大白法

 平成11年7月1日号


主な記事

<1面>


<2・3面>


<4〜6面>


<4〜6面>

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一切の罪を懺悔、晴れて登山叶う

妙縁寺支部 原島嵩 (元創価学会教学部長)


親子二代で創価学会に仕え会長の側近に

 私は、昭和13年11月10日、東京・大田区矢口で原島家の次男として生まれました。満1歳の時、日蓮正宗の御受戒を受けました。父(宏治)も母(精子)も戦前からの熱心な創価教育学会の会員でした。私は幼いころから病弱で、3度ほど死に直面し、そのたびごとに御本尊様によって救われました。また戦時中、疎開先の宇都宮で大空襲に遭い、九死に一生を得ました。そうしたこともあって、少年時代から御本尊様の絶大な御力を肌で感じて育ってまいりました。

 父は、牧口常三郎初代会長、戸田聖2代会長、池田大作3代会長と、三代にわたる会長に仕え、特に池田大作の第3代会長就任に尽力し、創価学会理事長に就任しました。しかし、昭和39年12月9日、理事長および初代の公明党委員長の現職のまま、心筋梗塞のため、55歳の若さで死去しました。父の遺言ともいうべき言葉は、「日蓮正宗の立派な信者でありたい」ということでした。

 私は、その年に本部職員となり、翌40年には、池田大作の著書・講演・寄稿などの草案を作る『特別書籍』という部門の局長になりました。昭和43年には、30歳で教学部長の要職に就き、また総務に、そして宗教法人創価学会の責任役員(当時21名)の1人にも選ばれました。この頃の私の信念を支えていたものは、池田大作をこの世でただ一人の師匠とする絶対服従の思想でした。私もまた、池田大作の“本仏化”を推進する側近の1人だったのです。


間近に見た池田大作の増長

 池田大作の驕慢は、今にして思えば、昭和40年から顕著になりました。その年の1月元旦から、『人間革命』の連載を開始して自身を美化し、また「自分が日本国の最高権力者として不開の門を開く」と言ったり、「私は、日本国の国主であり、大統領であり、思想文化の一切の指導者、最高権力者である」などと発言したのもこの年です。更に正本堂の御供養が355億円も集まったことで、彼の慢心は加速度的に助長されていったのです。

 昭和45年、言論出版問題が起こり、池田大作は社会に向かって陳謝し、野望は頓挫したかに見えましたが、彼の権力奪取の執念は一層つのり、「総体革命」(池田大作の弟子を、法曹界をはじめあらゆる分野に送り込み、天下を取ること)を推進していきました。

 昭和47年、正本堂が建立された際、池田大作は「本日、御遺命の戒壇建立が達成されました」と口コミで流そうとしました。日達上人は「御遺命の意義を含む」とまでは仰せられましたが、戒壇建立は未来のことであるとされていたのです。私は、この時はっきりと、池田大作の平気で人を欺く本性を感じ取ったのです。正本堂建立以降、池田大作創価学会の方向は、非常におかしなものになっていきました。

 言うまでもなく創価学会は、本来、日蓮正宗の信徒団体だったのです。それが『創価教学』『創価仏法』という独自の教義・路線をひた走るようになったのです。昭和48年には、時の御法主上人猊下を、信徒の面前で怒鳴りつけるような事件も起こりました。


池田大作己義を構える

 同年12月29日、第二回御義口伝受講者大会が、学会本部で行われました。その時池田大作は、学会の『5つの宝』を挙げ、「(1)本部にある大法弘通の御本尊様。(2)戸田先生からいただいている刀。(3)留言集(※池田大作の遺言集)だ、1つの相伝集だ。(4)学会の玉璽だ、代々の会長に伝えるだの、作ってある。(5)実は本門事の戒壇は、正本堂という御本尊(※賞与御本尊のこと。本門事の戒壇というのはウソ)がある。猊下と私だけの唯仏与仏だ。板御本尊(※この時点では本尊模刻は、宗門には内緒で行われていた)で、まさしく化儀の広宣流布の八百万は明確に終わった。文化会館の座敷に安置してあるのだ。これは私が直接受けたもの。私が拝ませてあげよう」と発言しました。まさしく池田大作の傍若無人には、今にして驚くことばかりです。

 この頃から、日蓮正宗と別個に『学会の血脈』『師(池田大作)弟(会員)血脈』が論じられ、『大聖人直結』が盛んに言われるようになりました。また池田大作を『久遠の師』『我が師父』などと持ち上げ、盛んにその師への『帰命』『直結』『師と弟子の感応』『師と弟子との境智冥合』などが叫ばれるようになりました。『創価学会仏』なる奇妙な仏の存在も語られました。もはや一宗一派を形成してもおかしくないような気運となっていたのです。

 このような背景のもとに、昭和49年、池田大作の発想として、日蓮正宗および創価学会の上に「国際センター」を置くという構想が持ち上がりました。日達上人は、これを断固拒否されました。それに対して書かれたのが、有名な「北条報告書」です。これは、単なる一時的な情論ではなく、広布第二章と銘打ってからの一貫した路線であり、否、現在に至るも変わりがありません。


52年路線の勃発と経過

 やがて、池田大作の日達上人への復讐劇が始まります。それがいわゆる狂気の『52年路線』です。昭和52年元旦から、池田大作の宗門攻撃の火ぶたは切って落とされました。「創価学会の信心には、世界一、宇宙第一の功徳がある」とし、日蓮正宗とは別個の創価学会の信心を強調しています。この中で、「大聖人の御遺命である正本堂を建立しました。誰がしましたか途中で、創価学会がしたんです。私がしたんです」と、自ら御遺命達成者として位置づけています。

 また、寺院は儀式の場であって、大聖人と直結せず、そのには信心の血脈は流れていないとしたのです。形式(寺院の儀式)は必要ないとするならば、それは日蓮正宗の完全なる否定です。挙句の果てには、創価学会を莫迦にしたり、金儲けの手段にしたり、または権威(猊下のこと)を利用して押さえつけようとしたり、さらには中傷批判した場合には、「仏罰があります。全部地獄に行きます」とまで言及しているのです。

 さらに15日の教学部大会での「仏教史観を語る」、いわゆる『1・15講演』では、在家でも供養を受けられ、創価学会が在家・出家の両義を兼ね、会館が近代の寺院であるとしました。このため、総本山や寺院への参詣の流れは大幅に縮小され、会館へ、会館へと流れができてしまったのです。さらには、青年部を使って僧侶を次々と吊し上げ、日達上人を追い込んでいったのです。

 また、同月の『伸一会』なる池田大作親衛隊の第4回総会では、池田大作は「大聖人の場合は人数も少なかった。時代も違う。弟子も少なかった。信者も少ない。そういう意味から言えば楽である。我々の場合には時代は激動である。そしてマスコミもある。陰険な人間ばかりである。大変なことである。しかし、一代で終わらない。大聖人の場合は、一代で一応終えられた。我々の場合にはなおさらずっと延長、拡大していかなくてはならない」と語っています。日連大聖人の、あの法華経色読大難の数々を「楽である」などと言い、また「一代出終えられた」として、末法万年尽未来際に流れ通う大慈悲を蔑視し、なおかつ日興上人を第一とする法体の血脈相承をも否定。自分が大聖人に取って代わり、それ以上の存在として君臨しようとして“池田本仏”を永遠ならしめようとしたのですから、その罪は計り知れないほど大きいものがあります。


 「昭和五十二年路線」では、いろいろなことがありました。独自に総代会を組織化したり、会館に山号をつけたり、春秋彼岸法要等の各種法要も会館でするようになり、在家の教師を多数任命して導師をつとめさせたりしました。先祖供養も「慧光照無量」と印した印刷物に、故人の名前を列記させ、それをもって回向としました。池田大作自身、「妙」の一字を揮豪した紙を渡し、「これで◯◯さんは成仏したよ」などと言う始末でした。

 ところが同年5月、民社党の春日一幸氏から竹入義勝氏(※当時公明党委員長=既に脱会)宛に、民社党が国会で池田大作の豪華専用施設等について調査を行い、質問する旨の一通の手紙が届きました。これがいわゆる民社党の『質問趣意書』です。創価学会ではパニック状態に陥り、言論出版問題以上の危機と捉えたのです。

 折から池田大作学会の謗法を糾す活動家僧侶の動きも活発となり、8月には、日達上人御自身が、学会の寺院観に対する痛烈な破折を加えられ、創価学会は後退につぐ後退を余儀なくされ、その年の12月4日、日向定善寺での日達上人への池田大作の「ご寛恕願い」となるのです。しかし、それは「これまでのわがままをご寛恕願いたい」というのみで、過去に自らが行った謗法行為を認めるものではなかったのです。遂にその直後、宗門と創価学会の5項目の協定策をつきつけたのです。この内容は省略しますが、その発想は、独立した宗教法人の意識が先行し、互いに同等の立場で協定を結ぶというものです。

 これが新しい火種となって、翌53年1月19日、総本山での抗議集会、さらには2月9日の教師等の集会があり、創価学会を日蓮正宗から切るべしとの強行意見が大勢を占めたのです。この頃から脱会者が急増し、創価学会は慌てふためき、その対策に大わらわとなったのでした。以来、6月30日の「教学上の基本問題」、11月7日の「お詫び登山問題」、翌年4月の会長および総講頭の辞任、そして日達上人の御臨席をいただいての5月3日の「本部総会」に至るのですが、この間の経緯については、長くなりますので略させていただきます。

 問題は、池田大作にとって、いずれも本心からの反省など毛頭なく、たとえば『6・30』も『11・7』も、不満の中の大不満である」と、怒りをあらわにしていましたし、会長および総講頭の辞任も、一時撤退迂回作戦、やがての巻き返し、復讐のためのその場しのぎのポーズにすぎなかったのです。私はこの間、池田大作に加担しつつも、いやというほどの彼の本性を見てきました。

 会長辞任直後、「創価学会とは私そのものである」「私が創価学会の魂である」等と語り、新執行部を突き上げて、全副会長に署名をさせ、池田大作を『永遠の師』と定める誓紙を提出させたりしました。また5月4日には、「我れ一人正義の旗を持つなり」と色紙に揮毫し、自分は正しかったとの信条を記していたのです。その年の9月に至るも「私しか正しい基準はない」と私たちに語っていました。7月22日、先師日達上人が御遷化になりました。池田大作は、それを「罰だ」とはっきり私に語ったのです。

 また、「学会の方が宗門より大事だ」「僧侶が折伏をやらないのは謗法だ」「宗門の言っていることは揚げ足取りで、根本ではない」「日達上人と現猊下と比較すれば、日達上人の方が信心があった。現猊下の方が信心がない。ただ晩年日達上人は、若手の僧侶に乗せられてしまった」等、相変わらず宗門批判を繰り返していたのでした。


池田大作に対する諫言を決意

 当時の宗門からの破折は、本当に枝葉末節で、根本問題ではなかったのでしょうか。池田大作の犯した謗法(私も共犯者となったわけですが)は、日蓮正宗の宗旨の根本にかかわることなのです。日達上人は御遷化になる直前まで、「師匠が地獄に行くならば、自分も地獄に行く」という学会精神の根本に対する考え、そして私が池田大作の会長就任時から長い間原点としていた考えを破折されました。私は目からウロコが落ちるような思いでした。この時の心境を私は、『池田大作大作先生への手紙」(晩聲社刊)に書きましたので、それを引用させていただきます。

日達上人が仰せられたことが、何を指しているかは、明らかであります。『たとえ師匠であっても、間違ったことをしたならば』の師匠とは、池田大作先生を指しておられるのです。鳴呼、長い間、私は夢の中をさまよいつづけてきました。そして、池田大作先生の大謗法に加担してきたのです。まことに過去遠々劫の罪障のみならず、現在慢々の謗法を犯したのであります。私は、創価学会教学部長として、本門戒壇の大御本尊様に懺悔滅罪し、日達上人にお詫び申し上げる志で、現御法主日顕上人に深く深くお詫び申し上げます。(池田大作大作先生への手紙 180ページ)

 私は、悩み悩んで挙げ句、一大決心をしました。それは、大謗法を犯した池田大作大作を諫めることから始めました。昭和55年2月266日、学会本部にて一対一で6時間にわたり、本尊模刻や正本堂の件など、池田大作を諫めました。「先生は、本心から懺悔されていますか」との私の追及に、「本心からだ」という答えが返ってきました。また「全部(幹部は)私に右へならえであった」と、その時は反省の色が見えましたので、私は一応喜んで帰宅しました。しかし、それは予想していたように、池田大作のその場しのぎの弁解に過ぎなかったのであります。

 翌日から、「原島には近づくな。道で会ってもとりあうな」という指令が出され、私は、いわば監禁状態に置かれたのです。職場も聖教新聞社には行けず、新宿文化会館の一室に監視つきで仕事に従事するように命じられたのです。私の家(※聖教新聞社社宅)も、私が何か学会批判の文章を書いているのではないかと、母に命じて家捜しされ、家にいることもできなくなりました。

 同年6月18日早朝、家人がまだ寝ているうちに、私は家を出、ホテルを転々とし、マスコミを通じて広く世間に、創価学会の池田大作本仏化、そこからくる社会悪の数々を公表すると共に、池田大作本人に対して「公開討論申し入れ」を行いました。

 当時、私に対する受け皿は正信会しかなく、そこに所属し、また翌年には継命新聞社に入社し、昨年の11月10日、定年退職に至るまで、私は10数年にわたって正信会と運命を共にしてきたのです。


血脈相承否定の厳罰を受ける

 一昨年9月15日、私の母が他界してから、私は急速に元気がなくなり、糖尿病が悪化し、不安精神症、鬱病となり、食事は受けつけず、水さえも吐き、時には血も吐き、一切の現実が恐ろしくなりました。お恥ずかしいことですが、御本尊様も、御書も、唱題の声すら恐くなってしまったのです。毎日毎日、私の使命は何だったのか、何のための信仰だったのかと自分を責め続けました。

 妻は、私の病気のため、訳が判らず身も心もボロボロになってしまいました。ちょうどそんなときに、妻は中学時代の同級生の内海君子さんの紹介で、日蓮正宗妙縁寺支部に入講したのです。私は、妻が御宗門についたことは、初めは知らなかったのです。しかし、日に日に妻が元気になり、生き生きとし、確信に満ち溢れてくる姿に、私は驚いたのです。やがて、妻が御宗門についたこと、毎月登山していること、毎日のようにお寺に参詣していることを知りました。

 私は、かつて創価学会時代に、池田大作の共犯者となって数々の謗法を犯し、今また、10数年にわたって御法主日顕上人猊下への血脈相承否定という大謗法に加担した罪を、自身の身にあてて痛感しないわけにはいきませんでした。

 昨年の12月30日の真夜中、私もまた勧誡を受ける決意を固め、本年1月元旦、妙縁寺にて光久諦顕御住職により勧誡を受けることができました。私は長い間、日顕上人猊下への血脈否定に加担してきました。その罪が小さいはずがありません。

 『一期弘法付嘱書』には、「血脈の次第日蓮日興」とあり、その法水は七百年間、絶えることなく現在に至っております。その根本を信じなければ、日蓮正宗はあり得ません。現在、創価学会も、正信会も、この一点に狂いを生じているのであります。そのことを、私は、生きることの苦悩呻吟の中、我が命で感じ取ったのです。


一切の罪を懺悔、晴れて登山叶う

5月25日、その日は、私の生涯忘れ得ぬ日となりました。天気予報は雨でしたが、前日の雨がうそのように晴天に恵まれました。富士山はくっきりとその雄姿を見せ、終日、雲ひとつかからなかったのです。長い間、病床にあり、久しぶりに見る富士山でした。

鐘楼(27Kb) その日、私は、20数年ぶりに登山することができました。読者の皆さんには考えられないことでしょうが、登山するに当たって、前々日から足の硬直が激しくなり、歩くこともままならず、身体の自由もきかないという最悪の事態となったのです。それは、明らかに魔の所為でした。そのために御住職様をはじめ、関係者の皆様に多大なご迷惑をかけてしまったのですが…。しかし、当日、私が「何が何でも登山するのだ。魔に負けてなるものか」と決意し、また妻にも励まされて午前8時頃家を出たのです。

「総本山大石寺には、御法主上人猊下がおわします。何としても御目通りして、私の過去の過ちを謝罪しなくては」という思いと、御住職様の温かいお計らいで、御法主上人猊下の御目通りが許された様々な経緯があり、この千載一遇のチャンスを逃しては、私の一生に悔いを残すとの念が重なり、何か大きな力に突き動かされるように、私の身体も心も、総本山へ総本山へと動いていったのです。


遂に、その「瞬間」がやってきました。平成11年5月25日、午前11時。それは、まさしく私にとってかけがえのない、御目通りの「瞬間」だったのです。大奥の対面所にて、光久御住職様と私と妻の3人だけでの御目通りでした。

最初に猊下様は、私に「久しぶりですね」と、満面に笑みを浮かべながら、御言葉をかけてくださいました。実は、猊下様が宗門の教学部長の時、私も創価学会の教学部長として、様々な難題でお会いする機会が多かったのです。私はまず、その時の創価学会の窓口の一人として、数々の威圧的態度に出たことをお詫びしました。さらに、私が正信会に所属せざるを得なかった経緯と、猊下様の御相承否定に加担した私の罪を告白すると、猊下様は、まず私の立場は既にご存知で、「誰が悪い、彼が悪いということではありません。大きな時の流れであり、それ自体御仏智なのです。お互いに凡夫ですから、見えない部分もありましたね」と、もったいなくも私を責めるどころか、包容してくださるのでした。そして、「懺悔滅罪は戒壇の大御本尊様にしてください」と、御戒壇様への御目通りを許していただけたのです。

私が、「この2年間、大きな罰を受け、今も苦しんでいます」と申し上げると、「罪が早く出るというのは、それはいいことなのです。それより僧侶の罪は重いのです」と私の心を和らげてくださいました。また、私のかつて出版した一書『池田先生への手紙』を、平成4・5年の頃、読んでいてくださり、「あの本をもっと前に読んでおれば、私の池田大作に対する対応も異なっていました」と仰せられました。さらには「その頃、あなたに手紙を書いたのです。便箋で2枚でした。出そうと思いましたが、誰かに悪用されてはと思い直し、出しませんでしたが」と言われたときは、こんな私にも、ずっと心を注がれてくださったことに、ただ嬉し涙が込み上げてまいりました。

私は、もう何もご説明申し上げる必要のないことを知りました。その一言一言に、大慈大悲が顕れる御尊容に、私の心にわだかまっていたものは、一切、吹き飛んでしまいました。私の妻にも「妙縁寺での体験発表は、立派なものだったそうですね」と、御言葉をかけられ、私ども夫婦は、私の病気によって、本来の日蓮正宗の法華講員として、蘇生したことの喜びをかみしめたのです。また、「あなたは力のある人ですから、これから宗門にご奉公してください」とも仰せくださり、猊下様も、心の底から喜ばれておられるお姿に、これからは御報恩のために、私もがんばらなければならない、と決意したのです。

最後に、猊下様御自身、「私は生きている限り法のために、宗門を守っていきます。また、死んでも正しく法を守り、宗門を守り続けます」と、毅然として仰せられたことに、特に「死んでも」との力強い御言葉に、唯授一人・血脈付法の御法主上人猊下としての強い御決意を感じ取ったのです。

御住職様には、私の言い足りなかったことや、これまでの経緯、今後のことなどを含めて猊下様に申し上げていただき、この紙上をお借りして深く感謝の意を表します。


ようやく歩ける重い足どりでしたが、少し軽快になったような感じでした。御住職様の案内で新客殿、六壺の御本尊様に唱題し、いったん観行坊に戻り、午後1時半に御開扉をお受けすることができたのです。

思えば二十数年ぶり。かつては、もう一生に一度も御目通りできないと思いつつも、なおかつ渇仰恋慕の心止みがたく、いつの日にかと心待ちにしていた御戒壇様の御内拝…。その時の感動は、言葉では言い尽くせません。「今、私は、こうして戒壇の大御本尊様の前に座って合掌している」という、そのこと自体、不思議でなりませんでした。ひたすら、私の過去の謗法をお詫び申し上げ、懺悔滅罪を御祈念申し上げました。

帰山するに当たって、五重の塔の側にある、戸田城聖創価学会第二代会長の墓前に、猊下様にお詫びし、お許しいただけたこと、御戒壇様に懺悔滅罪の御祈念をしたこと、再出発を誓ったことなどをご報告いたしました。


振り返ってみれば、この2年有余、毎日、「死にたい」「死にたい」と思い続けてきた日々を回想してみると、「こんな私にもまだ使命はある。まったく新しい自分に生まれ変わるのだ」−こんな思いが、私の胸をよぎりました。

この日の私たち夫婦のために、わざわざ登山され、ずっと側にいて種々のご手配をくださり、さらには指導教師としての責任の上から、様々な御指導をしてくださった御住職様には、重ねて深く感謝申し上げます。

最後に、諸天の御加護による登山であったこと、私の生涯を飾る大きな意義のある一日だったこと、まだ紙面に言い尽くせない、というより、言葉にならない感動の一日であったことを記し、私の懺悔滅罪登山記とさせていただきます。

※この原稿は自得院支部の河野さんの御協力で転載しました。
※見出しは、便宜のため、妙音編集の方で付けさせていただきました。



体験発表 妙道寺支部 小椋増三 (於中部地方部総会)

『御住職のもと、唱題行で誓願達成』


 私は、妙道寺支部の小椋増三でございます。平成10年の妙道寺支部折伏目標達成までの、妙道寺支部講員の折伏奮戦記と、我家の折伏体験を、お話しさせていただきます。

 平成10年の1月から3月までは、客殿新築慶祝記念大法要・10万総登山に、支部挙げて参加者を募る家庭訪問をしていましたので、折伏成果は、低調の感がいなめませんでした。しかし我家では、年の初めに3月の客殿新築落慶大法要までには、必ず1世帯の折伏をやるのだという決意がありました。夫婦で夜話すことといえば、誰を折伏しようかということばかり、そんな会話が1月末まで続きました。

 ある日、次男の顕が学校から帰るなり、「森松君は、かわいそうなんだよ。学校で倒れてから、もうずっと学校を休んだままなんだ。母さん、森松君に御本尊様の話しをすれば。折伏だよね」と言いました。中学3年生の息子の言葉に、私達夫婦ははっとしました。息子から、森松君の家を教えてもらい、病気の状態、家庭のことなど聞きました。息子は、以前から森松君の家に出入りをしていたので、すぐに状況が判りました。

 数日後、御住職・高橋粛道御尊師に家内が御相談したところ、「すぐに折伏してきなさい。そんな無慈悲なことで、どうするのですか」と、厳しく御指導くださいました。家内は意を決して森松君宅へ出かけ、森松君の病気についてお母さんの話を聞いているうちに、何とか折伏しようと「一度、私たち家族が、いつも御相談している高橋御住職様から信心のお話を聞いてみませんか」とお話したところ、「行ってみる」とのお返事でした。家内は、それでは今からでもと、森松君とお母さんを車に乗せ、妙道寺事務所までお連れしたのです。

 森松君のお母さんは、御住職の折伏によって、「病気のことを考えたとき、医者も今は信頼できない。いくらいろいろな薬を使っても、だめ。この信心にかけてみる」と決意され、その場で入信されました。その日の夜、御本尊様を御下付いただき、夫婦で御本尊様を御安置することができました。

 また、3月の総本山大石寺の客殿新築慶祝記念大法要には、森松君親子をお連れして参詣させていただくことが叶いました。あとで判ったことですが、森松君のおじい様は、私が現在の仕事を始めた頃、仕事のイロハを教えてくださった方でした。折伏し正法に巡り値うためのお手伝いが叶うという深い縁と、御本尊様の御仏智を感ぜずにはおられません。また、今日まで森松君とお母さんは、毎月の御報恩御講など寺院の行事には、欠かさず参詣されています。今では「この信心をすれば、心が豊かになる」と、ご自分のご両親を折伏されています。


 さて、支部の折伏活動の話になりますが、1月から3月、4月と登山の啓蒙に追われ、5月は中だるみの状態が続きました。6月、7月は、夏期講習会に追われ、なかなか支部折伏目標70世帯達成の先が見えなくなりました。そんな時、御住職から緊急の指導会がありました。「平成8年・9年と年間折伏目標60世帯を達成はされたが、今年の70世帯ができなければ、明日の妙道寺支部はない。幹部である皆さんが、やる気を出して行動しなければ折伏の成果も人材育成もできない。やる気のない人は、今すぐこの場から出ていってもらいたい。やる気のある人だけで、今年の折伏目標を必ずやり切るんだ」と厳しい御指導をいただき、支部幹部全員やっと目が覚めました。

 9月は少しがんばり8世帯の折伏が成就しました。しかし、累計では47世帯。目標の70世帯には、あと23世帯もあります。10月の御会式までに目標完遂をと意気込んできましたが、なかなか結果の出ない日々が続きました。そんなある日、折伏協議会のあと、「あと残りをやれるかやれないかは、すべて長の一念ですよ」と御住職から、帰り際に言われた一言で、なんともやるせない気持ちのまま家にたどり着きました。そんな私の顔を見るなり家内から、またまたキツイ一言が浴びせられました。「お父さん、折伏推進部長が自分でやらなければ、誰も折伏なんてやらないよ。今年、もし折伏目標が達成できなければ、役職はお返しするのね。」何を言われても返す言葉はありませんでした。

 その日、私は心から深く反省し、御本尊様にお詫びしました。年の初めに、1日1時間、必ず御本尊様の前に座り唱題すると誓って、唱題はしていたものの、心から御本尊様の仏力・法力を信じる素直な心で唱題できていない自分を深く反省しました。

 10月に入って新しい、私と同年輩の若い講頭が誕生したことや、緊急の幹事会・地区長会・各部部長会などの会合のあと、支部内に変化が現れ、それを伝え聞いた講員さんの中から、1人2人と、折伏祈願のため、早朝勤行会・昼の唱題会・夜の勤行唱題会へと、参加する人が増えはじめました。

 親の病気入院がきっかけで入信し内得信仰をしていた壮年は、親族の協力により5ヶ月程毎日一緒に夜の勤行・唱題に参加してきた結果、奥さんの反対を堂々と押し切って御本尊様を御下付願いました。また、お寺に行きたくても、手のかかる老人を看ているため、お寺の唱題会に参詣できないご夫婦が、お寺の勤行の時間に合わせ、朝の7時と夜の7時に自宅で唱題を実践するという姿も出てきたのです。

 その結果、“今しかやる時はない”と心に決めた人たちから、折伏成就の喜びの声があがりはじめ、10月、11月の2ヶ月で10世帯の折伏が達成できたのです。9月の中頃には、「3年間折伏目標完遂してきた妙道寺も、今年は、今のやり方では、絶対無理だ」と言う人もいました。「そんな声を、出させてはいけない。石にかじりついても、絶対目標は達成させる」という気持ちが日に日に強くなっていきました。


 10月のある日、私は父親の呼び出しで実家に出かけました。実家の外でお客さんと話をしていると、いつもなら何も言わずに通り過ぎる近くの学会員のご婦人が、その日は立ち止まって私たちのほうを見ているのです。「こんにちは」と声を掛けると、そのご婦人は「マーチャンかね」と私に話しかけてきました。昔話をしていると、「マーチャンの母さんがいたとき、母さんに頼んで自分の連れ合いの御塔婆供養をしてもらっていたが、今はやれない。どうすればいいか」と言ってきたのです。これは、御本尊様のお計らいとしか考えられないことでした。支部の中が折伏唱題会の渦で動き出しつつあることの現証と確信しました。そのご婦人とは、11月の御報恩御講に、一緒にお寺へ行く約束をして別れました。そして11月の御報恩御講のあと、御住職のお許しを得て勧誡式をしていただきました。

 11月は、5世帯の折伏を達成し、残り13世帯となりましたが、今まで妙道寺支部として月に10世帯以上の折伏ができたことはありませんでした。誰も口には出しませんが“今年は、やっぱり無理かな”という空気になったとき、増子婦人部長が「残りは絶対やる。小椋さん、折伏ができるまでは、師走の家のことも、お正月も来ない。絶対やるからね」と言い、年末恒例のもちつき大会も中止となりました。9月の御住職からの幹部指導会以後毎日、お寺へ来て唱題し、家庭訪問・折伏に、明け暮れていた婦人部長にとって、このままで1年を終わることが、妙道寺支部にとって何を意味するか、肌身で感じておられたとおもいます。


 12月からは、御住職の導師のもと6時間唱題を始め、みんなで、必死に折伏成就の御祈念をいたしました。すると、今まで唱題会に参加していた人の中から一人・二人・三人と折伏の成果が出はじめ、それに触発されて目覚め、折伏に取り組むという姿が出てきました。妙道寺支部には、地区が11ありますが、12月20日には、増子婦人部長の担当する第11地区が、累計で13世帯という、支部最高の成果で、それに皆引っ張られる形で全地区が成果を出し、支部目標の折伏70世帯まで、残り1世帯というところまで来ていました。平成10年も残りあと10日となって、師走の冷たい風の吹く中、寒い雪の舞う中、信心篤き同志が、あと1世帯、1世帯の思いを持って、最後まで折伏に歩きました。

 私も家内と、「今日は1世帯あげるまで、粘りに粘る」と心に決め、2時間、5時間と唱題し、今まで折伏、下種した先を一軒ずつ回りました。そして、12月28日、最後の一軒で勧誡式を受けるという約束を取り付けて、お寺へ帰ったところ、増子婦人部長が「小椋さん、午前中に1世帯勧誡式できましたよ。平成10年度妙道寺支部折伏誓願目標70世帯を完遂しました」と、目を潤ませて教えてくださいました。70世帯完遂の報せは直ちに役員に流され、電話口で聞いた役員は、みんな泣き出しました。ついにやり抜いたのです。

 これも、御住職のもと講頭を先頭に一致団結し、全講員の篤き祈りと、必ずやり抜くという決意があってできたのです。その内訳は、折伏41世帯、分世帯7、学会員の折伏23世帯であります。

 「行学の二道をはげみ候べし。行学た(絶)へなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」(御書 668ページ)

 私たち妙道寺支部法華講員は、この度の体験を宝とし、御法主日顕上人猊下の、「1年に一人が一人の折伏を」との御命題を心に刻みつけ、平成14年・宗旨建立750年の30万総登山の大佳節に向かって、異体同心の姿で団結し、身口意の三業の具わった唱題を根本としてまいります。そして本年「出陣の年」の残る日々、全講員の皆様と共に、御住職の御指導を受けきって、闘ってまいります。

この原稿は昭倫寺支部の若山さんの御協力で転載しました。




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