<4〜8面>
志願寺は、北海道芦別市にある。新千歳空港から、高速道路を使って2時問ほど北に走ると、人口2万5000人、約9800世帯の芦別市内に入る。本年、志願寺支部は、去年までの体制を一新し、壮年・婦人・青年の部別制をやめた責任の所在はすべて御住職であり、講頭にあることを明確に打ち出した形だ。
それから半年後の7月15日午後7時。右手にある空知川から風がわたってくる。夕方になり気温が下がったが、午後2時には32度を記録し、北海道もすっかり本格的な夏である。高橋晃次郎講頭(51歳)感が山門をくぐり階段を昇っていくと、受付から御住職・泉雄嘉御尊師が声をかけた「講頭さん、後半の闘い、もっと空気を変えなければ。明日の午前中、3人で唱題しよう。そのあと3人で回ろう」。3人とは御住職、講頭、梅本重次郎副講頭(71歳)である。
翌16日の午前中、本堂には3人の真剣な唱題の姿があった。午後、車に乗り込んだ3人は、家庭訪問と折伏に回りはじめた泉御尊師が常に言われるところの、「住職が動くから講員が動く、役職者が動くから大勢が動く」の体現である。前日に年配の講員訃報が入っており、夕方のお通夜まで、時間の許す限り回ることにした。
この日、6軒目に訪問したのが、20年来の正信会員だったOさん宅である。2時問ほど話をしたが、時間切れとなった。御住職は、「日を改めればまた一から話すことになりますよ。今晩、はっきり決心し、正しい信心をやっていこう」と話され、迎えの車に乗った。その晩、御住職と共に講頭・副講頭もお通夜を終えて、今度はお寺で折伏を再開。1時問半後、ついにO夫妻は、志願寺支部法華講員として、30万総登山に連なる決心をした。このOさんの奥さんは、御住職が「私が赴任してから、この志願寺へ自ら寺を尋ねてきた正信会員はたったの3人」と言われたうちの1人であり、実に9年問の下種が実ったことになる。
そして3日後の7月18日には、15日に亡くなった講員の息子さんが、お寺での初七日法要の席で御住職の折伏により、勧誡を受けた。さらに月末にも折伏の予定が入って、縁が開いてきた感がある。
泉御尊師は、「一世帯も残っていませんでした僧侶不信ですよね。だって、僧侶に騙されたんですから」。その後、近くの寺院から移籍した15世帯にも、なかなか火がつかない。やってもやっても報われないという思いが堆積した時期もある。
そして平成10年の教師指導会で、御法主上人猊下の、「今まで漠然とした広布に関する御祈念をしていたかも知れないけれども、具体的に『来たるべき宗旨建立750年に当たり、30万総登山を名実ともに必ず成就なさしめ給え』という御祈念こそ、大切だと思います。『あとはだれかがやっていくのだろうから、そのうちにだんだんと体制が整っていくだろう。できなければできないでしょうがないのだ』などという、その程度の意識ではあまりにも時の自覚がないと思います。しかしそうではなく、自分がやるのだ』という心をもって、自分のこととしてこのことを真剣に御本尊様に御祈念していただきたいのです」(大日蓮632号)の御言葉を拝して、泉御尊師が決意を固められた。
「私の心に変化が起きました。何があっても、御指南通りやっていこうと決意した。すると、その帰りに埼玉県草加市の宣行寺さんへ寄ることになった。親しい僧侶に強く勧められて、別に今回でなくてもなどと言いながら、一緒に行ったんです。でも、これが大きな転機となりましたそこで見たのは、“御法主上人猊下の御指南を、いかにしたら実現していくのか”を真剣に祈り、全力疾走する住職・講頭・講員の姿でしたこのとき、自分の姿は“人に認められようと一生懸命やってるつもり”だったことが見えた。そして、北海道に帰って本当にすぐでした、高橋現講頭がお寺にやってきたのは」。御住職の祈りが届いた。一念の変化は現証として顕れる。
冷静に考えれば状況の見極めはつく。あとはいつやめるかだった。また、「志願寺は学会のお寺」との嘘の情報を信じていたため、志願寺へ行くことは考えなかった。時が来て平成10年6月、相談に来た石橋さん、工藤さん、長内さんと話し、そのうち石橋さん、工藤さんが先に志頭寺に行くこととなった。この頃には正統な日蓮正宗の寺院であるとの情報を得ていた。
高橋講頭は、当初は、「さんざん謗法をしてきたんだ、少し謹慎しよう」と思いやってきた。ところがその日、御住職に「やめたことを北海道の正信会の全世帯に連絡しなさい」と言われた。指導教師・泉御尊師よりの最初の指導だった。もとより高橋講頭も思いは同じだった。それから講頭は、「最初に、まず御住職に連れられて総本山に参詣しました。それまでずっと行けませんでしたから」と登山の喜びを語る。
この平成10年は、それまで御住職が、葬儀の席をはじめどんな縁も逃さずにと、5世帯の折伏を実らせていた。そして高橋講頭の入講で、芦別と赤平の2つの地区が誕生し、数人での折伏活動も始まり、爆発的な折伏の動きとなった。時には、一日で3世帯から4世帯、5世帯と折伏できる日も続いた。明日はどう動こうかと打合わせが終わり、時計を見ると午前3時ということも度々。そして年間の折伏成果が30世帯となった(誓願目標は10世帯)。昨年は目標10世帯に対して8世帯。そして今年は、目標10世帯で現在内得信仰1世帯、折伏4世帯である。
現在、平日の活動は、行事として毎週火曜日に唱題行が午前11時から正午まで行われ、昼食をとったあとで3人から5人がひと組みになって出かけ、家庭訪問や折伏に動く。これには88歳の婦人も共に行動している。年輩でお寺への参詣が困難な信徒は、御住職の奥様が車で送り迎えして、みんなと折伏活動に参加できるよう計らう。また水曜日は夜、唱題行の後、勉強会で大白法・大日蓮の読み合わせ等をしたり、座談会を行い、その後、週の後半の動きも打ち合わせる。が、行事の日に関係なく、「縁があれば、いつでも、どこへでも」なのだ。御住職・講頭共に、何度もこのことを強調される。
そして、予定の入らない平日の数時間、御住職夫妻は、家庭訪問をし、何軒かの訪問先で1時間の唱題行を共に行ったり、家庭指導をされる。またお年寄りの病院付き添いをすることもある。これは赴任された当初から続けられている。折伏について御住職は、「一軒に対して10回から、多い所で30回は訪問してますね」と言われる。12名いる班長(講頭、副講頭、幹事4名も班長)が、受け持つ班員宅の家庭訪問や、自分の縁や班員の縁の折伏に御住職、講頭と一緒に行動し、御住職の指導や折伏を目の当たりにしての実地訓練、「折伏実行」の最中である。
また、登山推進にかける労力は、並大抵ではない。高橋講頭は、「御住職に連れられて御登山するということは、我々の信心の大事な筋目でしょう。そしてお山の行事に出られる信心をしなければ。だから、総本山に年1回行けばいいなんていうのはだめだと言っています。そういう人は、ふだんの活動もできないですよ。本流につくこと、そして御供養、登山、折伏のできる信心を常に言っています」と語るが、登山を厳しく指導するだけではない。総本山まで遠距離のために登山を諦めていたような年配者が安心して豊山できるよう、徹底して配慮する。
御住職は、「出発地、到着地の空港へもきちんと連絡を入れておきます。年配者の人数、うち心臓病などの病歴のある人の人数を知らせるので、航空会社の乗務員が車椅子を用意して待機してくれています。もちろん、一緒に行く住職はじめ講中が一体となって、そういう方のお世話をします。また、『支部仕立てのバスだから、いつでも、必要に応じてパーキングエリアに止まれるから、休憩したくなったら遠慮しないで声をかけるように』と、登山推進で各家庭を回っているときも、出発する際にも、バスが走っている最中にも周知します」と。こうした不断の努力が、重要行事の登山の際に、大きく響くのである。
志願寺では、昨年12月の大白法号外を5000部、配布した。市内に1万世帯ないことを思い出していただきたい。このとき、尾行行為、徒歩で配布している最中に車でピッタリ迫りながらツケ回す等の脅迫行為があり、他にも、子供さんに身の危険が迫っているかのように装った悪戯(いたずら)電話など、こういったことが2カ月以上にもわたって毎日繰り返された。
「その時は、みんなの活動に組み込むのが少し難しかったので、私と家内で配りましたそんなふうに住職が動くからみんなが動いてくれるんでしょうかね。でも、5000部配ってから、ずいぶんたくさんの不思議な冥益をいただきましたよ」と御住職。
取材中、「畳替えと水道工事以外は何でも自分達でした」「命がけのご奉公だから結果が出る」「3倍、4倍の努力が大事」という御住職と奥様、そして幹部の努力に感動し、涙があふれることが何度もあった。また毎日毎日情報が更新され、午前の話が午後には進展している、ということも。これが日々動いている姿だと感慨を深くした。
〇 北海道第二布教区・志願寺支部
泉御尊師が、赴任されてからの年月を振り返って、「私に慢心があったんですね。自分から望んで、一度つぶれたお寺に入って、立て直したいと思っていた」と口を開かれた。平成3年8月、赴任された当時の志願寺の状況を知らなければ、この意味は判らない。志願寺は昭和57年9月から正信会僧に占拠された北海道有数の正信会拠点で、150畳の本堂が会合ではいつも人で埋まっていた。それが20年間で、ことに「池田破門」から正信会の勢いが衰えた。そして平成3年、志願寺が大石寺に戻ってきたあとは、正信会をやめて家に引きこもり何も信じなくなった人、先祖代々の宗派に戻った人、余市・札幌・旭川にある正信会寺院に通うようになった人、その後、正信会が芦別市内に建てた寺に移った人等、様々だった。
「私自身が、創価学会で20年、その後正信覚醒の嵐の中を20年かけて抜けてきた者として、今は、本当の日蓮正宗をみんなに伝えていきたいんですよ」と語る高橋講頭が志願寺を訪れたのは、平成10年9月18日。正信会をやめることは、ずいぶん前に結論を出していた。「池田の破門が一番のきっかけです。だって、これで正信会の旗印はなくなったわけですから。正信会の北海道地方部の役員をしていた私が、正信会僧に『もう問題は終わったじゃないか、総本山に登山しよう』と、いくら言っても、『内地(※本州)の僧が大石寺と話し合っているから待て』と嘘を言って、みんなを騙していた」。
御住職も、「下種先はいくらでもあります」と言われるように、対象は正信会員、学会員、それ以外の知人、友人。そして法統相続に力を入れているが、法統相続の大切さを指導した上で、まず親御さんがその気になるのを待ち、親が子供の入信を望めば、御住職も講頭も、どこまでも一緒に行って折伏する。