大白法

平成12年8月1日号


主な記事

<1〜3面>


<4〜8面>


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誓願を達成する信行


〇 北海道第二布教区・志願寺支部

志願寺は、北海道芦別市にある。新千歳空港から、高速道路を使って2時問ほど北に走ると、人口2万5000人、約9800世帯の芦別市内に入る。本年、志願寺支部は、去年までの体制を一新し、壮年・婦人・青年の部別制をやめた責任の所在はすべて御住職であり、講頭にあることを明確に打ち出した形だ。

それから半年後の7月15日午後7時。右手にある空知川から風がわたってくる。夕方になり気温が下がったが、午後2時には32度を記録し、北海道もすっかり本格的な夏である。高橋晃次郎講頭(51歳)感が山門をくぐり階段を昇っていくと、受付から御住職・泉雄嘉御尊師が声をかけた「講頭さん、後半の闘い、もっと空気を変えなければ。明日の午前中、3人で唱題しよう。そのあと3人で回ろう」。3人とは御住職、講頭、梅本重次郎副講頭(71歳)である。

翌16日の午前中、本堂には3人の真剣な唱題の姿があった。午後、車に乗り込んだ3人は、家庭訪問と折伏に回りはじめた泉御尊師が常に言われるところの、「住職が動くから講員が動く、役職者が動くから大勢が動く」の体現である。前日に年配の講員訃報が入っており、夕方のお通夜まで、時間の許す限り回ることにした。

この日、6軒目に訪問したのが、20年来の正信会員だったOさん宅である。2時問ほど話をしたが、時間切れとなった。御住職は、「日を改めればまた一から話すことになりますよ。今晩、はっきり決心し、正しい信心をやっていこう」と話され、迎えの車に乗った。その晩、御住職と共に講頭・副講頭もお通夜を終えて、今度はお寺で折伏を再開。1時問半後、ついにO夫妻は、志願寺支部法華講員として、30万総登山に連なる決心をした。このOさんの奥さんは、御住職が「私が赴任してから、この志願寺へ自ら寺を尋ねてきた正信会員はたったの3人」と言われたうちの1人であり、実に9年問の下種が実ったことになる。

そして3日後の7月18日には、15日に亡くなった講員の息子さんが、お寺での初七日法要の席で御住職の折伏により、勧誡を受けた。さらに月末にも折伏の予定が入って、縁が開いてきた感がある。


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泉御尊師が、赴任されてからの年月を振り返って、「私に慢心があったんですね。自分から望んで、一度つぶれたお寺に入って、立て直したいと思っていた」と口を開かれた。平成3年8月、赴任された当時の志願寺の状況を知らなければ、この意味は判らない。志願寺は昭和57年9月から正信会僧に占拠された北海道有数の正信会拠点で、150畳の本堂が会合ではいつも人で埋まっていた。それが20年間で、ことに「池田破門」から正信会の勢いが衰えた。そして平成3年、志願寺が大石寺に戻ってきたあとは、正信会をやめて家に引きこもり何も信じなくなった人、先祖代々の宗派に戻った人、余市・札幌・旭川にある正信会寺院に通うようになった人、その後、正信会が芦別市内に建てた寺に移った人等、様々だった。

泉御尊師は、「一世帯も残っていませんでした僧侶不信ですよね。だって、僧侶に騙されたんですから」。その後、近くの寺院から移籍した15世帯にも、なかなか火がつかない。やってもやっても報われないという思いが堆積した時期もある。

そして平成10年の教師指導会で、御法主上人猊下の、「今まで漠然とした広布に関する御祈念をしていたかも知れないけれども、具体的に『来たるべき宗旨建立750年に当たり、30万総登山を名実ともに必ず成就なさしめ給え』という御祈念こそ、大切だと思います。『あとはだれかがやっていくのだろうから、そのうちにだんだんと体制が整っていくだろう。できなければできないでしょうがないのだ』などという、その程度の意識ではあまりにも時の自覚がないと思います。しかしそうではなく、自分がやるのだ』という心をもって、自分のこととしてこのことを真剣に御本尊様に御祈念していただきたいのです」(大日蓮632号)の御言葉を拝して、泉御尊師が決意を固められた。

「私の心に変化が起きました。何があっても、御指南通りやっていこうと決意した。すると、その帰りに埼玉県草加市の宣行寺さんへ寄ることになった。親しい僧侶に強く勧められて、別に今回でなくてもなどと言いながら、一緒に行ったんです。でも、これが大きな転機となりましたそこで見たのは、“御法主上人猊下の御指南を、いかにしたら実現していくのか”を真剣に祈り、全力疾走する住職・講頭・講員の姿でしたこのとき、自分の姿は“人に認められようと一生懸命やってるつもり”だったことが見えた。そして、北海道に帰って本当にすぐでした、高橋現講頭がお寺にやってきたのは」。御住職の祈りが届いた。一念の変化は現証として顕れる。


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「私自身が、創価学会で20年、その後正信覚醒の嵐の中を20年かけて抜けてきた者として、今は、本当の日蓮正宗をみんなに伝えていきたいんですよ」と語る高橋講頭が志願寺を訪れたのは、平成10年9月18日。正信会をやめることは、ずいぶん前に結論を出していた。「池田の破門が一番のきっかけです。だって、これで正信会の旗印はなくなったわけですから。正信会の北海道地方部の役員をしていた私が、正信会僧に『もう問題は終わったじゃないか、総本山に登山しよう』と、いくら言っても、『内地(※本州)の僧が大石寺と話し合っているから待て』と嘘を言って、みんなを騙していた」。

冷静に考えれば状況の見極めはつく。あとはいつやめるかだった。また、「志願寺は学会のお寺」との嘘の情報を信じていたため、志願寺へ行くことは考えなかった。時が来て平成10年6月、相談に来た石橋さん、工藤さん、長内さんと話し、そのうち石橋さん、工藤さんが先に志頭寺に行くこととなった。この頃には正統な日蓮正宗の寺院であるとの情報を得ていた。

高橋講頭は、当初は、「さんざん謗法をしてきたんだ、少し謹慎しよう」と思いやってきた。ところがその日、御住職に「やめたことを北海道の正信会の全世帯に連絡しなさい」と言われた。指導教師・泉御尊師よりの最初の指導だった。もとより高橋講頭も思いは同じだった。それから講頭は、「最初に、まず御住職に連れられて総本山に参詣しました。それまでずっと行けませんでしたから」と登山の喜びを語る。

この平成10年は、それまで御住職が、葬儀の席をはじめどんな縁も逃さずにと、5世帯の折伏を実らせていた。そして高橋講頭の入講で、芦別と赤平の2つの地区が誕生し、数人での折伏活動も始まり、爆発的な折伏の動きとなった。時には、一日で3世帯から4世帯、5世帯と折伏できる日も続いた。明日はどう動こうかと打合わせが終わり、時計を見ると午前3時ということも度々。そして年間の折伏成果が30世帯となった(誓願目標は10世帯)。昨年は目標10世帯に対して8世帯。そして今年は、目標10世帯で現在内得信仰1世帯、折伏4世帯である。


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御住職も、「下種先はいくらでもあります」と言われるように、対象は正信会員、学会員、それ以外の知人、友人。そして法統相続に力を入れているが、法統相続の大切さを指導した上で、まず親御さんがその気になるのを待ち、親が子供の入信を望めば、御住職も講頭も、どこまでも一緒に行って折伏する。

現在、平日の活動は、行事として毎週火曜日に唱題行が午前11時から正午まで行われ、昼食をとったあとで3人から5人がひと組みになって出かけ、家庭訪問や折伏に動く。これには88歳の婦人も共に行動している。年輩でお寺への参詣が困難な信徒は、御住職の奥様が車で送り迎えして、みんなと折伏活動に参加できるよう計らう。また水曜日は夜、唱題行の後、勉強会で大白法・大日蓮の読み合わせ等をしたり、座談会を行い、その後、週の後半の動きも打ち合わせる。が、行事の日に関係なく、「縁があれば、いつでも、どこへでも」なのだ。御住職・講頭共に、何度もこのことを強調される。

そして、予定の入らない平日の数時間、御住職夫妻は、家庭訪問をし、何軒かの訪問先で1時間の唱題行を共に行ったり、家庭指導をされる。またお年寄りの病院付き添いをすることもある。これは赴任された当初から続けられている。折伏について御住職は、「一軒に対して10回から、多い所で30回は訪問してますね」と言われる。12名いる班長(講頭、副講頭、幹事4名も班長)が、受け持つ班員宅の家庭訪問や、自分の縁や班員の縁の折伏に御住職、講頭と一緒に行動し、御住職の指導や折伏を目の当たりにしての実地訓練、「折伏実行」の最中である。

また、登山推進にかける労力は、並大抵ではない。高橋講頭は、「御住職に連れられて御登山するということは、我々の信心の大事な筋目でしょう。そしてお山の行事に出られる信心をしなければ。だから、総本山に年1回行けばいいなんていうのはだめだと言っています。そういう人は、ふだんの活動もできないですよ。本流につくこと、そして御供養、登山、折伏のできる信心を常に言っています」と語るが、登山を厳しく指導するだけではない。総本山まで遠距離のために登山を諦めていたような年配者が安心して豊山できるよう、徹底して配慮する。

御住職は、「出発地、到着地の空港へもきちんと連絡を入れておきます。年配者の人数、うち心臓病などの病歴のある人の人数を知らせるので、航空会社の乗務員が車椅子を用意して待機してくれています。もちろん、一緒に行く住職はじめ講中が一体となって、そういう方のお世話をします。また、『支部仕立てのバスだから、いつでも、必要に応じてパーキングエリアに止まれるから、休憩したくなったら遠慮しないで声をかけるように』と、登山推進で各家庭を回っているときも、出発する際にも、バスが走っている最中にも周知します」と。こうした不断の努力が、重要行事の登山の際に、大きく響くのである。

志願寺では、昨年12月の大白法号外を5000部、配布した。市内に1万世帯ないことを思い出していただきたい。このとき、尾行行為、徒歩で配布している最中に車でピッタリ迫りながらツケ回す等の脅迫行為があり、他にも、子供さんに身の危険が迫っているかのように装った悪戯(いたずら)電話など、こういったことが2カ月以上にもわたって毎日繰り返された。

「その時は、みんなの活動に組み込むのが少し難しかったので、私と家内で配りましたそんなふうに住職が動くからみんなが動いてくれるんでしょうかね。でも、5000部配ってから、ずいぶんたくさんの不思議な冥益をいただきましたよ」と御住職。

取材中、「畳替えと水道工事以外は何でも自分達でした」「命がけのご奉公だから結果が出る」「3倍、4倍の努力が大事」という御住職と奥様、そして幹部の努力に感動し、涙があふれることが何度もあった。また毎日毎日情報が更新され、午前の話が午後には進展している、ということも。これが日々動いている姿だと感慨を深くした。



体験発表


☆ 『妙法への回帰』 ロサンゼルス妙法寺支部 ルイサ・ヒロコ・ノムラ

パナマ共和国では、平成5年にルース・トレスさん他6名の元SGI幹部が脱会。平成7年には、280名のメンバーで、初めて現地を訪れた尾林海外部長を迎え出張御授戒と第2回パナマ法華講総会が開かれた。その後も順調に発展を続け、平成9年には現地法人組織「日蓮正宗テンプル・パナマ」が設立され、それに伴い法華講事務所も開設されるなど、着実に基盤も整備されてきた。

昨年脱会した、ルイサ・ヒロコ・ノムラ(ヒロコ・デ・チュウ)さんは、元SGIパナマ本部長として、パナマSGI理事長だった今は亡きご主人と共に、パナマでのSGI組織の発展に、心血を注いできた。会員にも慕われ、また、パナマ政府高官との人脈もあったため、パナマ国内での強固なSGI組織の構築、発展に多大なる貢献をしてきた人である。学会問題惹起後、しばらくブランクがあったが、平成11年7月に、ルース・トレスさんと再会し、間もなく妙法寺で勧誡を受け、正しい信仰に戻られた。以来、2人は互いに励まし合いながら他の多くのメンバー共々、御住職・高野泰信御尊師の御指導のもと、目夜、パナマ広布のため駆け回っている。


私は中米のパナマ共和国に在住し、ロサンゼルス妙法寺支部に所属するルイサ・ヒロコ・ノムラと申します。以前はヒロコ・デ・チュウと称していましたが、2年前に主人が亡くなってからはパナマの法律に従い結婚前の姓に戻しました。

1961年、仏法のことについて全く知らない私でしたが、叔母に連れられて、池袋の常在寺で御授戒を受け入信しました御授戒のとき、すばらしい感動を受けたのを覚えています。その夜の座談会で、どうして御授戒で幸福感を感じたのか質問したところ、「大聖人様の仏法は我々の生命の故郷である」との返事でした。そのとき私は信心の確信を得、人生の目標を定めることができました。その後、私は、日本に留学中だったパナマ出身の主人と出会い、共に「広宜流布に励んでいこう」との意気も高く、1965年、パナマに渡ったのです。

仏法に関するスペイン語の教材など皆無でした。しかし、真心をもって仏法の話をしていくうちに、1人2人と入信者が増えていきました。子供がまだお腹の中にいたときでも、パナマ市内やコロン地方を折伏のため駆け巡りました。3年目の1968年には支部が結成され、私はパナマ創価学会の初代支部長に任命されました。

パナマに家を持ちたいと思っていた私たちは、食費や衣料費などを節約し、建築費を貯めていました。無我夢中で信心活動をしていると、御本尊様から偉大な功徳を戴き、ついに一軒家を持つことができたのです。その翌年、2人目の子供を授かりました。

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1974年、SGI会長の池田大作がパナマに初訪問の際、主人の幼少時代の友人であったノリエガ将軍の働きで、国賓待遇で迎えて大統領との会見やパナマ大学での名誉教授の称号授与などを実現させました。その後も、池田は将軍に贈り物をしたり、交際を深めていました。今はすでに存在しませんが、ノリエガ将軍がパナマの景勝の地にイケダ個人の名を付けたこともありました。

信心活動が多忙になるのに比例し、主人の社会的地位も向上していきました。主人は地元の高校の化学教師から新設の国立のセメント会社の工場長になり、やがて理事長になりました。工場の近辺の公共道路を補修したり、地域の人たちのために様々な協力をした主人は皆から感謝されていました。また、これで創価学会のために時間と力だけでなく、の寄付金もできるようになりました。1984年に3階建てのパナマ会館を建てる際にも、主人は莫大な量のセメントを学会に寄付しました。

私たちは宗教法人「パナマ日蓮正宗創価学会アカデミー」を設立し、主人が理事長、私が副理事長となり、組織では私がパナマ本部長を受け持つという体制になりました。そして広宣流布のため、活動の範囲を中南米にも広げようと一層、折伏に励んでいきました。

1986年1月、主人はパナマ大使として台湾に赴任が決まりました。私はパナマ本部長としての責任感から、この後4年間、1カ月間は台湾、3カ月間はパナマに滞在という生活になります。また、主人が大使になって3年後の12月、私の母がパナマを訪問していたときに、米国によるパナマ侵攻に直面しました。事件勃発の際、何よりも何よりも会館のことが気がかりで、すぐに駆け付けて、御本尊様の無事を確かめました。アメリカ兵が会館を査察していたときは、驚いて冷や汗が出ましたが、彼らは疑わしいものを何も発見せず、その場を去っていきました。


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1990年初頭、国内の混乱の中、新政権が誕生しました。私は母を日本に連れて帰り、自分は一刻も早く台湾にいる主人の元へ行き、新大使が赴任してくるまで、大使館関係の引き継ぎ書類の整理をしようと決めました。しかし、新大使の赴任時期が不明でしたので、私と、ガブリエル・マルチネス青年部長、そしてルナ支部長(弁護士)の3人で、SGIパナマの理事長職の暫定的な変更の措置をとりました。私たちの留守中に、小切手へのサインや、組織を統括する代務者が必要だったからです。日本の創価学会本部へは、台湾から詳細を報告しようと思いました。

1月、母を日本に送り届け、台湾に向かった私は、到着後、主人が担当していた領事館の残務整理を手伝い始めましたそうした状況があり、日本の学会本部への連絡が遅れてしまいました。2月、ロサンゼルスでSGIの総会があることを知った私は、パナマ本部役職の一時変更について、日本から渡米する最高幹部に報告できる機会だと思い、参加の許可を貰うため、日本の学会本部に電話をしました。すると「パナマの代表者はすでに総会に参加することになっているのであなたはその総会には参加できない」と言われました。私は自分の耳を疑いました。あまりにショックなことでした。一体何があったのか、なぜ学会本部が私に冷たい態度をとるのか、当時は全く判らず、取るべき術もありませんでした。

その後、新大使が台湾に赴任して、私たちはパナマヘ帰る荷造りを始めました。主人はしはらく日本に滞在後、アメリカにいる姉を訪ね、国情が正常になる頃パナマに帰ることにしました。私がパナマに着いたとき、私の立場は中に浮いて、組織は騒然としていました。学会本部が私の帰国を知って、いろいろな機会に副会長をパナマに派遣していました。主人と私は日本へ飛び、池田氏に直接この状況を説明しようとしましたが、実現しませんでした。ある副会長が、池田氏が私たちの話を聞いてくれるかも知れないと言いましたが、池田氏からもその副会長からも、返事は一切ありません。

その後、日本の創価学会本部は、パナマの本部幹部全員をサンフランシスコの会議に招集しました。その席上、私は池田氏からの指示として、パナマ本部の指導長に正式に任命されました。しかし後日、会館に行くと、幹部たちが私を無視したり、蔑視しているのに気づきました。サンフランシスコ会議での彼らは、私の新たな役職に賛成していたように見えたので、彼らの態度の急変に驚きました。これは次第にエスカレートし、メンバーが、挨拶のために私に近づくのもいけないような雰囲気になりました。

いたたまれませんでした。私がいれば純真なメンバーに迷惑がかかるだろうし、理事長になったマルチネスさんもやりづらいだろう。深い悲しみと、こんなはずではなかったのにという思いが交錯し、今後、一切会館には行かないという決心をしました。1991年のことでした。

私は新しい仕事を始め、それに没頭しましたが、心身の極度の疲労と混乱もあって次第に勤行もできない状態に堕ちていました。人生の目標、信心の確信、活動の場を失った人間の弱さというのでしょうか、退転してからの私の唯一の願いは「私の人生はもうすでに終わっている。誰にも知られることなく早く死にたい」ということでした。こういった悩みなどが原因で私は胃潰瘍を患い、さらに1998年には主人が突然に他界し、地獄の苦しみが続きました。心の中は空虚で何も考えられず、まるで夢遊病者のようでした。

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1999年7月、法華講員のルース・トレスさんから連絡があり、ロサンゼルスからパナマに御僧侶がいらっしゃるので、私の主人の一周忌の追善供養を一緒にしたいとのことでした。彼女が家族でもない人の追善供養をしたいと言ってるのに、私は自分の主人のために何もしていないことを恥じ、「主人のためなら」と承知しました。妙法寺御住職・高野泰信御尊師の導師による法要は、私にとって退転後の初めての勤行でした。

10月に入り、パナマを離れて気分転換の小旅行でもしようかと考えていた矢先、ルース・トレスさんからロサンゼルスの妙法寺に行くという話を聞きました。さっそく私が同行を申し出たところ、彼女は快く承知してくれて、翌日、一緒に出発しました。ロサンゼルスに着いて翌朝、ルースさんは妙法寺に行くと言いました。私もホテルに一人でいたくなかったので、軽い気持ちでついて行ったところ、またもや彼女は、塔婆供養の用紙に私の主人の名を記入してくれているのです。本来ならは私がするべきだと思い、この度は私の名前で申し込みました。

法華講の皆さんと一緒に勤行をさせていただき、終了後にロビーで休憩していると、高野御住職が近寄ってこられ、「そろそろ目を覚ますときではありませんか」と懇切丁寧に話してくださいました。しかし、まだ日蓮大聖人の仏法を正しく信受しているのはSGIだけであると信じ、池田大作に対して報恩感謝しなければという思いが心のどこかにありました。私はお寺を出た後、高野御住職の説明を何度も考え直しました。そして翌日、10月10日の妙法寺での御会式に参加し、勧誡式を受け入講しました。そのとき、私は1961年に御授戒を受けたときと同じ感動を再び味わったのです。「これだ!今まで私が信じてきたのは『日蓮正宗の御本尊様』なのだ」と確信し、それ以来、毎日の勤行に加え二時間の唱題を始めました。

正法への回帰は、乾ける大地が水を一気に吸い込むように、私の中に失われていた感動を蘇らせてくれました。人生の歓喜を再び取り戻したのです。その後、脱会してきた法華講員の人から、地元の学会が主人や私に関してどんな非難中傷を流していたか教えてもらいました。その一つに、私たちが「麻薬の密売をしているので、一生パナマに帰れない」というのがありました。生前の主人が聞いたら、彼らを即座に名誉毀損で提訴していたことでしょう。しかしこれで、長年の疑問が氷解しました学会本部がこのデマを信じ、先入観で対応していたので、私たちがどんなに一生懸命に説明をしても理解してくれなかったのです。その後、自らの誤りに気づいた学会は、状況打開のため私を本部指導長にまつりあげたのです。

生前主人が、パナマSGIの理事長として日本へ行き、池田と話をしようとしたとき、主人に大使の肩書きがなくなったために学会の態度は豹変し、会う必要などないと突き放しました。学会組織というのは、表面上、一般会員にはいつも親切に接しなさいと言っていますが、会員と幹部の間には絶対に越えることのできない高い敷居が存在します。


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亡き主人のただ一つの思いは、パナマの学会組織のために、どうするのが一番かということでした。かつての私たちの広宣流布への闘いの結晶であった3階建ての立派な会館も、学会は大した理由もなく手放し、交通の便の悪い所へ新会館を建てたようです。「毒気深入失本心故」の文字が目に浮かびます。

私が以前創価学会員としてがんぱったのは、学会が、日蓮大聖人様の正法正義、総本山の大御本尊様を信仰の対象として、正しい信心を教えてくれると信じてきたからです。創価学会の存在意義は、時の御法主上人猊下の御指南を正しく会員に伝えることにあるはずでした。それがいつの間にか、教義を曲げて伝え、今や三宝を無視して御法主上人猊下や総本山大石寺を愚弄する団体になり下がっていることに胸が痛みます。

私は今年の4月、御霊宝虫払大法会に参詣させていただきました。総本山大石寺での2度の御開扉と丑寅勤行、そして御霊宝虫払の儀にも出て、これまでにない感激で胸が一杯になりました。大御本尊様おわします総本山大石寺が私たちの信仰の根本道場であることは、過去、現在、未来を通じて決して変わることはないと確信しました。

これからは日蓮正宗の正しい信心を貫き、仏祖三宝尊に報恩感謝できる毎日であることを願い、主人の追善供養と自分自身の謗法罪障消滅を祈りつつ、力一杯生きてまいります。最後に、御法主日顕上人猊下のますますの御健勝と、宗門のますますの御興隆、発展を心よりお祈り申し上げ、擱筆いたします。




☆ 『月々増える同信の友と力合わせ、次々折伏』 仏乗寺支部 湯山智生

皆さんこんにちは。今日は、去年1年間での3人の友人と、かねてからの念願であった母親の折伏成就の体験と、その感動を中心に述べさせていただきます。

私は平成元年12月17日に創価学会員として日蓮正宗に入信し、御本尊様を御安置させていただきました。当時17歳になったばかりの私は高校を中退し、いろいろな迷いを抱く中で、そのときお付き合いしていた女性と家出をし、1週間逃げ回り、ボロボロになって、最後に辿り着いたのが沼津の本広寺でした。その日は、12月12日で、御報恩御講に当たる日でした。夜、御住職・本間義乗御尊師の御講話を拝聴し、難しいお話の中で、「信仰というのは木に例えたら根っこに当たる。根っこが腐ると全部が腐り、そこに花は咲かず、実もならない」というようなお言葉だけは今も強烈に覚えています。

私を折伏してくれた山下さんは学会員でしたが、「信心というのはお寺で教わるものだ」と教えてくれて、自分でも実行していた方なので、私も自然とお寺や総本山大石寺に参詣することが多くなりました。そのかいあって山下さんも私も、学会問題が起きたとき比較的すんなり抜けることができ、学会が破門になると同時に脱会し、法華講に入講させていただきました。学会員時代から池田や学会の幹部が唱える汚い御題目に疑問があり、総本山に参詣する度、耳にする法華講の方々のきれいな唱題に憧(あこが)れていた私と山下さんは、入講を心の底から喜びました

それからすぐ上京し、仏乗寺でお世話になることになりました。若さゆえいろいろな誘惑や困難に負けそうになり、信心も怠けがちになり、一時期は住む所さえなくなりそうになったこともありました。その度に仏乗寺の御住職・高橋信興御尊師や執事さん、お所化さん方より御指導をいただき、講中の方々の励ましをいただき、少しずつですが信心修行して、それに伴い生活も落ち着いてきました。

そんな中で一昨年の暮れに非常にお世話になった「画家の清水さん」というおじいさんが亡くなり、最後に可愛がってもらったのが私だということで、大きな御仏壇を形見としていただけることになりました。六畳一間に私の背より大きな仏壇、初めは「えらい物をいただいてしまった」とちょっと弱気になったりもしました。しかし、新年ということもあり、新しい気持ちで御本尊様に手を合わせて、日々の勤行、唱題に励んでいく中で、怠けがちだった東京での信心の状態を反省し、日頃お世話になっている方々に恩返しできるような活躍をしようと決意しました。

「力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」(御書668ページ)との御金言を拝し、あまり考え込まず一言でも多く友人に信心の話をしていこうと努力していく中で、5・6人の友人が毎月の御報恩御講に一緒に参詣するようになりました。その頃、講中での地区改正があり、その際、地区長という役をいただきました。これによって支部での自分の使命や役割が明確になって、それに伴い折伏もより具体的に話が進んでいきました。

なかなか目に見えて結果が出ないのと、私生活での悩みで、少し中だるみしてしまいそうでした。でもそんなときも、自分が折伏した仲間である寺崎さんや勝又君のがんばりで、少しの間お寺から離れていた朝羽君や加藤さんが毎日のようにお寺に参詣するようになり、私もそれを受けて、病気で悩んでいた自分のバンドのスタッフの増田晴美さんを折伏し、11月11日の夜に御授戒を受けさせることができ、続いて12月12日の御講の日、バンドメンバーの横田雄一君の御授戒が決まりました。


またその日、母が上京してくることになりました。母の姉の栄子おばさんが急に亡くなったからです。伯母は創価学会の家に嫁いでおりましたが、本人は学会嫌いでした。伯母自身が学会で一生懸命やっていたわけではなかったので、私も気を抜いていましたが、よくよく考えてみると伯母の周りには創価学会員しかいなかったので、いざ亡くなってしまったら友人葬で葬られてしまうに違いありませんでした。母は伯母が急に亡くなったことと、学会員による葬儀を嘆き、私に相談してきました。

ちょうどお通夜が、仏乗寺の御講の日と重なっていたため、私は母に御授戒を受けることを勧め、御住職に伯母の供養をしていただくことが最善の方法だと話しました。私は母に10年かけてずっと信心の話をしてきましたし、母は私が本当にお寺でお世話になっていることは判っていました。そのため、母は迷いなく入信を決意してくれました。母と横田君の御授戒は無事終わり、その足で私と母は伯母のお通夜へと向かいました。思えば10年前、私が初めてお寺に行き、御本尊様に手を合わせたのも12月12日でした。

船橋の葬儀場に着くと案の定、学会員が仕切っており、異様な雰囲気が漂(ただよ)っていました。伯母が亡くなった原因も聞かされず駆け付けた、私と母と母のもう1人の姉であるスミ子おばさんは、伯父になぜこんなことになったのか聞きました。伯父は謝るばかりでしたが、よくよく問い質(ただ)すと、伯母は病気で寝込んでいたにもかかわらず、病院に連れて行ってもらえず、物も食べられなくなるほど調子が悪かったらしいのですが、それでも放って置かれ、見殺しにされたということが判りました。

私たちは現代にそんなことがあるのかと愕然(がくぜん)としました。なぜ連絡の一つもくれなかったのかと伯父を責めました。伯母には子供がなく、私と弟のことを実の子供のように可愛がってくれていたので、私はいつか恩返しをしたいとも思っていました。そうなる前にたいへんなことになってしまい、自分の力不足と間違った信仰の中に身を置くことの恐ろしさを改めて知らされました。とにかく顔を見せてくれと葬儀場の中へ入ると、呑気(のんき)な学会員が、「支部長の○○です。後で幹部が来てお経をあげますから」と言ってきました。私は、「お坊さんは来ないのですか」と聞くと、「友人葬ですから」と言われ、見殺しにしておいて何が友人だと思いましたが、ぐっと堪(こら)えました

中に入り、伯母の顔を見たとき、私たちはまたびっくりしました。何と伯母は目をギョッと開いたまま亡くなっていたのです。明らかにこの世に未練があるというような凄(すさ)まじい臨終の相に、母は泣き崩れ、スミ子おばさんは、「目を閉じさせてあげて」と叫びました。支部長と名乗ったその人は、「これは成仏の相です」と言い張りました。私も初めは波風を立てないようにと思い、自分が法華講員だとは言わなかったのですが、狂った学会員たちの態度に我慢ができなくなり、「あの『ニセ本尊』をはずしてください。どこが成仏の相なんですか。こんなに苦しんでるじゃないですか。」と言い切り、心配して一緒に付いて来てくれた寺崎さんとその場で読経、唱題を始め、泣き崩れる母にも御題目を唱えるようにと促しました。

ひととおり終え、私たちがそこを出たのと入れ替わりで学会の幹部が入って来てお経を読み始めました。支部長という人に「もう帰ります」と言うと、その人はなぜか何度も私たちに謝っていました。迷いがあるのでしょう。考えてみれば、この人たちもこのままでは、同じように、死んだら戒名もなく、狂った幹部にお経をあげられてしまうかわいそうな人たちで、早く救ってあげなければいけない人たちなんだと思いました。

帰り道、母が「栄子ちゃんがお母さんをお寺に導いてくれたんだから、本当にがんばるよ」と言ってくれました。西荻窪に戻ると、地区の仲間たちがみんなで待っていてくれ、5時半のお寺の勤行のときにお塔婆を立てて、御住職の回向と共にみんなでお焼香して、伯母の供養をしてくれたことと、私がずっと折伏してきた、もう一人のバンドのスタッフである田中愛子さんが、入信を決意し、その勤行のときに無事御授戒を済ませたことを報告してくれました。私たちが葬儀場で読経、唱題していたのもちょうどその頃でした。後日、葬儀場に一緒に行った信心をしていないスミ子おばさんから、「智生がお経をあげ終わったときには栄子の目もだいぶ閉じていたから、あれでかえって来てよかったんだよ」と連絡があったと母から聞き、お寺で供養していただく大切さと、仲間の有り難さ、そして御本尊様の凄(すご)さを改めて強く感じました。

次の日には沼津の実家に戻り、謗法払いをして御本尊様を御安置させていただくことができました。その後、私がいちいち言わなくても朝夕の勤行を勤め、お寺より出ている書物を読み漁(あさ)っている母の姿は非常に頼もしく、父も最近では「絶対に手を合わせない」と言っていたのに、毎日手だけは合わせるようになったと聞き、実家に御本尊様が御安置されているということはなんてすばらしいことなんだと幾度となく感じています。母と一緒に御授戒を受けた横田くんも御本尊様を御下付戴き、12月31日に無事御安置を済ませ、お正月には仲間みんなで初登山会に参加することもでき、戒壇の大御本尊様に御報告申し上げました。


4月からは仏乗寺の副青年部長という大役もいただき、最初の大仕事であった4月23日の総本山での全国青年部大会も支部の目標にはあと一歩届かなかったものの、これまでにない結集ができ、最後まで諦(あきら)めないことの大切さを学び、無事故ですばらしい登山会になりました。

仕事のほうでも、ずっと音楽をやってきたことがきっかけとなり、ある映画監督に認められ、俳優として2本ほど映画に出演し、上映日も決まりました。なにぶん調子に乗りやすい性格なので、あくまでも信心根本に日々の生活のことも受け止めていかなければと思っています。

また、今年いっぱいで取り壊されるはずだった家賃2万円のアパートが、3千遍の唱題行を始めた次の日に、平成14年までは壊されないことになりました。平成14年までは、今いる場所で死にもの狂いでがんばらなければいけないのだと思います。

本年は「折伏実行の年」ということですが、まだ結果が出ていません。私の折伏した親友・沼津の森下君が1人、東京での後輩の浅羽君が2人、折伏成就しました。私も彼らに負けないよう、手続の師である御住職の御指導を素直に拝し、さらに精進し、少しでも広宣流布のお役に立てるよう、支部の仲間と共に努力していきます。

※この原稿は昭倫寺支部の若山さんの御協力で転載しました。



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