り難く、感謝の念でいっぱいです。
話は変わり、私自身のことですが、私は平成3年、心臓病で入院しました。その時、兄より正宗信徒としての在り方の基本について話を聞き、当時の創価学会の間違えに気付き、平成5年4月28日に法厳寺支部に入講させていただきました。それ以前は病弱で悩んでいたのが、法華講にご縁をいただいてからすっかり健康を回復できたのです。学会の中で受けた害毒の恐ろしさと、真実の正法に目覚めることがいかに大切かを、私ははっきり判らせていただきました。そして、報恩感謝の真心一筋に、折伏行に全力を挙げなければいけないと決意しました。そして平成7年元旦、「今年こそは5世帯の折伏をさせていただきます」と誓願いたしました。それ以来毎日、折伏達成のための3時間の唱題行を始めました。折伏させていただく方々のお一人ひとりをしっかり意識しながら、「一日も早く正宗信徒として、幸せな境界を開かれるように目覚めてください」と一心に御祈念しました。その結果、3年前から下種していた中城さん、創価学会の矛盾に気付きながらもなかなか決心がつかず悩んでいた佐藤さんをはじめ、次々と、日頃接する中で真心が通じたのか、この年の目標5世帯を、地区の皆さんのお力添えもいただいて成就しました。折伏の実践により、話し尽くせないほど様々な功徳を戴いておりますが、家族のことを言えば、3人の子供たちもそれぞれ安定した仕事に就くことができ、主人も他人様の命を預かるタクシー業務において、高知県ではただ一人、「40年間無事故運転」という成績で、全国表彰までいただきました。
また、父の臨終のときのことです。父は昭和47年に80歳で他界しました。その父が息を引き取る直前のこと、父は、「おお、御本尊様はすごい。楽しい、楽しい、こんな楽しいことはない。おばあちゃん(※母のこと)、頼むよ、題目をあげてよ」と、母に満足しきった言葉で話しかけながら、薄紅色に輝く顔に微笑みをうかべ、眠るように霊山に旅立ちました。そのとき、私は、これこそが「成仏」の姿というものであり、父は最高の功徳を戴くことができたと固く信じることができました。
「折伏なくして成仏なし」ということを心の底で実感させていただいている我が家の様子の一端を申し上げました。
『100世帯の誓願完遂に向って』
入信30年目に、縁あって久修寺様にお世話になることになり、早いもので4年が過ぎようとしています。お寺までは高速道路を使って1時間半くらいかかります。私の運転では心配だと、主人が有給休暇をとって御講に参詣しています。今までは仕事が忙しくて御講になかなか参加できませんでしたが、仕事場が変わったので、2人でお寺に行けるようになりました。他の方も乗せて行くので、車中が座談会場となり、楽しく信心について話し合っています。発心させていただくために御講に参詣しているのですが、一番悩んだのは折伏した人のことです。信心を30年続けている私でも遠く感じていることがあるのに、果たして新入信者がお寺へ行けるだろうかと、悩んだこともありました。私は地湧六万大総会の年(※平成6年)に折伏100世帯の誓願を立てました。しかし、そのお約束を果たすことができなくなるような気がしていました。そこで、お寺まで一緒に行ってくれる眷属に会わせてくださいと御本尊様に祈りました。一週間もしないうちに、主人の友達の紹介で全さんがお客さんとして初めて来てくれました。その時、私はこの人を折伏しようと思い、翌日尋ね、さっそく折伏いたしました。全さんはその日のうちに入信を決意され、間もなく御本尊様を御下付いただくことができました。
次に折伏した井上さんは、私の仕事場でパートとして15年間働いています。あまりに毎日お会いしているので、信心の話がとても言い出しにくかったのですが、思い切って折伏をすると、まるで待っていたかのように御受戒を受けました。
また福井県の田嶋さんも友人の知り合いですが、口の中に腫れ物ができて5日間も苦しんでいたので、私の家に呼んで折伏をしました。そのとき田嶋さんは、バッグの中に禅宗の数珠と経本を持っていました。その日のうちに謗法払いをし、一週間後に御受戒を受けることができました。田嶋さんと長浜ドームでたった1日だけ一緒に仕事をしただけのご縁でした。
続いて入信した佐伯さんは、私の長男がお付き合いをしている人です。横浜から遊びに来たときのこと、たまたま私と2人きりになったとき、佐伯さんは自分の悩みを話してきました。彼女は「私はいつも夢に私と同じ顔をした友達が出てくるんです。小さいころからの友達なのです。実は私は双子でもう1人は死産でした。誰からも聞いていないけど、私はなぜかわかったのです。母に話すとびっくりして私のことを変な子と言います」と話すので、私は「なんとなく判るような気がする。塔婆供養をしてあげなさい」と話し、次の日がお盆だったので塔婆を建て、素直に入信し、昨年2月に2人は結婚しました。長男の嫁が信心をすることができて、最高の幸せです。何よりの功徳だと心から感謝しております。
その後、木下さん、藤堂さん、東川さんを折伏できました。一人ひとりの折伏に大きな体験がありますが、中でも東川さんは、易経の勉強をしていて姓名判断ができる人でした。東川さんはご主人が亡くなって3年経つこと、ご主人のご両親と折り合いが悪くなっていることで悩んでいたのです。手相・姓名判断は、占うことはできても宿業転換はできないし、その人自身を救うのはこの信心以外にないと話し、以前、姑と折り合いが悪く悩んでいた私自身の体験を話しました。
全くの他人が親子として暮らすのですから、問題が起きて当り前です。私もあまりに辛く、2・3度家を出ようと思ったことがありましたが、子供を置いて行くことの辛さに、御本尊様の前で身を切られる思いで唱題をしました。限界まできたとき、心の中で叫んでいたのは、「お母さん、助けて、私はどうしたらいいの」という言葉でした。私はその時、自分の本当の気持ちを知り、びっくりしました。なぜならば母は私が中3のとき、私たち家族を置いて再婚し、私は兄の許で育てられたのです。父が他界して9年目のことです。さらにその9年後、母は62歳で他界しました。
それから、どんな理由があっても子供を捨てた母を許せずにいた私でした。母のために塔婆1本建てたことはありませんでした。竹内御住職に「あなたは信心がありません。親の塔婆を建てないなんて。親不幸の者は横死する」と言われても建てなかった私でした。
この、母に助けを求めた体験をとおして、入信21年目で初めて母の御塔婆を建てることができました。私が家を出るのを思いとどまらせてくれたのは、私が受けた辛さを子供たちに味あわすことはできないとの思いでした。塔婆を建てた日の夜中、唱題をしていると何か暖かい物に包まれ、涙が止めどなく流れ、唱題が声になりませんでした。その感覚はちょうど自分が赤ちゃんのときにお乳を飲んでいるような暖かい感覚でしした。私は母が、喜んでいるような気がしました。この体験の後、不思議なことに突然姑が本当の母のように優しく感じられるようになりました。店にいても、誰が見ても本当の親子と思われるようになりました。
この体験をとおし東川さんに塔婆供養の大切さと、親孝行の大切さを訴えました。その結果、東川さんは翌日御受戒を受けることができました。「こんな大事な話なら、知り合った半年前に教えてくれていたら、こんなに苦しまなかったのに」と言い、さらに「私もこの信心を誰かにでも話してあげたい」と言って、御受戒を受けた後、すぐに「自分だけでなく、もっと悩んでいる山上さんを救ってほしい」と言われました。
次の日に約束をし、山上さん宅へ折伏に行ったところ、いつも悩んでいた東川さんが絶対に幸せになれるよと言い切ったのです。今までにない東川さんを見て山上さんも、「自分も幸せになりたい」と3日後、御受戒を受けることができました。
その後、東川さんの「入信してから3・4日、歯の治療をしている反対の歯が痛くて眠れない。正しい信心をしたのになぜだろう」との電話に、謗法払いをしていないことに気付き、東川さんの家に走りました。長い付き合いの占いの先生からもらった、祈祷した塩や他の物も、半信半疑ながら大きなゴミ袋2袋の謗法払いをしたところ、その日東川さんはゆっくり眠れたそうです。
その体験を富江さんに話し、法の恐ろしさを訴えました。富江さんも東川さんと同じことをしていたので、すぐ謗法払いをして御受戒を受けることができました。その3カ月後の本年1月には富江さんがご長男を救うことができました。
また、信仰は嫌いと言っていた私の友人が、大きな悩みを抱えた時、私は唱題をするように話しをしました。その人は東の方を向き、1日30分の唱題を続けておりました。先日その方から電話があり、折伏をしました。唱題のおかげで私の言葉が通じ「私もお寺に連れて行って」と入信決意され御受戒を受ける約束をしました。
1週間前には、全さんが海外信徒登山会のビデオを見て感激し、娘さんに入信決意をさせることができました。
5日前には、東川さんの変わった姿に触れ、富山からわざわざ仏法の話を聞きたいと東川さんの友人が来てくれました。折伏をし、内得信仰を勧めました。本人もしばらく題目を唱えてみると行って帰っていきました。
東川さんは入信して半年、悩んでいたことが嘘のように、大きく境界が変わり、今は、「主人のやり残した親孝行を、私がさせていただく」と毎日生き生きとがんばっています。このように、折伏した人が幸せになっていく姿を見ることは、最高の喜びです。
『転重軽受の大功徳知る』
我が支部では、土曜・日曜日の3時間唱題行のほか、婦人部は毎日、方面別の拠点に集まり、1時問の唱題行のあと、「右手に折伏、左手に育成」を合言葉に活動しております。広宣流布の闘いの要諦は「長の一念」と、私自身、毎日3時間の唱題を実践し、折伏をやり続ける中、過去世の深い罪障を出していただき、宿業転換させていただきました。
この平成の大不況のなか、昨年より、水道設備工事業を営む主人は大きなマンションの給排水工事を三つ請けることができました。しかし、8月に従業員が一人辞めたこともあって、主人は仕事に追われ、お寺の行事に全く出られない状況が続き、私はこれでいいのかと悩んでおりました。昨年の秋より、資金操りが切迫しましたが、主人は私に相談してくれず、一人で悩んでおりました。
2月になり、とうとう従業員の給料も滞り、また一人辞めていきました。銀行の融資も昨年受けたばかりで、もう粋がありません。2月16日の朝、「今日、金が出来なかったら、もう最後や。10年問コツコツやってきたのに。今日、支払えないと材料店との取り引きもストップする。駄目なときは家に帰らんから、子供二人のことは頼むな」と出ていきました。その様子から、もしやサラ金に行くのではと不安を感じました。
主人はそのとき、私の友人の御主人を保証人にたてて、お店に契約しに行っていたのです。私は友人にすぐ電話を入れ、「御主人に電話して、私はお金を借りることを承知していないと言って」と電話口で叫んでいました。まさに、契約書にすべてサインをして、実印を押そうとした、あと一瞬のところで止めることができました。私は、すぐお寺へ飛んで行きました。借金だらけで倒産しては法を下げると思い、御住職に「ブロック長を辞めさせてください」と叫んでいました。
御住職に「君は何か勘違いしているんじゃないのか。ブロック長である前に君は三浦君の妻であり、二人の子供の母親でもあるんだよ。信心して借金があったっていいんだ。近頃、御主人がお寺に来ていないから、気になっていたんだ。今晩、二人でゆっくり来なさい」と言われ、私の中で、見せかけの信心である見栄やつっぱりがすっと取れ、素直な気持ちになれました。
有り難いことに、主人をお寺に連れて行こうと壮年郡の後藤方面長が仕事の現場に行ってくれました。私は御本尊様の前に座り、唱題して、主人の携帯に電話を入れました。いつもはつながらないのにすぐ出ました。「金ができん。苦しい。今から10階から飛び降りるからな」今までなら、ギヤーギヤー言う私が、優しく「うん、お父さん、私はお寺へ行くから、あとから来る」と言うと「おお、あとから、行くわい」と答えたその会話が本当に不思議でした。
夜、九時過ぎ、お寺の駐車場で、後藤方面長夫婦と待っていると、主人の車が来ました。後で聞いたのですが、お寺に行きたくないのに車がお寺の方へと向かって行ったそうです。御住職は、2時間じっくり御指導をしてくださり、主人は誰にも言えなかった胸の内を吐き出すように話しました。「僕は、本当はもっと早く来たかったのですが、そういう時にかぎって夫婦ゲンカをして『やめた』と思い、来られなかったんです。実は三つ請け負った仕事のうち一つの工期を短縮され間に合わなくなり、元請けの会社から、日当2万円の職人を6名入れられ、毎月365万ずつの大赤字です。給料も支払いも全くできなくなり、材料もストップされました」と。
御住職は「君は福運が切れたのだよ。その時、魔が一斉に競って来たのだ。自分の考えや智慧ではなく、御本尊様に一切お任せするのだ。お金がないなら、諸天善神をゆり動かしていくのだ。平成14年に向かって闘うときがきている。今、苦しんでいるのは、全部、自分の過去世の姿だ。その因縁、罪障を御題日を唱えて、破っていくのだ」と温かく御指導くださいました。
翌朝、私が「主人が朝、5時に起きて勤行して行きました」と報告するやいなや、昨夜と違って、御住職は烈火のごとく「主人を見るな。あんな人のいい主人をあそこまで苦しめたのは全部君なんだ。御主人は心の病だ。この状態を抜け出すのは、並大抵じゃないよ。たった今から、御本尊様だけを見ていくのだ」と御指導くださいました。このとき、私の過去世の罪障なんだと気付かされ、本気で悩めるようになりました。
もともと貯えもあまりなく、生活費は底をついていました。子供二人がインフルエンザにかかり医者に診せるお金がありません。市販の薬を欧ませ氷枕をして、必死で御題目を唱え続けました。子供も高熱でうなされながら御題目を唱えています。この物の豊かな時代に私たち親子は飢えて、病気になっても医者にもかかれない。御本尊様、罪障消滅させてくださいとただただ唱え続け、思わず大声で、「病魔よ、出ていけ」と叫んでいました。朝方、子供が「お母さんの大きな声で目が覚めたよ」と言いました。熱は下がっていました。食費に100円・200円と使っているのを見て、子供たちが、「お母さん、今日から僕たちのおやつはいらないよ」と言ってくれました。子供の明るさと素直さが救いでした。そんな中、私は毎朝のように折伏・育成にと闘い続けました。
3月に入り、最後の従業員もいなくなって現場は回らなくなりました。「お父さん、仏様を信じていこうよ」と言うと、主人は「うるさい、信心して銭が出て来るんか。おまえ、まだ諦めんのか。おれと別れた方がいいやろうが。離婚届を取ってこい」と、あれ程優しかった主人がまるで別人のように言うのです。私がこの10年間主人を軽んじてきた結果なのです。
15日、御尊師に御指導を受けました。「主人が全部、放棄しました」と言うと、「すべて放棄したいのは、君の生命なんだろ。今、一番苦しいのは御主人だよ。なぜ、一緒にドロを被らない。誰もいないのなら、君が現場に行って手古をすればいいじゃないか。主人の仕事がどうなるこうなるじゃない。成仏すればいいじゃないか。御本尊を信じるんだ」と。
私は、本堂の御本尊様の前で涙が溢れてしかたがありませんでした。ああ、そうなんだ。私は誰よりも、このすばらしい御本尊様の功徳を主人に味わってもらいたかったんだ、成仏すればいいんだと。仏様に心よりお詫び申し上げ、一心に信じて唱えていると、あれ程苦しかった、寝ても骨が砕けるような、肺がヒユーときしむような苦しみが、一瞬で消えていきました。食事もその日以来、のどを通るようになり、主人のどんな態度を見ても、ニコニコ笑っていられるようになりました。
3月26日、元請けの社長より「明朝10時、会社に来るように」との電話がありました。いよいよ最後の話し合いです。同業者には、「元請けというのは下請けを踏み台に大きくなるものだからね」と言われました。御住職に報告すると、「あとは、御題目だ」とおっしゃいました。悔いが残らないように、その日は仏様に一切をお任せして、朝まで唱題しました。1時間半の仮眠を取り、目覚めた瞬間、不思議にも一切の心配や不安も消えて、周りはまるで別世界のように輝いていました。寝ていないのに、鏡に写った自分の顔は輝いていました。
社長室に通され、主人は「御迷惑をかけました」と土下座しました。私も一緒に頭を下げました。それから2時間、社長の口から、ただの一度も、金を返せの言葉はないのです。どうしたら三浦設備工業がもうかるか、今後どうやっていくかの話ばかりでした。しかも、借金で困っているなら、自分が保証人となって、半年後に銀行でオール一本化で資金を融資すると言って、ストップしている材料店にも口をきいてくれ、「心気一転、がんばれ」との話でした。
まさしく、諸天の加護です。家に帰り、すぐ御本尊様に感謝申し上げ、「お寺に行こう、今何時かな」とテレビをつけると春の甲子園が映っていました。その瞬間、私はなんてすばらしい春なんだろうと思いました。この三力月、冬の寒さも感じず、甲子園が始まる春が来たことも知らずに朝も昼も夜も、信心に夢中になってたんだと。
私は6歳の時母に捨てられました。学会を脱会し、25歳の時に入講以来20年、妙祥寺の女子部・ヤングミセス部・婦人部と経て、広宣流布のお役に立っていきたいとの一心で、今日まで及川御尊師の薫陶を受けて来ました。思えば母が私を捨てた年が、今の私の年なのです。不思議な因縁を感じると共に、私は救っていただいたんだ。罪障消滅していただいたんだと感謝の念が涌いてきました。 私は、幼い頃より、幸せというのが何か判りませんでした。私は幸せになりたくって信心したんじゃない。偉大だという御本尊様を知りたかった。大聖人様の仏法をこの五体でつかみたかった。人間として生まれてきた喜びを味わいたかったのです。
御住職にすべて御報告申し上げると、「さあ、あとは折伏だ。思う存分、闘っていこう」とおっしゃいました。
翌日、方面の末広さんのお父さんが肺ガンで、あと1カ月の命とのことで、さっそく竹田市へ飛んでお父さんを折伏し、その日のうちに謗法払いをして、2年前に御授戒を受けていたお母さんが、妙祥寺に詣でて、御本尊様をお受けしました。今まで唱え続けた御題日の功徳を、折伏の時に感じることができました。そして折伏の体験を講員さん一人ひとりに積ませてあげたいと祈れるようになりました。
御法主上人猊下は、今年1月の唱題行の終わりに当たって、「かぎりなく境涯ひらく題目を常にとなえつ広布目指さん」とお歌を詠まれました。
さあ、中九州地方部の皆さん、支部を興隆させるもさせないも、今日集い合った私たちの一念の中にすべてあります。御指南である「一人が一人の折伏」を、「よし、やっていく」との心意気で、勇猛精進していこうではありませんか。「来たるべき宗旨建立750年に当たり、30万総登山を名実ともに必ず成就なさしめ給え」と一心に祈り続け、御法主上人猊下のもと、集ってまいりましょう。
※この原稿は日正寺支部の福原さんの御協力で転載いたしました。