☆☆ 全国青年部大会より ☆☆
<5〜8面>
各宿坊での勤行・夕食の後、午後7時から全国座談会が広布坊で行われた。座談会は、「地涌讃徳」を合唱した後、四国・中九州・福岡・北陸の各地方部草部長が、明日の大会を目指して困難を乗り越えてきた活動について発表した。次いで井手青年部長が立ち、登山申し込みが15,000名を上回ったことを御目通りのときに御法主上人猊下が大変お喜びくださったことを伝え、全員で明日の大会に向けて勝ち関をあげた。最後に総講頭・柳沢委員長より挨拶があり、「広布に生きる」を合唱して、8時過ぎに終了した。
翌23日は、午前2時半からの丑寅勤行に参列。明けて各宿坊で勤行を行い朝食をとった。また、前日の午後から深夜・早朝にかけて着山した登山者は、午前7時半・8時20分・9時10分の御開扉に臨んだ。8時半、広布の広場の入場が開始され、最前列から次々と着席した。また、総一坊、総二坊での参加者は、テレビ放映を見ながら大会に参加した。9時半、全国から代表5名の支部青年部長が登壇し、今回に向けての支部活動を報告すると共に、法華講30万総登山の達成を目指しての代表決意を述べた。
ブラスバンドの演奏の中、連合会役員並びに各地方部長・各地方部青年部長がステージ上に着席した。続いて満場の拍手の中、御尊能化、御尊師方が御入場された。10時半、会場の全僧俗がお待ち申し上げる中、御法主上人猊下が御到着あそばされ、総講頭・柳沢委員長の先導で御法主上人猊下、御登壇、御着席、全国青年部大会の開会が高らかに宣言された。
「地涌讃徳」の合唱に続き、体験発表に移った。蓮成坊支部・西岡悟さんは、家族、友人、職場での折伏の体験を通して深めた御本尊様への確信を語った。次いで誠諦寺支部・荒木大樹さんは、御住職の御指導の中で励む折伏成就と、支部・地方部・輸送班での活動にふれ、生涯を僧俗一致の信心に賭けることを誓った。井手青年部長は、「立て全国の青年部、いざ広宣流布へ」と題して、御指南のまま正直に信行に励み、支部挙げての大折伏戦を展開し、不惜身命の精進をする時であると訴え、また奉安堂建立に際し、悔いのない御供養を呼びかけた。
ここで御法主上人猊下より御言葉を賜った。その中で御法主上人猊下は、大聖人様の一心一念が法界にあまねく充満する境界を示された。御本尊を我々は無二の信心をもって拝すべきであり、真剣に題目を唱え、我が一心一念もまた御本尊と境智冥合の大利益を賜り、法界にあまねく充満する心なりと信ずることが即身成仏の直道であると御指南あそばされた。さらに、周りの人々へ正法正義の信仰を語り伝えることが大切であり、本日参集の一人ひとりが一年に必ず一人以上の折伏を成就して仏恩報謝に供え奉り、青年の大活力で広布の先駆を切っていくよう望まれた。
最後に柳沢委員長より、若き地涌の友15,000名が御法主上人猊下の御もとに集う今大会は、30万総登山運営の結団式の感を深くすすると話し、これまでの不備をはらむ西洋哲理による価値観が崩れ始めている今、正法による国造りが急がれるのであり、そこに自覚し、折伏も勉強も仕事も精進していただきたいと挨拶があり、全員で「広布に生きる」を合唱して大会は終了した。
このあと、一泊登山者および午前の御開扉を戴いた登山者は順次下山を開始。また、午後も3回に分かれて御開扉が行われて下山となり、全国の青年部員は歓喜の中、決意も新たに帰途についた。
本日は、法華講連合会全国青年部大会が、本仏日蓮大聖人の御法魂、厳然としておわします総本山大石寺において、青年部信徒15,000余名の大結集により、かくも盛大に開かれましたことを心からお祝いいたします。皆さん、おめでとうございます。
この法華講連合会の全国青年の大結集は今回が初めての壮挙でありますが、これは取りも直さず、日蓮正宗法華講が「折伏実行の年」たる本年において、いよいよ本格的な大前進の態勢を整えたことを示すものであり、お集まりの精鋭青年男女一人ひとりの信心にさらなる歓喜と躍動をもたらすところの、まことに意義深い大会であると確信するものであります。
そして、これはまた「僧俗一致、広布に生きる」との、あの力強い歌の詞(ことば)のとおり、御本仏大聖人様の御在世の如く正法正義を受け継ぐ僧侶と、皆様方清浄な在家の信徒が心を一にして大法護持興隆に精進する理想的な仏法弘通のなかにおいて、その中核たるべき姿であり、心より喜びを禁じえないのであります。
皆様のその一念の心は無限の時間と空間のすべてを具えております。すなわち、一念とは瞬間、瞬間の心であり、それが無限の過去を送り、未来を生ずるのであります。それをうっかりしていると、年を取ってから自分はなんのために今まで生きてきたのだろうという悔い多き一生、酒に酔ったように目的もなく生きてきて、さながら夢のように、甲斐(かい)なく死んでいくことになり、かかる命の姿はあまりにわびしく、死後の未来へ向かう暗く不幸な出発ではありませんか。
これについては、既に正しい理解と信念を持たれているとは存じますが、この機会に、より崩れざる確信をもって、皆様一人ひとりが尊い命の花を見事に咲かせながら、正しい目的を持ち、喜びに満ちた輝かしい人生を勝ち取っていかれることを心から願うものであります。
特に、本日お集まりの青年男女皆様にとっても、種々の欲望があることは当然でありますが、その欲(ほっ)するものを求めようとしても得ることができないという求不得苦は、この世に生きるすべての衆生にとって避けられない苦しみであります。さらには、青年にとって最も切実な苦しみに五陰盛苦があります。これは、我々の命が色心の二法、すなわち心と肉体における外界との接触によって起こる思考と行動でありますが、その心と肉体のあらゆる欲求が年とともに盛んになり、火のように燃え上がることにおいて感ずる様々の苦悩であります。
現代の人々の多くは苦しみながら、このような苦に対する客観的認識がほとんどなく、その苦の解決のために、さらに苦を増長しております。これは、物質文明の特質たる物欲にのみ幸福の内容がある如く誤る結果であるとともに、自我におけるエゴイズム、すなわち自己中心の心から来る執着であり、通常の観念でかかる諸苦の正しい解決は全く不可能であります。このところより思想の濁り、感情の濁り、また生命の濁り、それらの交互の影響による社会的、国家的な腐敗・堕落等、様々な悪事・悪徳が発生しております。
釈尊は当時の民衆に対し、その大昔よりの導きの因縁により、一代五十年の説法をもって人間の煩悩の様々の在り方を細かく分け、有(う)に執着する者には空の真理を、空(くう)に執着する者には仮(け)の真理を、但なる中道にのみ執着する者には円融の中道を説き、最後に仏の出現の姿にのみ執着する者に、仏の永遠の生命を本門寿量品に説き明かし、もって、その本源の我即法界の妙法の悟りに入らしめられたのであります。
しかし、末法現代の民衆には、かかる釈尊の教法が既に全く役立たないことは、釈尊自ら「白法隠没(びゃくほうおんもつ)」と言われていることで明らかであります。故に、宗祖大聖人様は『上野殿御返事』に、「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし」(同 1219ページ)と断ぜられました。この妙法を、久遠元初自受用身という根本の仏様の再誕として出現せられた大聖人様は、末法の衆生を導く三大秘法の随一たる本門の本尊として顕し給うたのであります。
すなわち、大聖人様が仏法の正法正義の本源に立って、その仏法の本質を曲げ、民衆国家に害毒を流す謗法の諸宗を折伏あそばされたのに対し、法華経に明らかな予言としての三類の強敵(ごうてき)が現れて、あらゆる悪口罵詈(あっくめり)・刀杖瓦石(とうじょうがしゃく)・流罪等の大難が起こりました。そして最後に、国家権力をもって大聖人を亡きものにせんとの迫害が、かの文永8年9月12日の竜の口の頸(くび)の座の大難であります。これは不思議な光り物の出現により、御頸を切らんとした太刀(たち)取りは眼くらんで倒れ、ついに大聖人殺害を果たせなかったのであります。これすなわち、一身一念即法界と開かれた久遠本仏の大威霊の実証・現証であります。
これより鎌倉幕府は大聖人を佐渡に移し奉ったのでありますが、この時期以来、大聖人の御化導に大きな変化がありました。それは、末法法華経の行者たる大聖人が衆生に主師親三徳を具え給う仏であることを顕された『開目抄』、ならびに末法に地涌・上行菩薩の出現と妙法大漫荼羅本尊の建立を示された『観心本尊抄』が著述されるとともに、妙法大漫荼羅御本尊の顕示が始められたことであります。この御本尊の体相は、佐渡の流刑の地を離れて身延に入られ、寿量品を身に当てて読まれた大功徳に伴う戒定慧の具足と三大秘法の整足をもって、本門戒壇の大御本尊として人即法・法即人、人法一箇の尊容を顕し給うたのであります。
要するに、仏道の根本的な悟りとは何か。それは一心即法界と開く悟りであります。そこには、他に肩をならべるなにものもない大人格が存するのであります。故に妙楽大師は「成道の時此の本理に称(かな)ひて一身一念法界に遍(あまね)し」(同 106ページ)と喝破しております。
また、大聖人様は、「所詮一心法界の旨を説き顕はすを妙法と名づく」(同 45ページ)と仰せられ、さらに『御義口伝』に寿量品自我偈の文について、「法界を自身と開き、法界自受用身なれば自我偈に非(あら)ずと云ふ事無し。自(ほしいままに)受(うけ)用(もちいる)身(み)とは一念三千なり」(同 1772ページ)と、本仏究竟の悟りを御指南であります。御本尊の当体としてこのところを如実に拝するのが、我ら信心の究竟のところであり、したがって、これから申し述べることこそ、皆さんの信心生活にとって大切なことと信ずるのであります。
なかなかに信じ難いことですが、人々の一人ひとりの命、その一念には本来、法界に遍満する自由自在な妙法の性(しょう)を備えております。ただし無始以来、無明という煩悩に弊(おお)われて、この悟りを全く知らず、低い境界に迷っているのです。故に、無二に御本尊を信じ奉り、一心一念即宇宙法界と開かれた大聖人様の御法魂に対し奉り、真剣に題目を唱え、我が一心一念もまた、御本尊と境智冥合の大利益を蒙(こうむ)り、法界に遍満する広大な心なり、と信ずることが即身成仏の直道であります。
もちろん、御本尊を信ずる一念にこの境界はすべて含まれておりますから、この広大無辺な心を意識的に持たなければならないということではありません。生活上の種々の目的のため、折伏のため、現世安穏のため、後生善処のため、あるいは種々の希望や欲求満足のために、御本尊に向かい唱題することもまた、至極、結構なことであります。しかし、知ると知らざるとにかかわらず、どんな小さな利益も罰も、大きな利益も罰も、その元はすべて一心法界に遍満し、通ずる妙法の利益と罰であり力用(りきゆう)であります。そのところをしっかり掴(つか)まえておけば、いかなることが起こっても動かず、恐れず、揺るぎない確信が生ずると信ずるものであります。
ただし、世間の人々はその元の正しい妙法の在り方を信ずることができず、それぞれ雑多な小さい人生観、世界観、宗教観による思い込みに執われているため、そこより起こる不完全な、不幸な因果によってあるいは悪を行じ、あるいは堕落しております。かの池田創価学会が大聖人仏法の根本を見失い、背いて邪宗教に転落したのも、驕慢によって仏法の本源を軽蔑し、元から離れたところにおいて学会中心という小さな自我に執着したからであり、まことに哀れな者どもであります。
根本の正しい妙法に縁するところ、あらゆる苦悩を乗り越え、その時どき、事ごとに応じて自由自在の対応をなし、安楽と喜びの境地に住しきれるのは、一心法界の妙法に宇宙人生の一切を含むからであり、すなわち法界のすべて、十界三千の数多(あまた)の内容を具えるからであります。
したがって、時間、空間に一如する法界の真理を悟られた本仏の力と智慧を、その一身に信行によって涌現できれば、また他の一切の思想、宗教、格言等における行いより勝れた境地を具え得られるのであります。いわゆる人法一箇の大御本尊に対し奉り、妙法を受持し、一心法界の境地を受け継ぐ功徳は、大にして多、多にして勝であり、この大・多・勝の功徳を確信して妙法を唱えることが肝要であります。
今や宗門は平成14年の宗旨建立の大佳節に向かい、大法世界広布への堂々たる歩みとして、30万総登山ならびに奉安堂建立の二大事業の完遂に僧俗一致の大前進を行いつつあります。本日参集の男女青年の皆さん、この未曾有の青年部結集を機に、皆様方一人ひとりが一年に必ず一人以上の折伏を成就して、広大なる下種本仏宗祖大聖人の仏恩報謝に供え奉り、青年に、より多く恵まれた大活力をもって、それぞれの法華講支部のなかに在って広布の先駆を切っていかれることを強く期待したいと思いますが、皆さん、いかがでありましょうか。
大会前日の22日は、遠隔地を中心とする一泊の登山者が午前中に着山した。着山受付を済ませた登山者は、午後1時半からの御開扉に臨み、奉安殿において御法主日顕上人猊下の大導師により本門戒壇の大御本尊様に御内拝をいただいた。また大会の主会場となる広布の広場では、午前8時より特設ステージの設置が開始され、10,000席の椅子も整然と並べられていった。続々とバスターミナルに着いた登山者は、手際よく準備が進められていく会場の様子を見ながら大会への期待を膨らませていた。
さて、老若男女あらゆる階層の人々のなかで青年の持つ特権は、一つには、若々しく柔らかな心と肉体によって、あらゆるものに挑戦し捕らえんとの積極性に富むことであり、二つには、老人にはあまり残されていない多くの期待すべき未来、時間を持っていることであります。しかしまた、その故にこそ油断は禁物であります。大聖人様は、「命己(すで)に一念にすぎざれば、仏は一念随喜の功徳と説き給へり」(御書 299ページ)と仰せであります。
しかし、そこにはなんぴとも考えなければならない現実の相があります。かの釈尊は、年十九にして王城を捨て、悟りを求めて出家したのでありますが、その原因はなんだったのでしょう。それは、生きとし生けるものに存する、どうにもならない苦しみに対する解決の模索でありました。そして、釈尊は大悟徹底の暁(あかつき)に、この苦しみを8つに分析されました。すなわち、生・老・病・死の四苦と、愛別離苦・怨憎会(おんぞうえ)苦・求(ぐ)不得苦・五陰盛(ごおんじょう)苦の四苦であります。今日、色々な社会面で問題となる様々な犯罪や汚職、家庭不和やストレス、青少年の非行など、あらゆる姿も、この苦の真相に対する無知と未教育から来ております。
そして皆さん、いまさら申し上げるまでもなく、この混濁の世を三世にわたって救うべく出現あそばされたのが、釈尊一代五十年の説法をその中心たる法華経の肝心・寿量品の南無妙法蓮華経に擣篩和合(とうしわごう)して托せられ、この大良薬をもって一切人類の永遠にわたる救済、すなわち成仏の種子として受けられた宗祖日蓮大聖人様であります。この妙法の五字七字は宇宙の大真理、法界のすべての実相と一切の原因、結果の根本が込められた、いわゆる「本地甚深の奥蔵(おうぞう)」であります。換言すれば、無限の時間、空間を一念に摂し尽くすところの法界の真理を悟られた本仏大聖人が、あらゆる苦難を超克され人々の生きるための根本の道を顕し、与えられたのであります。
さて、皆さん、御本尊の中央、南無妙法蓮華経の直下に日蓮在判と示し給うのは、大聖人様の一心一念が法界に遍(あまね)く充満する妙法蓮華経の境界、いわゆる久遠元初自受用身即末法の下種本仏日蓮大聖人究竟の悟りのお姿であります。すなわち、法界を自身と開く大聖人即宇宙法界、法界即大聖人の境智を示された御本尊として、我々日蓮正宗の僧俗は無二の信心をもって拝し奉るべきであります。
このように正しく御本尊を信ずる者は、我が一心即法界なる故に、自由自在の境界をおのずと開かれ、心が広く豊かで、自然に喜びの心があふれてきます。境界が一転すれば、あらゆる人やものに対する見方が変わるのであります。恐ろしかった人が急に幼く見えたり、今まで気づかなかった人の値打ちを新しく感ずる等、対人関係においてもおのずから人々の姿をゆとりを持って正しく見るようになる。また、不平・不満や暗い苦悩の生活が、いつとなしに喜びと希望に変わっていく。そこからまた、折伏の心、人を本当に思いやる心が出てまいります。しかし、その元はすべて妙法受持の信心でなければ本物ではありません。かくて、すべての人に妙法の功徳を語りつつ、共に幸せになっていく仏法の上の修行こそ、広宣流布の要諦であると思います。
しかし、我々はお互いに、一人で生きているのではありません。家族、知人、朋友その他、多くの人との関係において生活をしております。世間では、謗法の罪業により濁りのなかに囚(とら)われる不幸な人が充満しております。しかれば、本仏大聖人の大仏法により日々夜々、功徳を成就する境界より、この周りの人々へ正法正義の信仰を語り伝えることこそ大切であり、すなわち、それは折伏の実践であります。