大白法

平成12年9月16日号


主な記事

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御法主上人猊下御講義
如来寿量品第十六より 『如来寿量について』


本日は「妙法蓮華経如来寿量品第十六の如来寿量」ということについて申し上げたいと思います。

如来とは、仏の十号(如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊)の一である。

仏様の呼び方には十あるのです。一つひとつの説明は省略をいたしますが、その中で本日は最初にある「如来」ということについて申し上げます。

これは『如来寿量品』とありますように、「如来」ということが十号の代表的な呼称であるとともに、仏身の上から大事な意義があります。

『御義口伝』寿量品の初頭に引く『法華文句』九の文、「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり。別して本地三仏の別号なり。十方三世諸仏の功徳を詮量する故に如来寿量品と言ふ」(新編1675)

上の文中の「功徳」ということは、命の功徳ということです。仏の命が即功徳、功徳は即命なのです。皆さん方の命も仏様の命と変わりなく、過去の功徳によって生まれているのです。ですからこの命を本当に大事にしなければならないのです。

大聖人様は、「如来とは一切衆生なり」(新編1765)と言われております。ここに大聖人様は、本当の意味のあらゆる生命の尊厳という、仏の命が一切に通ずる尊い元を、この一言に喝破しておいでになる。

今の世間の人たちは、この大聖人様の尊い御指南を知りません。ですから平気で命を粗末に扱っているのです。毎日の生活の中で精神的、物質的な欲望ととらわれの中で、自分の命も他人の命も、みんな粗末に扱っておる。ですからこの『寿量品』の内容が、我々の命の中心である仏の命を示しておるという意味において、大事な所以が存するのであります。

次は「十方三世の諸仏」の意義について述べます。

十方三世の諸仏とは、仏の熟益・脱益の化導に約する表示であり、釈尊は久遠以来の熟益・脱益の化導を一代五十年の教法である。特に寿量品に脱かれている。天台はこの釈尊一代の化を締め括る役目より、そこに教示出現する十方三世の仏を総称した言である。

仏知、仏見をもってするならは、この「十方三世の諸仏」として示されたことは、やはり真実であると、私は信ずるのであります。我々の凡眼、凡智による限られた科学からの実証等における認識をさらに超えた超科学の仏典、特に『宝塔品』以来の法華経の説相は、全く科学を超えていると思います。仏の直感による実相の全体的な真理の発現、これは超科学であって非科学ではないのです。非科学と超科学は違います。種々の迷信についてよく「非科学的だ」などと言うでしょう。それは凡人の認識や科学の限界以下の虚偽迷信に属するものを言うのです。

ところが『寿量品』の教えは普通の認識を超え、科学の限界を超えた実在の活動を示されている。つまり凡夫の狭い認識を超絶した時問と空間の無限の真如実相より立ち返って現実を正しく見る。そこに仏の救済の元があるのです。そういう意味で「十方三世の諸仏」の存在が如来であると言われておるわけであります。しかし、形としては一代仏教の中にあらゆる諸仏が説かれておりますので、その意味をまとめて言われておるのです。

次に、「二仏」とは、

二仏とは、真身と応身である。真身の如来とは、境と智の和合によって因が生じ果が成ずる。この実の道(因)に乗じたって、正覚(果)の悟りを成ずる仏身をいう。いわゆる境如・智如冥合して来たるところの如来である。

『寿量品』の訓読のところでは、「如」は「空」であるという意味を述べました。空の悟りは一切万物を対象とし、包容するので、そこにはまた無限の広さがあるわけです。したがってこの仏の悟りの無限の広大な意味を、ここに「如」という字において示しておるのであります。

無限絶対の「境」の上から一体となった「如」。つまり一部分の真実を知り得たというのではなく、法界全体の存在、乃至十界の生命のところを「境」というわけで、それは「境の如」である。それを如実に知るところの「智の如」とが一つになって最高の道が生じ、そこから仏身を顕し来たるものであるから「如来」と言うのであるという意味です。

応身とは、境智冥合による慈悲の功徳が、その境妙・智妙の遍満に伴って、各処に於て衆生の機に応じ現ずる。いわゆる実の悟りに乗じて、慈悲により三界の迷いの中にたり正覚を成ずるのは、応身の如来である。

これは衆生の苦悩を観じ、これを救う心より来る慈悲の仏身であります。このように仏身を「真身」と「応身」に分けたのが二仏という意味であります。

次に、「三仏」とは、

三仏とは、法・報・応の三身である。法身如来とは、法の境が法界に遍く存在し、そのままの十界三千であることをとする。また、遍く存するゆえに、動くことなく恒に至るをという。

「法身」とは、法界に遍く存在しておるところの法のありのままの姿、十界三千の姿。そこにはまたあらゆる個性個物の状態、存在と無限の変化を自ずから含んでおるわけであります。その十界三千の在り方、遍く存在する法界の内容を「如」とするのです。

この仏の身は、あらゆるところに遍満しておるから不動であるとともに、どこにでもあり、どこからも来るわけです。不動でしかもすべてに来るということは矛盾するようですが、真如は絶対のところにそれ自体が個と全の対立、言うなれば矛盾があり、それがそのまま全体として顕われ、かつ包含されているのです。これが法身如来の「如来」という意味であります。

報身如来とは、法の智慧がよく真理に称(かな)い、合することをとする。また、その智が一切の境に遍満して至らざるをなきをという。

報身如来の「如」とは、無辺に遍く存在する「境」に合致する智慧をもって「如」とするのです。つまりよく真理に称(かな)うところが「如」なのであります。そして「来」とは、この智慧が一切の「境」に遍満して赴くをいいます。智慧が一切に遍満するが故に、至るところに赴き来るのであり、これが報身の「如来」という意味であります。

応身如来とは、境地冥合して起る大慈悲により、処々に応現して八相成道(下天・託胎・出胎・出家・降魔・成道・転法輪・入涅槃)する。このように、処々応現するをとし、法輪を転じ、法相のごとく説くをとする。

仏の化導は八相の成道であるということが仏法の通説であります。

先ず一に「下天」とは、仏が兜率天(とそつてん)に上って時を待たれ、時来たって衆生のおる国土へ下ることです。欲界六天のうら四番目の兜率天が知足の意義より仏の処する天として適っているのです。次に二の「託胎」とは、母たるべき方の身に宿ること。三の「出胎」とは、生まれることで、この時いわゆる「天上天下唯我独尊」の語を宣するのです。四に「出家」とは、悟りを求めて俗家迷界の環境より出ることです。五に「降魔」とは、最高の仏道を求める時、陰魔・煩悩魔・死魔・天子魔等、生命の内と外より無量の魔が現れて修行者を責め、退転を図ります。これを最終的に打ち破るのが「降魔」です。

六に「成道」とは、魔を完全に降ろして、そこに必ず大悟徹底の境地、すなわち成仏を得ることです。七に「転法輪」とは、仏はその成仏の目的として必ず迷いの衆生を導かれます。つまり衆生のために法を説いて救済の任に当たるのであります。八に「入涅槃」とは、化導の縁尽きて入滅されるのであり、これが応身仏の出現の相です。

この八相成道は、下種本仏たる大聖人様の御一生を拝すると、やはりきちっと存するわけであります。我々は宗祖大聖人様の八相成道のお姿を無二の信心をもって常に拝さなばなりません。

あらゆるところに至って、それぞれ実際に仏の身を現ずるところが応身如来の「来」である。それから応身は法を説かれるのです。法身・報身は直ちに法を説かれるのではなく、法を説くのはあくまでもこの応身です。法界法身と一如した報身の智慧、それは仏の深い境界であり、それを元としてあらゆる法の姿を適切に説いて衆生を導かれる。その教説は真実にして聊かも誤りがないところが応身如来の「如」であります。

それでは現在、我々が信心の上から、直接応身如来の御説法を聞かなければ成仏できないかというと、下種仏法の化導はそうではないのです。成仏の本質は報身にあるので、「南無妙法蓮華経日蓮在御判」と御本尊に顕し給うのは、久遠元初自受用報身如来の人即法・法即人の御当体なのです。そのにまた日蓮御名としての応身がおわします。

ですから皆さん方が、御題目をしっかり唱えていく上において、そのまま自ずから報身の広大無辺な妙境妙智を授かっていく。そこを具えつつ、応身の大慈大悲の訓育にいたがって日常の所作仏事、あらゆることに真心をもって誠実に対処していくことによって皆さん方に地涌の菩薩たる尊い人格が顕われるのであります。

猊下御講義

次に、

寿量品の「如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず」(新開結432)の文は、円満如実の境を顕すゆえに法身如来、

「非如非異。不如三界。見於三界」の文の「非」とは、実相を一面的、一方的に見てはいけないということです。「如」の平等にとらわれると、そのところに誤りが生じ、異の差別になずむと、そのところに塞がりが起る。これが三界の迷いの衆生の見るところです。

仏は、その一方的な見方にとらわれず、その全体を照らし、また個々の在り方を矛盾なく見る故に、その当対は円満にして真実である。これはその悟るところの境を主体とする故に法身如来の意義であります。

「如来は如実に三界の相を知見す」(新開結432)とは、如々の智が如々の境に合し、究竟の証悟を示すゆえに報身如来、

この「如々の智」というように、「如」と「如」を二つ重ねてありますのは、大乗仏典にいろいろ説いてあるのです。天台も『寿量品』の法報応の三身について、「如々の智、如々の境」と示しております。

これは私の見解ですが、「如」が平等に横の広さを示すものであるならば、次の「如」は縦に深さを示す意味かと拝するのです。ですから「如々」とは、広く深いという意味となり、つまり法華経の迹門の諸法実相と本門の久遠実成という本来の意義が、ここに「如々」という表現において示されておると思うのです。

諸法実相の奥底の法界全体を、十界平等の広さと久遠の常住不変の深さをもって示したのが、この「如々」という字であり、その本仏の「如々の智」をもって「如々の境」に合したところが報身如来ということであると思います。

また、「或いは己身を説き、或いは他身を説き・・・或いは己事を示し、或いは他事を示す」(新開結432)とは、形声の益を以って衆生に赴くゆえに応身如来である。

この「己身」とは、仏の化導の中で中心主体となる身を言います。すなわち法身から応身が出る故に法身を己身とし、応身を他身とする。また仏界は能く証り導く故に己身で、九界は導かれる故に他身となる。また仏の真実の語は己身と説き、他の意にしたがう方便の語は他身を説くのです。

次の「己事」とは、仏の浄善の所作と功徳等であり、これを示すのです。「他事」とは、仏の広大な善徳に報われた依法の国土を示すことを示すことであります。さらに、「形声の益」とは、身と口の説法により利益をもって衆生を導く、これが衆生に対する応身仏であります。

次に、

本仏とは、本地の三身。迹仏とは、中間(ちゅうげん)に出現する三身である。

以上、悉く如来を以てその通号とすると示している。

これは、『寿量品』の久遠から拝しますと、五百塵点の久遠のところに本地の三身がおいでになる。それから以降において霊山及びその中間に出現するのが迹仏の三身であるということで、「如来秘密」は本地の三身で本仏、「神通之力」は用の三身で迹仏と分けられるのです。

次に、

「本地三仏」とは、爾前迹門では法身を体とし、報身・応身を用(ゆう)とするが、寿量品では久遠の昔に証得する三身を倶体倶用とする。故に諸経と異なる。

法華経以外のあらゆる経典は、今世に現れ、修行をして悟りを開き、その悟りの法によって仏と成る。円教と別教を混ぜた法の修行により報われた仏は、単独の報身の姿を現ずる、それが奈良の大仏です。奈良の大仏は、あの大きな身体で何を表したかというと、報身の大きな悟りの境界を示しておるわけです。、しかし、それも法身が体になっているのです。

『開目抄』に、「法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども、応身・報身の顕本はとかれず」(新編 536)と仰せのごとく、久遠実成がありませんから、その報身の悟りも法身が体で報身が用となります。また応身は、空・仮・中等の法を悟って現れる仏ですから、当然、法身が体で応身が用です。ですから法身が体で、報身・応身は用であるという形が爾前迹門の仏身であります。

しかるに『寿量品』では、久遠の昔に体と用、すなわち三身がすでに相即して存在しておる。今世のみでなく、三身がそのまま久遠に在り、倶体倶用であることを説かれたのです。それが本地の三仏であります。

これについて、天台は五種の顕本の最初として「若し過去は最初所証の権実の法を名けて本と為す」(法華玄義七下)と述べて、未だその明らかな本地三身の体相を示していない。これは、寿量品の文底に秘沈する仏身であり、本門内証の寿量品の付嘱を受けた上行菩薩、末法出現の日蓮大聖人が顕し給うからである。この仏身については、次の講に譲る。

要するに、天台はその明らかな本地の三身の体相を示していないのです。ここに「過去は最初所証の権実の法」とのみ述べて、その人法の体相をはっきり示していないのです。つまり、本地の仏身については、天台はこれを述べる資格を授かっていないのです。天台はあくまで法華経の『嘱累品』のほうの一経付嘱を受けたのであって、『神力品』の結要付嘱ではないからであります。

天台は内鑑冷然(ないがんれいねん)といって、深い仏法の本地を知っているわけですけども、これを説くためには自分自身が本仏としての実際の修行と、その当体を顕さなければならない。しかしそれは付嘱を受けていないから行うことができないのです。

さて、末法に出現して結要付嘱の受者として、その久遠の本源の仏身を身に当てて行じ顕し給う方が宗祖日蓮大聖人であります。この仏身については、次講に述べたいと思います。次に、

「寿量とは詮量なり」とは、仏の寿命を謹らめる意である。寿命を三身について論ずれば、如理(真理)を命とするは法身、智慧を命とするは報身、同縁の化導に於る限りある寿を命とするは応身である。法身の如理の命は、有無を超えて不生不滅であり、これ法身の詮量である。報身の智慧の命は、智よく無限の境に合するゆえに、智も無量無辺常住不滅であり、これ報身の詮量である。応身の同縁の命は、衆生との縁に依るゆえに、長短があり一定しない。これ応身の詮量である。

「詮量」は「詮(あき)らかに量る」という意味であります。詮は「明らめる」という意味も持っています。さて、仏の寿命を明らかにする時、正しい真理に基づくことが先ず主体要件です。これを仏の命とするのは法身仏であります。この真理を悟る智慧の命が報身仏。縁が同じとは、同じ国土に生ずることで、仏と衆生が値(あ)い、そこに縁が結はれる。その仏の身は、時間的にも空間的にも限りがある肉身で、これを応身と言います。応身の寿命には限りがあるのです。

次に、寿量品は三身の寿命を通じて明かすが、別意に於ては正しく報身の寿命を詮らめるのである。すなわち報身の智慧は、上法身に冥じ、下応身に契(かな)い、三身宛足するゆえである。故に一身即三身というとき、別しては一身とは自受用報身であり、三身とはその報身に即する三身である。

皆さん方が、観念文で大聖人様への御報恩のとき「一身即三身、三身即一身」と念じますね。あの「一身」という意味は「主体的には」ということで、これは基本的な意義からすれは、報身がその「一身」になるわけです。自受用報身の報身ですね。そしてその報身にそのまま三身が具わるわけです。それで一身即三身・三身即一身という『寿量品』の意義が、観念文の上に示されておる所以であります。

それでこの報身の智慧は「上法身に冥じ、下応身に契う」というのは、つまり十界三千の広く深い法界の真理が存在しても、これを知るところの智慧がなければ、その真理、すなわち妙法はないのと同じことです。本仏の智慧によって無限の法理を照らすことによって、その「境」と「智」が冥合する。したがって、上の法身の「境」が報身の智慧に冥ずる、深く密かに合するのを「上法身に冥じ」と言うのです。

そこで、境智冥合したときに何が起るかと言えば、いわゆる無限の慈悲が起るのです。世間の中にもありとあらゆることは、その事情や理由がよくわかれば、判ったところから、判った内容の範囲において、迷っておる人がおれば、それを救ってあげようという気持ちが、我々凡夫でも起るわけです。

仏様は、法界全体の広大な悟りにおいて「境」と「智」が合致するところ、その照らす対境がすべてにわたるために、起こす慈悲も当然広大であり、あらゆるところに応身として顕われてくるのです。これが「下応身に契う」ということです。そのとき上の法身も下の応身も中の報身によって現れる。すなわち報身がその中心になるわけです。そこに三身が円満に具わるということを述べているのであります。

また、通じては三身の各々に他の二身を具えるゆえに、三身相即の仏身となる。いわゆる横(性徳の三如来)ならず、縦(修徳の三如来)ならず、不縦不横・不思議の三如来が、寿量品の如来である。

報身の智慧において三身が顕れたときに、今度は報身を挙げれば報身に、法身を挙げれば法身に、応身を挙げれば応身に、そのまま他の二つの身が久遠以来具わっていると説くところに法華経の本門の仏身があります。これを三身相即と言い、決してこの三が単独には存在しません、このところが実に本門の仏の勝れ、また難信難解な所以であります。

「いわゆる横ならず」、というのは、本来、一切衆生は円教の十界互具の理によって仏の命、すなわちその徳を持っているけれども、実際はその性分だけであって、実際には仏の用きがないという意味で、正因仏性中の三如来、つまり横に性質としてのみ具わるということ、これが「性徳の三如来」です。これは、それだけでは結局、仏の勝れた用きが出てこないわけで、本門の三身相即の仏ではないのです。

それから、「縦ならず」、というのは、まず最初に法身があり、次に報身の智が出て、それから慈悲の応身が出てきたというように、順序段階から言えば、そのように考えられますが、それは爾前迹門に説くところの法身が根本の体であるところからの応身の迹用という形であって、修行によって成就した縦の段階による「修徳の三如来」である。したがって本門の三身ではないということです。

そこで、「不縦不横・不思議の三如来が、寿量品の如来である」とは、縦の次第による仏身ならず、横の並列による性具のみの仏身ならず、三身がそのまま相即相具する倶体倶用の「不思議の三如来」が『寿量品』に説くところの常住の如来であると説かれております。

この寿量品の仏に、種脱・本因本果の別があり、これを顕し給うのが宗祖大聖人の文底内証の法門である。これについては、前述のごとく次講に譲る。

これは本門寿量品に二意があり、それは本因妙と本果妙の違いであります。そこには下種の仏様の一身即三身・三身即一身と、脱益の仏様の一身即三身があるのです。このけじめを示される方は、末法出現の久遠の本仏たる宗祖大聖人で、それは『寿量品』の文底にある内証の寿量の法門なのです。これは次の講に述べたいと思います。

要するに、内証の寿量品二千余字に説く寿量本仏の実体実義は、久遠元初即末法出現の下種本仏・日蓮大聖人を以って究竟し、その魂魄・法体は、文底寿量本地三仏たる三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊であり、ここに末法の衆生の帰依すべき即身成仏の大法が顕示されたのである。

「内証の寿量品」というのは、釈尊の『寿量品』ではないのです。文底内証の『寿量品』は、その『寿量品』そのものが地涌の菩薩に譲られておるのです。一言にして言えは、久遠元初の成道を二千余字に述べられている。それを「内証の寿量品」と言うのです。

ですから「如来一切所有の法、如来一切自在の神力」等の四句の要法に結んだあの内容というのは、久遠元初本因妙の文の上の『寿量品』なのです。釈尊が説かれた『寿量品』は、釈尊の化導の立場の上から述べられた脱益の『寿量品』であり、釈尊のお身体を中心とした五百塵点劫の顕本であります。「内証の寿量品」は、さらにその本果の仏を超えた、本因妙の根本のところを指し示しておるところの『寿量品』であり、それが御相伝の法門なのであります。

大聖人様が御出現になって、あれほどの大難をお受けあそばされ、しかもその根本の久遠元初自受用報身の現証としての、竜の口の御難において発迹顕本あそばされ、また御一生において法華経の文々句々の悉くを身をもってお読みあそばされたその御当体において、仏の命をもって顕された御本尊様を正しく拝することは、やはり「内証の寿量品」を正しく受けて初めて判るのであります。

ここに至るまでの御法門、御化導の段階は実にたくさんありますが、一往、最後は括った形で申し上げた次第であります。


皆様方には、遠い所からも総本山に御参詣になられ、この講習会に参加せられまして、本当に御苦労様でございました。皆様方のこのお気持ちは、そのまま大聖人様の鑑み給うところであり、現当二世の大願を成就するところの真の功徳を成ずることを確信するものであります。

どうぞ、これからお帰りになって、多くの方々から聞かれた内容も含めての信心修行に邁進され、来たる平成14年の宗旨建立750年に向かっての自行化他の増進を心からお祈り申し上げまして、本日の私の話とする次第であります。(題目三唱)

※猊下の御講義テキストの内容はボックスで表示しました。



私と鼓笛隊


☆ 西中国地方部鼓笛隊 中川香菜恵(中二)

私は、鼓笛隊に入った時、ただカッコイイから、勧められたからといった理由で入っただけで、音楽にはまったく関心がありませんでした。それに私は、ちょっと暗い所があって、友達もなかなかできませんでした。練習がきついから、先生やスタッフにおこられてぱっかりだからなどの理由で休もうと思ったこともあって、ぜんぜん楽しくありませんでした。

そんな時、お母さんに「今年で鼓笛隊を辞める」とぽろっと口にしたら、「お題目を喝えて、よく御本尊様と相談しなさい」と言われ、毎日一時間以上の唱題をして、お寺での早朝勤行にも、地方部での合同練習にも参加しました。そうやっていくうちに自然と友達もでき、楽しくなかった練習も、笑顔満面でできたりし、先生から「メジャーをやってみない」とまで言われました。

メジャーには、何か私の使命があるのではと受けとめ、唱題をしてメジャーの試験に合格できました。なぜ私にメジャーを勧めたのかと先生に聞くと、「香菜ちゃんは、入隊してきた時、すごく暗かったし、あまり積極的でもなかったのに、お題目を唱えて明るくなったし、友達もいっぱいできて、小さい子のめんどうを見たり、いろいろな面で変われて、これをみんなに教えてあげてもらいたくて」と言ってくださいました。そういえば学校の友達にも「香菜って、なんかすごく明るくなって、声をかけやすくなった」などと言われました。

コンクールでは「西中国のメジャーはすごい」などと言われ、御住職様にもほめられました。暗くて、友達も少なかった私が、今は隊員全員と仲良く、一人ひとりへの思いやりもでき、本当に、唱題をしてよかったなと思いました。鼓笛隊は、ただ演奏だけをするのではなく、信心も深めるということを、御本尊様は教えてくださいました。私は、来年一年で卒隊ですが、だからこそ、今年より一歩でも成長した演奏ができるようにがんばりたいと思います。


☆ 北海道地方部鼓笛隊A 滝浪藍(中三)

私は鼓笛隊コンクールに第一回目から参加させていただきました。毎年とても感動していました。中でも今年は卒隊というだけあって今までで一番感動しました。私は今年シロホンをやらせていただきました。シロホンは重たい楽器だし、重要な楽器なので練習にはほとんど欠かさず行っていました。

練習する前は必ず一時間唱題をしていました。そのせいか心がスッキリして練習がうまくいきました。シロホンがうまくできるようになってまきたらすごく楽しくて練習が待ちどおしくなるくらいでした。鼓笛のみんなと会えるのも楽しみでした。みんなすご仲が良いので団結力がとてもあると思います。それが本番でも発揮できたと思います。

私は一つの事をこれだけ長い間続けられたのはあまりありませんでした。それだけ鼓笛というものには何か光るものがあるんだなと実感しました。一つの事を続けたら達成感がわいてきました。その反面、少し悲しかったです。これでもう終わりかと思うと、とても寂しい気持ちになりました。正直なところ、もっとやりたかったです。鼓笛のみんなとも、あまり会えなくなります。悲しいです。

鼓笛コンクールはずっとずっと続けてほしいです。全国各地から集まってやるということは、とてもすぱらしいと思います。全国の鼓笛隊のみんなで、毎年この感動をずっと味わってほしいです。コンクールは賞を取るのも大事かもしれません。でもそれだけが目的ではないと思います。他の鼓笛隊との交流も大切だと思います。他の鼓笛隊の演奏を見たり聞いたりすることで、自分たちの悪い所を直し、良い所は伸ばせると思います。だから年々レベルが高くなってるのだと思いす。

この鼓笛隊コンクールの感動はずっと心の中に残り続けると思います。鼓笛を続ける人は、絶対にくいの残らないようにがんぱってほしいです。最後に、個的に入って本当に本当によかったです。

鼓笛


☆ 東京第二地方部鼓笛隊 菅野洋子(小六)

私は、小学校三年生の時から鼓笛隊に入っています。その時から鼓笛が好きでした「コンクール」っていうのもやったこともなかったし、一番入ってよかったなと思ったことは、他の支部の隊員の人と友達になれたことです。鼓笛隊に入ってなかったらまったく知らない人なので入ってよかったなと思いました。

今年は、横笛をやりました横笛の口の動きは、むずかしかったです。でも、家でちゃんと練習したから、次の練習の日には吹けました。横笛を教えてくれる、スタッフの方の就職先が練習場よりずっと遠い所になっちゃったので、さびしかったです。それでも、毎日、練習してたから、きれいに吹くことができるようになりました。合宿は、6月に1回、7月に2回あって、その合宿の日まで、早く行きたくてたまりませんでした。

今年は、北関東地方部の人と友達になれました。コンクールの順番も、北関東地方部の前で、もうすぐ、私たちが演奏の時になったら、手をふったり、ガッツポーズをしてくれたのでうれしかったです。コンクールは、スタッフの方に注意されたところも、大きく出すところも、ちゃんとできたのでよかったです。全部の地方部が演奏し終ったら、「唱えてゆこう妙法を」を歌ってみんなでもり上がりました。

いよいよ結果発表です。「金賞、東京第二地方部」。みんな立ち上がって喜びました。私も、立ち上がって、そのしゅんかんに涙が出てきました。今年、賞を取れたのは、唱題をいっぱいしたからです。今年は、今までより、いっぱい唱題をしました。来年、私は、中学生だから、小さい子のめんどうを見ていけるようにしていきたいです。

今、鼓笛隊に入ってない人は、ぜひ入ってみてください。練習は、つらい時もあるけど、賞を取れた時のうれしさは、がんはって練習にはげんでよかったなと思いました。スタッフの方もていねいに教えてくれます。だから、みんなで練習にはげんで、思い出になるコンクールにしていきましょう。

※写真は妙教誌のものです。



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