自身の罪障消滅を果たし、福徳を具えていくためには唱題・折伏・育成・御供養のいずれもが大事な修行です。共に励まし合って、解怠や臆病、慳貪の心を誡め、悔いのない修行を成就してまいろうではありませんか。
体験発表 『支部一丸、寺院返還期して』
蓮秀寺支部 寺師友明
本日は第3回南九州地方部総会まことにおめでとうございます。私の所属する蓮秀寺は、昨年末、住職だった人が離脱僧となったことで皆様方の記憶に新しいことと思います。今日は、その時のことと併せて私自身の体験をお話いたします。
10年程前、看護婦をしている妻と知り合い、平成2年1月、初詣でのことをきっかけに、信心の話を始めることができました。それまで折伏をしたことがなかった私は、2時間もかけて話をしました。私の長い話を意外にも彼女は真剣に聞いてくれました。何とか折伏させていただきたいと、その日から、御祈念の唱題が始まりました。それから1週間後、彼女は友人から、3カ月でよいから、「聖教新聞」を取って欲しいと言われたそうです。当時、私の一家は、親戚一同、北九州の法霑寺の法華講に所属していました。日蓮正宗の信徒の中心は法華講というお寺の雰囲気を見ていた私は、何としても彼女と法華講で、共に信心をしていきたいと強く思いました。
しかし学会の友人は学会幹部と結託し、勝手に御授戒の日を決めて、「隣に座っているだけですぐ終わるから」と彼女に説明したそうです。すぐに北九州のおじに相談し、3時間後、おじが折伏の応援に鹿児島までわざわざ来てくれました。勇気付けられた私は、必死におじと2人で彼女を折伏し、「5年後には学会と法華講の信心では必ず差がでる」と最後に伝えました。平成2年6月、彼女は、御授戒を受け、御本尊様を御下付戴くことができました。
その後、結婚した私たちは、平成3年の蓮秀寺法華講支部結成に伴い、法華講に移籍させていただきました。お寺への参詣も思うようにできるようになり、初代御住職・後藤史道御尊師のもと、折伏、唱題の大切さを教わりました。その頃の私たちは、小さな支部ではありましたが、どこにも負けないという自信と、信心の楽しさで活気に満ちあふれていました。支部全員が一丸となり、折伏成果が誓願目標の350%
を越えたこともありました。毎日、学会員の家に折伏に出かけ、門前払いはしょっちゅうで、時には怒り狂った学会員に殴られて帰った日もありました。御住職の「それもこれも、すべて自分たちの行であり、罪障消滅の道である」との、厳しくも温かい御指導のもと、毎日がんばりました。
ところが、平成9年に二代住職・山根雄務に替わってから、支部の雰囲気が変わっていきました。信心に対してあまり厳しいことを言わなかった山根雄務に、ある人は物足りなさを感じたのか、だんだんお寺から遠ざかってしまいました。また逆にそこがよいとお寺に来るようになった人もいました。支部の熱気が冷め始めたのは、唱題会や勉強会の日、お寺へ行ったら鍵がかかっていて、誰もいなかったということがしばしばあってからです。
また、御報恩御講での話が、フランスの地図を広げて「私はここの事務所に在勤していた」という説明や、ただ御書を拝読するだけという日もありました。 私が一番あっけにとられたことは、学会員宅へ折伏に行くとき、事前にコンタクトを取り、了解を得てから行くという協定を、住職が地元学会幹部と結んだことでした。どこの世界に「今から行きますよ」「はいどうぞお待ちしております」というような学会員がいるでしょう。しかし、御法主上人猊下の御名代として蓮秀寺にいらっしゃっるのだからという思いから、誰も文句など言えません。そのうちに、だんだんと折伏に出かける人も少なくなり、支部の雰囲気は暗くなってしまいました。
一方、住職はどうかというと、自分の趣味に没頭し、暇がありません。古びた茶だんすや食器類など、いわゆる骨董品を買い漁(あさ)り、それをあちらこちらに飾っていました。お寺の庫裡だけにならまだしも、控え室、そして、遂には本堂にまで及んできました。窓という窓にはすべて簾が下がり、照明も提灯のようなうす暗い電気に器具ごと変えて、まるで人里離れた田舎の邪宗の寺といった雰囲気に、私たちは嫌気がさし、求めているものと何か違うと感じ、お寺へ参詣する回数が減っていったのです。
そして、平成11年、支部総登山から帰ってきた2日後の11月30日、山根雄務は大石寺を離脱しました。次の日、布教区内の御尊師方と支部の主だったメンバーが私の家に集まり、宗務院からお越しくださった御尊師より、正式に山根雄務が離脱したとの発表がありました。泣き崩れる婦人部の方、畳に拳を叩き付けて悔しがる壮年部の方もいました。私自身、副講頭として、これから先、講頭とどうやって支部をまとめていけばよいか判らず、目の前が真っ暗になってしまいました。
幸いにも、蓮秀寺支部の誰一人として、山根雄務について行かなかったことが、せめてもの救いでした。まさか手続の師と仰いだ住職が、邪宗池田創価学会の片棒を担いでいたとは信じたくありませんでしたが、その後の「聖教新聞」に掲載されていた山根雄務の手記を読み、驚きました。御法主上人猊下の御恩に報いるどころか、お寺と、御本尊と、そして自分の魂を売り渡したのは事実です。
今、私たち蓮秀寺支部は、南九州布教区宗務支院長・芦原法雲御尊師のお計らいにより、西大宣寺にお世話になっております。芦原御尊師には、御法務極めて御繁多の中、私たちの面倒まで見ていただいておりますことに、この場をお借りして、厚く御礼申し上げます。
私たちは今、自分たちのお寺へ行きたくて、行きたくて、たまりません。邪教池田創価学会にお寺を奪われたことが、悔しくてなりません。自分たちのお寺が奪われるということが、どれだけ惨めで悲しいことか、お寺があるということが、どれだけ幸せなことか強く感じています。
もし身近に、ふだんあまりお寺に参詣されない方がいらっしゃいましたら、ぜひ、このことをお伝えください。この不況の中、仕事が忙しいというのはある意味で功徳といえるでしょう。しかし、忙しいからお寺へ行けない、御本尊様の前に座れないというのは、とんでもない間違いです。そのこと自体が我々を御本尊様から引き離そうとする魔の仕業であるということに、気が付くべきです。
平成14年の30万総登山まであとわずかしかありませんが、1日3000遍の御題目を唱え切り、がんばってまいります。また現在の折伏の状況ですが、新たに2人の方が入信され、少しずつではありますが前進しています。
御法主上人猊下は、「この一年に自分の信心において立派な折伏をし、一人の信徒を立派に導かせていた
だこうという、その願いをもって唱題をするところ、御本尊様は必ずその願いを聞き入れてくださる」(大白法 543号)と仰せであります。蓮秀寺が返ってくるその日まで、我々一同、唱題を根本に一人が一人の折伏を実行し、邁進してまいりますことをお誓い申し上げます。
※この原稿は本行寺支部の大嶋さんのご協力で掲載いたしました。