御法主日顕上人猊下 御大会式御説法
妙法蓮華経如来寿量品第十六(如醫善方便〜墜於惡道中)
本年度、宗祖日蓮大聖人御大会式における恒例の御逮夜御報恩説法会に当たり、法華講総講頭・柳沢喜惣次氏ほか法華講幹部ならびに信徒各位、さらに海外17力国よりの信徒各位の参詣により盛大に奉修つかまつりますことは、まことに有り難く存ずるものであります。
寿量品の説法も、野衲の登座以来、文々について初めより拝講いたしてまいりましたが、平成5年から長行より自我偈に移り、昨年においてその法説を頌する文の最後までを拝講したのであります。したがって、今年よりは「如医善方便」以下、譬えを頌する文になりますが、この五偈二十句をもって、いよいよ自我偈が終了するのであります。今夕はそのなかの初めの三偈十二句、すなわち先程拝読した部分について少々申し上げる次第であります。
◆教相(1)開譬
まず、初めの一偈四句の「医の善き方便をもって 狂子を治せんが為の故に 実には在れども而も死すと言うに 能く虚妄と説くもの無きが如く」の文は、長行の良医の譬えを簡略に頌したのであり、「開譬」すなわち譬えを開く文であります。
つまり、優れた医者がせっかく心を込めて大良薬を作り、毒を飲んで苦しんでいる子供達に与えましたが、毒のために心が狂ってしまった子供はこの薬を飲もうとしません。これは父である良医の姿を見て救ってくださるよう願ったにもかかわらず、父に対し慣れ軽んずる気持ちと、毒に犯されて狂った心が災いとなって薬を飲むことができなかったのであります。
そこで、父の良医は方便を設けて遠くへ行き、使いの者に「父は遠方で死んだ」と告げさせました。子供らはこれを聞いて「父がましませぱ我らを慈しみ哀れんで救ってくださるであろうに、他国で亡くなられた。我らはもう頼むところもなくなった」と深い悲しみさに沈みました。そして、それによって毒に酔った心から醒めて本心に立ち返り、その良薬の色も香りも味も勝れていることを知り、これを飲んで毒の病がことごとく癒えたのであります。父は子らの病が治ったことを聞いて帰ってきて、元気な姿で対面いたしました。このことを自我偶に「医の善き方便」と再び頌したのであります。
しかして、このように父が死んではいないのにもかかわらず死んだと言ったことは、一往、うそを言ったようである。これは「虚妄罪」すなわち、うそを言った罪に当たるやと言うに、それは子供を救うための方便であるから虚妄罪に当たりませんという意味で、長行において、「不也(ほっちゃ)。世尊(せそん)」(法華経438ページ)と、弥勒菩薩等が大衆を代表して答えたのであります。この趣意を頌したのが、この一偈の最後の一句たる「能く虚妄と説くもの無きが如く」の文であります。以上の一偈四句は、譬えにおいて「非滅現滅」すなわち良医が死に非ずして死を示すことの偈頌であります。
◆教相(2)合譬
しかして次の三偈の文は、吉の「開譬」に対する「合譬」であり、実際の仏の化導を示して、譬えをこれに合わせる文が頌されております。なかにおいて、先の二偈は仏の「非滅現滅」の意を示すとともに、不滅の仏身を常に示していると、かえって衆生を導くことにおいて損失あるを説かれるのであり、そこまでが本日拝読の所であります。
次の一偈たる「我常に衆生の 道を行じ道を行ぜざるを知って」以下の四句は、「非滅現滅」の意を含めて仏が法を説かれる意を頌しており、この一偈と次の自我偈最後の「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」の一偈は、次の機会に拝したいと思います。
この「合譬」の「我も亦為れ世の父 諸の苦患を救う者なり」の文は、法華経本迹二門中、本門に説かれる仏の主師親三徳のなかで、親の徳を説かれるのです。それ以前の偈文のなかの、「常説法教化 無数億衆生」(439)、は本門の師の徳を示し、「我此土安穏 天人常充満」(441)の文は本門の主の徳を顕しておるのに対し、この「我も亦為れ世の父」と述べられるところ、まさに親が子を慈しみ庇護するように、本門に顕れた常住の本仏が過去・現在・未来の三世にわたって、衆生のまた三世にわたる苦しみや患いを救い給うのであります。
しかし、多くの衆生は等しくわがままなものですから、仏がいつでもおわしますと思うと、その有り難さを忘れてしまうのです。世間でも親がいると思うと、その有り難さを忘れる子供が多く見受けられます。それについて卑近な意味で、このようなことわざも有ります。「親孝行したい時には親はなし、さりとて石に布団は着せられず」、あるいは「いつまでも有ると思うな親と財」などは、親の有り難さを忘れている者への世俗的な戒めの言葉です。
仏様は三世十方を通観して広く深い悟りに住せられ、そのなかから一切を御覧あそばすので、衆生の性質としてわがままで目の先だけに囚われることを御存じであります。そこで、本来は悟りの上の常住の身をお持ちであるけれども、その姿のみを示すとかえって慣れ過ぎて、その真実の有り難さを忘れる衆生が多いのです。それを示した文が、「為凡夫顛倒」すなわち、「凡夫の顛倒せるを為て」の一句で、仏がせっかくに説き給うところの生命の苦しみと患いより救われるもろもろの尊い教え、すなわち原因と結果の理法や四諦の法、十二因縁の法、六度の道諦、信・進・念・定・慧の五根と五力、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定等の道諦、空・仮・中円融の三諦三観等の教えを素直に聞こうとせず、四顛倒、八顛倒等の迷いの執見を起こすのであります。
いわゆる自我に囚われ、眼・耳・鼻・舌・身による様々の低級な楽しみに酔いしれ、あよわるいは夜半に嵐によって吹き散る如きはかない身を常に有るように思い込み、また汚濁の身や心をそのまま清浄と勘違いしている姿等であります。
衆生は、そのために仏の教えを聞こうという気持ちになりえないので、仏に対して有り難いという気持ちを起こさせて教えを聞かせるため、仏は実には常に存在しておられるけれども、しかも入滅の相、無常の相を示されるのです。すなわち「実には在れども而も滅すと言う」「実在而言滅」と説かれるのであります。
次の「以常見我故」以下は、正しく仏が常住を示すことによって徳の薄い凡夫は、道の上にかえって損害を受けるのであり、その相をはっきり説かれております。いわゆる「以常見我故」「常に我を見るを以ての故に」とは、仏に慣れ過ぎてその有り難さを忘れた故にということです。
次の「而生驕恣心 放逸著五欲 堕於悪道中」の文は、まさに衆生が陥る道の上の堕落と損失を言われるのであります。まず初めの「驕恣の心」の「驕恣」とは「おごりたかぶる」あるいは「おごりあなどる」また「ほしいままにする」ことで、自己を偉しとおごりたかぶるために、尊い教えや因縁因果の正しい筋道を聞いたり、あるいは従う必要はないと思う心です。
これを生ずる故に、心があらゆる方向に走りそれて止めどがなく、正しい方軌を守らず、眼・耳・鼻・舌・身のあらゆる欲望に溺れ、結局、地獄・餓鬼・畜生の三悪道のなかへ堕ちていくと説かれております。この「驕恣の心」と「放逸」と「五欲に著す」との三つは、簡略に述べられておりますが、これはあらゆる悪の根本・温床であり、世の中の一切の悪が生ずる原因なのであります。これを開けば、法華経の譬喩品に説かれている「十四誹謗」、すなわち驕慢・懈怠・計我・浅識・著欲・不解・不信・顰蹙・疑惑・誹謗・軽善・憎善・嫉善・恨善のすぺてに通ずるのであり、広略・開合の関係を持っております。しかしてこの「十四誹謗」の諸悪の初めにまず「驕慢」とあるのは、自我偈の「驕慢」と同様であつ、これが仏を軽んずる心となって、それからあらゆる悪の因が生じてまいります。
かの池田創価学会の者どもが、池田大作の驕慢を根本として真実の仏意に背く故に、あらゆる我見よりの諸悪が生じております。この十四の悪因を今日の創価学会に照らして見るとき、その一つひとつのすべてがぴったりり適合しておることは、まことに恐ろしいほどであります。もって常に仏を見てその有り難さを忘れるところの罪業の大いなることを知るべきであります。
◆観心(1)為治狂子故
以上、本日の経文についてあらあらその意義を拝してまいりましたが、さらにこの経文中の「為治狂子故」すなわち「狂った子を治せんが為」との文と「我亦為世父」すなわち「我も亦為れ世の父」という文について、末法下種の仏、主師親三徳、宗祖大聖人の御化導の意より拝したいと思います。
まず「狂子」とは心が狂っている故に真実の仏が判らず、また真実の良薬に背いて毒薬を飲む者を言います。この毒薬とはなんでありましょうか。それはいわゆる真実の良薬でないものが毒薬となるのであります。
これを道の上に考えるに、まず因縁因果の道理に背き、正しい道でない教えを正しい道と計する、非因計因、非道計道の仏教以外の外道教が毒薬に当たり、これに執着する者が「狂子」であります。また、六道の迷いを出ずるために身を灰となし、心を滅して道を求める小乗の教えは、大乗の仏の道に進む良薬に反するので、これに執われるとき毒の作用を起こします。次に、仏に成る道を道理と文証と現証の三方面から説いて、衆生を導く唯一の道とは法華経であることを説かれた仏の教えに背き、真実のための方便として説かれた爾前権経に執われるとき、この教えは毒薬の結果を来たすのであります。
また次に、真実の法界と仏と衆生の命の本質を説かれた本門寿量品の教えの弘まるべき末法の時に、この真実の命の開顕のない爾前経と迹門に執われることが毒薬となって、真実の大良薬を阻害するのであります。故に大聖人様は、『御義口伝』に、「毒気深入とは権教謗法の執情深く入りたる者なり。之に依って法華の大良薬を信受せざるなり」(御書1768)と、またのたまわく、「毒薬とは権教方便なり。法華の良薬に非ず・・・中略・・・悶とは息たゆるなり。寿量品の命なきが故に悶乱するなり・・・中略・・・邪師の法を信受するを名づけて飲毒と為す」と御指南であります。
◆観心(2)我亦為世父 救諸苦患者
次に「我亦為世父」の文については、『御義口伝』に、「親の徳とは我亦為世父の文是なり。妙楽大師は寿量品の文を知らざる者は不知恩の畜生と釈し玉へり・・・中略・・・今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は一切衆生の父なり。無間地獄の苦を救ふ故なり云云。涅槃経に云はく『一切衆生の異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり』云云。日蓮が云はく、一切衆生の異の苦を受くるは悉く是日蓮一人の苦なるぺし」(御書1771)と仰せられました。
この文にまず法華経における脱益の寿量品の仏を経文に随ってお示しであり、寿量品の文に説かれた釈尊の久遠の寿命を知らず、浅近の教えに執われる者は、恩を知らぬ畜生の如きであることを示されております。しかして次に、今日蓮が南無妙法蓮華経と唱え勧めることが一切衆生の父であると示し給うのは、釈尊の寿量品と種脱相対して下種益の寿量品たる南無妙法蓮華経を唱え説き給う故であります。
なぜならば、この南無妙法蓮華経は、寿量品の根本たる本門三大秘法の法体を神力品において結要付属によりお受けあそばされる故に、これを弘め給う日蓮大聖人は、取りも直さず下種の寿量品の本仏であります。故に、その主師親三徳を具え給う上から、日蓮は一切衆生の父と仰せであります。これはこの妙法の大功徳力をもって一切衆生の謗法により無間地獄へ堕ちる苦しみを救い給うからであります。
およそ仏はその現身において、すぺての人の苦しみをことごとくお受けあそばされる尊い体験の上に初めて、一切衆生を救いきろうとの大慈悲行を顕し給い、また顕し給うことができるのであります。故に、釈尊には九横の大難があってその苦労を如実にお受けあそばされ、そこより化導の順序によって無限にわたる寿量品の仏身が開かれたのであります。
そこで涅槃経に至って「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり」と仰せられました。思えば、なんと広大な境界でありましょうか。これすなわち法界に遍(あまね)き寿量品の仏の徳だからであります。そして下種の本仏として末法に出現あそばされた宗祖大聖人様の御振る舞いと下種の折伏行によって扣発(こうはつ)された三類の強敵による大難四カ度、小難数知れざる御苦難、そのなかの二度までも身命に及ぶ大苦難は、釈尊も天台、伝教等もいまだ体験せられなかったところであり、及ばざるものであります。
それ故に、その妙法の大功徳は甚大であり、一切衆生を救いきる主師親三徳の仏力を具え給うのであります。さればこそ、この御文の如く「日蓮が云はく、一切衆生の異の苦を受くるは悉く是日蓮一人の苦なるべし」と仰せられ、下種本仏の大境界を説き給うのであり、一切衆生の苦しみを一身に集め給い、それを南無妙法蓮華経の身読をもって即身成仏と浄化し給う故に、この大慈大悲のお言葉を示し給うのであります。
故に、我らは末法万年の目本乃至、世界の一切衆生の無間地獄へ堕ちる苦しみを根源的に救うところの「我亦為世父 救諸苦患者」とは、まさに日蓮大聖人にあらせられることを拝信すべきであります。
この御本仏の大慈大悲を常に拝して題目を唱えるところ、我が身、我が五体に朗然たる仏力法力が湧き出ずるのであり、根本的な抜苦与楽と心願満足、罪障消滅の大功徳を受けられることを確信すべきであります。
今や宗門は平成14年の宗旨建立750年に向かって仏恩報謝のため、大法広布に堂々の大前進を行っております。「折伏実行の年」たる本年も、あと40日を残すのみとなりました。しかるに、もう40日しかないという消極的念慮ではなく、まだ40日もあるという勇猛精進の気概をもって、皆様が目標に向かって功徳多き折伏行をいよいよ増進されることをお祈りいたし、本日はこれをもって失礼いたします。
※中見出しは妙音編集でつけました