<5〜8面>
『御義口伝』に云く「如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無作の三身なり。今日蓮等の類の意は、総じては如来とは一切衆生なり、別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり寿量品の事の三大事とは是なり」(新編1765)
如来の通号たる十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の眼前における代表としては、先ず本門を開顕された釈尊と定められ、更に総じては十方三世諸仏と定め給うこと。法華経を中心とする一代仏教の教相の趣意による教示と拝せられる。『開目抄』に、「『然るに善男子、我実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺、百千万億那由他劫なり』等云云。(中略)此の過去常(じょう)顕はるゝ時、諸仏、皆釈尊の分身なり」(新編552)とあるごとく、本門教主釈尊の常住特勝に基づき、釈尊を以て括りつつ、総じて熟益・脱益の如来を示されたのである。
総に対する別として本地を無作三身として示されのは、脱益に対する下種の仏身を明かし給うと拝される。
「無作」の語
「無作」の語は、本来天台において、一仏仏教の教味を蔵・通・別・円の四教に判じたが、その各々の理を示す生滅・無生・無量・無作のうち、円教の教理としての無作から来たと思われる。蓋し円理とは十界全体に渉り、即空・即仮・即中、円に融ずると説く。一に即して一切万有すべて互具するから、円の悟りに住すれば、上下を択(えら)ばず真実相に達する。したがって、後天的に種々に修行して特別に作りあげる必要がない。造作をしないで得るから、無作というのである。
「無作三身」の用語
さて、天台は寿量品の仏身として、一身即三身・三身相即を述べたが、無作三身の語は使用せぬ。妙楽も法体法爾とまで示すも、無作三身をいはぬごとくである。これを明らかに述べたのは、日本の中古天台との見方が一般である。すなわち、天台の三身は、その所証の法身が法界遍満するとはいえ、報身・応身の所在はあくまで釈尊にありとする。対して中古天台等に見る無作三身の仏は、法界全体に三身そのものを認めるのが異なっている。
しかし、かかる無作本覚の三身は、本門釈尊の仏身を、単に法界に拡大するゆえに、法界の中心主点たるべき能成・所成の仏体と所作に欠けており、空漠たる思想的・思弁的存在のみとして、崇高なる仏法の自行化他の功徳を明確に成ずることが出来ないのである。
下種本仏の無作三身
宗祖大聖人は、結要付嘱の大権より本門の仏身を教示し給うに当たり、釈尊が本果妙脱益(だっちゃく)の化導上に説かれた久遠の三身の奥底に存する、本因妙下種の自受用報身に具わる三身につき、凡夫即極の義を以て無作三身の語を示し給うた。すなわち、教義上、釈尊・天台・妙楽・伝教等の明確に説き得なかった久遠元初本因名字の成道を説かれたのが『総勘文抄』である。それとは、「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御座せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき。」(新編1419)の文であり、これこそ凡夫本仏の実修実証にして、あらゆる経論釈に未顕の、しかも仏法の本源を確定する大法門である(『当体義抄』にも同義の文多くあれども省略)。宗祖の無作三身とは、他門の一切の空漠たる偏解と異なり、正しく実修実証の体徳に備わる仏身である。
『総勘文抄』の文における久遠元初自受用身と無作三身
すなわち、文の「五百塵点劫の当初」とは久遠元初であり、「凡夫」とは無作の成道を示し、「知ろしめす」とは能く境に称(かな)う如々の智で、「我が身は地水火風空」とは、能く智に称う如々の境である。故に、この境智冥合は、久遠元初凡夫即極の自受用身を示す文である。また「知ろしめす」とは、能く成ずる智で無作の報身。「我が身」等は、能く成ずる境で無作の法身。この「境智冥合」するところ、大慈悲の起用あるは無作の応身である。この三は、また無作の妙体・妙宗・妙用であり、法身・般若・解脱の三徳である。宗祖大聖人がこの仏身を示し給うことは、久遠即末法の正理に基づく大聖人御自身の当体即久遠元初自受用身にして、無作三身の本仏なのである。
自受用無作三身の日蓮大聖人における現証
更にその現証は、釈尊・天台等、何人も行じたことのない法華経全文の身読であり、三類の強敵による竜口の断頭場裡に金剛不壊の仏身を顕し給い、その一期化導の実義を三大秘法に顕示されたのである。
この文は、先ず如来とは一切衆生なりとする、一般には耳を疑うごとき不可解の文を拝する。『船守弥三郎御書』『教行証御書』等にも同様の指南がある。しかし、これこそ寿量品の文底における総の法門である。
一切衆生、理に約せば如来(無作三身)なり
寿量品の文底・元意においては、能証と所証の合一の中で、所証の法界全体が、無作三身の如来なのであり、これを「総じては一切衆生」と仰せられたのである。
『総勘文抄』に「五行とは地水火風空なり。(中略)今経に之を開して、一切衆生の心中の五仏性、五智の如来の種子と説けり。是則ち妙法蓮華経の五字なり。此の五字を以て人身の体を造るなり。本有常住なり、本覚の如来なり」(新編1418)と説き給う。寿量品の眼を開けば、法界の個性悉く無作三身であると示されている。法界の五大の所成の身は妙法の当体となるゆえに、非情の桜梅桃李においても、その華果青葉等はそのまま無作の法身、時節をよく知って転変する智慧は無作の報身、四季それぞれの用きを顕し、有情の依り処となるは無作の応身と見るべく、また鳥獣等、各々の身分は無作の法身、分々の智慧は無作の報身、己々の作用は無作の応身である。人類もまたしかり。五体身分は無作の法身の境、分々の慧解は無作の報身の智、種々の作業は無作の応身の用である。あらゆる環境中の作業工夫文化も、一切衆生の色心の二法より生じた産物であり、その当体妙法蓮華経である。そのすべての当体所作は、本来、無作の振舞いであり、故に法界一切は無作三身である。ここに一切衆生の生命尊厳の基本的意義が存する。また一切の道徳の根源の規範が存するのである。
事に約する如来(無作三身)
但し、この意義は、寿量本仏の照らす境智の妙法五字によって初めて明らかとなるのである。したがって、寿量本仏の指南に従って妙法五字を信じ行ずることがなければ、それは空無に等しいものとなる。すなわち、無作三身の本主本仏とその所証の妙法を受持信行することにより、初めて無作三身の体と用が具わるのである。故に、次に「別しては日蓮が弟子檀那なり」の文は、下種本仏として出現し、身命を抛って根源の妙法蓮華経を唱え弘める日蓮とその弟子檀那が、真実の寿量品の如来なりと示されるのである。
この文は、前来の趣旨を更に明確にされるもので、末法の法華経の受持身読の行者を以て、真実の寿量品の無作三身の仏なりと示される。ここに言意自ずから総別あり。総じては、日蓮大聖人の教えを受け、疑いなくる弟子檀那が無作三身の功徳を成ずるのであり、別しては、一閻浮提第一の法華経の、行者日蓮こそ、末法出現の寿量品無作三身如来であるとの宣言である。
この文は、正しく寿量品の本仏たる久遠元初無作三身、末法に日蓮と出現して顕示し給う、本門の本尊・大曼荼羅の当体における人法一箇を説き給う文と拝される。
この文は、
平成12年度(第6回)法華講連合会夏期講習会
御法主日顕上人猊下御講義 テキスト
第4期 6月18日
(イ)「如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり」
(ロ)「別しては本地無作の三身なり」
(ハ)「今日蓮の類の意は、総じては如来とは一切衆生なり。別しては日が弟子檀那なり」
(二)「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり」
(ホ)「無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり」
(ヘ)「寿量品の事の三大事とは是なり」
一に、本門寿量品の本尊・人法一箇の三大秘法が具わることを示す。
二に、寿量品の根源・久遠元初の三大秘法の修行証得を示す。
三に、結要付嘱の法体は久遠元初の三大秘法であることを示す。
四に、究竟即の無作三身如来たる日蓮の当体が三大秘法であることを示す。
五に、宗祖御一期の化導は悉く三大秘法であることを示す。
概略五点を挙げた。有の一々の文証は、『三大秘法抄』その他各御書に枚挙の暇がないが、今は省略する。
以上、下種仏法たる宗祖大聖人の久遠元初寿量品の如来・無作三身の意義を、『御義口伝』の文によって拝述した次第である。
※猊下様の御講義の内容は2面から4面に渡って掲載されましたが、編集の都合上、夏期講習会で配布されたテキスト部分についてのみ転載させていただきました。