大白法

平成12年10月16日号


主な記事

<1〜4面>

<5〜8面>


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平成12年度(第6回)法華講連合会夏期講習会
御法主日顕上人猊下御講義 テキスト
第4期 6月18日

宗祖大聖人下種本門における如来寿量・無作三身について

『御義口伝』に云く「如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無作の三身なり。今日蓮等の類の意は、総じては如来とは一切衆生なり、別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり寿量品の事の三大事とは是なり」(新編1765)



(イ)「如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり」

如来の通号たる十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の眼前における代表としては、先ず本門を開顕された釈尊と定められ、更に総じては十方三世諸仏と定め給うこと。法華経を中心とする一代仏教の教相の趣意による教示と拝せられる。『開目抄』に、「『然るに善男子、我実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺、百千万億那由他劫なり』等云云。(中略)此の過去常(じょう)顕はるゝ時、諸仏、皆釈尊の分身なり」(新編552)とあるごとく、本門教主釈尊の常住特勝に基づき、釈尊を以て括りつつ、総じて熟益・脱益の如来を示されたのである。



(ロ)「別しては本地無作の三身なり」

総に対する別として本地を無作三身として示されのは、脱益に対する下種の仏身を明かし給うと拝される。

「無作」の語

「無作」の語は、本来天台において、一仏仏教の教味を蔵・通・別・円の四教に判じたが、その各々の理を示す生滅・無生・無量・無作のうち、円教の教理としての無作から来たと思われる。蓋し円理とは十界全体に渉り、即空・即仮・即中、円に融ずると説く。一に即して一切万有すべて互具するから、円の悟りに住すれば、上下を択(えら)ばず真実相に達する。したがって、後天的に種々に修行して特別に作りあげる必要がない。造作をしないで得るから、無作というのである。

「無作三身」の用語

さて、天台は寿量品の仏身として、一身即三身・三身相即を述べたが、無作三身の語は使用せぬ。妙楽も法体法爾とまで示すも、無作三身をいはぬごとくである。これを明らかに述べたのは、日本の中古天台との見方が一般である。すなわち、天台の三身は、その所証の法身が法界遍満するとはいえ、報身・応身の所在はあくまで釈尊にありとする。対して中古天台等に見る無作三身の仏は、法界全体に三身そのものを認めるのが異なっている。

しかし、かかる無作本覚の三身は、本門釈尊の仏身を、単に法界に拡大するゆえに、法界の中心主点たるべき能成・所成の仏体と所作に欠けており、空漠たる思想的・思弁的存在のみとして、崇高なる仏法の自行化他の功徳を明確に成ずることが出来ないのである。

下種本仏の無作三身

宗祖大聖人は、結要付嘱の大権より本門の仏身を教示し給うに当たり、釈尊が本果妙脱益(だっちゃく)の化導上に説かれた久遠の三身の奥底に存する、本因妙下種の自受用報身に具わる三身につき、凡夫即極の義を以て無作三身の語を示し給うた。すなわち、教義上、釈尊・天台・妙楽・伝教等の明確に説き得なかった久遠元初本因名字の成道を説かれたのが『総勘文抄』である。それとは、「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御座せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき。」(新編1419)の文であり、これこそ凡夫本仏の実修実証にして、あらゆる経論釈に未顕の、しかも仏法の本源を確定する大法門である(『当体義抄』にも同義の文多くあれども省略)。宗祖の無作三身とは、他門の一切の空漠たる偏解と異なり、正しく実修実証の体徳に備わる仏身である。

『総勘文抄』の文における久遠元初自受用身と無作三身

すなわち、文の「五百塵点劫の当初」とは久遠元初であり、「凡夫」とは無作の成道を示し、「知ろしめす」とは能く境に称(かな)う如々の智で、「我が身は地水火風空」とは、能く智に称う如々の境である。故に、この境智冥合は、久遠元初凡夫即極の自受用身を示す文である。また「知ろしめす」とは、能く成ずる智で無作の報身。「我が身」等は、能く成ずる境で無作の法身。この「境智冥合」するところ、大慈悲の起用あるは無作の応身である。この三は、また無作の妙体・妙宗・妙用であり、法身・般若・解脱の三徳である。宗祖大聖人がこの仏身を示し給うことは、久遠即末法の正理に基づく大聖人御自身の当体即久遠元初自受用身にして、無作三身の本仏なのである。

自受用無作三身の日蓮大聖人における現証

更にその現証は、釈尊・天台等、何人も行じたことのない法華経全文の身読であり、三類の強敵による竜口の断頭場裡に金剛不壊の仏身を顕し給い、その一期化導の実義を三大秘法に顕示されたのである。



(ハ)「今日蓮の類の意は、総じては如来とは一切衆生なり。別しては日が弟子檀那なり」

この文は、先ず如来とは一切衆生なりとする、一般には耳を疑うごとき不可解の文を拝する。『船守弥三郎御書』『教行証御書』等にも同様の指南がある。しかし、これこそ寿量品の文底における総の法門である。

一切衆生、理に約せば如来(無作三身)なり

寿量品の文底・元意においては、能証と所証の合一の中で、所証の法界全体が、無作三身の如来なのであり、これを「総じては一切衆生」と仰せられたのである。

『総勘文抄』に「五行とは地水火風空なり。(中略)今経に之を開して、一切衆生の心中の五仏性、五智の如来の種子と説けり。是則ち妙法蓮華経の五字なり。此の五字を以て人身の体を造るなり。本有常住なり、本覚の如来なり」(新編1418)と説き給う。寿量品の眼を開けば、法界の個性悉く無作三身であると示されている。法界の五大の所成の身は妙法の当体となるゆえに、非情の桜梅桃李においても、その華果青葉等はそのまま無作の法身、時節をよく知って転変する智慧は無作の報身、四季それぞれの用きを顕し、有情の依り処となるは無作の応身と見るべく、また鳥獣等、各々の身分は無作の法身、分々の智慧は無作の報身、己々の作用は無作の応身である。人類もまたしかり。五体身分は無作の法身の境、分々の慧解は無作の報身の智、種々の作業は無作の応身の用である。あらゆる環境中の作業工夫文化も、一切衆生の色心の二法より生じた産物であり、その当体妙法蓮華経である。そのすべての当体所作は、本来、無作の振舞いであり、故に法界一切は無作三身である。ここに一切衆生の生命尊厳の基本的意義が存する。また一切の道徳の根源の規範が存するのである。

事に約する如来(無作三身)

但し、この意義は、寿量本仏の照らす境智の妙法五字によって初めて明らかとなるのである。したがって、寿量本仏の指南に従って妙法五字を信じ行ずることがなければ、それは空無に等しいものとなる。すなわち、無作三身の本主本仏とその所証の妙法を受持信行することにより、初めて無作三身の体と用が具わるのである。故に、次に「別しては日蓮が弟子檀那なり」の文は、下種本仏として出現し、身命を抛って根源の妙法蓮華経を唱え弘める日蓮とその弟子檀那が、真実の寿量品の如来なりと示されるのである。



(二)「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり」

この文は、前来の趣旨を更に明確にされるもので、末法の法華経の受持身読の行者を以て、真実の寿量品の無作三身の仏なりと示される。ここに言意自ずから総別あり。総じては、日蓮大聖人の教えを受け、疑いなくる弟子檀那が無作三身の功徳を成ずるのであり、別しては、一閻浮提第一の法華経の、行者日蓮こそ、末法出現の寿量品無作三身如来であるとの宣言である。



(ホ)「無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり」

この文は、正しく寿量品の本仏たる久遠元初無作三身、末法に日蓮と出現して顕示し給う、本門の本尊・大曼荼羅の当体における人法一箇を説き給う文と拝される。



(ヘ)「寿量品の事の三大事とは是なり」

この文は、
 一に、本門寿量品の本尊・人法一箇の三大秘法が具わることを示す。
 二に、寿量品の根源・久遠元初の三大秘法の修行証得を示す。
 三に、結要付嘱の法体は久遠元初の三大秘法であることを示す。
 四に、究竟即の無作三身如来たる日蓮の当体が三大秘法であることを示す。
 五に、宗祖御一期の化導は悉く三大秘法であることを示す。
概略五点を挙げた。有の一々の文証は、『三大秘法抄』その他各御書に枚挙の暇がないが、今は省略する。


以上、下種仏法たる宗祖大聖人の久遠元初寿量品の如来・無作三身の意義を、『御義口伝』の文によって拝述した次第である。


※猊下様の御講義の内容は2面から4面に渡って掲載されましたが、編集の都合上、夏期講習会で配布されたテキスト部分についてのみ転載させていただきました。




海外リポート ブラジル


1998(平成10)年4月、一乗寺の創立30周年記念法要が行われたのと時を同じくして、リオデジャイロ州のアングラ・ドス・ヘイス市に新たな法城が建立され、新しい体制で南米広布へ向けて出発をしました。新しい体制とは、ブラジル全土を2つの地域に分けて、主に北側一帯に広がる地域をアングラ・ドス・ヘイス布教所の担当とし、南側の地域を一乗寺が担当するというものです。

それ以後、各地域において広布への意気があがり、アングラ・ドス・ヘイス布所の担当地域内には、ベロオリゾンテ市に拠点が開設され、また一乗寺の担当地域内においても、サンパウロから東へ74キロメートルの所にあるモジダスクルゼス市に拠点を開設しました。各拠点へは、住職ほか在勤僧侶が手分けして出張し、御会式はもとより、御報恩御講や勉強会を執り行っています。

また一乗寺の担当地域を5つに分け、それぞれの地域へ僧侶が出向いて行き、短期駐在をして家庭訪問・個人指導等を行うよう、積極的に取り組んでいます。この活動はさらに活発になってきており、最近、サンパウロから西へ600キロメートル、車で10時間ほどの場所にあるプレジデントプルデント市にも、拠点となる場所が見つかったとの報告を受け、9月9日には、拠点の開所式を執り行ってきました。


しかし、正法広布への道は、大聖人様の御妙判の通り、「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし」(御書403)との険しい道のりであります。宗旨建立750年の佳節を目前に控えた今、ブラジルの僧俗にも、創価学会による一乗寺裁判問題から始まった一連の布教妨害工作、南米広布への闘いから敵前逃亡した離脱僧の嫌がらせなど、大きな試練が課せられました。

それにもかかわらず、広布に向かってさらに発展しているのは、御法主日顕上人猊下の御慈悲はもとより、その時々の僧俗が一丸となっていち早く問題に対処し、三類の強敵から大法を命がけでお護りしてきた努力の賜であると確信するものです。

8月27日には、法華講一乗寺支部総会が行われ、多数のメンバーが出席して盛大な総会となりました。中でも体験発表の中で、マリア・ルーデス・ゴジーニョさんは、病魔に冒されながらも寺院参詣に努めた息子さんが、信心に励んで生涯を終え、葬儀の際には成仏の相をもってこの信仰の正しさを教えてくれたと話し、参加者に大きな感動を与えました。宗旨建立750年に向かって、さらなる信行の成長を互いに誓い合い、支部総会は成功裡に終了しました。


南米では現在、来たる2002(平成14)年・宗旨建立750年の海外信徒総登山の大成功、一乗寺裁判問題の解決、並びに宗旨建立750年に向けてのさらなる広布の大前進を、特に朝の勤行の際に徹底して祈念することを講中全員で実践しています。また夕の勤行の前にも、1時間の唱題行を修して、このことを徹底しています。

最近では、一人ひとりの自行を充実させる意味から、御経文の読誦の再点検を始めました。メンバーにとっては正しい勤行と信心姿勢を再確認するためのよい機会となり、それそれが入信を決意したときの清々しい心を思い起こして、信心修行に努めています。

御法主上人猊下は、「毎日の題目受持の功徳は、或る時には直ちに罪障消滅の不可思議な現証となって顕れ、また次第に積って五尺の器に充満し、おのずから化他の徳となって外へ流れ出ます」(大白法277号)と御指南くださっています。故に、まずしっかりと自行を確立して、そこから涌き出る慈悲を元として、大聖人様の、「只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよ」(御書403)との御教導通り、今後も南米の僧俗が一致協力して折伏行に邁進していくことをお誓いし、一乗寺の活動報告とさせていただきます。



体験発表 『父の身を挺した折伏に、遂に脱会』
威徳寺支部 田中隆司


本日は、今年3月に亡くなった父の姿を通して脱会した経過を発表させていただきます。私は学会二世として育ち、父は支部幹部で教学部教授、母・姉共に地区幹部と、家族全員が第一線の学会員で、貧乏から脱出し家族が健康で幸せに暮らしたいという父の願いのもと、一生懸命に勤行・唱題し学会活動に励んでいました。一方で父は、池田中心の体質に疑問を持ち、身近な幹部に相談していました。いつしか反逆児と非難されるようになり、「最高の仏法を持ちながら、どうしてあんな言動ができるのか、何かが間違っている」と悩みました。そこで父は、800万遍の目標を立て唱題を始めました。来る日も来る日も真剣に祈りながら活動しても納得がいかないため、丑寅勤行にも挑戦を始めました。そして800万遍達成の日に父は脳梗塞を発病し、自然と学会活動から遠ざかることとなりました。

私はといえば、圏の少年・中等・高等部の各部長を経験した後、学生部では長野県書記長と信越方面の幹部として活動し、父の疑問に耳を傾けてはいたものの、バリバリの幹部として忙しい毎日でした。男子部に入ると、いきなり支部副部長としてのスタートでした。この頃学会は、「宗門の動きがおかしい」などと、御宗門への誹謗が露骨に始まり、池田を美化し始めました。

そして、平成2年の学会問題が起きました。このとき草創の副会長が、我々青年幹部を前にこう言い放ちました。「だいたい、日蓮正宗なんてものは、池田先生と創価学会が目をかけてやらなければ、それはそれは、ちっぽけな宗教だったんだよ」と。その傲慢な高笑いを目の当たりにして私は、学会活動から離れました。


それからは、父と顔を合わせればこの話となり、ある日、父は恩師として一日も忘れたことのない威徳寺初代御住職・佐藤慈暢御尊師がおられる大阪の本教寺へ御指導をいただきに行く決意をしました。出発当日まで真剣に唱題しました。

そして当日、往きの新幹線の中で父は、「こんな莫迦なことを学会は本気で続けていくのか。大御本尊様に申し訳ない。今の学会は絶対に間違っている」と、ろくに動かない体をおして夢中で私と話をしていました。到着すると佐藤御尊師はご夫婦でお迎えくださり、お忙しい中、一生懸命に父と私の話を聞いてくださいました。いつしか父も私も、そして御尊師までも、目にいっぱいの涙を浮かべていました。そして御尊師は「この御本尊様を正しく信じ行じて、大御本尊様を根本に、猊下様の御指南のもと、足並みを揃えて闘うことが本当の広布の活動です。そのことを忘れてしまった者は、増上慢となり、やがて敵対し退転してしまう。学会は日蓮正宗の下種の三宝に背いていることを全く判っていない。これは大罰の現証が必ず顕れます。一日も早く正宗に帰依しなさい」と、厳しくも心温まる御指導をしてくださいました。

しかし家に帰った途端、学会の魔の手が来ました。学会の正義を主張し、脱会した人への悪口や、でたらめな話を繰り返し、私たちの決意を徐々にむしばんでいったのです。私は一体どちらを信じればよいのか判らなくなり、地元のお寺に足を運ぶこともできませんでした。そして創価学会の破門を聞いたとき、これが最後とばかり、もう一度、大阪の佐藤御尊師を訪ねることになりました。

このとき父は脳梗塞を再発し、前にも増して動くことが苦しい中での訪問となりました。父は自分の体の限界を思ってか、一言も聞き漏らさないように、御指導を書き取りながら伺いました。佐藤御尊師は、正本堂建立における池田創価学会の増上慢、野望等についても事細かに話され、「御法主日顕上人猊下の御指南を無視するばかりでなく敵対している団体など、破門されて当然であり、邪宗の団体です。一日も早く正宗に帰依しなさい」と言われました。


この日より、学会員の話や「聖教新聞」には目もくれず、一層真剣な唱題に励むようになりましたが、すぐには脱会できませんでした。そして昨年、父は3度目の脳梗塞を患い、他人の支えなしに動けなくなりました。検査の結果、末期の胃ガンも判明し、医師より残り数カ月の命と宣告されました。父は常々、御本尊様の前で臨終を迎えたいと話していましたので、自宅で私たちと一緒に勤行・唱題しながら闘病生活を送りました。ろくに話せず、意識が遠い時もありましたが、御本尊様を拝するときの目は真剣で、自然と手が重なっていました。そして、もう一度元気になって、佐藤御尊師にお礼を申し上げたいと一生懸命に闘っていました。

「あと一週間」の宣告を受けた頃、仏壇の奥より偶然、父の手紙が見つかりました。「葬儀は正宗で頼む」と書かれており、私が小学生の頃「もしお父さんが死んだら、お前はどうする」と質問した父に「大丈夫、お父さんの葬儀は、佐藤御住職のもと立派に日蓮正宗で出してあげる」と答えたことが書かれていて、懐かしく、また不思議な感じがしました。

私は即、佐藤御尊師に電話をしました。「本当に時が来たんだよ。早く脱会しなさい。日蓮正宗で葬儀を出すには、まず勧誡を受けなければだめなんだよ」と言われました。しかし私の、学会につかず脱会もせずという中途半端なことをしてきた狡さが出て、かつて一緒に闘った東京・信濃町の本部幹部や、県幹部の顔が浮かんできては、何か恐ろしさを感じていました。佐藤御尊師は、私の曖昧な返事に、「どうしてもだめなら、私がお父さんの葬儀の指揮を執ります」とまで言われて電話を切りました。あっという間に2日間が過ぎた夕方、一本の電話が自宅にかかってきました。

電話は佐藤御尊師ご夫婦でした。「お父さんをお見舞いに来ました。家の場所を教えてください」と。飛び上がるくらいびっくりしたのと同時に大反省しました。御尊師は唱題の後、父の手をしっかりと握りしめてくださいました。姉が大きな声で「お父さん、大阪の佐藤先生がお見舞いに来てくださったよ」と言うと、意識のほとんどなくなっていた父の顔が一変し、「先生」と呼んでいるではありませんか。「よくがんばったね、大聖人様はすべてお判りくださっている。心配しなくてもいい。大白牛車にいつ乗るかは、田中さんが決めればいいんだからな」と、涙を滝のように流しならが話しかけてくださる御尊師の手を一生懸命に握りしめ、「ありがとうございます」と必死に返事をしていた父の姿は、奇跡としか考えられない状態でした。父はいつまでも手を離そうとはしませんでした。御尊師と共に、全員で唱題しているとき、日蓮正宗は絶対に正しい宗教だと確信しました。尊敬申し上げる佐藤御尊師にお見舞いいただいたことは、父の生涯で最高の日となったのと同時に田中家の最後の魔を打ち破ってくださるためだったと、感謝しています。


翌日から私は出張が入り、威徳寺に行けずにいましたが、3月12日の夜、「明日は何がなんでも絶対お寺へ行く」と決意しました。明けて13日、朝の勤行を始めると、まるで父と一緒に勤行をしているような感覚でした。勤行が終わると、父は少し苦しそうになったので医者に電話しました。「来る時が来た」と思い父の手に数珠をかけ、家族全員で御題目を唱える中7時15分に息を引き取りました。本当に最後の一息で笑顔になり、薄目を開けて体は温かく、我が家の御本尊様と家族に見守られながらの臨終でした。

早速、威徳寺へ出向きました。約10年ぶりでした。このとき、初めて御住職・原光江御尊師とお会いしました。御住職は「佐藤御尊師からすべてお聞きしています。あとはあなたがしっかりとお父さんの意志を受け継ぎ、法華講員として闘っていかなければ」と御指導くださり、「学会員たちはしつこく自宅に来るでしょう。しかし毅然とした態度で正宗で葬儀を出すと言い切ればさっさと帰っていきます。勇気を出して、立派な正宗の葬儀を出しましょう」と力強く激励くださいました。また、我が家の家族構成を尋ねられ、「未入信の奥さんを折伏し、残りの家族も勧誡を受け、一家全員で法華講員としてがんばっていきましょう」とも御指導くださいました。私も、父の葬儀を第一歩として日蓮正宗法華講員としてがんばる決意ができました。

その日の夜、御住職の御導師で通夜が行われました。父が本当に喜んでいるのが判るすばらしい相でした。そして御住職をお見送りした直後、なんと大阪より佐藤御尊師ご夫婦が急な報せを聞き、駆け付けてくださったのです。「よくがんばったね。息子さんも正宗で葬儀を出してくれる。安心してください」と亡き父に話しかけてくださいました。このとき、佐藤御尊師の今までの行動が、私たちに対する折伏であったことに気づき、涙が溢れてきました。


一息ついたところへ、今まで一度も顔を見せたことのなかった地元の学会員が同志のような顔をして数人押しかけてきました。第一声は「明日は友人葬ですか」でした。私は「とんでもない。日蓮正宗で出します」ときっぱり言い放つと、お線香だけでもあげさせてほしいとしつこいので中に通しました。学会員たちは、一同びっくりした顔をしました。それもそのはず、部屋の中央には袈裟衣を着けた佐藤御尊師が堂々と座っていらしたからです。御尊師が「正しく信じていた人の成仏の相をごらんなさい。あなた方では、一人もこの相で死んでいく人はいませんよ」と破折されると、悔しそうに父の顔をのぞきこんで「学会活動を一生懸命したから、こんないい顔なんだ」などという口を利きました。私は許せなくなり、「いいえ、正宗の信仰を貫いたからです。お帰りください」と追い出しました。一同嫌な顔をして立ち去りました。

佐藤御尊師は、翌日の葬儀にも御出席くださいました。深く感謝すると共に、御法務御繁多の中、この2日間だけ日程があいていたことは、亡き父の福運と感じざるを得ませんでした。葬儀当日、原御住職、佐藤御尊師の読経・唱題・御焼香を賜りました。親戚一同・友人・会社の同僚の前でのお二人のお振る舞いに、今まで私たちを学会員と莫迦にしていた親戚・友人・同僚が口を揃えて、「すばらしい御住職様方ですね。日蓮正宗はこんなにすばらしかったんですか」と言いました。御僧侶のお振る舞いは、自然と参列者に対する折伏となっていました。一番この信心を嫌っていた伯母も、「亮三さん、この信心をしていてよかったね」と言ってくれました。父が生前、「葬式は、故人の最後の折伏の場になる。だから一生懸命に信心をして、亡くなったときの相はとても大切なんだよ」と話していた通りになりました。妻はこうした一連の光景に深く感動し、目を輝かせていました。


葬儀も無事終わり、一週間後、母と妹は勧誡式を、妻も無事に御授戒を受けさせていただきました。私は、4月28日の全国青年部大会に参加することができ、約10年ぶりに、本門戒壇の大御本尊様の御内拝を戴くことができました。

振り返ってみますと、父は身をもって家族に対し、正宗へ帰依するように示してくれました。佐藤御尊師も慈悲のお心をもって折伏してくださり、最後は御住職・原御尊師によって正しい道へ導いていただきました。これもひとえに、日蓮大聖人様の尊い教えと正しさの証明であります。

私は本日を契機に、威徳寺支部の皆さんと団結し、社会においても、さすが法華講員は違うと言われるように努力し、御法主日顕上人猊下のもと、宗旨建立750年・30万総登山をめざし勇躍精進してまいる決意をいたします。



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