大白法

平成12年1月16日号


主な記事

<1面>


<2〜5面>

<6〜8面>



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法華講連合会 初登山会


「折伏実行の年」の法華講連合会初登山会が、1月3・4日の二日間にわたり、2万6700余名が参加して賑々しく開催された。

いざ御開扉へ
3日は午前8時から、御法主日顕上人猊下大導師のもと客殿で行われている唱題行に、早朝に到着した登山者が参加させていただいた。唱題行終了後、御法主上人猊下より御言葉を賜った。午前9時半から、御法主上人猊下御目通りが行われ、法華講総講頭・柳沢委員長、大講頭・石毛副委員長、法華講連合会役員、地方部長、各支部講頭が参列した。ここで昨年二月に行われた第一回奉安堂建設御供養の目録が奉呈された。このあと、午前10時半より7回にわたり、奉安堂で大御本尊様の御内拝を戴いた。

日帰りの登山者順次下山の途につき、一泊者は、勤行・夕食の後、午後7時から広布坊で行われた全国座談会に参加した。座談会では初めに、関野神奈川地方部長、金子東京第二地方部長から、それぞれ発表があった。次いで大講頭・石毛副委員長より「全国異体同心で折伏誓願目標を勝ち取ろう」と題し、折伏に対する取り組みについて話があった。最後に、総講頭・柳沢委員長より挨拶があり、8時過ぎに座談会は終了した。

翌4日は、午前2時半からの丑寅勤行に参列した。明けて各宿坊での勤行・朝食の後、8時から客殿における唱題行に参加させていただいた。この日着山の登山者は、午前9時半より4回にわたり大御本尊様の御内拝を戴き、初登山会のすべての行事が終了した。



〇 奉安堂建立御供養を奉呈

平成12年度法華講連合会初登山会第1日目の1月3日、午前9時半より、大書院において行われた各講中講頭御目通り席上、全国よりの奉安堂建立御供養(第1回)の目録の御奉呈が行われた。

ここでは、法華講総講頭・柳沢委員長から、新春の御挨拶並びに初登山会の御報告を申し上げた後、奉安堂御供養目録を読み上げ、御法主日顕上人猊下に全国の真心からの御供養を奉った。

宗旨建立750年慶祝記念局委員会より、御婆の勧募について法華講連合会に一任され、昨年2月、第1回として取りまとめた奉安堂建設御供養は、総額33億182万5566円となった。なお、この御供養に対し、総本山より各人宛の受書が授与されることになっている。



〇 御法主上人猊下上人御言葉 初登山会御目通りの砌

ただいまは、法華講総講頭・柳沢喜惣次氏を代表として、法華講連合会役員ならびに全国寺院支部講頭各位の御参集のもとに、新年の御挨拶ならびに昨年度における奉安堂建設の御供養目録を奉呈いただきまして、まことに有り難うございました。

本年は「折伏実行の年」として出発をするのであります。本年こそ、宗旨建立750年の30万総登山を目標として進む上において最、も肝要な年と思うのであります。それは「出陣の年」を受けて本年があり、明年は、もはや、その次の年の宗旨建立750年を控えての「仕上げ」の年という意味になると思います。

したがって、その中間における本年こそは、法華講が最も充実し、発展をしながら宗旨建立750年に向かうべき年であると思います。


古来、中国等からの思想における五行の説、あるいは十丑、十二支等の思想の流れもありますが、大聖人様はその一切を妙法蓮華経の上に、そのなかの不可思議な用きとしてこれをお示しあそばされておるお心が拝せられるのであります。

いわゆる、「三世の諸仏の成道は、ねうしのをはりとらのきざみの成道なり」(御書1361)という御文は、まさしく一日を十二時に分けて、そのなかにおいて子丑の時、この子丑の時というのは陰の極まりの時期であります。そして寅に入ってそれが陽に変わっていく、その陰から陽への大きな変化というところに、一日のなかでの非常に重要な転機が存するのであり。それが修行覚道の上からも不可思議な時刻であると言われておるのであります。かの釈尊もまた、暁に明星のいずる時、大悟徹底し、悟りを開いたということが言われております。

大聖人様の御書にも、「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて云云」(同563)という、宗義の根幹をなす法華経本門の上の重要な悟りが拝せられる次第であります。これも、子丑の刻は凡夫の日蓮の死の終わり、寅の時刻は久遠元初の本仏の生の時であり、この御内証をもって佐渡の国へ至られたのであります。

そして、寅から卯、辰とまいりまして、この辰の時は朝の8時ごろで、日輪が赫々として東天に昇ってくる時であります。一日のうちで特に雄壮を極める時が、この辰の時と考えられるのであります。これは一日のなかの時刻でありますが、それが月においても、十二月、十二支があります。さらに、年においても十二年を一期として、十二支が回っておるという上から考えますと、おのずから本年、辰の年が、日蓮正宗が広布へ前進すべき「折伏実行の年」にはっきりと当たっておるということを、私は感じておるものであります。

今年こそ、辰が、あらゆるものを巻き込むような大きな勢いをもって目的に向かって進んでいくという、その勢いを我々が信心修行の上にはっきりと顕していくべき時であると感ずるのであります。その上からも、特に此処にお集まりの法華講役員の方々、また各支部の講頭各位こそ、この中心となって折伏、行動にはっきりとした形を表していかれることを心からお祈りする次第であります。


皆様の一人ひとりが、各講中を実行の上において、折伏を本当に示していくところの中心になる方々であります。このことを是非、心に刻んで、これからの講中を、融和のなかにもしっかりとした目的感を持ち、日々におけるところの正しい行動において、世法、仏法ともにしっかりとした、揺るぎない前進一を心から念願するものであります。

ぐずぐずした心、信心の忘れた心においては、世法においても正しい処置ができないのであります。この信心をしっかり持つところに、世法においても、一日のなかの短い時間のなかではっきりとした、効果のある正しい処理ができると私は確信しております。

しかるに、、世法においても、また仏法の上の折伏修行においても、自らがそのところにおいて実証し、体験し、そして多くの人に模範を示ざれていくということが、講頭等のお立場におけるところの非常に大事な所以であると思うのであります。

その意味において、本年度の皆様方のいよいよの御精進を心からお祈り申し上げまして、ひとこと挨拶とする次第でありあます。また、それぞれ御供養を有り難うございました。謹んでお受けいたします。



〇 御法主上人猊下上人御言葉 元旦勤行の砌

立宗748年新春、あけましておめでとうございます。御参詣の信徒御一同には遠くあるいは近くより、この元旦に当たりはるばる総本山に御参詣になり信行倍増をされることは、まことに有り難く存ずるものであります。ただいまは、本年最初の丑寅勤行において、仏祖三宝様への御報恩の御祈念、広宣流布の御祈念、そして参詣信徒皆様方の本年における一層の信行倍増、一切無障礙をお祈りいたしました。まことに御苦労さまに存じます。

各寺院において、新年を迎えるに当たり鐘を打ちますが、これは「除夜の鐘」と申します。かねて皆さんも御承知のとおり「除夜」とは夜を除くと書きますが、すなわち、前年の一切を除いて、新しい年を迎えるという意味で「除夜」と言うのです。これは前年における様々な罪障の元である百八煩悩を救うために、百八つの鐘を打つということになっております。

しかし、頬悩というものの考え方からいたしまして、日蓮正宗の百八煩悩の除夜の鐘と他門流の鐘とは、その意義において大いなる違いがあると思うのであります。百八というのは、一往、無慚、無愧悔、嫉等の十纏の迷いと、さらに身見・辺見、邪見、見取見、戒禁取見という思想的な迷いが三界にわたって存するので、これが八十八使となり、それに本能的な迷いが貪、瞋、癡、慢とありまして、それがやはり三界の上において十種、存するのであります。そこで、それを全部足して百八になるというのが、百八煩悩についての『大智度論』の説であ ります。そのほかにも、たくさんの百八に成ずる説がありますが、これが一往、代表的なものと思われます。

これは小乗仏教を中心として説いた煩悩であり、我々の正しい極大乗の教えからするならば、さらにそのそれぞれの煩悩のもっと奥に、本体としての無明の煩悩が存するということを、よく知らなければならないのであります。その本体とは、すなわち見惑、思惑等の奥に塵沙の惑があり、塵沙の煩悩のさらに奥に無明という煩悩が存するのであります。この無明の煩悩が、実は自分の命の全体に関する迷いであります。

しかし、それが極大乗の法華経の教えによるならば、この無明はそのまま法性、すなわち妙法蓮華経の体であるということが示されておるのであります。そこに法華経の無明即法性という、一切の迷いがことことく妙法の理において悟りの性質として存するのであり、その原理を正しく応用していくならば必ず、その身そのまま、当体において真の悟りと幸せが存するということが示されております。それが法華経の真実の教えであるということが考えられるのであります。

その上から考えるならば、我々は皆煩悩を持っており、それによって多くの社会の人々が悪事をなし、様々な悩みをもって不幸の底に沈んでおる姿が存するのであります。しかし、それが正しい煩悩即菩提ならびに無明即法性という道を知るならば、この妙法を正しく信行することにおいて必ず、そこに妙法の光が顕れてくるということが示されております。

特に、その具体的な道をはっきりとお示しくださったのが本仏日蓮大聖人様でありまして、御一生の御化導において三大秘法という尊い教えを示され、その上に我々がその本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉る唱題の行において必ず、無明即法性として一切の煩悩がそのまま浄化されるところの煩悩即菩提の道が開かれておるのであります。

しかし普段、煩悩が充満し、堕落の心のなかに生活をしておる人々は、たとえ信心に入っても、わずかな唱題で済ませたりあるいは朝晩の勤行を怠ったりするような形においては妙法の命を正しく開くことはできないのでありまして、自分が納得いくように、自分の信心の上において、しっかり命懸けで唱題するところに、おのずと尊い無明即法性の悟りが開かれてくることを確信しなければなりません。

また、それによって本当に充実した立派な境界を得た時多くの人々の苦悩にあえぐ姿を見れば、おのずとそれを正しい信仰に導こうとするところの、折伏という心と行動が必ず現れてくるのであります。

今、宗門は宗旨建立750年の佳節に向かって、僧俗一丸となって30万総登山の目標達成のために精進をしておりますが、その元はやはり本当に真剣な唱題によって自らの心を開き、また、他を導いていくところをはっきりと体験されていくことが、一人ひとりの信徒の方々において必要と感ずる次第であります。

その意味において、昨年の「出陣の年」、本年、そして来年と三カ年があり、その次はいよいよ立宗750年の佳節でありますが、この三カ年において本年は、目標達成のために最も大切な時期と思うのであります。故に、本年こそ大いに正法の護持興隆に前進をすべき、また、しなければならない所以が存すると確信するものであります。

さて、皆様も御承知のように、一昨年より正本堂の解体が始まりまして、昨年の5月乃至、6月においてことごとく解体が終了いたし、きれいな広場に変わりました。そして、いよいよ本年より、奉安堂が建立されるという運びに相なっておるのであります。

この正本堂を解体したということについては、色々と疑問のある方もあるかと思いますが、一昨年の客殿の落慶大法要の最後の時に、私がほぼ、その理由を申し上げてあります。

すなわち、一時、宗門の信徒として正法護持興隆に功績があったかと思われるところの創価学会の在り方のなかで、特に過去から現在において、第三代の会長としておった池田大作という大謗法者の誤った見解が、種々の形ではっきりと現れてきたのであります。

そのようなところから、この正本堂の存在が謗法の固まりと言ってもいいような意味に変わってきたのであります。したがって、清浄なる本門戒壇の大御本尊様御安置の場所としてふさわしくないということを私は確信いたしまして、この客殿落慶の時をもって直ちに御戒壇様を現在の奉安殿にお移し奉りました。

そして、そのあと無用の長物となった正本堂については、もはや存在の価値がありませんし、そのまま置いても朽ちるばかりでありますから、思い切ってきちんと取り払ったのであります。そして、新しく御戒壇様を荘厳し奉るところの立派な堂宇を、僧俗一致の広宣流布に向かう信心修行と供養の精神において建立すべきであるということを考えておるのであります。

また、それについて皆さんにお諮り申し上げましたところ、僧侶の方々、信徒の代表の方々の大いなる賛同を得まして、昨年から本年、また来年において、奉安堂の建立の御供養を募り、皆様方の真心の御供義によるところの立派な、清浄な、また、大きな堂宇を造って、未来における広宣流布の発足の起点として考えていきたいと思うのであります。

池田大作は、正本堂の着工大法要において、『三大秘法抄』の文を引いて、もったいなくも、正本堂が『三大秘法抄』に示されるところの戒壇であるということを、はっきりと申しました。これは大聖人様の広大無辺な日本乃至、世界の一切衆生、人類救済の目標としての広宣流布戒壇建立の意義を、自分の我意、我見、我欲の見解をもって、まことに小さく貶めた考え方であります。

のみならず、池田大作はさらにその前においても、会長就任ののちでありましたが、「戒壇建立ということは形式の形式であり、従の従の問題である」というような狂った見解を申しました。まさに大聖人様の御一期の一切の御化導を括られた本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇という三大秘法、そのなかでも特に戒壇に対する唯一の正しい御指南をいかに貶め、軽んじていたかということが実に明らかであります。

これらの謗法を一切捨て、振り払って、私どもの建立する奉安堂は、大聖人様の『三大秘法抄』の尊い戒壇建立の御指南、すなわち御本仏の無窮の大慈大悲による広布への実現に向かって、これからー歩一歩、僧俗が共に和合して進んでいく、その護法の志をもって建立するところのものであるということを、ここに申し上げたいのであります。

その意味において、皆様方も一紙半銭でも、この奉安堂の建立ということの意義を深く弁えられて、無理のない形において、できる限りの御報恩の御供養をされまして、皆様と共に立派な奉安堂を建立していきたいことを心より念願するものであります。

それがまた、一人ひとりの心のなかに巣食う貪欲、瞋恚、愚癡、特に貪りの心をもって、わずかな金銭も、自分のためには使っても仏法のためには惜しむという誤った貪りの心を打ち破りながら、本当に清浄な信心の行業をもって成仏の境界を得ていくところに仏法の修行の非常に大切な所以が、この奉安堂建立に存することを申し上げる次第であります。

どうぞ本年もまた、皆様方にはいよいよ信心に住せられまして、宗旨建立750年に向かっての着実な信行の歩みと、御精進をなさることを心よりお祈り申し上げまして 一言、新年の言葉とする次第であります。おめでとうございました。


この原稿は平安寺支部の河原さんのご協力で転載いたしました。


〇 御法主上人猊下上人御言葉 唱題行の砌(1月3日)

 皆さん、おはようございます。また、新年おめでとうございます。本年宗旨建立750年に向かい、僧俗一致して信行倍増し、30万総登山の達成を目標に精進してまいりたいと思います。その意味において、総本山において1月の、31日間の午前8時乃至、9時より1時間の唱題行を執り行う次第であります。しかるところ、本日は初登山の信徒の方々が多く参拝せられまして、共に唱題行に励むことができましたことを、大変うれしく思う次第であります。

 大聖人様の、「今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(御書1594頁) という、皆さんも御承知の有名な御文があります。この自行の題目というのは、いわゆる唱題行であると思います。また、化他行の題目はすなわち折伏であります。この両面がそろって末法の修行が正しく具わるものと信ずるのであります。

 今、宗門は三十万総登山の参詣達成に向けて大いに折伏に邁進をしておりますが、その元は唱題行によるところの自行の成就にあると思うのであります。いわゆる、「然るに法華経と申す御経は身心の諸病の良薬なり」(御書1222頁)という御文の如く、我々の生活は身体と心において存しております。身は心の従ということも言われておりますが、結局、身体の様々な状態は心が元となって色々に起こってきております。すなわち、罪障によって心に様々な誤りが生じておるところには、身体のほうにも必ず色々な影響が及んでくるということがあります。したがって、身心ともに壮健になるためには、正法を正しく信じて修行に邁進をすることが大切であります。

 心の状態は、それぞれの人の過去からの因縁によって様々な姿があると思います。ある人は、その人によるところの特別な癖があり、その方向において、六道の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界等のなかに終始しておるようなこともあるのです。その我々の心が、唱題をすることによって、御本尊様の人法一箇の尊い仏界の御境界と一体になることができるのであります。ですから、常に散乱し、様々な迷いのなかに遊離しておるところの我々の心が、しっかり御本尊様の御当体、悟りの御境界に一致するように唱題する必要があると思います。

 その意味において、一時間の唱題は多い場合もあるし少ない場合もありますが、ともかくしっかり唱題していくところに、我々の信心がいつの間にか御本尊様に到達し、しっかりした功徳が我々の心のなかに充実してくるということが必ず存するのであります。そして御本尊様の虚空不動定というところの、法界全体を悟られた真の定の境界に、我々がいつの間にか一致させていただくのであります。

 すなわち、一切の煩悩、色々な心の散乱の状態が、御本尊様と一つになっていくところに、我々が知ると知らざるとにかかわらず、定の功徳を得て、おのずと心の病が癒えていくのであります。そして、心の病の癒えるところから、さらに修行によって身体が充実してまいります。背骨をピシッとしっかり伸ばして、顔を御本尊に向けてしっかり拝し、お題目を唱えるという、この身体の状態が、様々な病を起こすところの状況から必ず救ってくださるということが存すると、私は確信しております。

 いわゆる唱題行こそ、身心の病の良薬であり、その境界をしっかり掴むことが大切であります。そして、今度は世の中の人々を見ると、そこには色々な面での謗法罪障、あるいは邪宗教その他のところから様々な心の病、身体の病にかかっておる人が非常に多いのであります。その人々をなんとか正しく救っていこうというところに、化他行である折伏の振る舞いが表れてまいります。

 本年も皆様には、いよいよ信行倍増し、充実した身心をもって、大聖人様の御指南の如く一人ひとりがしっかりとしたところの自行化他に御精進せられることを、心からお祈りする次第であります。本日はまことに御苦労さまでございました。

この原稿は加藤清二さんのご協力で転載いたしました。


体験発表 開徳寺支部 堀口勝美


数年前の開徳寺支部総会において、まだ青年部に所属していた私は折伏の体験発表をさせていただいたことがあります。その時の方を内得信仰のまま退転させてしまい、長い間大変申し訳なく思っておりました。もしこのまま一生一人も折伏できずに終わってしまえば、自らの宿命転換も叶わず、御報恩にもなりません。そこで、とにかく唱題を根本に真剣に御祈念することにしました。

だいぶ前の「大白法」に、一生に一億遍の唱題を目指す年配の壮年の方が、8500万遍くらいになった頃にガンに冒され、それでもひたすら唱題し、とうとう手術をすることもなく体内からガンが消えたという体験発表が載っていました。これを読んで、私も一億遍唱題を目標にしようと、ざっと計算しましたら1日約2時間強で50年になりました。50年後は85歳なので何とかなると、早速始めることにしました。ちょうど、平成6年の年頭の100日間、2時間唱題行をやり切り、さらに100日間延長することができた後だったので、自信を持って取り組むことができました。

平成7年、8年、9年と順調にいったかのように見えたのですが、平成9年の4月より、今住んでいる団地の自治会長になってしまい、団地内、町内会などのやりとりで大変忙しくなり、とうとう2時間の唱題行は半分の1時間になってしまいました。おかしなもので自治会長の任期は1年ですから平成10年の4月からはまた2時間の唱題行をすればよいのですが、今でも1時間がやっとです。今生では5000万遍でいいかな、などと思ってしまったのです。もともと唱題をいっぱいすれば折伏がぽこっとできるくらいに軽く考えていたのです。しかし平成10年の10万総登山を半年後に控えた頃から、何とか折伏した人と一緒に登山したいという気持が強まり、半分になった1時間唱題ではそのことばかり御祈念していました。

前御住職の中村御尊師より、「堀口さんもそろそろ青年部を卒業するころですね」と言われていたので、「では3人くらい女子部を置き土産として折伏させていただきますね」などと冗談まじりに言っていましたら、平成9年の12月に学会員である友人の大野さんの3人の娘さんたちに勧誡式を受けさせることができ、あっというまに青年部を卒業することになりました。そして断固として学会を脱会しない大野さんを、これからこの子たちと一緒に折伏できると心強く思ったものです。

しかし長女の早緒里さんは思うように信心につけず、今では全くお寺に参詣することはありません。その妹で双子の尊子さんと敬子さんは、1年も経たずに本山任務の整理班に着任し、母親の『ニセ本尊』を母親の了解を得てお寺に納め、勧誡1年後にやっと正宗の御本尊様を自宅に御安置し、今年の春には大変立派な御厨子を購入するなど、素直で正直な信心を貫いています。「10万総登山には何としても折伏した方を連れて登山をしたい。その後もきちんと組織につき、共に活動ができますように」との、すがる思いであげた唱題が、結果として表れたことを今になって実感することができます。


さて「出陣の年」を迎えた今年の4月、講中活動日に、副班長の飯塚さんと、友人Tさんの家へ行きました。この方は元法華講員で、よその支部に所属していたのですが、すっかり退転し御本尊様も御返納し、その後、霊波の光に入信して2年以上が経過していました。それまでも何回か訪問をしていましたが、高級車を乗り回し、仕事も順調だと言うのですが、何だか正気とは思えない目つきでした。でもこの日はちょっと違っていました。疲れた様子で深いため息をつき、その頃の現状を語ってくれました。Tさんは何年も前に離婚して、娘さんと2人暮しです。近所に住むTさんのご両親が娘さんの世話などをされていました。

今年に入ってTさんは突然アキレス腱を切り、手術のため入院しました。退院し、家に戻ってみると、何とTさんのご両親は行方不明になっていました。娘さんは、Tさんの母親によって施設に預けられていました。Tさんは娘さんを施設から出そうとしましたが、たとえ実の父親であっても、預けた本人でないため簡単には出してもらえませんでした。ふてくされたTさんは、飲みに行った店で顔見知りのやくざと兄弟の杯とやらを交わしてしまい、運転手などの使い走りをやっているというのです。どこかへ行ってしまったご両親は、多額の借金を残しており、その取り立てがTさんの家に来る始末です。昔から信心を怠けるとすぐに現証が現れるTさんには、数年にわたって邪宗を信仰した罰がこんな形で現れたのです。

飯塚副班長が「もう、きちんと信心していくしかないでしょう。さあお寺に行こう」と言うと、その気になってくれて、早速開徳寺へお連れし、勧誡式を受けることができました。以前所属していたお寺の御本尊様におわびの題目を唱えてくるよう御指導がありましたので、帰りに寄らせていただきました。

しかし、その時はその気になって勧誡式は受けたものの、Tさんは、謗法払いもできず、お寺にも参詣しないという状態になりました。唱題行中のお寺から、御題目の声が聞こえるように電話をしてみても、理由をつけて断わられるということが続き、少しうんざりしてしまいました。でも10時間唱題の日、お寺の御本尊様に、「彼はあのように苦しんでいるのに、なぜここに来ることができないのでしょう。私は折伏成果がほしいわけではありません。必ず道が開けるのに、きっと幸せになれるのに、だからきちんと信心してほしいのに。どうしたら判ってもらえるのですか」と泣きながら唱題をしていました。


すると、それから1ヶ月後の朝早く、Tさんから電話があり「話を聞いてほしい」というのです。内心、お金でも貸してくれというのではないかと思いましたが、とにかく会って話をすることにしました。  会ってみると、勧誡を受けたときよりも状況は悪くなっていて、助けてほしいと言うことでした。私は翌日、月例登山に行くことになっていましたので、Tさんも登山するよう誘い、すぐにお寺に連れて行き、御住職にお願いしましたら、前日の申し込みにもかかわらずTさんも添書で登山できるようになりました。

翌朝、一緒に登山し、御開扉を戴きました。御開扉後はTさんの顔が、みるみるうちに晴ればれとした顔に変わっていき、周りの方々もびっくりしていました。下山後、夜遅くまでかかって一緒に謗法払いをすることができました。

以後、御経日、御講、座談会等に参加していった結果、娘さんを施設から引き取ってまた親子で暮らせるようになり、いろいろと道も開けていきました。Tさんの家からお寺までは、電車とバスを乗り継いで1時間以上かかります。その上アキレス腱を切っているため医者からはあまり歩かないように言われているのですが、本当にがんばっています。本人も当分は無理とあきらめていた御本尊様を、10月の末に再び御下付戴き、とても喜んでおります。

大人の都合で様々な辛い目にあった娘さんも、以前のような寂しそうな表情が消えつつあります。また、何回か隣で勤行をしていて気がついたのですが、Tさんがきちんと勤行を教えているらしく、日増しに上手に御経が読めるようになっています。11月の支部総登山には1泊で参加し、少年部、青年部の友達がたくさんでき、お寺に参詣するのを楽しみにしている様子です。

来年の「折伏実行の年」の8月には私は入信丸10年を迎えます。また原点に戻るべく、心していこうと思います。(編集部注 友人の大野さんは、昨年12月23日に勧誡式を受けられました)

この原稿は昭倫寺支部の若山さんのご協力で転載いたしました。



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