<2〜5面>
<6〜8面>
日帰りの登山者順次下山の途につき、一泊者は、勤行・夕食の後、午後7時から広布坊で行われた全国座談会に参加した。座談会では初めに、関野神奈川地方部長、金子東京第二地方部長から、それぞれ発表があった。次いで大講頭・石毛副委員長より「全国異体同心で折伏誓願目標を勝ち取ろう」と題し、折伏に対する取り組みについて話があった。最後に、総講頭・柳沢委員長より挨拶があり、8時過ぎに座談会は終了した。
翌4日は、午前2時半からの丑寅勤行に参列した。明けて各宿坊での勤行・朝食の後、8時から客殿における唱題行に参加させていただいた。この日着山の登山者は、午前9時半より4回にわたり大御本尊様の御内拝を戴き、初登山会のすべての行事が終了した。
平成12年度法華講連合会初登山会第1日目の1月3日、午前9時半より、大書院において行われた各講中講頭御目通り席上、全国よりの奉安堂建立御供養(第1回)の目録の御奉呈が行われた。
ここでは、法華講総講頭・柳沢委員長から、新春の御挨拶並びに初登山会の御報告を申し上げた後、奉安堂御供養目録を読み上げ、御法主日顕上人猊下に全国の真心からの御供養を奉った。
だいぶ前の「大白法」に、一生に一億遍の唱題を目指す年配の壮年の方が、8500万遍くらいになった頃にガンに冒され、それでもひたすら唱題し、とうとう手術をすることもなく体内からガンが消えたという体験発表が載っていました。これを読んで、私も一億遍唱題を目標にしようと、ざっと計算しましたら1日約2時間強で50年になりました。50年後は85歳なので何とかなると、早速始めることにしました。ちょうど、平成6年の年頭の100日間、2時間唱題行をやり切り、さらに100日間延長することができた後だったので、自信を持って取り組むことができました。
平成7年、8年、9年と順調にいったかのように見えたのですが、平成9年の4月より、今住んでいる団地の自治会長になってしまい、団地内、町内会などのやりとりで大変忙しくなり、とうとう2時間の唱題行は半分の1時間になってしまいました。おかしなもので自治会長の任期は1年ですから平成10年の4月からはまた2時間の唱題行をすればよいのですが、今でも1時間がやっとです。今生では5000万遍でいいかな、などと思ってしまったのです。もともと唱題をいっぱいすれば折伏がぽこっとできるくらいに軽く考えていたのです。しかし平成10年の10万総登山を半年後に控えた頃から、何とか折伏した人と一緒に登山したいという気持が強まり、半分になった1時間唱題ではそのことばかり御祈念していました。
前御住職の中村御尊師より、「堀口さんもそろそろ青年部を卒業するころですね」と言われていたので、「では3人くらい女子部を置き土産として折伏させていただきますね」などと冗談まじりに言っていましたら、平成9年の12月に学会員である友人の大野さんの3人の娘さんたちに勧誡式を受けさせることができ、あっというまに青年部を卒業することになりました。そして断固として学会を脱会しない大野さんを、これからこの子たちと一緒に折伏できると心強く思ったものです。
しかし長女の早緒里さんは思うように信心につけず、今では全くお寺に参詣することはありません。その妹で双子の尊子さんと敬子さんは、1年も経たずに本山任務の整理班に着任し、母親の『ニセ本尊』を母親の了解を得てお寺に納め、勧誡1年後にやっと正宗の御本尊様を自宅に御安置し、今年の春には大変立派な御厨子を購入するなど、素直で正直な信心を貫いています。「10万総登山には何としても折伏した方を連れて登山をしたい。その後もきちんと組織につき、共に活動ができますように」との、すがる思いであげた唱題が、結果として表れたことを今になって実感することができます。
今年に入ってTさんは突然アキレス腱を切り、手術のため入院しました。退院し、家に戻ってみると、何とTさんのご両親は行方不明になっていました。娘さんは、Tさんの母親によって施設に預けられていました。Tさんは娘さんを施設から出そうとしましたが、たとえ実の父親であっても、預けた本人でないため簡単には出してもらえませんでした。ふてくされたTさんは、飲みに行った店で顔見知りのやくざと兄弟の杯とやらを交わしてしまい、運転手などの使い走りをやっているというのです。どこかへ行ってしまったご両親は、多額の借金を残しており、その取り立てがTさんの家に来る始末です。昔から信心を怠けるとすぐに現証が現れるTさんには、数年にわたって邪宗を信仰した罰がこんな形で現れたのです。
飯塚副班長が「もう、きちんと信心していくしかないでしょう。さあお寺に行こう」と言うと、その気になってくれて、早速開徳寺へお連れし、勧誡式を受けることができました。以前所属していたお寺の御本尊様におわびの題目を唱えてくるよう御指導がありましたので、帰りに寄らせていただきました。
しかし、その時はその気になって勧誡式は受けたものの、Tさんは、謗法払いもできず、お寺にも参詣しないという状態になりました。唱題行中のお寺から、御題目の声が聞こえるように電話をしてみても、理由をつけて断わられるということが続き、少しうんざりしてしまいました。でも10時間唱題の日、お寺の御本尊様に、「彼はあのように苦しんでいるのに、なぜここに来ることができないのでしょう。私は折伏成果がほしいわけではありません。必ず道が開けるのに、きっと幸せになれるのに、だからきちんと信心してほしいのに。どうしたら判ってもらえるのですか」と泣きながら唱題をしていました。
翌朝、一緒に登山し、御開扉を戴きました。御開扉後はTさんの顔が、みるみるうちに晴ればれとした顔に変わっていき、周りの方々もびっくりしていました。下山後、夜遅くまでかかって一緒に謗法払いをすることができました。
以後、御経日、御講、座談会等に参加していった結果、娘さんを施設から引き取ってまた親子で暮らせるようになり、いろいろと道も開けていきました。Tさんの家からお寺までは、電車とバスを乗り継いで1時間以上かかります。その上アキレス腱を切っているため医者からはあまり歩かないように言われているのですが、本当にがんばっています。本人も当分は無理とあきらめていた御本尊様を、10月の末に再び御下付戴き、とても喜んでおります。
大人の都合で様々な辛い目にあった娘さんも、以前のような寂しそうな表情が消えつつあります。また、何回か隣で勤行をしていて気がついたのですが、Tさんがきちんと勤行を教えているらしく、日増しに上手に御経が読めるようになっています。11月の支部総登山には1泊で参加し、少年部、青年部の友達がたくさんでき、お寺に参詣するのを楽しみにしている様子です。
来年の「折伏実行の年」の8月には私は入信丸10年を迎えます。また原点に戻るべく、心していこうと思います。(編集部注 友人の大野さんは、昨年12月23日に勧誡式を受けられました)
この原稿は昭倫寺支部の若山さんのご協力で転載いたしました。
「折伏実行の年」の法華講連合会初登山会が、1月3・4日の二日間にわたり、2万6700余名が参加して賑々しく開催された。
〇 奉安堂建立御供養を奉呈
数年前の開徳寺支部総会において、まだ青年部に所属していた私は折伏の体験発表をさせていただいたことがあります。その時の方を内得信仰のまま退転させてしまい、長い間大変申し訳なく思っておりました。もしこのまま一生一人も折伏できずに終わってしまえば、自らの宿命転換も叶わず、御報恩にもなりません。そこで、とにかく唱題を根本に真剣に御祈念することにしました。
さて「出陣の年」を迎えた今年の4月、講中活動日に、副班長の飯塚さんと、友人Tさんの家へ行きました。この方は元法華講員で、よその支部に所属していたのですが、すっかり退転し御本尊様も御返納し、その後、霊波の光に入信して2年以上が経過していました。それまでも何回か訪問をしていましたが、高級車を乗り回し、仕事も順調だと言うのですが、何だか正気とは思えない目つきでした。でもこの日はちょっと違っていました。疲れた様子で深いため息をつき、その頃の現状を語ってくれました。Tさんは何年も前に離婚して、娘さんと2人暮しです。近所に住むTさんのご両親が娘さんの世話などをされていました。
すると、それから1ヶ月後の朝早く、Tさんから電話があり「話を聞いてほしい」というのです。内心、お金でも貸してくれというのではないかと思いましたが、とにかく会って話をすることにしました。
会ってみると、勧誡を受けたときよりも状況は悪くなっていて、助けてほしいと言うことでした。私は翌日、月例登山に行くことになっていましたので、Tさんも登山するよう誘い、すぐにお寺に連れて行き、御住職にお願いしましたら、前日の申し込みにもかかわらずTさんも添書で登山できるようになりました。